備忘録/自然・文化・社会とニュース

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浦上天主堂撤去についての本

 前回の「日本の美しい教会建築-4/平戸-紐差教会」の終わりで少し書いた本を紹介しておきたい。
 高瀬 毅『ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」』平凡社

 戦後史や日米関係に興味のある方は面白くて一気に読んでしまうような本であるが、日本のカトリック教会関係者にとっても面白い本であろう。今更古い話をほじくり返しても無意味だという人は、過去に目を閉じ未来を放棄する人だ。こうした問題はそれぞれの時代ごとに、また新しい世代ごとに執拗に検証を繰り返すべきものである。
 TPP参加推進など、今のアメリカに追従してしている為政者や財界人は、近い将来この本に登場する長崎市長やカトリックの司教のような疑いを持たれる可能性は高い。つまり、この本に書かれていることは、現在進行形の日本の姿なのだ。

 <池松氏は衝撃的なことを話し始めたのだった。それは浦上天主堂の廃墟の取り壊しについてだった。「遺跡の取り壊しについて、あるところから巨額の寄付金が来たんだよ。事実あれを残していたらアメリカが困るんだ。(遺跡を)この世から抹殺する力が働いた」>本文より

 <破壊されたものを醜いものとする捉え方自体、真実から眼をそらすことであり、歴史の抹殺、人類の自己否定に通じる行為だということも >本文より

 <被爆した浦上天主堂の廃墟は戦後13年間、保存を前提に残されていたが、突然撤去された。その裏には何があったのか? 米国の影を背後に見つつ、綿密な取材で現代の闇に迫った問題作。>平凡社のコピーより

01消えたもう一つの原爆ドーム
 
定価:1680 円(本体:1600 円) 四六判 272頁 2009.07 
ISBN978-4-582-82453-7 C0020 NDC分類番号 209.7

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日本の美しい教会建築-4/平戸-紐差教会

 これは昭和4年(1929年)竣工の比較的新しい鉄筋コンクリートの建物だが、教会そのものの設立は明治18年(1885年)と古く、教会設立時の建物から数えて推定三代目となる。なぜ推定なのかは後述する。

紐差教会聖堂正面

 まずこの白い聖堂が建つまでの流れをおさらいしたい。

 1865年(元治2年)大浦天主堂で潜伏キリシタンとの劇的な出会いを体験したベルナール・プチジャン神父は、「フランス寺見物」を装ってやってくる潜伏キリシタンを通じて(プチジャン神父は大浦天主堂を開放し日本人に見物させていた)、各地に潜むキリシタンの情報を収集していた。
 そして明治12年(1879年)、外国人の往来が自由化されると、ジョセフ・F・マルマンや、アルベルト・C・A・ペルーといった若くて有能な神父達を派遣し、潜伏キリシタンの調査と彼らを教会へ迎える準備を進めさせた。

 ペルー神父は五島列島を経て平戸島に入り、多数の潜伏キリシタンと出会う。彼は明治13年(1880年)平戸島の田崎に、布教の足掛かりとなる聖堂と住宅を建てるが、これらが紐差教会の前身となった。
 次にその仕事を引き継いだのが、新約聖書の和訳で知られるエミール・ラゲ神父だ。彼は明治18年(1885年)に田崎の教会を交通の便のよい紐差に移転。翌明治19年に法人登録を済ませ正式に紐差教会が発足した。このときの聖堂が田崎から移築したものか、新築したのかは確認できなかったが、いずれにしてもこれが「初代」の紐差教会だ。

 次に紐差教会にやってきたのが「教会建築-1/宝亀教会」で紹介したジャン・フランソワ・マタラ神父である。彼は福岡に転勤したラゲ神父と交代し、以後長きに渡って紐差教会を支えることになる。
 紐差教会には島内の各所から多数の信徒が訪れたので、聖堂はすぐに手狭となった。そこでマタラ神父が各方面の協力を仰ぎ、奥行き20m間口12mほどの聖堂を建てたとされる。しかし、新聖堂建設に関する記録が残っておらず、マタラ神父が就任時にすでにあった聖堂を、そのまま使い続けたということも否定できない。これが冒頭に「推定」とした理由である。

 しかし、パリ宣教会はマタラ神父を「Le Père Matrat fut un grand constructeur d'églises pour le besoin de ses communautés dispersées.(マタラ神父は広範な信徒の要求に応えた偉大な建築家であった)」と称えている。こんな人物が築50年にもなろうかという手狭な建物を、布教の拠点(明治期の小教区主任教会)として使い続けるだろうか。筆者はマタラ神父が二代目を建てたのは間違いないと思う。

 当然ながら二代目聖堂の竣工年ははっきりしない。パリ宣教会の記録を見ると、マタラ神父が何らかの形で関わった建築事業は、1896・98・1903・09・11・18の各年に竣工していた。全てが聖堂ではないし、所在地は2件を除いて島単位でしか分からないが、付近の教会の竣工年、建築様式、マタラ神父の勤務状況などから考えて、最初の1896年(明治29年)が二代目紐差教会ではないだろうか。

 謎の二代目聖堂として興味が持たれる建物だが、幸運なことに三代目聖堂の建設に際し、少し離れた島に移築され今も残っている。
 当時佐賀県の呼子方面を担当していたヨゼフ・ブルトン神父が、壱岐水道に浮かぶ馬渡島に移し、馬渡島カトリック教会堂として今も大切に使い続けられているのだ。
 馬渡島は呼子港や名護屋港から船便があるが、残念ながら筆者はまだ見学できていない。建築史の川上秀人史近大教授は「長崎の教会建築史」の中で「(馬渡島教会は)明治18年の建築とすることもできようが、形態上から考えるとさらに年代を下げることも可能である」と述べている。明治29年というのは、けっこういい線ではないだろうか。
 
 マタラ神父の就任中、紐差教会に集まる信徒は増え続け、明治末期には施設の拡張が強く求められるようになっていた。そのためマタラ神父は資金集めに努めたが、在任中に現状を上回る規模の聖堂を建てるには至らなかった。
 大正10年(1921年)マタラ神父の仕事を引き継いだのがボア神父だという。このボア神父については調べがつかなかった。パリ宣教会のアーカイブスで見つけたボア神父らしき名は「Frédéric Louis BOIS(フェデリーク・ルイ・ボワ)」だけで、彼は当時九州にはいたが熊本で活躍していたようだ。彼と紐差教会との関わりを示す記述は見いだせなかった。しかし、一時的に誰かの代理として派遣されたことは考えられる。

 その後何年も建設のための努力が続けられ、昭和2年(1927年)に紐差にやってきた荻原浩神父の代になって、やっと着工の運びとなった。設計施工は当時すでに教会建築の第一人者となっていた鉄川与助棟梁である。

紐差教会横

 建物は2階建で、礼拝堂は2階にあり、参拝者は正面の階段から直接2階に入るという珍しい構造になっている。鉄川与助棟梁のコンクリート建築は、これが第2作目とのこと。
 前面の鐘塔は3層で、上に8面体のドームが載る。スタイルとしては白亜のロマネスク様式ということで、夏の明るい日差しの中で見たせいか第一印象は「あっ、メキシコの教会みたい」であった。

紐差教会後ろ

 建物は斜面に建っているので後ろの方は平屋となっている。建物の後端の地下にまで部屋があるかどうかは未確認。
 建築資料によると屋根は桟瓦葺とあるが、建物が大きいし丘の上に建っているので瓦は見えにくい。建物の後ろから祭壇後部の屋根を見ると、桟瓦ではなく平板の材料で葺かれているように見えた。

紐差教会堂内

 外から見ても分かる通り三廊式である。主廊と側廊の間にアーチを支える円柱が並び、柱頭の飾りがアーチ下端の四角い断面と円柱をうまくつないでいる。
 室内の幅は約15mで、ドアを入った所から祭壇までは25m以上ある(建物全体の奥行きは40m以上)。これは戦前に建てられた日本の教会では特に大きなもので、戦後浦上教会が巨大な新聖堂を建てるまでは、紐差教会が長崎県で一番大きい教会であったという。
 天井は中央が高い折上式の格天井で,各ブロックに装飾が施されている。天井の格子は単なる装飾ではなく、鉄筋の入った部材として屋根を支えているそうだ。

紐差教会窓とドア

 2階以上の窓には全てアーチが付き、窓やドアにはステンドグラスがはめ込まれている。ステンドグラスの大半はシンプルな幾何学模様だ。
 建物の1階はかなりのスペースがあるはずだが、どのような使われ方をしてきたのか聞きそびれてしまった。

紐差教会ファティマの聖母

 この教会の敷地には十字架の道行き石(キリストの14の苦しみがそれぞれ石に刻んであり、それらを順に拝んでまわる)など、信者のための仕掛けがある。特に目を引くのはファティマのマリア像だ。ルルドのマリア像はよく見かけるが、ファティマのマリア像をこのように大々的に作った教会は少ないと思う。
 日本ではこの聖母出現譚が、超常現象番組やそれに類する本で宣伝されたために、オカルティックな印象を持たれているが、この素朴な像を見るとなんとも心がなごむ。

 最後に、浦上教会の巨大な新聖堂で思い出したことがあるので、紐差教会とは関係ないが、以下にその話をする。最近新しい本もいくつか出ているし、詳しく知っている方も多いと思うが、全人類的な遺産ともいえた浦上天主堂の被爆遺構が、1958年、浦上教会によって解体されてしまった話だ。教会建築ファンというか、平和を望む日本の一市民として、このことは忘れてはいけないと思う。

 1940年代の終わりから1950年代にかけて、長崎市では原爆で破壊された浦上天主堂を保存するか撤去するかという議論がなされていた。
 長崎市議会では何度も保存が決議され、1951年に当選した田川努市長も保存に賛成であった。
 ところが1955年になると、カトリック長崎教区の山口愛次郎大司教が、教会再建の資金を募るため渡米し、10ヶ月をかけてアメリカ各地の教会を回った。
 最近知って驚いたのだが、山口大司教はアメリカの新聞(ニューヨークタイムス)の取材に対し「カトリック教徒はこの試練を戦争を終わらせるための殉死とみなす」「広島で日本人が受けた犠牲は十分でなかった(だから長崎にも原爆が落とされた)」と述べたという(ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」-高瀬毅/平凡社 による)。これが事実なら、長崎カトリック教会と浦上教会は日本国民にどんな言い訳をするつもりだろう。

 山口大司教がアメリカ行脚をしていた頃、日本では広島市で第1回原水爆禁止世界大会(1955年)が、長崎市で第2回原水爆禁止世界大会(1956年)が開催されるなど、核兵器の使用を「悪」として非難する運動が盛り上がりを見せていた。日本原水爆被害者団体協議会が結成されたのもこの頃だ。
 
 田川市長も山口大司教とほぼ同時期に渡米。名目は姉妹都市提携をしたセントポール市を表敬訪問するということであった。そのときアメリカで何を吹き込まれたのかは明らかでないが、帰国すると保護から撤去へと態度を変え、議会で「多額の市費を投じてまで残すつもりはない」と明確に答えるようになった。

 1949年から活動を続けてきた長崎市原爆資料保存委員会は、教会が具体的な撤去計画を進めていることに驚き、新しい聖堂を建てる代替地の提供を申し出た。
 しかし教会側は、浦上天主堂のあった場所はカトリック信仰史上重要な場所であり、そこで祈ることに大きな意味がある、というような理屈を述べ、原爆遺構の全人類的な歴史価値を全く認めない姿勢で移転案を拒否したのである。
 その後浦上教会は遺構の撤去を開始し、壁の一部などが移転展示されたほかは、廃棄または新しい教会の土台として埋めてしまった。

 広島の原爆ドームは大切に保存され、1996年、人類の負の遺産として世界遺産に登録された。かつてのカトリック長崎教区の長が保護者として頼ったアメリカにとっては目障りな世界遺産ではあるけれど。

文化財

日本の美しい教会建築-3/平戸-平戸教会(平戸ザビエル記念教会)

 しばらくブログの更新をサボってしまった。その間にこのページを開いて下さった皆様、本当に申し訳ない。
先日久しぶりに長崎に行って教会の写真を撮ったので、以前のと合わせて教会シリーズ ? を引き続きアップしたい。

 というわけでまずこの写真から。これは平戸名所の一つ「寺と教会が見える坂道」。手前が浄土真宗の光明寺で、奥に見える塔はカトリック平戸教会(聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂や、平戸ザビエル記念教会とも呼ばれる。色々な名前で呼ばれる教会だが、本稿ではシンプルに平戸教会と書かせていただく)。
平戸教会光明寺
 光明寺は17世紀の初頭から続く名刹。境内にはいくつもの建物があり、特に19世紀の整備事業で整えられた経堂、鐘楼、山門は、意匠や施工技術が優れているだけでなく、坂道から眺めることを意識した(ような)絶妙の配置となっている。
 一方平戸教会は、いうまでもないことだが光明寺よりずっと新しい。大正2年(1913年)頃、前身となる集会所か巡回教会を、現在ある聖堂の近くに建てたと伝えられるが、司祭のいる本格的な教会が正式に設立(法人登録)されるのは、昭和5年(1930年)まで待たねばならなかった。現在の聖堂はその1年後の昭和6年竣工。平戸島に5つあるカトリック教会の中では、最も後から生まれた若い教会である。

 光明寺や平戸教会が建っている平戸市境川町は、松浦氏代々の居城を臨む城下町の一部である。いわば平戸島の首都。現在も近くに平戸市役所や平戸警察署などがある。
 平戸島のこんな大きな町に昭和5年まで教会がなかったというのはちょっと不思議な気もするが、よく考えてみるとこの町は、過酷なキリシタン弾圧を行った権力者のお膝元でもある。そのため、明治6年(1873年)にキリシタンの禁教が廃止されても、この町にはキリスト教に復帰する潜伏キリシタンも、新しくキリスト教徒になろうと思う者も、ほとんどいなかったという。
 自前の教会を持つほどに信者が増えるまでは、最寄りの上神崎教会や、小教区の主任教会であった紐差教会が、この町のキリスト教徒の面倒を見ていた。
平戸教会聖堂
 建物は鉄筋コンクリート製で重層屋根構造の平屋。設計は上神崎教会も手がけた末広設計事務所で、設計主任者の名前は分からなかった。ヨーロッパのクラシカルなゴシック様式の教会を手本に建てられているが、コンクリートらしい直線で簡潔にまとめられた装飾と、緑(シアンが多めの緑に白を混ぜたような微妙な色)と白の塗装に、石造りの本格ゴシックにはない清々しさが感じられる。
 中央の高塔(鐘塔)は3層で、先端に十字架を頂く尖り屋根は八角錐。正面から見たデザインは左右対称ではなく、向かって左側にだけ小窓のある八角形の小塔が付く。
平戸教会堂内
 内部は三廊式で中央の幅は約6mあり、左右の側廊はその半分ほど。正面のドアから祭壇までは20mほどある。
 天井はリヴ・ヴォールトで、細い骨と板の白さが相まって非常に繊細で軽やかな印象を受ける。柱は一見大理石に見えるが実は漆喰仕上げで、建築史の川上秀人らが解説する「長崎の教会(智書房)」によると、下に塗った顔料を白漆喰の表面にしみ出させる技法が使われているという。
 また柱頭の飾りは真っ黒に塗られ、柱のぼんやりした色と模様を引き締める意図が感じられるが、下段のものは少し目立ち過ぎるように思う。
平戸教会聖堂奥
 奥の祭壇側から見た建物。飛梁(上の写真にある上層側壁から斜め下に伸びて下層外壁の柱につながる梁)の列がゴシック様式の雰囲気を漂わせているが、ノートルダム寺院などの長大な飛梁に較べれば「これで本当に壁の強度に貢献してるの ? 」と確認したくなるほど小さく控えめである。
平戸教会ザビエル像
 上は境内に立つ聖フランシスコ・ザビエル像。建立されたのは昭和46年(1971年)で、この年は聖堂の竣工40周年にあたる。以後この教会は「聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂」と呼ばれることになったが、その後また改名して「平戸ザビエル記念教会」という名称も使われるようになった。
 地図サイトを見ると、Mapion、いつもNAVI、Yahoo地図、goo地図、ing 地図などが「聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂」と表記した地図を使用し、Google map、Map Fan Web、NVITIMEなどが「カトリック平戸ザビエル記念教会」という表記の地図を使用していた。

文化財

日本の美しい教会建築-2/平戸-カトリック田平教会

 前回に引き続き長崎県の教会建築のお話。場所も前回の宝亀教会と同じ平戸市である。物件は国の重要文化財に指定された有名建築の田平教会聖堂。立地に因む瀬戸山天主堂という別名もある。
 写真を整理したとき、寸法を間違え若干小さくなってしまった。どうかお許しを。

田平教会01

 堂々とした煉瓦作りで、写真を見てヨーロッパの教会といわれれば納得してしまうような建物である。竣工は大正7年(1918年)。設計施工は当時の長崎県で教会建築の第一人者となっていた鉄川与助棟梁である。
 鉄川棟梁は生涯に36の(数え間違いがあるかもしれないのでどうかご確認を)教会を建てている。田平教会は13番目に竣工させた建物で、煉瓦建築では最後の建物となった。
 前回紹介した柄本庄一棟梁のように、手探りで木造洋風建築に取り組んだ世代よりは40歳近く若く、日本人棟梁の教会設計もかなり本格的になってきた時代の作品である。

 鉄川与助棟梁はエジソンが電球を発明した1879年に長崎県の南松浦郡で生まれ、明治、大正、昭和の3つの時代を股にかけて活躍。キャンディーズの「春一番」がヒットしていた1976年、97歳で亡くなっている。
 鉄川棟梁の人となりについては、鉄川工務店三代目社長、鉄川進さんのサイト「おじいちゃんが建てた教会」に詳しい。

田平屋根1

 建物に近づいて細部を見ると、デザイン上の苦労の跡というか、煉瓦の洋風建築に和風の瓦屋根を載せてつじつまを合わせた、独特の意匠が目に飛び込んでくる。結果として重厚な煉瓦積みに負けない、堂々とした屋根となったと思う。ヨーロッパの教会のスレート屋根より変化があって、筆者は大好きである。

田平側面

 田平教会にも前回の宝亀教会と同じように木造部分がある。側面から見て白く見える部分がそうだ。
 これは上層部分の軽量化が目的の第一と思われるが、同時に限られた資金の範囲で、最大の容量を持つ聖堂を建てる方策でもあったはずだ。

田平接続部

 これは、煉瓦積みと板壁の接合部分。窓を共通にすることで一定の統一感が生まれる。

田平後面

 こちらは祭壇の背後に当たる部分。建設中にこの付近で壁の崩落事故が起き、2名が犠牲になったという。

 田平御堂内

 内部はごらんの通り。教会にはリブ・ヴォールトの曲線美がよく似合う。中央廊の幅は6m以上あり、それに対応する天井の高さを十分に確保している。外観の重厚な雰囲気が、中に入ると一瞬にして開放的な気分に変わるのは、この天井の高さと白い内装色のためである。

 1990年代までは写真にあるような椅子がなく、床に敷いた畳の上に座る方式であったというから、今よりもっと広々していただろう。日本人向けの教会は、割と最近まで畳に座る方式が多かった。

 最後に、建設に至る経緯や資金調達、住民の苦労などについて触れておこうとおもったが、長くなりそうなのでまたページを改めることにしたい。すみませぬ。

文化財

日本の美しい教会建築-1/平戸-宝亀教会天主堂

宝亀教会01

 前回に引き続き教会建築のお話。教会の擬洋風建築の写真も貯まってきたので少しずつアップできればと思う。ご覧いただけるとうれしい。

 これは長崎県平戸市宝亀町にあるカトリック宝亀教会天主堂。九十九島を臨む丘の上に建っていて、晴れた日に教会から海を眺めるとその美しさに思わず息を呑む。神に祈る場としてはこの上なき立地だ。ここに教会を建てようと考えた人々の心が伝わってくる。

宝亀教会06

 明治31年(1898年)竣工。建築を指揮したのは当時平戸・黒島教区の主任宣教師であったジャン・フランソワ・マタラ神父。その名から分かる通り彼はフランス人で、明治14年(1881年)に来日。大正10年(1921年)平戸の紐差教会で亡くなるまでの40年間、献身的に布教活動を行った。当時流行した赤痢とも闘い、自身も感染しながら地域の人々のために礼拝を続けたという。細菌学者の志賀潔が世界に先駆けて赤痢菌を発見したのは、宝亀教会が建つ前年、明治30年のことであった。
 マタラ神父の略歴(パリ外国宣教会)

 施工は五島出身の宮大工、柄本庄一棟梁と伝えられている。彼は幕末の弘化4年(1847年)生まれで、隠れキリシタンの家であったかどうかは不明だが、維新後まもなく正式に洗礼を受けたという。柄本棟梁の仕事について、あまり細かい記録は残っていないが、宝亀教会のほか、井持浦教会 鯛ノ浦教会 紐差教会など、長崎県の多くの教会建築に腕をふるったとされる。

宝亀教会02

 正面から見るとロマネスク風の堂々とした煉瓦建築に見えるが、本体はコロニアル風のテラスがある木造平屋の可愛い建物である。

宝亀教会03

 壁は板張りで屋根は和風の桟瓦葺き。裏側から見ると日本の大工さんが建てたことがよく分かる。
 老朽化とシロアリの被害によって傷みが進行していたので、2004年から修復工事が進められ、2007年に現在見られるような美しい姿を取り戻した。

宝亀教会04

 窓には竣工当初からのステンドグラスが残っており、天井を構成するリブ・ヴォールトの曲線や木彫の装飾と相まって、小規模ながら非常に美しい祈りの空間が形成されている。

宝亀教会05

 平戸市の岩田拓靖さんによると、パリ外国宣教会にあるマタラ神父の死亡記録には、生前彼が好んだ祈りの言葉として、新約聖書の一節がラテン語で記されているという。《 Domine, mitte operarios in Messem tuam, Messis quidem multa operarii autem pauci. = 収穫は多けれど働く者少なし、主よ、あなたの収穫に働く者を送りたまえ(ルカによる福音書10章2節 ? )》。布教環境の充実と後進の育成に務めたマタラ神父らしい祈りといえよう。


プロフィール

Kimupon_Cicadan 木村 義志

Author:Kimupon_Cicadan 木村 義志
出身地 : 大阪市
現住所 : 東京都
1955年生まれ
科学図書執筆編集のお仕事
分野は生物学系

写真は特にクレジットや注釈がない限り筆者の撮影です。記事や写真についてのお問合せはなんなりと。
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