備忘録/自然・文化・社会とニュース

文化財

ディズニーランダゼイションと文化財の接点

ムツゴロウトイレ

 ディズニーランダゼイションとは、建築学者の中川理が名著「偽装するニッポン―公共施設のディズニーランダゼイション」の中で解き明かしている観念だ。
 直接的な言葉の意味は建築デザインの「ディズニーランド化」だが、もう少し説明すると、例えば遊園地にあるような何かの形を真似た、珍妙で、突飛で、チープな建物を、土地の景観や歴史との整合性を無視して(公共的な目的で)建ててしまうような精神性というか、行政システムのようなものといえる。
 そのデザインコンセプトには、地域住民や来訪者に「親しまれ」「夢を与える」もので、地域の「伝統」「文化」「名産品」「自然環境」などを「分かりやすく伝える」といった期待が込められているのだが、実際に完成してみると、見る者が違和感を覚え、町の変な風景として路上観察者に失笑ネタを提供することになる。

 トップの写真はムツゴロウなど干潟の生物が間近に見られる海浜自然公園「海遊ふれあいパーク(佐賀県小城市)」のトイレ。目をひくのでディズニーランダゼイションのイメージというか、本稿の表紙として貼った。ただしこの公園は、子供がムツゴロウと泥遊びを楽しむ場所でもあるので、こうした色や形には一定の合理性があり、子連れの家族などには歓迎されているようだ。
干潟の子

 下は夕張市の観光施設「石炭ガラス工芸館」(夕張市は1970年代から基幹産業である炭鉱の閉山がが相次ぎ、市の存続をかけて観光事業に邁進したが、経営を軌道にのせることがかなわず、ついには市の財政が破綻。財政再建団体に指定されるという気の毒な歴史を持っている)で、夕張市の石炭総合レジャーランド構想の一環として1987年にオープンした。こういうチープなメルヘン系建物もディズニーランダゼイション物件の資格が十分にある。
 ガラス工芸は体験観光の定番となっており、関連施設は全国に300カ所以上、その1割近くが北海道にある。石炭とガラス工芸を結びつけたのは夕張市らしい発想だと思うが、業績が振るわず1994年に閉鎖された。
石炭ガラス工芸館正面
 デザイナーが「参考になる写真があったんで、予算の範囲内で再現してみましたたとえばこんな」といったかどうかは知らないが、まあだいたいそんな感じのデザインでしょ。大人の割り切りと諦めが感じられる。
 しかしこの建物で一番目を魅くのは投げやりなデザインではなく、ハリボテの尖塔や破風と時代を帯びた本物のレンガ構造が一体になっていることだ。
石炭ガラス工芸館
 石炭ガラス工芸館は、文化財クラスの堂々たるレンガ建築「旧北炭楓鉱発電所(1913年竣工)」に、ハリボテをくっつけるという、なんとも大胆な手法で造られていた。全国各地にあるメルヘンチックな安普請の中では、あまり例を見ない珍品である。
 1987年当時は産業遺構の価値が今ほど理解されておらず、施工主が単に古いものをリサイクルするという感覚でいたのは仕方がないと思うし、炭鉱が消えた町の再生のため、思い付くことを前のめりになって推進していた時期だったから、細かい事にかまっていられなかったのだろう。おりしもバブル景気が膨らみ始めた時期である。リゾートブームの名の下、それまで見向きもされなかった山林にまで値段が付き、日本各地に今見ると恥ずかしいような物件が次々に建てられていった。
石炭ガラス工芸館裏
 石炭ガラス工芸館こと北炭楓鉱発電所は、竣工から100年に及ぶ歴史の中で、発電所の統廃合による発電停止・閉山・観光施設としての再出発・業績低迷・閉鎖・夕張市の経済破綻・・・といった数々の悲しい歴史を体に刻みつけている。安普請のメルヘン物件は建物としての物理的な寿命は短いが、こうしたレンガ構造の建物は今後も長く姿を保っていくだろう。次の100年も日本の産業史の証人として、また時代に翻弄された地方経済の証人として生き残ってほしいと思う。空知総合振興局地域政策課によると、保存状態はよいとのこと。
 下の写真は北炭楓鉱発電所の近くにある北炭瀧之上発電所(1925年竣工)である。同じ北炭の発電所だが、こちらは閉山まで稼働しており、その後は北海道企業局の発電設備として使用(というより動体保存の状態)されている。両発電所の運命の明暗を思わずにはいられない。
瀧之上発電所

 夕張の石炭ガラス工芸館は、地域と自らの繁栄を願う人々によって性急に作られ、あっという間に消えていった徒花という位置づけで誰もが納得できると思うが、次はその位置づけがちょっとややこしい。完成して間もない現在進行形の物件で、今後も公共施設として長く使い続けなければならないのだ。でもこれは、我々に地方経済の衰退と復興、そしてディズニーランダゼイションについて、重要な示唆を与えてくれる例証になると思うのでとりあげた。
深谷駅
 それはJR高崎線(埼玉県大宮駅〜群馬県高崎駅)にある深谷駅の駅舎(1996年竣工)である。この駅舎の前に立ったとき、最初に頭に浮かんだのはディズニーランドのシンデレラ城である。シンデレラ城はドイツのノイシュヴァンシュタイン城などをモデルにした、ディズニーランダゼイションの確信犯というか、ゼイションではなくディズニーランドそのものの建物である。
 読者の方から、ノイシュヴァンシュタイン城に似ているのはアメリカディズニーランドの「眠れる森の美女城」で、東京ディズニーランドの方は、フランスの城や宮殿に似ているというご指摘をいただきました。ありがとうございました。フランスの城
 深谷駅を見てなぜそんなことを思ったのかというと、両方とも客席から見た芝居の大道具のようなもので、近づいて細部を見ると、たちまち板に描かれた絵(この場合はレプリカ)であることが分かるという共通点を持つからだ。シンデレラ城は内部にもゴシック様式の教会建築を模した内装を施しているが、深谷駅の場合は中に入ると日常的な普通の駅なので、たちまち夢から覚める仕組みになっている。
東京駅
 深谷駅のことをもう少し説明すると、深谷駅にとってのノイシュヴァンシュタイン城は、日本の建築史に大きな足跡を残した辰野金吾の東京駅丸の内駅舎(1914年竣工/上写真)で、その1/10程度の規模で上手くまとめられている。
 いうまでもなく深谷駅駅舎は本格レンガ構造の建物ではない。今どきの鉄骨ビルで形を作り、外面にレンガ風の装飾が施したものである。
 それでも単なる縮小模型ではなく、駅舎として使うため各部の寸法が調整されているので、プロポーションに無理が無く、前に立つと東京駅というより19世紀のオフィスビルやアパートのような印象を受ける。
 また玄関前の広場とそこへ通じる階段には、東京の四谷見附橋(1913年竣工)を模した欄干や街灯が配置され、大正初頭の雰囲気が演出されている。
深谷駅アプローチ
 下の写真は駅舎の外壁に張られているレンガ風タイル。斜めに切った2枚のタイルで化粧レンガのエッジを表現している。施工したタイル職人さん達は良い仕事をされたと思う。シンデレラ城の模造パネルは、上に行くほどブロックを小さくして城が大きく高く見えるようになっているが、深谷駅にそんな小細工はなく、いたって真っ当な、きれいなタイル張りである。
深谷駅レンガタイル2

 大金をかけて深谷駅を東京駅のレプリカにした理由は、すでに廃業した深谷市の基幹産業に関係がある。
 深谷市には地元出身の渋沢栄一が興した巨大なレンガ工場があり(1887年創業の日本煉瓦製造会社。下の写真はその最盛期の姿)、そこで作られたレンガが建築資材として日本の近代化に貢献した歴史や、市内各所に点在する味わい深い小規模なレンガ建築を市民の誇りとし、深谷市を「レンガの町」と定めて、それをアピールするためにレンガを生かした深谷駅(東京駅のレプリカのことね)を造った、と深谷市では説明している。
上敷面工場
日本煉瓦製造資料館
 日本煉瓦製造会社は、1893年に株式会社となり戦後まで生産を続けたが、高度成長期における産業構造の変化に対応できず低迷。オイルショックは乗り越えたものの、2006年に自主解散し、ホフマン輪窯(巨大なレンガ焼成窯)など、文化財として価値の高い産業遺構を深谷市に譲渡した。下は日本煉瓦製造株式会社の門扉に掲げられていた社章。
日本煉瓦製造門扉
 日本煉瓦製造株式会社のホフマン輪窯の内部。1基だけが現存し国の重文指定を受けている。
ホフマン輪窯深谷

 夕張市が閉山後も「石炭の町」をアピールしたように、深谷市も消えた産業の残像である「レンガの町」を自らのアイデンティティと定めているのは非常に興味深い。ただ石炭とレンガというそれぞれのキーワードに対する市民の思いには、大きな差があると思う。
 夕張市と石炭は文字通り運命共同であったから、市民の市政に対する評価はバラバラでも、石炭の町という自覚は全ての市民にあっただろう。一方戦後のレンガ産業は一時期を除いて低迷が続いたので、地域全体としてレンガの町という意識は少しずつ薄まってきていたはずだ。
 そこで考えたのが深谷駅にある東京駅のレプリカであり、「深谷市レンガのまちづくり条例」の制定だったのではないかと思う。ただし、35億円もする巨大なレプリカと、市の奨励金で増えた茶色いタイル張りの家の影で、辛うじて残っている民間の小規模レンガ建築が一つでも消えるようなことがないようにしてほしい。
尾高藍香惇忠生家蔵
 上は尾高藍香の生家に残るレンガの蔵。深谷市に残るレンガ建築はレンガ工場関連か、こうした民間の生活に密着した小規模なものが多いようだ。それが大切にすべき深谷のレンガ文化だと思う。

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追悼 いーくん

コスモス03

 いつもこのブログに対する感想や激励を頂戴していた「いーくん」こと本間郁代さんが、この夏(8月29日)に亡くなられた。病気になっても「いつも通り」という姿勢を崩さず、毅然と闘われた末のご逝去である。当然このブログに書き込まれたコメントのいくつかは、苦痛を伴う闘病生活の合間に書かれたものである。お互いの住まいは遠く離れていたが、お見舞いに行った共通の友人を通し、私は彼女の苦しい状況を知っていた。しかし互いに連絡がとれる間は、「いつも通り」に対応させていただいた。本当に立派な方であったと思う。

 本を書く時もそうだが、書いているときに未知の読者の顔などは頭に浮かんでこない。作業中ふと思い出すのは恐い編集者の顔、同じテーマに取組んでいる同志やライバルの顔、そしてまた、読んで感想を聞かせてくれる友人知人の顔である。なので、いつも読んでくれていた友人を失ったことは、思った以上にブログに対する私のモチベーションを低下させた。何の制約も受けず、気ままに気楽に書けるブログだからこそ、影響が大きかったのだとも思う。
 でもこのまま放置していると、郁代さんに叱られそうな気がするし、ときどき写真やネタや欲求不満を放出しないと溜まる一方なので、どんどん書かねばと思っている。皆様引き続きよろしくお願いします。

 末筆ながら改めて本間郁代さんのご冥福をお祈りします。

文化財

洞窟の聖堂

 ヨーロッパには洞窟を利用した修道院や聖堂が多くあり、教会建築の一カテゴリーとなっているが、日本にも一つだけ洞窟礼拝堂が残っている。それは禁教時代に作られた秘密の隠れ家であった。少し前のことではあるが見学したので、日本の教会建築見学シリーズ ? の一つとして付け加えたい。

岩窟礼拝堂B

 上が日本の洞窟礼拝堂の全景。そこは岡藩の武家屋敷街に近く、江戸時代は岡藩四家老の一人であった古田氏(古田織部の子孫)の領地であったという(大分県竹田市大字竹田)。左の格子がはまった入口が礼拝堂で、右の洞窟は司祭らの居住区跡とされる。
 岡藩の初代藩主中川英成の父中川清秀は、キリシタン大名の高山右近の従兄弟である。岡藩はキリシタンの取締りも行ったが、信徒に寛大な側面もあったとされる。また中川家の家紋は中川クルスと呼ばれる独特なもので、このことから中川氏が密かにキリスト教を信仰していたと考える人もある。
 また中川クルスはイエズス会の紋章とにているという人がいるが、そりゃ違うだろ(笑)と思う。

中川クルス 中川クルス
イエズス会紋章 イエズス会紋章

 作られた時期ははっきりしないが、宣教師の追放後も日本に留まったナバロ神父やブルドリノ神父が潜伏していたとされることから、17世紀の初頭、徳川氏による弾圧が強まった頃に作られ、以後密かに使われてきたと思われる。ナバロ神父は後に他の領内で逮捕され殉教した。
 礼拝堂は幅、高さ、奥行きがそれぞれ3メートル程度で、正面奥に祭壇らしきくぼみがあり(下の写真)、ささやかな十字架が置かれていた。

岩窟礼拝堂祭壇B

 その横には宣教師達が隠れたとされる洞窟がある。いわば洞窟司祭館であるが、開口部が大きく雨風が吹き込みそうなので、使用されていたときは板などで塞がれていたのだろう(下の写真)。

岩窟礼拝堂司祭館

 日本の洞窟教会は身を隠すためのもので、質素でなるべく目立たないように作られているが、ヨーロッパには一つの山が穴だらけにされて宗教都市を形成しているような場所もある。

Chiesa_di_Santa_Maria_di_Idris.jpg
INMAGINE The world's stock photo library 提供

 上は世界遺産に登録されているイタリアのマテーラの洞窟遺構群の一つ、サンタマリア・デ・イドリス教会の礼拝堂。最盛期には付近に100を超える洞窟聖堂があったという。

文化財

天の后(あめのきさき)コレクション-その1

 教会建築の紹介はまだまだ続けるけれど、今回は教会つながりで別のネタを。題して「天の后コレクション」。

 「天の后(あめのきさき)」とは聖母マリアに対する日本語の尊号の一つである。
 東アジアでは「天后」という言葉が古くから使われており、それは「媽祖(まそ)」という航海の安全を司る女神を指すことが多い。中国の海に面した町には天后(媽祖)を祀る天后廟が数多く見られる。
 下の写真は媽祖信仰が盛んという福建省湄洲島(梅州島)にある巨大な媽祖像で高さは14m以上ある。日本向けの観光案内には「海上平和女神」と説明されていた。
 皇后の冠をつけ、手には如意を持ち、強大な力で海事を支配する女帝の貫禄がある。見た目では聖母マリアより強そうだが、両者に共通性を全く感じないわけでもない。
 ただこの記事は天の后信仰と天后信仰を比較するのが目的ではないので、天后の話はこれで終わり。
梅州島Mazu
from Wikimedia Commons ⒸLuHungnguong

 カトリック教会にマリア像はつきものだが、教会の庭に手の込んだ「ルルドの洞窟」を造るなど、屋外で拝むマリア像に力を入れている教会は多い。また、これまでに見学した教会にも立派な屋外マリア像があった。というわけで、以下にそのをいくつか紹介したい。
 不謹慎なことではあるが、どのマリア様が理想の女性に近いか、なんてことを考えながら、気楽に眺めていただけたらと思う。なお今回掲載した写真のうち、外国の写真は他所からお借りしたものである。

神ノ島教会大マリア像
 まずは日本一大きな長崎県神ノ島教会のマリア像から。
 この像は長崎湾の湾口部にある大きな岩の上に立ち、長崎港や付近の漁港に出入りする船の安全を祈っている。像を建立した目的は媽祖像と同じといえよう。
 上の写真の左に見える山の中腹に神ノ島教会の白い聖堂が見える。
神ノ島教会マリア像遠景
 像の高さは4m60cmもあり、岩の高さを足すと15mを超えるので、長崎湾を航行する船からもよく見える。
 ここに初めてマリア像が建てられたのは、昭和24年(1949年)、ザビエル渡来400周年の年であった。その後厳しい海岸の風雨に曝され、初代の像は劣化が進んだため、昭和59年(1984年)、地元の水産会社などの寄付で二代目となるこの像が建てられた。デザインは彫刻家であり神父でもあるパウロ・ファローニ師。お顔は現代的な印象を受ける。
神ノ島教会マリア像顔

神ノ島恵比寿祠
 このマリア像の立っている岩の上には、古い石の祠と近年建てられた鳥居があって、祠の中と前には漁業の神である恵比寿像が計4体も置かれていた。それぞれ時代も作風も違う彫刻だが皆大笑いされている。マリア様とエベッさんが夜な夜なお話しているのではないかと思うと楽しい。日本ならではの風景だ。
神ノ島教会島恵比寿

 あと、神ノ島の巨大なマリア像の献花台には聖歌「あめのきさき(聖母マリアの賛歌として世界で広く親しまれている曲)」の歌詞が刻まれていた。行事のときには海上の安全を祈ってこの定番曲が歌われるのだろうか。一番の歌詞に「海の星と輝きます」という詞があるが、それを歌うのに最も相応しい場所だと思った。メロディーはこちら(サルフォード大聖堂のオルガン奏者アンソニー・ハントがお仕事中)。
あめのきさき歌詞

 神ノ島教会の岩の上に立つマリア像は両手をを広げ、人々に救済の手を差しのべるところをイメージしたとされる、いわゆる「慈しみのマリア」の姿である。もう2つほど同じ形の像を挙げたい。
大野教会マリア像
 上は先日紹介した「日本の美しい教会建築-5/外海(長崎市)-大野教会堂」の傍らに立つマリア像で、大野教会100周年(1993年)を記念して信徒の皆さんが建立したもの。
黒崎教会マリア像s
 こちらは長崎県の黒崎教会のマリア像。布の表現が立体的で軟らかく、誤解を恐れずに言えば、色と相まって最近のアニメ美少女フィギアのセンスを感じさせる。
 像の台は、100年以上(禁教時代を入れると400年以上)におよぶ黒崎教会の歴史が書き込まれた碑となっている。2000年竣工。
大野黒崎お顔
 2つの像は製作時期が比較的近いにもかかわらず、それぞれ別の個性を発揮していて興味深い。

 マリア像のポーズで、もう一つの定番がルルドのマリア像に代表される合掌タイプ。
ルルドの洞窟 ⒸMIXA
 上の写真がその本家というか元祖というか、フランスはオート・ピレネー県にある本物の「ルルドの洞窟」に置かれたマリア像である。
 ルルドの聖母マリア出現譚や泉の奇跡などについては、教会の公式見解から体験談、旅行案内、オカルト話の類まで、ネット上にも無数の資料があるのでご覧頂きたい。
ベルナデッタ
Wikimedia Commons ⒸPjahr
 人々の好奇心を書き立てるルルドのアイテムの一つに、聖母マリアと出会った少女ベルナデッタ(修道女となり看護と介護に尽力。35歳の若さで亡くなった後、聖人に列せられる)の腐敗しない遺体がある(写真上)。調査した医師によれば蝋でコーティングされたミイラということだが、ついさっき眠りについたような姿に神や奇跡の存在を感じる人も多いだろう。

 各地の教会にあるルルドの多くは、下の写真のようなミニチュア(福岡県今村教会)か象徴的なオブジェ(青森県弘前教会)であるが、原寸大の立派なルルドを再現しようとする教会もある。
福岡今村教会ルルド
弘前教会ルルド

 下は長崎県の神ノ島教会にあるほぼ原寸大のルルド。神ノ島教会は冒頭の巨大なマリア像と同じ教会である。
神ノ島教会ルルド01
 美しく彩色された大きなマリア像で、お顔を僅かに下に向け、教会の前に立った人々に優しく視線を合わせて下さるという寸法だ。
神ノ島ルルドアップ

 次は長崎県の出津教会の塔の先端に立つマリア像。ルルドの洞窟にあるオリジナルに似ているが、高さは目測で人間の3分の1ほどと思われ、よく見ると十字架の位置など細部が異なっている。10頭身のスラリとしたシルエットだが、目が大きいやや少女的なお顔立ちで、視線は遥かヨーロッパを望む、という訳ではないだろうが、北西の空に向けられている。見学に行かれるなら、双眼鏡や望遠レンズは必携。
出津教会マリア像m
 出津教会は有名なド・ロ神父が明治15年(1882年)に建てた教会で、マリア像の立つ塔は明治42年(1909年)に新築されたもの。像はフランス製でド・ロ神父が輸入したものとされるが、教会に明治42年以前からあったものか、塔の新築に合わせて新たに入手したものかは分からなかった。
出津教会塔上のマリア像

 次は珍しいマリア像で、明治の初頭、中国地方の山中に現れたマリア様の姿を写した、日本版のルルドやファティマというような像である。
 場所は鳥取県津和野市の裏山的な位置にある乙女峠。マリア像としては比較的少ない(仏像ではごく普通の)左右の腕の角度を変えたポーズとなっている。
乙女峠のマリア
 この像が表現しているのは、明治政府が欧米から批難されることになった宗教弾圧事件「浦上四番崩れ」の際に起きたエピソードである。
 浦上で摘発され、日本各地へ流罪(実質は禁固と拷問)となった3千人を超えるキリシタンのうち、津和野に送られたグループに安太郎という若者がいた(写真の檻に入れられた人物)。彼は送られた先の津和野で何日にも渡る激しい拷問を受けたが改宗しなかったので、体が伸ばせない3尺立法の檻(ほとんどただの木箱)に裸で押し込まれ、雪の屋外に放置された。
 夜、仲間の一人が檻に忍び寄り(彼らは牢の床を穿ち、囲いの内側ではあったが部屋の外に出て仲間と連絡をとる事に成功していた)安太郎を励まそうと声をかけると「毎夜青い着物を着た婦人が現れてお話をして下さるので寂しはくない」と答えたという。この婦人こそ聖母マリアというわけだ。この安太郎と話した仲間が「浦上四番崩れ」の詳細な記録を残した守山甚三郎である。
 安太郎もルルドやファティマの聖母マリア出現譚のように、何か予言めいた話を聞いたかもしれないが、婦人と会ったことは自分が死ぬまで人に話すなと遺言し、それから間もなく檻の中で息絶えた。
乙女峠殉教者碑2
 上は乙女峠で殉教した36人を描いたレリーフ。矢印が安太郎。子供が描かれているのは、何人もの子供が拷問され牢内で亡くなったからで、通常の拷問では簡単に改宗しないことを知った役人は、後から捉えたキリシタンの子供を拷問し、その悲鳴を大人達に聞かせるようになった。
 明治政府は欧米各国からの激しい抗議によって、外交に支障をきたすようになり(当時欧米に派遣していた岩倉使節団が、欧米の国家元首から直接批難されるような事態に陥り、外交交渉どころではなくなっていた)、明治6年に禁教を解くが、浦上四番崩れで流罪となったキリシタンのうち、すでに600人近くが拷問や病気で亡くなっていた。また、苛酷な拷問で転んだ人が1,200人ほどあり、それはそれで長く良心の呵責に苦しむことになった。

*追記 明治政府のキリスト弾圧に関する岩倉使節団と欧米各国とのやりとりは、こちらの記事「安倍総理の靖国参拝で思い出した明治初頭の宗教外交史」に少し詳しく書いた。
 
 かなり長くなったが最後に「日本の聖母」という称号を持つ大浦天主堂のマリア像を紹介したい。大浦天主堂マリア像
 この像は苛酷な弾圧を耐えた日本のキリシタンと、ヨーロッパの神父との感動の再開を記念して、フランスの教会から贈られたもの。明治12年(1879年)の聖堂建替え時からずっと正面入口に置かれているという。これが日本の屋外マリア像の第1号ではないだろうか。高さは1m40cm。頭に頂く冠と足下の三日月が金色で、品の良い豪華さがある。
 信徒再発見の当事者プチジャン神父はパリ外国宣教会に所属していたので、そこからの贈り物と思われるが、明治期に輸入されたマリア像の中でも、これは特に優れた作品といえ、特別に選んで贈られたことが伺える。

文化財

日本の美しい教会建築-5/外海(長崎市)-大野教会堂

 大きな教会の次は小さな教会を紹介したい。教会の聖堂に対して「珍品」という言葉を使うのは少し抵抗を感じるが、思わずそんな言葉がでてしまうような、人を惹き付ける個性的な建物である。

大野教会

 この教会は長崎外海地区の人々に、今も「ドロ様」と慕われ続けるマルク・マリー・ド・ロ神父が造った建物の一つである。
 ド・ロ神父は病人や高齢者など遠くの教会に行けない人々のために、自身で資金(総額1,000円とされる)を調達し、信者とともに建設作業に汗を流した。
 明治26年(1893年)竣工。幅が6m弱。奥行きは10m強という巡回教会だが、歴史的にも技術的にも興味深い建物だ。地域の信仰の拠り所として、また長崎県の文化財として大切にされてきたが、2008年には国の重要文化財に指定されている。
 巡回教会というのはその名の通り、定期的に司祭が巡回してミサなどを行う常設の聖堂のことで、大野教会の場合、最寄りの出津教会の神父が巡回した。

大野教会壁面窓
 上の写真のように、この建物には正面の戸を隠す壁があり、出入りする人は壁と建物の間を通るようになっている。こういう構造を何と呼ぶのかは知らないのだが、砦の入口に設けられる虎口のようだ。もちろん壁を設置した目的は異教徒の突撃を防ぐためではない。
大野教会見取り図-01
 おそらく暴風雨が戸を直撃するのを避け、台風の最中にでも付近の住民が教会に避難できるようにした壁と思われ、同じような壁はド・ロ神父が設計した別の建物にも見られる。

 下は明治18年(1885年)に竣工した出津の鰯網工場(現ド・ロ神父記念館)。大野教会とは違って壁に白漆喰の化粧がなされているが、やはり壁の内側に正面中央の戸が隠されており、矢印のところから入る(現在は壁の内側にある戸は閉じられ、西側下屋の増築部分から出入りしている)。
大野教会参照用鰯網

 下の写真に見られるように、窓のアーチには煉瓦が使われているが、それ以外は「ドロ様塀」と呼ばれる石積みの壁である。ドロ様塀はド・ロ神父が造った建物に共通する特長の一つとなっている。
 また軒下には箱のような軒天井が見られるが、これは後世の改築で、当初この部分には土壁があったとされる。

大野教会横

 ドロ様塀の仕組みは、天川漆喰(あまかわしっくい/長崎で土間の床面などに使われていた漆喰)と赤土を混ぜたモルタルを接着剤として、平板の玄武岩の割石を石垣のように積み上げたもの。大量の石を使うため、重い荷を担いで何度も坂道を登る重労働が必要であった。ただし、苦労は多かったと思うが、強制された労働ではなく、信仰に基づく自主的な行動であるから、笑顔の多い現場であっただろう。

大野教会参照ドロ様塀

 聖堂内は学校の教室のような質素な作り。竣工当時は床が張られておらず、土間であったという。もしかすると天川漆喰のタタキであったのかもしれない。
 基本的に無人の建物なので現在は施錠されているようだ。戸のガラスを通して内部を拝見できるし、場所がら救いを求めて村人以外の人がやってくる可能性も低いと思うので、文化財保護のために施錠もやむを得ないだろう。
大野教会堂内

 聖堂の後方には6帖2部屋と土間からなる和風住宅がくっついていて、祭壇横の戸から出入りできるようになっている。中は見えなかったが、6帖間は一つが板張り、もう一つが畳敷。それぞれに1帖の押し入れがついているとのこと。設計は日本人の棟梁であろう。

大野教会奥部屋

 この住宅はド・ロ神父時代のものではなく、外海地区に赴任してきたジョセフ・ブルトン(Marie Joseph BRETON)神父が大正15年(1926年)に「司祭館」として増築したものである。
 上の写真の左に見える雨戸を開けると縁側がありその内側に司祭が使う6帖の居室がある。

 出津教会から大野教会までの道は、アップダウンのある海岸の傾斜地にあるが、ゆっくり歩いても2〜3時間で着くだろう。しかし、仕事のスケジュールによっては巡回教会に泊まった方がよいこともある。昔は巡回司祭が聖堂の床で眠っていたといわれるから、ブルトン神父以降の担当神父達は巡回の疲れが大いに軽減されたことであろう。また祭壇の後に控え室があるのは行事の進行時に何かと便利であったはずだ。
 ブルトン神父は、ド・ロ神父らと同じくパリ宣教会が派遣した神父の一人で、「日本の美しい教会建築-4/平戸-紐差教会」で紹介したように、後に佐賀の教区に移り、紐差教会の二代目聖堂を貰い受けて馬渡島に移築した人物である。

大野教会奥

 司祭館の方から見るとカトリックの教会には見えない。キリスト教が伝来して間もない頃、地方の教会はみなこんな姿だったのではないだろうか。
 ド・ロ神父が造った小さな建物は寄棟屋根のものが多く、屋根の内部はシンプルなトラス構造である。
 通常の見学では大野教会堂の骨組みは見えないが、ド・ロ神父が造った他の建物から推測すると、日本の大工さんが使う木組みの技法はほとんど使わず、金具を多用して組み立てられていると思われる。当時は鉄の金具を手に入れるより、大工さんを探す方が早かったと思うのだが、ド・ロ神父は自分が学んだ建築方法で手作りしていった。

 ド・ロ神父については、彼が長く布教の本拠地とした出津教会を紹介するときに、もう少し詳しく紹介したい。

プロフィール

Kimupon_Cicadan 木村 義志

Author:Kimupon_Cicadan 木村 義志
出身地 : 大阪市
現住所 : 東京都
1955年生まれ
科学図書執筆編集のお仕事
分野は生物学系

写真は特にクレジットや注釈がない限り筆者の撮影です。記事や写真についてのお問合せはなんなりと。
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