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吉野ヶ里遺跡/環濠集落は労働力の収容所

 先日有明海に行ったとき、ついでに吉野ヶ里遺跡の写真も撮ってきたので、前に書いた記事「吉野ヶ里遺跡は巨大な奴隷キャンプか」の補足をさせていただく。
 環濠集落は日本の城の先祖だとされ、その代表格である吉野ヶ里遺跡は日本100名城にも選ばれているが、私にはやはり奴隷を集めておく場所にしか見えなかった。

吉野ヶ里:監視塔:堀
 上の写真の左が集落の中で、右が外。敵は土塁にとりつけば、策の間から集落を監視し、矢を射かけることができる。これでは外敵に利する設備となるので城とはいえない。しかし、内側に人を閉じ込めておくための設備と考えれば合理性があり、立派な櫓が刑務所の監視塔に見えてくる。
 当時は奴隷がたくさんいて、しかも権力者の大切な財産として贈り物にもなっていたことが、魏志倭人伝などを読むと分かる。
 奴隷というと鎖でつながれ苛酷な肉体労働を強いられた家畜のような存在と思われがちだが、奴隷はもっと多様あり、様々な仕事をしていた。中央アジア、北アフリカ、南ヨーロッパなどでは、軍人になったり、権力者の財務を担当する奴隷もおり、一部で奴隷保護法のような制度も作られていた。また、中世のイスラム王朝の一つマムルーク朝は、奴隷出身の軍人達が国を支配していたことで知られている。だから吉野ヶ里にも、支配階級の護衛や身の回りの世話、また技能者や農民として、たくさんの奴隷がいたと想像される。

 城郭ファン向けのムック「日本の城(西ケ谷恭弘監修・世界文化社)」にも、環濠集落が日本の城の始まりとして紹介されており、その中でこうした堀と柵の位置関係の矛盾について、防御側は堀の手前に藁束を重ねて矢を防ぎ、刺さった矢を再利用するという珍説を唱えていた。つまり、大変な労働力を費やして作った土塁と丸太柵で敵の身を守り、自分達は仮設の藁塀で矢を防いだというのだ。武器や工具の少ない時代に知恵と工夫で外敵や自然と対峙していた古代人が、そんな馬鹿げたことをするのだろうか。

吉野ヶ里:堀:横矢

 写真は土塁の隅を外側に突出させた箇所。後世の城なら土塁にとりついた敵兵に横から矢をいかける防衛拠点となるが、堀が内側にあるためにそれができない。しかも櫓は後退しており、もしここを攻められたら、櫓の方が三方から矢をあびることになってしまう。これが城だというのはやっぱり変でしょ。
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Comment

No title

面白かったです。

Y染色体から男系40〜50%は縄文人由来らしいです、
ミトコンドリアは他のアジア地域とそれほど大きくは変わらず、
核ゲノムのうち、顔を司るもので20%程度が縄文系となるようです。

この状況が生まれるためには、縄文の女性のみが大規模に出国されたか、
渡来系の女性が大規模に入国したか、のどちらかになるように思われます。
ただ、時期が合わないように思います。
2つの時期があるらしく、第一次が縄文中期から縄文末の方で、第2次期が弥生であり、
縄文の時期の方が強かったようにも思われます。
また、縄文期の混交は関東から九州までよく混ざり合ったというような話もあります。

一方で、渡来系弥生人人骨にのみ戦傷が多いとかいう話や、
九州の方よりも近畿圏の方が比較的大陸の影響が強く出る事など色々と不思議な事が
多いなと思っておりました。
もし、北部九州が奴隷の中継地をして、大陸で引き受けた奴隷を関西方面に輸出したなら、関西圏と大陸の近似性がよく説明できるのではないかと思いました。

残念ながら専門家ではない者のでヨタバナシです、すみません。


08-18の名無しさんへ

ご意見ありがとうございました。

 面白いお話ならヨタ話でも学問的考察でも何でも大歓迎です。私の話も吉野ケ里遺跡を見て、なんじゃこりゃと思ったところからいくらも進歩していません。

 最近の篠田謙一さんの研究などを見ると、日本を含む東アジアの人類の遺伝子も多様で、移動や混合は想像以上にダイナミックだったようですね。将来縄文人という括りもあまり意味をなさなくなるのではないかと感じています。
 歴史認識も知見の増加とともに大きく変わって、昔学校で習った劇文学みたいな歴史は消えていくのでしょうね。先日、教科書から「士農工商」が消えているのを知って驚き、またうれしくなりました。

No title

それこそ篠田謙一さんは、「すると[渡来人は全員女だった]と言う話になるんです。 これは絶対あり得ない」と仰っているようです。
絶対ありえない事が色々と起きる世の中でこの手の発言は頂けない、奴隷なら全員女性でも有り得るように思います。

縄文人のmtDNAの解析についても彼の成果と異なる追随研究が報告されていたり、部下がクラウドファウンディングで船を作ってみたり、、、、、、ちょっと大丈夫かな、と、思っています。

男女比

名無しさんへ

 私は篠田謙一さんの仕事を評論するだけの知識や情報はありませんが、出稼ぎ的な移民や奴隷には年齢や性別に強い選択が働きますから、女性ばかりが大量に流出入することはあり得ると思います。
 既婚率や男女比は時代や地域によって大きく変わり、生物学的に妥当な男女比にあったわけではありませんから、古代の社会のこと、今では想像もつかない男女比の世界があったというのはそれほど突飛な考えでもないような気がしますね。

No title

奴隷を住まわせていたという説は、吉野ヶ里遺跡が発掘された当初から指摘されていました。理由は、こちらのブログで説明している通りです。万葉集にも、曲げ盧に農奴が住んでいる様子が詠われているし、戦国時代ころまでは、領主が農奴の奪い合いをしていたそうなので、奴隷は一般的な存在だったのだと思います。

確認を要しますが

初めて検索中にこちらのサイトの記事を拝見しました。
とても興味深いお話でありましたが、奴隷キャンプとはとても思えませんでした(笑)
沢山の人が共同で、あの濠に囲まれた範囲だけでなく外の人達とも交流して生きていたと思います。
よく稲作が進み食料の奪い合いが~とか教科書では出ていますが、稲作は水利も含め協力体制がなければ出来ず、あの集落内に田圃があれば兎も角、沢山の稲作は外の敷地でやっていたはずで、中で完結出来ない話だと思います。
以前、遺跡の学芸員と県の教育委員会に聞いた話で、誰が言ったか記録していませんので再確認を要しますが、復元された城柵(木柵)の遺稿は一部分から出ただけなのだそうで、張り巡らされていたわけでは無いようです。
さらにこの環濠は祭祀上もっとも重要な北側奥の祭祀場まで船をつけられるように続いています。
結局考古学者が勝手に防護の城としたかっただけで、環濠は筑後川から田手川をさかのぼり広大な敷地で物や人を移動させる交通手段としての運河であったと、私は思います。
あんな幅の狭い濠で敵を防げる訳が無いです。

いづのめさんへ

コメントありがとうございます。

 吉野ヶ里遺跡で堀や柵があったのはごく一部に過ぎないというお話を大変興味深く拝見しました。であれば、あの復元は虚構ということになりますね。もし詳しいことがお分かりでしたらおお知らせください。資料の所在をお教え下さるだけでもけっこうですので、よろしくお願いします。

 いづのめさんが疑問を持たれた奴隷の状況ですが、私は大量の奴隷が柵の中にずっと閉じ込められていたとは考えておりません。
 本稿の前編である「吉野ヶ里遺跡は巨大な奴隷キャンプか」でも書きましたように、柵と掘の中に住んだ人々は、四六時中閉じ込められているのではなく、柵の外で新しい農地を開墾したり農作業をしていたと考えました。また、知識や技術を持ったものは、手工業や生産物の管理などに従事したでしょうし、武術に優れた者は兵士にも登用されたでしょう。
 奴隷を抱えるのは、大量の労働力と知識や技術を持った人材を確保するためです。それが必要ないなら、大量の奴隷を抱えても食料が無駄になるだけです。
 日本では奴隷に関する古い記録がほとんどありませんが、他の古代文明では、奴隷の中から官僚や将軍が出たことも分かっていますから、日本でもそれに近い状況があったと考えるのは決して不自然ではないと思います。

 吉野ヶ里も、基本的に支配者に従い、領主の掌から誰も逃亡してはならないという大原則はあったでしょうが、肉体的苦痛が伴う厳しい支配と、比較的自由で出世の可能性まである支配とが、有機的に入り混じって存在していたと思います。
 国家の黎明期で人民に国民や領民という意識が希薄だった時代のこと、吉野ヶ里には今では想像しにくい帰属意識や階層意識、土地や労働に対する価値観があったのではないでしょうか。
 
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プロフィール

Kimupon_Cicadan 木村 義志

Author:Kimupon_Cicadan 木村 義志
出身地 : 大阪市
現住所 : 東京都
1955年生まれ
科学図書執筆編集のお仕事
分野は生物学系

写真は特にクレジットや注釈がない限り筆者の撮影です。記事や写真についてのお問合せはなんなりと。
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