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欲しかった大砲の使い方

 江戸末期に大砲の製造や砲術に熱心だったのは、いうまでもなく外国の脅威に対抗するためである。そして、当時の武士階級には、本当にぶっ放して外国船を追い払うべきだと考える者が多かった。その結果が下の写真である。
 場所は山口県前田の長州藩海岸砲陣地。写っているのはフランス海軍陸戦隊の将兵達である。時は1864年6月。攘夷と称して外国船を砲撃したところ、報復攻撃を受けて海岸を占領されてしまったのだ。
Shimonoseki_s.jpg
撮影/Felice Beato ウィキメディア・コモンズより

 当時の日本人は近代的な大砲陣地の作り方や配置方法を知らず、どうぞ撃って下さいと言わんばかりに水際の低地に砲を並べていた。最悪の陣地は崖の下に置かれ、後ろの崖を適当に砲撃すれば長州兵の頭の上から土石の雨を降らせることができたという。立派な道具を揃えても、使い方が不適切だと役に立たないことの典型であった。
 
 この頃の長州藩は攘夷思想に凝り固まっており、外国船を見つけるたびに大砲を撃ち、外国船員の死者は10人に達していた。幕府はすでに開国し、米英仏蘭露の各国と通商条約を結んでいた訳だから、船員達はなぜ撃たれたのか理解できなかったであろう。長州兵は外国船が驚いて逃げ去る様子を見て攘夷達成と喜んでいたようである。

 船を壊され死傷者を出した列強国はだまっちゃいない。大砲を使ったおいたをやめさせ、高額な賠償金を支払わせるために、ピシャリとやる必要があった。そこで米仏を中心とする在極東艦隊のべ20隻が長州攻撃に向った。
 戦闘する意志のない船をいきなり砲撃すれば一方的に損害を与えられるが、訓練された軍艦が戦闘準備を整えて向ってくるのである。長州軍に勝ち目はない。
 まず米国の軍艦1隻と長州の洋式軍艦4隻が交戦し、長州海軍は全滅。数日後フランス艦2隻が到着し、海岸に攻撃を加えた結果が上の写真である。
 長州藩は莫大な賠償金を要求されたが、自分達は幕府の下で動いているという建前論で切り抜け、幕府に支払いを肩代わりさせることに成功している。
 
 写真が撮影された後、フランスは戦利品として青銅砲を持ち去った(砲は旧式であったが青銅は高価な金属素材であるため)。その数は100門を越え、一部は今もパリに残っている。
パリ廃兵院長州砲S
パリ廃兵院の各種青銅砲(手前から2門目が長州藩のもの)

 屈辱的な完敗ではあったが、そのおかげで長州人は外国から学ぶべきことの多さを知り(同様に薩摩藩も英海軍を攻撃して手痛い反撃を食らっていた)、日本の近代化が加速されたといっても過言ではないと思う。
 同じように攘夷思想に凝り固まり、大砲造りに熱心であった水戸藩には、目を覚ましてくれる砲弾が打ち込まれなかったので、内部抗争が激化し自滅してしまった。
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Comment

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ご無沙汰してました。
もし私がパリに行く機会があって(フランスは
田舎しか行った事がない、あ、イギリスもロンドン
には行ってないし)
さらにありえないと思うけどパリ廃兵院なんかでこれ見たら
あ、このブログ見ていてよかった!って思う
でしょうね(笑)。
ごめん、何書いていいのかわからなかった。
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プロフィール

Kimupon_Cicadan 木村 義志

Author:Kimupon_Cicadan 木村 義志
出身地 : 大阪市
現住所 : 東京都
1955年生まれ
科学図書執筆編集のお仕事
分野は生物学系

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