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最後にしくじった世渡り上手な名門武家

 浜名湖の北岸にある舘山寺温泉には、かつて堀江城という城があった。現在、城の遺構は何も残っておらず、城があった山の上に、遊園地と温泉旅館が何軒かあるだけ。

堀江城絵

 堀江城の始まりは、鎌倉末期に大沢基久(もとひさ)という武士が、この地に城を構えたのが始まりで、鎌倉幕府が滅ぶと今度は室町幕府の守護大名であった今川氏の配下となり、駿河今川氏の防衛拠点として機能した。

 今川義元が桶狭間の合戦で死ぬと、今川氏の諸城も次々に落城、また多くの家臣が、義元の馬鹿息子と伝えられる氏真(うじざね)を見限って徳川方についた。しかし、大沢氏9代目の大沢基胤は、合戦の状況とその後の流れを読み切っていたのか、今川陣営に残り、堀江城で孤軍奮闘して徳川勢を苦しめた。そしてついに徳川家康から和睦を引き出すことに成功し、徳川チームに入る代わりに、今の自分の領地や身分はそのままという、主家が滅んだ国の将としては破格の好条件を勝ち取った。

 もちろん家康が主力を率いて全力で攻めれば、小さな支城に過ぎない堀江城など2~3日で落城したと思われるが、主力は今川氏真と名将朝比奈泰朝が籠る掛川城の攻撃に手こずり、戦闘がこう着状態となっていたのである。
 大沢氏は地方の小勢力ながら、鎌倉幕府から室町幕府、そして徳川幕府へと、600年もの長きに渡り、一国一城の主として生き延びたのであるから、戦の上手さと判断力、世渡りの才能は封建小領主の理想といえるだろう。

 徳川勢との戦闘に使われた堀江城は、土塁と柵をめぐらし、その中に掘立て小屋や材木を組んだ物見台などが並ぶ「砦」と呼んだ方がよい中世の山城であったろう。江戸幕府はそうした戦闘用の施設を、小大名や旗本が持つ事を禁じたから、大沢家では忠誠心を疑われるのを避けるため、先祖伝来の城といえども早々に破壊したはずである。
 だから江戸時代の堀江城はただの武家屋敷に過ぎず、そうした小領主の本拠は「城」とはいわず「陣屋」と呼ばれていた。だから江戸時代以降の「堀江城」は「堀江陣屋」と呼ぶのが正しい。上の絵のような石垣の上に白亜の天守がのる近世の城郭建築は、堀江城の歴史を通じて一度も存在した事はない、はずである。

堀江城01
現在、この地で堀江城に拘っているのはこの旅館だけのよう。城山の麓に建っている。上の絵もこの旅館の部屋にあったもの。なかなかよい旅館であったが、もう少し史実に忠実であれば、もっとくつろげるのだが。変な城の絵と怪しい説明文が館内のあちこちにかかっていると落ち着かない(笑)

 さて、その後の旗本大沢氏の運命であるが、これがなかなかうまくやっているのである。
 その後、大沢基胤は徳川の大名の配下として働き、天下統一に貢献した。そして、その息子の大沢基宿は鎌倉時代から続く名門の子として、先祖から受け継いだ人脈、特に公家の娘であった母の人脈を利用し、徳川家康の対朝廷工作ブレーンとして活躍するようになる。そしてついに、徳川家康が朝廷から征夷大将軍の宣下を受ける際には、その事前交渉に活躍し、徳川側の代表として式典を仕切ったというのだ。これが徳川幕府の高家の始まりとされている。
 高家というのは忠臣蔵で有名な吉良上野介の役職で、江戸時代を通じ二十数家が高家に取り立てられており、役職を世襲。最初に高家になったのは、大沢家と吉良家の2つ。その少し後に加えられた畠山家の三家が高家の上位とされている。
 幕府高官の老中クラスが直接指示を出し、幕府の代表として天皇や公家に会い、また幕政において朝廷対策、外交、式典などのブレーンも務めたから、大したものなのである。
 経済的には大藩の大名の足元にも及ばなくても、忠臣蔵の吉良のように、大名に指図できる立場で、賄賂天国の幕府であるから副収入はかなりあり、参勤交代や幕府の土木事業にも参加せずにすんだから、かなり裕福であったと思われる。
 朝廷からは「従五位下侍従」以上の官位を与えられ、初代高家の大沢基宿は後に「正四位下左中将」にまで出世している。これは十万石の大名の官位に匹敵する。忠臣蔵で切腹させられた浅野長矩の官位は従五位で四位の吉良上野介より下であった。

 こうして堀江城と大沢氏は江戸時代を通じて安泰となった。領地経営も巧みで、検地の書類上は3,000石少々だったが、実質は5,000石以上あったとされる。

大沢基寿
大沢基寿と伝えられる写真。維新を乗り越えて間もない20代前半と思われる。

 やがて江戸幕府も終わりを迎えるが、その頃の幕府は京都との関係が、今までになく重要な課題となっており、その頃の大沢家11代目、大沢基寿(もとすみ)も歴史変革の大きな場面にその名前を残している。徳川慶喜の大政奉還の上奏書を御所に届けたのも、誰あろう大沢基寿である。
 この頃の基寿は幕府の使者として御所に頻繁に出入りし、皇族や公家だけでなく、長州や薩摩の動きについてもかなりの情報を得ていたらしい。この頃のことを後に本人が語ったものが残されており、幕末の生々しくまた興味深い資料の一つとなっている。

 大沢家では先祖達がそうしたように、新しい支配者に対する対応を協議し、新政府の一員になるよう画策を始めた。その手始めに薩長軍に対し、大沢家は古くから御所とのつながりが深く、勤王であることを表明して薩長軍に献金を行った。そして薩長からは、堀江周辺の行軍と物資の輸送に便宜を図ることと、その防衛に協力するよう要請があり、それを受け入れた。先祖がそうしたように、徳川幕府から長州政府への乗り換えに、ほとんど血を流す事無く成功したのである。

 しかし、問題は身分であった。名門の高家といえども、立場は旗本であり大名ではない。新政府ではこの差がモノをいった。
 大名は特権階級の「華族」となり、財産の維持や藩主に代わる知事としての政治参加が認められ、また、借財があっても、財産を抵当として他人に取られる心配もなかった。つまり明治初期は、大名の特権を認めるシステムが維持されていたのだ。
 一方、旗本や藩士は「士族」となる。これは単に「元サムライ」に過ぎず、どこかに就職するか、自分で事業を始めなければ、収入は得られない。それに失敗すれば破産を意味していた。

 このとき、ある家老が良い策を思い付いた。領地の石高を5,000石ほど水増して1万石とし、これまで周辺の小藩に匹敵する規模の地域を支配してきたのだから、これを新しく藩として認めて欲しいと新政府に訴えたのである。
 この策はまんまと当たり、明治元年の夏、めでたく堀江藩が成立し、大沢基寿は旧藩主に当たる堀江藩の知事となった。

 これで大沢基寿は新政府の華族として地方政治に参画し、大沢家も安泰となるはずだったのだが、天網恢々粗にしてもらさずというか、悪い事はできないもので、激動期ゆえ政府によって何度も地域の行政割が変更され、その過程で堀江藩の虚偽申告がバレてしまったのである。
 大沢家は華族から士族に格下げ、本人は刑務所に入れられてしまった。今も皇族や元華族を騙った詐欺があり、逮捕者がでたりするが、本物の高家のお殿様が詐欺で逮捕された例は少ないと思う。

 江戸時代なら家臣の誰かが切腹し、幕府高官への賄賂攻勢で殿様を守ることもできたと思うが、新しい時代の法体系がそれを赦さなかったのだろう。また大沢基寿自身もそんなことを望みはしなかったと思う。
 その後、大沢基寿は歴史の舞台から姿を消す。64歳まで生きて後継ぎがいたことも分かっているが、彼の後半生ががどのようなものであったかは知られていない。
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Comment

No title

歴史に疎く、写真も少ないので(それと実際の
お城は絵のようなものではなかったのね)、
とくに感想ものべられず。。。
あ、でも大沢基寿ってなかなかの好男子じゃない!?(笑)

Re: No title

> 写真も少ないので

今度から写真多めにしますね。

> あ、でも大沢基寿ってなかなかの好男子じゃない!?(笑)

写真に残る殿様達は細くて華奢な感じの人が多いですよね。
古い献立てで食事をキッチリ管理されてたからかなぁ。
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プロフィール

Kimupon_Cicadan 木村 義志

Author:Kimupon_Cicadan 木村 義志
出身地 : 大阪市
現住所 : 東京都
1955年生まれ
科学図書執筆編集のお仕事
分野は生物学系

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