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信州の塔-4

 やっと涼しくなったかと思ったら、早い物でもう10月も終わり。でも信州の塔ネタはまだまだ続く(笑)。
 今回は日本の宗教史上、大きな汚点の一つである、明治の廃仏毀釈を奇跡的にくぐり抜けた名塔の紹介。

新海神社塔

 この塔は佐久市の新海三社神社の境内にある。もちろん神社が塔婆を建てたわけでなく、以前ここにあった新海山上宮本願院神宮密寺という別当寺(近世以前の神仏習合時代に神社に併設された寺院)の塔であった。江戸時代の図絵には広い境内に神社の神殿と寺の山門やお堂、塔がごっちゃに建てられていた様子が描かれている。
 この一見デタラメに見える融合は、狭い国内で土着の神と海外から来た仏が衝突するのを避けるための、日本人の優れた知恵であったと思う。
 ただ仏教は、聖徳太子の時代から権力に組み込まれ、権力行使システムの一部として勢力を拡大したから、仏教権力やその腐敗を苦々しく思っていた者も多いだろう。また江戸時代には邪宗門(キリスト教)対策の名目で、寺が地域住民の戸籍管理を行い、封建支配の末端組織となっていたから、神仏習合の場でも寺が神社より権威的であったろうことは容易に想像がつく。そこへ幕末の神仏分離と明治政府の国家神道政策である。今度は神道が国家の権力や権威と結びつき、寺院の権力や権威が崩壊した。昔年の恨みというわけでもないだろうが、日本全土に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れることになる。

 余談になるが、現在の戸籍制度は江戸時代の寺受け制度の残像に過ぎないから、消滅しても何ら不都合はない。家柄という虚構で利益を得ている怪しい輩は別として、多くが下層武士か町人出身である現代の庶民が、こんなものの存続を認めているのは理解に苦しむ。

 新海三社神社とともにあった別当寺も、明治の神仏分離によって神社から切り離され堂宇は破却。寺宝や資料の多くは散逸した。幸いなことに廃寺とはならず、別の場所に移転し上宮寺と名前を変えて今日に至っている。本来なら三重塔もいっしょに破却される運命にあったのだが、当時新海神社は塔を倉庫として使っており、壊すと荷物の置き場に困るので、奇跡的に破却を免れた。
 現在の新海三社神社は歴史や文化財に造詣が深く、そのあたりの事情も説明板に記載し、塔を同じ重要文化財の社殿とともに保護管理されている。撮影にお邪魔したときには、費用と手間のかかる古式の杮葺きで社殿の屋根の修理が行われていた。
 
 この塔の成立年は明らかになっていないが、相輪(塔のてっぺんの角飾り)につり下げられた宝鐸(風鈴のような飾り)の一つに嘉承2年(1107年)に塔を田口山城守長慶が建てたという文字があり、また別の宝鐸には永正12年(1515年)の年号とともに田口氏一族の名前があるという。写真は相輪とそこにたくさんぶら下がる宝鐸。その一つを丸で囲んだ。

新海神社相輪

 古い年号のある宝鐸は江戸時代の作で、根拠不明なので歴史資料としては無視されているようだ。おそらく田口長慶が塔に関係したという話だけが江戸時代にも伝わっていて、時代考証せず適当な年号を入れたのかも知れない。
 また、上宮寺に辛うじて残っていた梵鐘には天文12年(1543年)の年号と田口氏の名前が見られるというので、16世紀頃この寺は、地元で一定の勢力を持っていた地侍の田口氏の援助を受けていた(田口氏菩提寺?)ことは確かだろう。1515年あたりが正解かもしれない。いずれにしても、神仏分離時の廃仏毀釈で寺の資料まで消滅したことが悔やまれる。

 この塔の造作で目を引くのは、一層目の屋根の垂木と二層三層の屋根の垂木の構成が違う事だ。一層目が垂木が放射状に広がる扇垂木で、上の層は垂木の方向が直角に交わる繁垂木になっている。扇垂木の方が手間のかかる難しい工法だが、一層だけでやめてしまうというのは腑に落ちない。ほかにも層ごとに細部の形式がバラバラな所が見られる。江戸時代の修理が自由奔放に行われたか、大工の技術が時代ごとにまちまちだったのか。このあたりも寺の文書が残っていればと思う。
 このように層ごとに垂木の形式が変わる例は、安珍清姫で有名な和歌山の道成寺の三重塔にも見られる。あちらは江戸時代の再建で、三層目だけが扇垂木になっている。これもよく分からない。

新海神社棟

 最後に廃物希釈についてもう少し説明しておきたい。廃仏毀釈とは日本の場合、一般に幕末の神仏分離令と明治3年の大教宣布の詔書(我が国は神道の祭政一致で運営する、朕は天神天祖の後継者である、という2本立ての天皇の詔)に端を発する神道関係者の仏教破壊活動を指す。
 言葉が難しいのでどんな事かがイメージしにくいかもしれないが、タリバンによるバーミヤンの石仏破壊に匹敵する破壊が日本各地で繰り広げられたといえば分かりやすい。もちろん明治天皇も明治政府も、寺院や仏像を破壊しろと命令した訳ではない。短絡的でイカれた神道関係者が大衆を巻き込んで暴走し、不利を悟った馬鹿坊主どもが寺を捨て国家神道体制にすり寄ったため、物理的な破壊活動がエスカレートしたといえる。もちろん破壊や弾圧は、キリスト教など神道以外の全ての宗教に及んでいる。→過去ブログ、明治政府のキリスト教弾圧関連

 廃仏毀釈で日本の寺院の半分が廃寺になったと考えられているが、その実数は不明である。破壊の激しかった薩摩藩では1,600以上の寺院が廃寺に追い込まれ、ほぼ根絶状態となったという。
 また興福寺に匹敵する大伽藍を誇った奈良の内山永久寺などは、付近の30以上の寺とともに更地になるまで破壊され、地上から一切が消滅してしまった。売りに出されたおかげで現存する僅かな寺宝は、ほとんどが重文国宝クラスで、特にドイツに売られた物に逸品が多かったという(運命のイタズラか米英のベルリン空襲で焼失)。もし寺が残っていれば、興福寺の美術館と同程度のものがもう一つ日本に存在したのかもしれない。
 その他現存している寺院にも、土地や建物、美術品を奪われるなどの被害を受けているところも多い。
 もし明治の廃仏毀釈がなければ、重要文化財クラスの建築や仏像が、今の何十倍も残っていただろう。
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プロフィール

Kimupon_Cicadan 木村 義志

Author:Kimupon_Cicadan 木村 義志
出身地 : 大阪市
現住所 : 東京都
1955年生まれ
科学図書執筆編集のお仕事
分野は生物学系

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