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日本のおカイコさん-2/富岡製糸場への疑問

 昆虫の家畜カイコをめぐる旅もいよいよ佳境へ(笑)。先月の上州に引き続き今月は信州に行ったのだが、その話をする前に、8月の日記で予告?した「富岡製糸場」への疑問を書いておこうと思う。

Meiji5.jpg
富岡製糸場東繭倉庫のアーチに掲げられた明治5年の竣工年。今回は文字が多いので写真はサムネールで挿入。クリックで拡大。

 富岡製糸場の保存展示や世界遺産登録運動に関わっている人達は(もちろん全てではないが)、ここ何年もの間「富岡製糸場に女工哀史は無かった」ということを強調してきた。おかげで富岡製糸場を紹介する旅行者のブログやサイトには「富岡製糸場に女工哀史は無かったらしい」という記述が数多く見られるようになった。でもちょっと調べれば「女工哀史は無かった」などといえないことが分かるだろう。

 以下は女工哀史がなかったとする地元の発言の一つ、富岡製糸場世界遺産伝道師協会会員の岩井建造氏のインタビュー記事である。岩井氏はボランティアで富岡製糸場を訪れる観光客の案内もしているとのこと。少し長くなるが、重要な部分をそのまま引用する。

 「製糸業というと『ああ野麦峠』に代表される『女工哀史』の世界と思われがち。明治から大正にかけての民間紡績会社では、粗末な食事と低賃金で過酷な長時間労働を強いていたそうです。でも、ここは全く違うんですよ。とても先進的で労働条件にも配慮されていたんですね。だから『女工哀史』とは無縁なんです。
 外国人技術者が飲むワインを見て「生き血を吸われる」などと噂され、工女がなかなか集まらなかったので、現場の総責任者であり初代場長になった尾高惇忠が、自分の娘を工女第1号として入所させました。そして廃藩置県で地位を失った旧士族の娘たちや戸長の娘などをはじめとして、農工商の身分に関係なく多くの娘たちが全国から集まってきたんです。いわゆる「富岡乙女」と呼ばれる優秀な娘さんたちが、ここで働いていたんです。
 また、ここにはフランス人の考え方が至る所に現れていて、例えば、当時からお化粧は女性の身だしなみとして奨励していたそうです。フランス製の大きな鏡があるのもそんな名残りなんです。工女たちはそこで身だしなみを整えて仕事に励んでいたんでしょう(ぐんま見聞録第188号別冊付録 協働の現場から/岩井健造さんに聞く)」

 地元の人の富岡製糸場への誇りと愛着を高めるイイ話であるが、よくありがちな郷土美化史観の一つであるといわねばならない。もちろんそれは岩井氏自身の責任ではない。氏は善良な地元民として富岡製糸場のガイドを養成する講座に参加し、そこで習った内容を熱心に「伝導」しているに過ぎないのだと思う。なぜなら富岡に女工哀史は無かったとする話のほとんど全てがこれと同じ内容であるからだ。ということは出所がいっしょということになる。結論をいってしまえば例の「教科書が教えない歴史(藤岡信勝、自由主義史観研究会)」の中にある「進取の気概にあふれた富岡製糸場」の歴史観まんま。ちなみに藤岡氏らのいう自由主義史観というのは、日本のイイ話だけをつなぎ合わせて、自分たちが心地よく感じる歴史物語を(自由に?)作り上げようというもので、決してリベラルな歴史観という意味ではない。

富岡東倉庫
主要遺構の一つ東繭倉庫。内部は一部を除いて非公開。

 確認のためここで富岡製糸場の歴史をおさらいしてみたい。
 富岡製糸場の始まりは、工業化による富国強兵を目指す日本政府が、上州富岡に建設した国営の近代製糸工場である。いきなり重工業は無理だから、すでに経験のある繊維手工業の近代化を目指したのはよい発想だったといえる(日本初の大型製鉄所の成功は富岡製糸場の30年後)。
 建設に先立ち横浜に滞在していた若きフランス人技術者ポール・ブリュナに製糸事業のプランニングと工場開設後の管理運営を委託。工員には士族の子女などを集め明治5年に創業を開始した。
 官営工場時代の富岡製糸場は採算を度外視した赤字を生む公共事業であり、特に初期の数年間は生糸を大量生産する工場というより、寄宿制の女子繊維工業専門学校といった方がその役割りを正しく表現しているといえる。労働環境も労働法が整備されたフランス式に整えられていたから、この時期に限っていえば富岡に女工哀史はない。しかしそれは、115年にも及ぶ富岡製糸場の歴史のうち、ごく一部の出来事に過ぎない。

ブリュナ亭
ブリュナ夫妻用に敷地内に建てられた疑洋風建築。地下カーヴ付き。内部は非公開。富岡製糸場の遺構のほとんどが内部を公開していない。最近まで片倉工業が使用していたので、人が立ち入れない訳ではないと思う。

 創業3年目には早くもポール・ブリュナを解雇(高額な給与が問題視されていた。再契約はなく明治9年に帰国)。日本人の手で生糸の製造が開始されるが、思うように生産量が伸びず赤字が解消されないまま明治26年には民間に払い下げられている。
 
 民営移行後間もない明治31年、早くも工女のストライキが起きた。採算度外視の実験的工場からシビアに利潤を追求する工場に変えようとすれば労働条件が悪くなるのは当然だ。
 富岡製糸場の建設に深く関わり、富岡の仕掛人ともいえる渋沢栄一も、富岡製糸場は国による採算を無視した経営であり、それゆえ上手くいった面もあるが、実際に製糸の近代化に貢献したのは民間の人々であると語っている。
 しかし富岡製糸場の売店で売られていた資料には、民営後の経営や労働環境の変化について何も触れられておらず、子供向け書籍「世界へはばたけ・富岡製糸場(上毛新聞社発行)」でも、富岡市発行の有料パンフレットでも、富岡製糸場を愛する会発行の有料パンフレットでも、ごく初期の学校みたいな官営工場時代だけが富岡製糸場であるかのごとき記述となっている。

事務棟
3号館(検査人館)建設当初はフランス人検査官の館であったが、その後は事務室や応接室として使用。現在は富岡製糸場管理事務所。ここも内部は非公開。重要文化財を事務所として日常的に使いながら、見学者に中を見せないとは、富岡市の管理者が考える事はユニークだ。

 富岡製糸場の先進性を強調する人々が資料として必ずとりあげるのが、創業当初工女として働いた和田(旧姓横田)英(えい)の「富岡日記」である。これは当時の富岡製糸場の状況を知る資料として重要であり、日本の近代化に貢献した日本人の一人として、その功績は高く評価すべきものであるが、彼女が富岡製糸場で受けた待遇が、その後の製糸従事者にそのまま受け継がれたわけではない。
 和田英は郷里の松代区長であった横田一馬の長女で、区長は富岡製糸場工女募集の地域責任者でもあったから、立場上率先して娘を参加させる必要があったのだが、かねてから親戚の娘が東京にメリヤスの勉強に行ったことを羨ましく思っていた英は、富岡行きを非常に喜んだ。
 英は松代を立つとき父親にこう訓示されたという
「さてこの度、国のためにその方を富岡御製糸場へ遣わすについては、よく身を慎み、国の名、家の名を落さぬように心を用うるよう、入場後は諸事心を尽して習い、他日この地に製糸場出来の節、差支えこれ無きよう覚え候よう、かりそめにも業を怠るようのことなすまじく、一心にはげみまするよう 気を付くべく」
 これを見ても分かる通り、英は地元に新しくできる製糸工場で働くために技術の習得に出向いたのである。初期の富岡製糸場を寄宿制の専門学校と見るのは決して無理な解釈ではないのだ。
 在籍中は父の激励もあってか、たった1年で技術を習得して富岡を出ている。つまり彼女は創業を開始した最初の1年しか富岡にいなかったのだ。その後は予定通り松代に新しく建設された民間製糸工場の指導工女となった。「富岡日記」はそんな和田英が後年(30年後)、昔を思い出しながらまとめた回想録である。

和田英看板
富岡市では和田英をモデル?とした「おエイ」ちゃんというキャラクターを作製。富岡製糸場を愛する会にはカイコガをモデルとした「シルキー」というキャラクターがいる。狭い展示室に2種類もキャラクターがいてややこしい。

 次の時代の工女達は、和田英の頃とかなり事情が違っている。多くが貧農出身で、もちろん全てが「ああ野麦峠」に登場するような薄幸の少女だったわけではないが、農業労働から工場労働へ移行した日本の産業構造の変化と生まれて間もない資本主義経済の矛盾を、その細腕で受けとめることになってしまった人々である。
 和田英が居た頃の富岡製糸場は、1日8時間労働、週休1日であったが、民間の製糸場では毎日12~14時間働き、月に2日の休みというのが普通になっていった。苛酷な労働は大正5年の工場法施行まで続く。

 富岡市や一部の歴史家が、いくら明治初頭の官営工場のことだけを強調しようとも、現在我々が目にする富岡製糸場は、三井、原、片倉という民間企業の手を経た姿である。また操業停止後長く解体されずこの姿を維持できたのは片倉工業に維持管理費を出せる財力と文化財保護意識があったおかげである。
 現存する30棟ほどの建物のうち、6棟が明治初期のもので、それ以外は民営時代のものである。もちろん現時点では明治の煉瓦造りの建物や洋館が観光の目玉となるのだが、他の建物に価値がない訳では決してない。
 富岡製糸場は明治5年から昭和63年までの、日本の製糸業の姿を総合的に伝える貴重な近代化遺産といえる。つまり、近代日本の輝かしい未来を託した明治の工場遺構であるとともに、労働者と経営者が対立しながら生々しく日本の経済を支えていた繊維産業の遺構でもあり、また、ピークを過ぎて斜陽となった糸偏産業の残骸でもある。これだけの歴史が、あの狭い場所に凝縮されているのだから、大した遺構だと思う。それを活かすには広い視野と、良いことも悪い事も自分達の歴史として受け入れる度量が求められ、富岡は特別で女工哀史は無かったなどと力説してる場合ではないと思うのである。

繰糸場
繭から糸を採る繰糸場。ここはめずらしく内部も公開。建物は創業当初からあまり変わっていないようだが、設置されている繰糸機は、最近まで片倉工業が使用していた最新鋭の大型機。
大煙突
中庭に入ると一番目立つ大煙突と繭の乾燥場。煙突は片倉工業時代に、乾燥場は原合名会社時代にそれぞれ建てられた。市の発行するパンフレットなどには一切説明がない。市は明治初期の美談にのみ固執しているのでこんな不思議な事が起きる。

 富岡市は製糸場の世界遺産登録を目指していて、最近日本の暫定リストに加えられた。でも、ごく一部の歴史だけを抽出して美化したり、関連する他の遺構と比較して富岡が特によいとする視野の狭い発想では、世界遺産登録など無理だと思う。世界遺産登録を目指すなら、全国の養蚕製糸関連遺構と横浜など生糸貿易関連遺構を全て合わせて「欧米の生糸需用と日本の近代化を支えた蚕糸産業遺構群」としなければ、世界遺産の要件を満たせないのではないだろうか。失礼なことをいってしまうが、富岡製糸場が単独で世界遺産として通用するほどの遺構だとは思えないのだ。

祝-世界遺産暫定リスト

 暫定リストというものは各国が独自の判断で、10年以内をめどに登録申請を目指す物件のリストに過ぎず、ユネスコがその価値を認めた候補物件のリストではないし、日本がユネスコに推薦した物件というわけでもない。
 文化庁がかつて無責任に公募した無数の候補の中では、富岡の遺構はかなりましで、今後の整備によっては可能性がないわけではないといったレベルの話である。価値を確立する努力がなされないまま、いつまでも暫定リストに記載しておくと、逆にユネスコから見込み無しと判断され、世界遺産になる権利を失うこともありうる。関係者は研究整備の期限を決められたと自覚すべきであろう。浮かれている場合ではない。

 すでに群馬、長野、神奈川の蚕糸遺構関係者は、近代化産業遺産というくくりのなかでストーリーを描き連携を深めつつあるが、その中で世界遺産というものを位置づけ整備を進めて欲しいと思う。批判ばかり書いたが、応援したいと思っているのである。筆者に出来る事などほとんど無いに等しいだろうが。

 長くなってしまったが、最後にもう一つだけ。
 女工哀史に代表されるような労働搾取は、単に暗くて悲劇的な負の歴史と思われがちであるが、権利意識や労働環境の近代化に直接影響を与えたという側面を持っている。
 製糸工女は日本で最初の工場労働者であり、日本で最初に近代資本に搾取された人々であると同時に、日本で最初に近代資本と戦った人達でもある。女工哀史なくして日本の近代化は語れないといっていいほど、日本の労働史の重要なテーマになっている。
 現在の我々が享受している労働時間制限や休日制度といった基本的な権利も、天から自然に降ってきたのではない。日本に限らず世界中のたくさんの労働者の犠牲と戦いによって手に入れたものである事を思えば、女工哀史が無かったことなど自慢にはならない。歴史の「良い事」は、たくさんの「悪い事」とそれを改善しようとする強い意志からできている。

2014年8月「日本のおカイコさん-4」を追加しました。


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Comment

No title

富岡製糸場の世界遺産への登録が、ほぼ決定したみたいですね。
おめでとうございます。あなた様のご意見は大変参考になりました。
今後は、ブラック企業の撲滅のために、労働基準監督署にきちんと働いてもらうようにな運動にまい進してください。

とても説得力のある文章でした。
たいへん勉強になりました。

歴史的意味の全容を知るためのポイントがよくわかりました すばらしい

明治5年から昭和63年まで長い歴史があったんですね。日本の工業の歴史と重ねてこそ意味のある遺産ということになるのですね。ここの文章こそニュースで流されるべき情報だと思います。ありがとうございました。

No title

すいません、こちらの文章を拝見しただけでの判断ですが。
富岡製糸場では明治26年(民間払い下げ)から大正5年(法律改正)が過酷な労働環境だったということは、
115年の中で「女工哀史」だった期間は25年ほどになりますよね。
この場合は、
「富岡に女工哀史はない。しかしそれは、115年にも及ぶ富岡製糸場の歴史のうち、ごく一部の出来事に過ぎない」
ではなく、
「一部重労働の期間はあったが、概ね労働環境は良好」
が正しいのではありませんか?
90年の期間が”ごく一部”は無理があるかと。

お読みいただきありがとうございました。

千葉県の河内さん、ゆうさん、わたしも千葉県さん。
まとめてで失礼します。
少し前の記事ですが、本質的なことは変わっていないので、
お読みいただきとてもありがたいと思っています。
今後ともよろしくおねがいします。

「概ね労働環境は良好」について

ええさん、お読みいただきありがとうございます。
 大正5年の工場法(法律改正ではなく新法制定)は、今の労働基準法のようなものではなく、そもそもが貧弱な法律で、しかも繊維業界からの圧力で抜け穴だらけのものとなりました。法律ができたからといって「概ね労働環境は良好」などということはいえません。また、戦後も様々な法が制定されましたが、これまた「概ね良好な労働環境」がすぐに得られたわけではありません。
 本文にも書きましたが、労働問題は当事者の争議や模索の中から少しずつ改善されるもので、法律があっても簡単に得られるものではありません。

ありがとうございました

歴史史料の原典まで調べつくされた良い記事を、ありがとうございました。
これだけの記事を執筆するのは、骨の折れることだったかと存じます。

「世界遺産」という概念が、人類の遺産を守るためというよりも、旅行業界や町おこしのビジネスの付加価値として認識されるようになった時世に、ひどくやるせなさを感じています。群馬県庁には、目先の利益や安っぽい郷土愛ではなく、人類全体の未来を考えてもらいたいものです。

負の遺産を礎に、よりよい現在と未来を築けますよう。

No title

Kmさん。コメントありがとうございました。とても励みになります。
 おっしゃる通り、世界遺産とは単なる観光名所ではなく、人類共有の財産としての価値があるということですね。私も内向きの狭い視野で「立派さ」を自慢してもほとんど意味がないと思っています。世界遺産としての価値をいうなら、世界のリッチな人々に愛されたシルク文化を支えた日本の工女達、未熟だった日本の近代資本と工業技術、その苦しい歩みのシンボルとしての遺構であることを日本と世界に発信してほしいです。

良い記事ですね

安倍政権になってから、行政や財界との癒着が酷いですが、今回の富岡を全て肯定するかのような報道に呆れております。勿論批判だけするのもダメですが、マスコミというのは一定のレベルである程度批判的であることがその役割ですからね。
違和感を感じてネットからここに来ましたが、冷徹な批評で
あり、これこそがあるべき報道の姿だと思いました。

No title

ESTYLEさん、コメントありがとうございます。
 歴史を単純な美談にまとめて無批判に賞賛するだけでは、本物の誇りは生まれないと思っています。富岡が世界遺産に指定されることによって、学校などでも近代史について語られる機会が増えるかと思いますが、その内容がとても気になります。

No title

富岡製糸場が世界遺産として登録されることが確実となり、喜んでいます。
学校現場では、蚕も生糸も生糸業も実感として受け取られていません。
まして、女工哀史のリアル感もありません。戦前の典型的な「ブラック企業」だと説明すると何となくわかる程度です。
我が国の上からの近代化の様相、養蚕業と生糸産業の役割そして女工たちの過酷な労働実態を通して、近代日本の深層に触れることが出来ます。
富岡製糸場の存在そのものが、表面上の説明を越えて、様々な問題提起を私たちにすることでしょう。保存活動に尽力された地元の方々と企業に感謝します。

No title

優れた視点だと思います。この製糸場で民営後の負の面を理解しなさいというのはやや無理がありますが。背景として、欧米から植民地化の危機に必死で対抗するために軍備増強、その費用捻出、そのために外貨獲得、そのための殖産興業、またその後の民営化の中で技術潮流、資本家と労働者の葛藤、経営の苦闘などの幾つものうねりの中で富岡製糸場は歴史を重ねてきたものと言えるでしょう。産業革命当時英国の下層労働者の悲惨さと同じだったといえます。だから良いわけではなく、社会主義も起こりましょう。ここはただの物見遊山ではつまらなく思えるでしょうね。

学校でのリアル感

Guestさん、コメントありがとうございます。
 今の学校で現代の生活(親の生活基盤)に直結する近代史に関心が持たれていないというのはちょっと寂しい気がしますが、世界遺産となることで、多元的に考えたり、自分との関係を認識する機会が増えるとすればいいですね。

富岡の意味するところ

Guestさん、コメントありがとうございます。
 世界遺産という看板を背負うことで、単なる郷土自慢や観光名所ではすまなくなるのは歓迎すべきことですね。英雄的指導者や先駆的改革者を軸に語られる歴史だけでなく、おっしゃるような「幾つものうねりの中で」重ねられた歴史を実感できる方向に、富岡を核の一つとする歴史遺産ネットワークが広がっていくことを願っています。

歴史のうねり

一つの巨大産業に背景にはこれを支える重層的なネットワークが支えていることは現代でも同じですね。生糸の物流として上信電鉄(中小の民鉄として日本で2番目に古い。戦車のような機関車も所有)が開業し、八高線で秩父周辺の生糸も合流させ、横浜線と繋がり、「横浜シルク」として輸出された。甲州信州からのルートや鉄道以前の利根川ルートなどにも注目しても面白いですね。あと一言、教育の場でブラックという今わかりやすい一言で説明しているとしたらあまりに哀しいです。

Re, 歴史のうねり

Guestさん、コメントありがとうございます。
 そういえば鉄道のことを漏らしていました。お教えいただきありがとうございます。太平洋につながる「鉄と水のシルクロード」は非常に重要ですね。

 複雑なことを単純なキーワードにして直感に訴えることは、文学表現の一つであるとは思いますが、物事には言葉を尽くして、絡み合った糸を解きほぐすように伝えないと理解できないことの方が多いと思います。学校がキャッチコピー文化(今ならTwitterのつぶやき文化 ? )に毒され、複雑な内容を正確に伝えられないなら、そこは「ブラック」に搾取され続ける奴隷の養成場になるでしょうね。

ブラック企業とか言うのはなんだか…

まあ搾取される側でひどい待遇で働いてるって言っても
それは今の基準だから言えることではないかと言う気もします
食うや食わずの貧農の生活からすればはるかにマシだったのではないかなと
丁稚奉公や行儀見習いとか盆暮れ祭りくらいしか休めない時代ですからねえ

ブラック企業などといった覚えはないですが・・・

 通りすがりさん。記事の本文やコメント欄をお読みいただくと、すぐにご理解いただけると思うのですが、私は労働や人権といった複雑な問題を「ブラック」というような単純なキーワードで括ることには反対です。
 次に「今の基準」と昔の基準を比較されている事ですが、「今の基準」はどうやって作られてきたとお考えでしょう? 同時代の人が待遇が酷いと感じ、それを緩和するための努力が続けられたからです。同時代の人が「マシ」と感じれば、待遇はそのまま引継がれます。ですから「それは今の基準だから言えることではないか」という理屈は成り立たないと思います。

ストライキができた

興味深く拝見させていただきました。

民間に払い下げられ労働環境の悪化からストライキが起きたとされています。

逆を言えばストライキができた環境ということであり女工哀史や野麦峠に見られるような悲惨な状況とは程遠い気がします。

ああ野麦峠に見られる年代の富岡製糸場はほぼ原合資会社の所有時代と一致すると思われます。

原合資会社はグループとして岡谷に工場を持っていたのでしょうか?
そして同じ労働環境、教育方法で工女(岡谷では女工)を使っていたのでしょうか?

岐阜・飛騨と長野・岡谷という閉塞された空間に身を置く女工と、関東平野の奥にあり上野鉄道(現上信電鉄の前身)として高崎-下仁田間が既に営業し交通の便が良く関東一円から労働力を確保できる富岡製糸場とではおのずから条件が違うと考え岡谷の労働条件と同じに語るのは如何なものかと考えますがその辺はどうなのでしょうか?

中央線が岡谷まで延伸開通する遥か20年も前に富岡の上野鉄道は営業開始しています。

この交通・輸送能力の違いれが何を意味するか教えて頂きたく存じます。




ストライキは労働条件がよいことの証しなのでしょうか

2014-05-12のGuestさん。お読みいただきありがとうございます。
いくつか質問されておられ、その中に工女の労働条件を探る重要な点も含まれていると思いますので、長くなりそうですが、今の私の見解を述べさせていただきます。

>逆を言えばストライキができた環境ということであり女工哀史や野麦峠に見られるような悲惨な状況とは程遠い気がします。

 残念ながら戦前のストライキを、労働者の権利が憲法で認められている現代のストライキと同じように考えることはできません。
 労働者の権利が認められていない戦前は、ストライキを行う方も妨害する方も相応の覚悟が必要でした。特にストライキが違法行為として禁止された明治33年からは、弾圧が苛酷になっていきます。経営者は工女の親を脅したり、ヤクザを雇って運動を潰しにかかるのが常套手段だったようです。

 岡谷でも大規模な工女のストライキが起きています。しかし経営者は、今なら当然の要求である「最初に約束した通りの賃金を払って欲しい」という要求まで全てはねのけ、暴力的な手段でストライキをつぶした上、いかに彼女らが無法者で悪辣であったかという声明文を発表しています。この時代、政府や自治体、警察、それに工場から前金を受け取っている工女の親までもが経営者の味方だったのです。

>原合資会社はグループとして岡谷に工場を持っていたのでしょうか?

 生糸を扱っていた横浜の貿易会社、原合名会社は、三井の持っていた群馬、三重、愛知、宮城の製糸場を取得し、他に栃木などにも関連会社があったようですが、岡谷に原の工場や関連会社があったという資料は見つかりませんでした。
 岡谷は明治8年から製糸業の近代化が始まり、明治後期には片倉組など主要6社が日本の生糸の約2割を生産していましたから、おそらく原合名会社が岡谷に入り込む余地はなく、必要なら岡谷の生糸を買って輸出した方が効率的という判断が働いたのではないかと思います。

>そして同じ労働環境、教育方法で工女(岡谷では女工)を使っていたのでしょうか?

 ご質問はおそらく、女工哀史の舞台となった岡谷の製糸会社は苛酷な労働環境だったかもしれないが、富岡は別の会社が経営していたのだから、岡谷とは事情が違っていたのではないかというご指摘だと想像します。当然、比較的穏やかだった三井時代を知る従業員もいた工場ですから、岡谷の製糸家グループの平均的な待遇や設備と同等であったとはいえません。
 ただ、製糸の技術、労働管理、賃金体系など、製糸工場の運営ノウハウは、早々に不安定な製糸業に見切りをつけた三井ではなく、先行発展する岡谷の製糸家グループを参考に、利益を上げていったと考えるのが自然ではないでしょうか。後に会社が低迷し、個人事業主的な合名会社から株式会社に変更した際には、前から富岡が欲しがっていた岡谷の資本を受け入れています。

 また富岡の賃金システムや労働時間が、岡谷より特に優れていたということもありません。工女の技術に細かいランクをつけ、経営者が決める人件費の総額を、ランクごとに差をつけて配分し、不良品を出した場合には生産システムではなく従業員個人の責任として罰金をとるという、経営者に一方的に有利な「等級賃金+罰金制」は、富岡も岡谷も同じだったようです。その上で技術の高い工女が逃げないよう原合名会社が彼女らを優遇したということはあるでしょう。でもそれは富岡の労働環境がよかったという理由にはならないと思います。

>岐阜・飛騨と長野・岡谷という閉塞された空間に身を置く女工と、関東平野の奥にあり上野鉄道(現上信電鉄の前身)として高崎-下仁田間が既に営業し交通の便が良く関東一円から労働力を確保できる富岡製糸場とではおのずから条件が違うと考え岡谷の労働条件と同じに語るのは如何なものかと考えますがその辺はどうなのでしょうか?

 三井時代時代の富岡には通いの工女もいたとされますが、多くても日当数10銭の時代に、それに近い交通費を使って列車通勤する人は稀でしょう。戦前の製糸場は基本的に食事付きの住み込みです。つまり広い地域の農家からできるだけ多くの労働力を集め、年季奉公のように一定の期間工場に寝泊まりして働くシステムです。家から製糸場まで移動する際の交通手段はさほど重要ではありません。就職シーズンもほぼ早春に限定されていましたから、鉄道を使って工女が盛んに行き来するようなことはなかったといえるでしょう。

 また、岡谷の労働力も岐阜や長野といった近隣だけで集められたのではなく、新潟、富山、また関東に近い山梨など、広い範囲から集められています。1918年の資料によると、岡谷で働く工女の約1/3は長野や岐阜以外の出身者です。

 そして工場に着いてからは、工女に外出の自由などありませんから、富岡も岡谷も同じように閉鎖的な空間だったといえます。特にストライキなど組合運動起こるようになってからは、経営者は労働者が外部の人間と接するのを嫌がりました。

 求人は多くの場合、工場の男子従業員や、周旋業者が村々を回って少女を集め、団体で工場まで連れて行くという方式です。鉄道の路線が近くにあって、運賃が経費としてペイできれば、鉄道も利用したでしょうが(後の鉄道網が発達した時代には、鉄道省の配慮で集団就職列車のような状況が生まれたといいますが)、利用できないなら何日かかけて徒歩で行きます。当時の労働者向けの宿や食事は、現在では考えられないほど祖末で、安上がりなものでした。

 雇用契約は本人ではなく親と工場の間で交わされ、賃金の一部を前金として親に支払います。見方を変えれば娘の労働を担保とする借金で、しかも、娘が工場から逃亡でもした日には前金の10倍ぐらいのペナルティが請求されます。借金が親の弱みとなり親思いの少女の逃亡を防ぐ効果があったでしょう。ストライキ潰しの際、親が経営者側について娘を説得するのも、こうした関係があったからです。

>この交通・輸送能力の違いれが何を意味するか教えて頂きたく存じます。

  鉄道の通っていない場所からも多くの工女が来ていたことや、当時の貧弱な鉄道ネットワークを考えると、上野鉄道の敷設が意味するのは、製品を横浜まで運ぶ方法が増えたことと(それ以前は利根川の水運が重要な役割をはたしていました)、輸送速度の向上ではないでしょうか。

  鉄道がなかった岡谷の製品は時間のかかる馬車などで中継地点の八王子に送られていました。生糸は生鮮食料品ではありませんから、需用に見合う輸送が滞り無く続いていれば、商売は成り立ちます。実際、横浜の生糸市場では、生産量の多い長野産生糸の価格が相場の目安となっていたようです。労働者の移動も同じで、春に大量の少女が確実に集められれば、多少時間がかかっても大丈夫です。

 それまで村を出たことがないようないような少女が、自分で交通の便がよい工場を選び、出かけて行くということは考えにくく、どの地方においても少女の移動の大部分は、紹介人や工場の担当者が商売として行っていたことです。また、工女に中途退職者や逃亡者が多いのも、同じ人を別の工場に紹介して利益を得る悪質な紹介人の関与が指摘されていますし、工場間の少女の奪い合いもあったといいます。
 そう考えると、鉄道輸送能力の向上は、工女の労働環境とは無関係なところで進んでいたといえそうですね。

No title

あなたの記録では明治31年にストライキとあります。
規制されたのが明治33年ならばそれより2年前誤差を見ても1年はゆとりがあることにならないのでしょうか。

さらにストライキができるということは当該工女たちの技術レベルが高いことを意味します。

単純労働の労働者がストライキするなら当時の経営者側からすれば言うことを聞く別な労働者を採用しなおせば済むことじゃないでしょうか。

高い技術を持った工女であるからこそストライキをすることに意味を持ちますよね?

劣悪な環境に置かれた労働者が高い技術をどうやって会得するのでしょうか?
それなりの労働教育が整わなければレベルの高い労働者を確保し続けることが難しいことは今の工場経営とて同じことです。

よって、ストライキができる条件=工女のレベルが高い=経営陣と交渉ができるカードを持っていることになりませんか?

工女が通勤に鉄道を使ったとは考えてもいなかったことです(笑

さて
原が岡谷に工場を持たなかったことの理由は岡谷では製糸業を営むために必須となる輸送手段として鉄道輸送が使えないことには無いのでしょうか?

富岡で生産してそのまま横浜へ運べば良いわけですから原にとっては岡谷から糸を調達する必要など無いと思いますが?

原の他の工場のすべては沿岸地域にあり、あえて内陸のそれも鉄道さえ通っていない岡谷に工場など持つ必要などありませんから。

生糸も相場の商品であるはずなのでいくら馬車で定期的に運んだとしても商人が欲しいときに手元に調達できなければ意味がないと思いますし、燃料の調達さえも馬車が鉄道にかなうとは到底考えられません。

富岡はそもそも養蚕の盛んなところであり原材料の調達に困らない、現金収入が期待できる労働者もわざわ峠越えなどせずとも冬場でも雪の降らない関東一円から容易に集まるのではありませんか?(集めなくとも集まる)

そのように恵まれた富岡と岡谷を同じに論ずることに無理があると思います。
さらに岡谷の話である「ああ麦草峠」や女工哀史など脚色された部分や強調されてた話がすべての岡谷の女工に当てはまるのでしょうか?


最後に、話のところどころで観られる【ようである】とか【考えられる】、【思われます】など推測ではなく同じ時代の製糸業だから富岡製糸場が岡谷同様に労働者にとって劣悪だったとされるソースを出していただけたならと存じます。

私もいろいろ調べてみましたが、そのようなソースにたどり着けずにいます。

よろしくお願いします。









No title

ああ麦草峠(爆 読み返して自分で噴出しました。

ああ野麦峠ですよ、当然(笑

こんなところにも「自由主義史観」が顔を出していたとは

とにかく「きれいな日本」だけが見たい人たちというのが一定数いらっしゃるんでしょうね。それに対して観光を考える地元の方々が飛びついてしまうのは仕方ない面もあるかと思いますが、負の歴史もひっくるめてこそ真の世界遺産と呼べるものになるのではないかと思います。それが人類の歴史でもあるわけですし。

重ねてお答えします

2014-05-13 Guestさん
返信させていただいたのですが、ご理解いただけなかった部分が多いようです。残念です。

>あなたの記録では明治31年にストライキとあります。
>規制されたのが明治33年ならばそれより2年前誤差を見ても1年はゆとりがあることにならないのでしょうか。


 なりません。それを理解するにはまず、明治33年以前から労働者には社会運動を行う権利など保証されていなかったことを知っておく必要があります。
 明治33年の治安警察法がどういう意味を持つかというと、それまでもたびたび労働者や小作人などが争議を起こしていましたが、その度に経営者や地主はゴロツキを雇ったり、関係者を金や人間関係の柵で縛るなどして鎮圧してきました。しかしそれを繰り返していたのでは費用もかかるし効率も体裁も悪い。そこで、政治活動そのものを非合法化してストを防ぎ、もし争議が起きたら国家権力を使って迅速に解決する。そのための法的根拠を作ったということです。

>さらにストライキができるということは当該工女たちの技術レベルが高いことを意味します。


全く意味しません。ストライキというものは専門的な技術を必要としない労働現場で繰り返し起きています。

>単純労働の労働者がストライキするなら当時の経営者側からすれば言うことを聞く別な労働者を採用しなおせば済むことじゃないでしょうか。

 済むことじゃありません。
 ストライキというのは、労働者が一斉に仕事を止めることで経営者に抵抗する運動方法です。
 多数の工員を抱える製造工場の経営者になったつもりで、労働者を全員解雇した状況を想像して見て下さい。解雇から工場再開までにしなければならない仕事の山。そのことによって経営者が失うものや、再開した事業に新たに加わるリスクなどを具体的に考えれば、経営者が失う物は決して小さくないということが理解できるはずです。
 しかも、当時の製糸業者の多くは自己資本が小さく、前年の売上がそのまま翌年の運転資金というような経営ですから、一時的にせよ工場停止に追い込まれたら資金繰りが苦しくなり、そこに生糸相場の下落や景気の低迷でも重なったら、そのまま倒産ということもありえました。

>高い技術を持った工女であるからこそストライキをすることに意味を持ちますよね?

 持ちません。
 ストライキは全ての労働者が参加することによって力を発揮します。一部の技術者だけのストならスト潰しはとても簡単です。詳しいことは次の項目でお話しします。

>劣悪な環境に置かれた労働者が高い技術をどうやって会得するのでしょうか?
>それなりの労働教育が整わなければレベルの高い労働者を確保し続けることが難しいことは今の工場経営とて同じことです。


 苛酷な労働の中で学ばせる方法はいくらでもあります。もちろん今それをやったら違法行為ですが。
 また能力の低い工女を使い捨てにできたので、長時間しっかり働かせながら工場全体の技術を向上させることもできました。今の工場とは全く事情が違っていたのです。

 世話人や工場の求人担当者などによって集められた新入工女は、まず簡単なチェックを受け、いくつかの等級に分けられます。その比率で世話人の手数料が決まりますから、世話人からすれば、できるだけ等級が上になる少女を集めることが、自分の収入アップにつながるわけです。
 次に、工場で働かせながら技術を取得させ、才能があって習熟度の高い者の日当をアップします。才覚のある少女達は、少しでも収入を上げるために競争します。
 これだけ見ると現代の能力給と同じように見えますが、実は全く違うシステムです。まず最初の賃金を非常に低い水準からスタートさせ、その後は全体の額が決まっている中で奪い合いをさせるだけですから、経営者の懐には響きません。
 このシステムをもう少し具体的に説明すると、仮に、上級工女に見合う世間一般の日当が5千円だとします。新入工員が50人いたら1日25万円。これが人件費の上限です。
 最初は見習いということで日当500円ぐらいからスタートします。そして、技量に合わせて少しずつ日当を上げていくわけです。

 その工場で求められる最高レベルの製品を、時間内に必要数仕上げられるようになった人には日当5千円を与えます。それを上回る少数の名人には、5千5百円とか、6千円とか、平均的な人が羨む額を与えれば励みになります。でも金庫は大丈夫。日当5千円に達しない人がたくさんいるからです。中には失敗して何日か減俸の人もいました。

 また中級レベルの人でも、一応プロとして糸は作れるようにはなっていますから、会社に損はありません。ですからみな必死で先輩の技術を盗み、覚えも早い。工場に福利厚生施設を作っても利用者が少なかったといいますが、実はみなそれどころではなかったのです。
 実際には賃金の一部を雇用契約者である親に前払いしてありますから、給与の計算は工場に前借りした金額からの引き算でスタートします。また経営者は、生糸相場の乱高下の緩衝材として女工の給与の変動を利用していました。富岡を含む当時の工場は、今の小学6年生ぐらいの少女(場合によっては4年生)からこの賃金システムを適応していたわけですから、それだけでも日本の哀史だと思います。

 そして年期が明けた者や脱落した者は工場を去り、入れ替わりに新人がきますが、給料のいい者は契約を延長することもありましたから、このシステムでしばらく操業を続けたら、工女全体の技術レベルが上がっていきます。

>よって、ストライキができる条件=工女のレベルが高い=経営陣と交渉ができるカードを持っていることになりませんか?

 なりません。最初に申し上げた通りです。

>工女が通勤に鉄道を使ったとは考えてもいなかったことです(笑

 それはよかったです。

>原が岡谷に工場を持たなかったことの理由は岡谷では製糸業を営むために必須となる輸送手段として鉄道輸送が使えないことには無いのでしょうか?

 無いでしょう。
 前にも申し上げた通り、岡谷に鉄道が敷設される前から、岡谷の生糸は八王子を経由して、十分な量が横浜に運ばれています。鉄道よりスピードは遅かったかもしれませんが、継続的に出荷を続ければ、特に大きなハンデにならないでしょう。

>富岡で生産してそのまま横浜へ運べば良いわけですから原にとっては岡谷から糸を調達する必要など無いと思いますが?
>原の他の工場のすべては沿岸地域にあり、あえて内陸のそれも鉄道さえ通っていない岡谷に工場など持つ必要などありませんから。


 これも、前に申し上げました。何度も同じことを繰り返して恐縮ですが、原合名会社は元々、製糸業者が作った糸を買い集め、海外に輸出する貿易業者です。それで十分な富を蓄えたために、複数の工場を買い取ることができました。
 つまり、三井からの工場取得は、原の新規事業開拓であって、貿易事業をやめたわけではありません。ですから、他社の工場で作ったものでも、安くて品質がよく利益が望めれば、買い取って輸出するのが商業原理です。私はその基本的な原理を申し上げたつもりです。もし、横浜へ行かれることがあれば、三渓園に行かれると面白いと思います。原が貿易で得た富の一端を実感できます。

>生糸も相場の商品であるはずなのでいくら馬車で定期的に運んだとしても商人が欲しいときに手元に調達できなければ意味がないと思いますし、燃料の調達さえも馬車が鉄道にかなうとは到底考えられません。

 これまた前に申し上げたことですが、生糸は生鮮食料品ではありません。生糸倉庫に蓄積できます。そして少数ですが各地にその遺構も残っています。
 生糸倉庫は生産地にも、八王子などの中継拠点にも、出荷地の横浜にもあって、在庫の蓄積や相場に応じた出荷調整に対応していました。ですから、急いで大量に運ぶことより、倉庫の状況や需用に応じて、的確に在庫を回していくことの方が重要なのです。

 あと、鉄道輸送を重視したお考えのようですが、横浜に持ち込まれる関東の生糸の量が、他の地域を凌駕していたのは、上野鉄道ができる前の話で、上野鉄道ができたのは明治28年ですが、明治20年頃から生産体制を拡充させた信州に追いつかれ、鉄道が出来た後もそれは変わりませんでした。上州の生糸輸送で大きな役割りを果たしたのは利根川水系を中心とした水運です。鉄道が生糸の有力な輸送手段として機能するようになったのは、横浜線が開通した明治41年以降とされています。

>富岡はそもそも養蚕の盛んなところであり原材料の調達に困らない、現金収入が期待できる労働者もわざわ峠越えなどせずとも冬場でも雪の降らない関東一円から容易に集まるのではありませんか?(集めなくとも集まる)

 古くから養蚕が盛んなのは富岡だけではありません。日本には養蚕が盛んで蚕都として栄えた町がいくつもあります。もちろん雪が降らない蚕都もありますし、周囲に高い山のない場所もあります。それらの場所では繭の調達に困りませんし、養蚕や製糸に関係する労働者や資本家も集っていました。前置きが長くなりましたが、富岡が官営製糸場の建設地に選ばれた理由は、なによりも生糸の積み出し港の横浜に近かったことです。そして、上州の生産者はその地の利を生かして、明治初期には横浜に一番多くの生糸を送り出していました。

>そのように恵まれた富岡と岡谷を同じに論ずることに無理があると思います。

 私は富岡だけがめぐまれているとは思いませんし、また岡谷と富岡を同じだともおもっていません。それをこのように受け取られる理由がよく分からないのですが、恐らく「女工哀史」という言葉の定義にズレがあるのでしょう。「女工哀史=岡谷の女工だけに当てはまる悲劇」と思っておられるのではありませんか ?
 私は女工哀史を、岡谷だけにあった話だとは思っていません。レベルの差こそあれ、綾部にも、梁川にも、上田にも、諏訪にも、そして富岡にもあったと思っています。もちろん、それぞれが全く同じであったというつもりはありません。ただ、騒音と熱の中で少女を長時間働かせ、互いの日当を共食いさせるような賃金システム、さらには親を前金という借金で縛り付けるといった、少女労働の基本構造はいずれも同じです。そこには数々の哀史があったことは容易に想像がつくでしょう。これは単なる空想などではなく、不十分かとは思いますが、当時の法律や価値観、親子関係、労働環境、他のよく似た問題の事例など、社会の状況を示す資料を調べた上での考察です。

 日本の蚕糸工場の中で、もし富岡だけに特別幸運な点があるとすれば、それは日本最大の製糸業者となった信州の片倉に買い取られたことと、製糸業が斜陽になった後、信州のように新しい産業に移行できなかったことの2つが上げられると思います。後者は地元にとって不幸な事でもありますが、そのおかげで日本と世界の人が、日本の近代化の光と影を考える重要な教材が残されました。
 片岡は富岡の官営工場と製糸文化や歴史に深い思い入れがあったのでしょう。取得後も採算優先にせず、ほぼ完璧な形で遺構を維持してくれました。また信州の製糸工場は軍需機械工場への転換を図り、戦後はそれをさらに精密機械工業に転換したために、多くの製糸工場の遺構が失われました。

>岡谷の話である「ああ麦草峠」や女工哀史など脚色された部分や強調されてた話がすべての岡谷の女工に当てはまるのでしょうか?

 脚色は脚色です。事実を基にした作家の解釈による表現でしょう。またも繰り返しになりますが、工女は細かくランク分けされ、それぞれ待遇が違っていましたから、女工哀史を地でいくような人と、全く当てはまらない人がいたでしょう。岡谷の老人へのインタビュー資料の中にも、工女時代を良い思い出と感じている部分と、自殺した同僚のことなど、悲しみに溢れている部分の両方があります。

>最後に、話のところどころで観られる【ようである】とか【考えられる】、【思われます】など推測ではなく同じ時代の製糸業だから富岡製糸場が岡谷同様に労働者にとって劣悪だったとされるソースを出していただけたならと存じます。

 「ようである、考えられる、思われます」などは、物事を無闇に断定せず、できるだけ正確に書くための常識的な表現と認識しているのですが。
 ソースですが、戦前の富岡の民営化後の労働環境の推定に役立つ周辺資料は多数あります。お手数ですが是非ご自分でお調べ下さい。
 ご自分では資料を探せないということですが、まずはこうしたサイトで、製糸工場や女子労働といったキーワードで検索してみて下さい。http://ci.nii.ac.jp 文献には有料のもの無料公開されているものがありますが、有料でも一つ一つは安価です。また、所蔵する図書館なども示されていますので便利だと思います。
 他にもこのように文献検索サイトは色々ありますので探してみて下さい。http://www.lib.kochi-u.ac.jp/library/chuokan/gakugai/index.html

ありがとうございます

上毛三山さん

 おっしゃるとおりですね。歴史解釈は色々あると思いますが、少なくとも視野の狭い独善的な歴史観は、それを語る人と、その人が住んでる国の未来を暗くするものだと思います。それも歴史を見れば明らかなところが面白いです。

No title

ソースを指し示すことができないくせに推測だけでどこの製糸工場も同じ労働環境であったと結論ありきの持論、かつ読んでいて矛盾の多さに辟易とします。

岡谷がそうであったから同じ製糸業の富岡も例外のはずは無いという資料も示さず推測だけの持論の展開、あなたの個人的な先入観による推測だけで読む人を納得させることは無理でしょう。


迅速な返信ありがとうございます。

2014-05-14 Guestさん

どう読めばそうなるの ? びっくりです。

このままにしておきますから、読んだ方がそれぞれ判断されるでしょう。
ありがとうございました。

No title

参考文献や明確なデータも出さず、挙げ句の果てにソースは自分で探せって凄いな……。

岡谷と富岡を同じと論じたいのなら、もっと論理的な検証をすればいいのに。結局のところ個人的な主観ばかりに寄った文章になっていて残念。

No title

2014-05-13 Guest です。

蔵書から【新版ああ野麦峠 ある製糸女工哀史 山本茂美 昭和52年第16版】を引っ張り出してきて改めてこの数日かけてもう一度読み返してみました。

まず女工哀史として記録されている内容はすべて岡谷の製糸工場についてである。

筆者は
製糸業の勃興期は工女はエリート扱いであるが【選ばれたもの意識は明治15年頃になると消えている】とし【はじめからエリート扱いなど存在しなかった】と決め付けているが【富岡製糸場と中山社の特殊ケースである】と書かれています。(P171~172)

この筆者による聞き取り調査による女工哀史がなぜ岡谷に限定され富岡の工女の聞き取り調査が無いのは何故か?

官営富岡製糸場が民間に払い下げられた結果、(現在の常識からすれば)極めて酷い就労条件になったとするならば、富岡製糸場の変貌振りこそ筆者のターゲットになりうると思いますがそうではありません。

本書の中に登場する富岡製糸場は上記の例外的労働条件部分と錦絵、富岡製糸場をつぶさに見学して貧弱ながら上記中山社の製糸場建設の見本にした頁、および最後の頁でだけで、全体を通しての取り上げ方も参照程度のレベルです。

富岡を手本にした中山社はその労働条件も見本にしているため上記のような例外的に良いとしています。

いわゆる女工哀史の舞台となる製糸工場は中山社以外の岡谷の製糸工場であり、その聞き取り方法も既に記憶も定かでない老女からの聞き取りによるものであやふやな部分も多々あるようであると筆者も認めています【あとがき参照】

あやふやな部分を筆者が脚色した部分も多々あるわけで本書自体も正確に描画されているとは言いにくく資料部分をのぞいては単なるフィクションの読み物であると言えます。

この極端に脚色された悲哀描写をさらに脚色した映画【ああ野麦峠】により多くの岡谷市民も傷ついており、また同じ製糸場というだけで富岡と岡谷の区別もつかない人を大勢生み出している現状も非常に残念です。

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当時の工女の募集・応募は強制ではなく保護者の同意によるものであること、かつきちんと契約により給金も支払われているが前借のための借金苦によるもの、親の期待によるものであり(飛騨に限らず)すべて強制では無く任意により募集されています。

先にあげた筆者の聞き取り調査に筆者の脚色を加えたあたりが【脚色した事実】が明記されていないため聞き取り調査の事実として取り上げられてしまっているあたりは慰安婦にも通ずるところがあります。


最後に
岡谷に厳しい労働条件があったから富岡でも同じだからボランティアガイドもそれを説明するべきというならば本書の筆者でさえ聞き取り調査してない富岡の工女の【悲惨な労働条件について】明確な資料を見せてくださいませんか。

養蚕農家

養蚕農家に育った私は早朝から深夜まで蚕の世話に追われる両親を見て時には手伝いながら育ってきました。

日が昇ると桑が乾燥してしまうため未明から遠くの畑に出て桑の枝を切り取り日の出前には家まで夜露にぬれた重い桑の束を運搬する。

それから粗末な朝食をかき込んでから蚕室がある2階まで重い桑の束を運び上げ桑を与える。

蚕が桑を食べ棒だけになった桑が30cmもの厚さに積み重なりカイコの糞とともに外へ運び出し廃棄する作業。

夜はまた桑の給餌作業を行い蚕の成長とともに人間の居住空間をカイコに渡して狭い一室のみで寝起きするようになること。
カイコが病気にならぬよう春蚕の温度管理、通風管理など。

日々が蚕のためにありそのような未明から深夜までの重労働が日々続き、やがて繭となり出荷され両親の過酷な重労働の見返りとしては些少すぎる僅かばかりの現金を得る。

両親が養蚕していたころ桑畑から自宅までの運搬で私の記憶にある最も古い記憶ではリヤカーに山のように切り取った桑の枝を山のように積んでいました。
1束で20Kg超ほどあるのでおそらく300Kgはあったでしょう。

その作業が毎日毎日繰り返されるわけですよ。

あなたは昆虫の研究に長けているようですが当時の養蚕農家の過酷な労働を研究したことはありますでしょうか。

目立ちやすく反響を呼びやすい製糸場工女の過酷な労働ばかり取り上げ富岡製糸場には哀史は無かったのか?

その同情を誘える工女哀史ばかりを取り上げ、口減らしのために工女として送り出した農家側の重労働や生活苦、現金収入が得られる利点など当時の社会情勢や個別農家の諸事情には少しも考慮してない。

両親の育てた繭は集荷所を経て最終的には富岡製糸場に収められていましたよ。

あなたは一方の側面のみ取り上げ先入観からの推察による決め付けばかり。
富岡製糸場に哀史があったというならば、そのような事実が記載された情報を明記すると同時に当時の社会情勢や農家側の事情を前面に解説しなくては誰も納得しない。


あゝ野麦峠読後のご指摘について

2014-05-13 Guest さん。
コメントありがとうございます。

>【富岡製糸場と中山社の特殊ケースである】と書かれています。

 富岡はご承知の通り政府がブリュナにプランニングさせた官営工場。中山社は製糸結社(製糸業者の連合体)で、富岡の3年後、イタリア・フランスの技術を基に先駆的な機械製糸工場を建設しました。労働者の待遇について近代化と合理化を図り、ある意味で実験的なモデル工場としてスタートしたので、両者の存在意義には確かに似たところがあります。

>この筆者による聞き取り調査による女工哀史がなぜ岡谷に限定され富岡の工女の聞き取り調査が無いのは何故か?
>官営富岡製糸場が民間に払い下げられた結果、(現在の常識からすれば)極めて酷い就労条件になったとするならば、富岡製糸場の変貌振りこそ筆者のターゲットになりうると思いますがそうではありません。
>本書の中に登場する富岡製糸場は上記の例外的労働条件部分と錦絵、富岡製糸場をつぶさに見学して貧弱ながら上記中山社の製糸場建設の見本にした頁、および最後の頁でだけで、全体を通しての取り上げ方も参照程度のレベルです。

 山本茂実が富岡に行かなかったことに、何ら不思議はないと思います。
 この本は、大正時代に刊行されていた細井和喜蔵のルポ「女工哀史(こちらは製糸工場ではなく紡績工場)」に刺激を受けた山本茂実が、地元の産業と人の歴史に関心を持ち、今記録を残さなければ消えてしまうとの使命感にも後押しされて、足で稼いだ渾身のルポです。
 副題の「ある製糸工女哀史」は、「工女の哀史」であるとともに、先行作品「女工哀史」へのオマージュであるとも考えられます。
 「あゝ野麦峠ーある製糸工女哀史」と合わせて、山本茂実の哀史3部作と謳われる「喜作新道ーある北アルプス哀史」「高山祭ーこの熟爛たる飛騨哀史」という作品の地域性を見ても分かる通り、彼は中部の山岳地帯という地域に密着して活動した作家ですから、上州の富岡に触れなくても何ら不思議はありません。信州だけで自分の描き出したかったことは十分に達成できたのでしょう。作家が思い入れのある土地の作品を書くのは当然のことですし、たとえば都市問題のルポを書くのに大阪を取材した作家がいたとして、その人が同じ大都市の東京を取材しないのは変だというのは的外れな指摘でしょう。
 反対に富岡の残念な点は、労働者の実体に迫ろうとする、いわば上州の山本茂実が現れなかったことかもしれません。
 
>富岡を手本にした中山社はその労働条件も見本にしているため上記のような例外的に良いとしています。

 おっしゃる通り当初の中山社は、民間の製糸工場としては業績も待遇もよいものでした。どうしてそれができたかというと、採算事業を目指して、投資を極限まで節約したためです。富岡がレンガ倉庫や洋風建築の工場に、フランス製の機械を配置した贅沢なものであったのに対し、中山は富岡の20分の1程度の予算で設備を整えたとされ、工場は質素な木造で、機械も簡素な構造の諏訪式を配置しました。初期の富岡や岡谷の製糸機械は、岡谷や松本で今も見ることができます。私も各地を取材しましたが、文献だけでなく実物を見て理解が深まりました。

 工女の待遇ですが、官営時代の富岡はよくご承知の通り、賃金は等級によって年9~25円、休日は年76日という、当時としては非常識なほどの好待遇でした。
 一方中山社は当初から独自の就労規定「中山社則条例」を定め、それによると上級工女の賃金は富岡と同等以上ですが、休日は年36日と約半分になっています。
 中山社の賃金の計算方法は、生糸の売上高から給与を計上し、そこから食費などの経費を引いた額を、工女の等級ごとに差を付けて配分する(等級ごとの定数は経営者が決めていた)というものです。富岡のような採算無視が許されるはずはありませんから、多少は富岡のシステムは参考にした部分もあるでしょうが、賃金などの待遇は別ものだったといえます。
 そして重要なのは、明治12年、後に富岡を買収する片倉も参加した製糸結社「開明社」が発足し、その就業規程が製糸業全体の模範となったことです。その特長は、生糸の品質検査をして、生糸の品質管理を基にした(品質管理は富岡でも行われていました)工女の賞罰制度を設けたことです。

 富岡はもちろん岡谷にも、高給をとって福利厚生の面でも厚遇される、等級が上の工女が一定量いました(日本産史業史分析によると、明治後期で工女全体の10%程度おり、60%ほどいた平均的工女の2倍の給料をとっていた。その高給分は平均賃金を低く抑えることと、平均以下の等級の工女の給料や罰金で賄われた)。彼女らは製糸場で楽しい生活を送ったことでしょう。彼女らに取材すれば、楽しい製糸工場生活の思い出がでてきます。しかし、その優遇は等級賃金制という賃金配分システムによって得られたものであり、そのことによって下級工女の悲劇が生まれました。

 製糸工場というものは、このようにシビアな運営をして初めて利益があがるものですから、富岡の民営化に伴う労働条件の変化は、労働者にとって痛みを伴うものであったことは容易に想像できます。

>いわゆる女工哀史の舞台となる製糸工場は中山社以外の岡谷の製糸工場であり、その聞き取り方法も既に記憶も定かでない老女からの聞き取りによるものであやふやな部分も多々あるようであると筆者も認めています【あとがき参照】
>あやふやな部分を筆者が脚色した部分も多々あるわけで本書自体も正確に描画されているとは言いにくく資料部分をのぞいては単なるフィクションの読み物であると言えます。


 もちろんあやふやな点や記憶違いがあることは、おっしゃるとおりでしょう。ただし、長い年月をかけて聞き取りを続けたことは事実であり、基工女の記憶にあやふやな点があるとはいえ、信州から飛騨の村々を訊ね回って、約380人の60~90歳の元工女に会い、嫌な思い出は語りたくないのが人情であるにもかかわらず、歴史の表面に出てこない話まで集めたということは高く評価されています。それが出来たのは山本の真摯な取材姿勢が元工女の信頼を得、彼女らに受け入れられたからで、そのことがこの作品の評価の高さにもつながっています。それを正確さを欠く単なるフィクションであると一蹴してしまうのは、いかがなものでしょう。

>この極端に脚色された悲哀描写をさらに脚色した映画【ああ野麦峠】により多くの岡谷市民も傷ついており、また同じ製糸場というだけで富岡と岡谷の区別もつかない人を大勢生み出している現状も非常に残念です。

 私は映画がどの程度の人を傷つけ、富岡と岡谷の区別がつかない人をどの程度生み出しているかは知りません。それが事実ならお気の毒というしかありません。ただ、私が岡谷や諏訪、その他信州各地の蚕糸関連の取材で出会った人々や、岡谷の蚕糸博物館などで歴史研究に携わるは人々は、真摯に事実と向き合い、本や映画のことを悪し様に否定するのではなく、自分達の輝かしい歴史も、またその影にあった悲しい歴史に目を背けることもなく、ありのままに描き出して保存し、後世に伝えようと努力されていました。
 あと、忘れてならないのは、
 「あゝ野麦峠」は、岡谷や製糸工女をおとしめるために書かれた本ではありません。もしそう思われているのでしたら残念です。

>当時の工女の募集・応募は強制ではなく保護者の同意によるものであること、かつきちんと契約により給金も支払われているが前借のための借金苦によるもの、親の期待によるものであり(飛騨に限らず)すべて強制では無く任意により募集されています。

 もちろん工女は徴兵制度のような強制ではありません。しかし、現代の若者が親の同意の下、家を出て働きにでるのとは、大きく状況が異なっています。
 まず第一に、貧しい農家の少女は、労働市場に自発的に出てくる労働力ではなく、家庭内に潜在的に存在するものでした。それを工場から派遣された者が農村を回って、1年の年期で年一回集めるわけです。この募集方法にも問題があり、農商務省や自治体が実体調査を行い、それを取り締まる条例を何度も出していますが、賃金を偽ったり、家族の柵や弱みに付け込んだり、時には他人が見つけた少女を横取りするようなこともあったといいます。

 次にその契約書というか、娘の預り証文の現代語訳を見ていただくのが分かりやすいでしょう(原文「技術革新と女子労働」中村政則 に掲載 拙訳私/ちなみに中村政則は「あゝ野麦峠の解説」を書いた経済史学者です)。
 「金三円也 宮坂嘉右衛門(岡谷の製糸家)殿 私(父親)は、右の者(自分の娘)が製糸工女として明治28年度、製糸工場で働く約定金として金三円を受け取りました。その上は期限中働くことはもちろん、御家の決まりなどを硬く守らせます。万が一事故が生じ、本人が働けないときは、相当の代理人を差し出し、不都合をかけないようにします。代理人が働いている間は、本人を他に努めに出しません。この契約を破ったときは、それに対する損害金として、約定金の倍を弁償します」
 これは、雇用契約書というよりは娘を1年差し出して借金する一方的な証文であり、雇用者の義務や賃金については詳細が書かれていません。

 時代が少し下ると(明治37年)もう少し体裁を整えた箇条書きになりますが、内容は同じく一方的なもので、賃金については「成績を調査し、等級に応じてその給料を査定して支払う」とだけあります。また、親が受け取る手付け金は1円ですが、違約金は50円となっている。これはほとんど支払い不能ですから、どんな酷い扱いを受けても家に戻すことはできないことを意味します。民間製糸工場の雇用契約とはみなこのようなものであったとされています。
 こんなものが就職で、こんな証文がきちんとした契約といえるのでしょうか。いくら明治時代だとはいえ、製糸工女となった少女の境遇は哀れでした。

>先にあげた筆者の聞き取り調査に筆者の脚色を加えたあたりが【脚色した事実】が明記されていないため聞き取り調査の事実として取り上げられてしまっているあたりは慰安婦にも通ずるところがあります。

 山本茂実の聞き取りの普遍的な価値については最初に述べた通りです。慰安婦問題とどうつながるのかは知りませんが、訴訟問題を含む外国との対立と、同じ国民として富国強兵を支えるため、苛酷な環境で搾取された少女達に思いを寄せ、それを顕彰することは全く別の問題だと思います。

>最後に  岡谷に厳しい労働条件があったから富岡でも同じだからボランティアガイドもそれを説明するべきというならば本書の筆者でさえ聞き取り調査してない富岡の工女の【悲惨な労働条件について】明確な資料を見せてくださいませんか。

 民営化後の労働搾取強化は、私がとやかくいうまでもなく、近代の産業史、経済史の常識と思います。つくる会の「新しい歴史教科書」や、富岡製糸場のみなさんが、富岡は女工哀史のない先駆的な工場であった、などと偏った話を宣伝するから誤解する人がいるのだと思います。「富岡製糸場には当時の製糸工場では考えられないような、少女達が明るく輝いていた<時代>があった」といえばよかったのではないでしょうか。
 先に例として挙げた「あゝ野麦峠」に詳しい経済史学の中村政則の解説の要約を書きます。また同様な内容で、文献リストがあるものとして「製糸技術の発展と女子労働」などがあります。
 民営時代の富岡製糸場は、利益を出さないとつぶれてしまう「生死場」などと呼ばれた業種です。油断すれば経営者は首を吊ることになります。
 「(山本茂実も述べている通り)製糸業者が問題にするのは、相場、原料繭の購入、工女確保の3点である。このうち生糸相場は国内の製糸業者の意志ではどうにもならない。相場の決定権はアメリカの業者にあり、横浜の相場は乱高下を繰り返す。自分が調査した業者の中には莫大な儲けを1年で失い死んだ者もある。製糸業者がこうした相場の損失を何でカバーしたかというと、山本茂実も述べている通り、農家から仕入れる原料繭の買い叩きと、等級賃金制と称する巧妙な搾取システムである。この制度の下では、常に他人以上に働かないと賃金が下がる危険に怯えなければならない。等級賃金制を共食い制度と呼ぶ人もあるが、等級賃金制は正に、工女の身を細るような労働に追い込んだ元凶である」
 この賃金制度は、政府が製糸業界に強く求めた品質の均質化に応じるために、先にあげた片倉らの開明社などが工女の等級制の強化と検査制度に端を発し、遅くとも1920年頃らは(富岡では原時代です)には、全国の製糸場で適応され、戦後の1950年代まで残っていました。これは「日本の工業化と女性労働(ジャネット・ハンター)」など、基本的な資料にでていることです。ストのことは、かつて学生が使っていた古典「現代婦人運動史年表」にでています。他にも同様な資料が、たくさんあると思いますので、どうか、ご自分でもご研究ください。

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養蚕農家のご苦労

養蚕農家さん。

 貴重な体験談とご指摘ありがとうございました。
 製糸工女の哀史ばかりが語られる現状に、ご不満を持たれるお気持ちをお察しいたします。
 日本の蚕糸産業史の研究者は、養蚕農家に対する搾取にも注目していますし、重要なテーマと捉えています。
 別の方への返信で恐縮ですが、上にも書きました通り、蚕糸産業の搾取は、原料繭の生産者と、工場労働者の両面に対して行われていたことは、あゝ野麦峠の作者も承知しており、もちろん私もそのように認識しております。

>あなたは昆虫の研究に長けているようですが当時の養蚕農家の過酷な労働を研究したことはありますでしょうか。

 深く研究させていただいたことはありませんが、情報としては知っておりますし、元養蚕農家にお邪魔した折りなどに、「蚕より下に置かれた人間の苦労(私ではなく農家の方がこう表現されていました)」というような内容のお話を幾度かうかがっております。

>その同情を誘える工女哀史ばかりを取り上げ、口減らしのために工女として送り出した農家側の重労働や生活苦、現金収入が得られる利点など当時の社会情勢や個別農家の諸事情には少しも考慮してない。

 農家状況も認識しております。ただ、限られたスペースですので、今回は工場労働にテーマを絞らせていただきました。どうかご理解下さい。

>あなたは一方の側面のみ取り上げ先入観からの推察による決め付けばかり。
>富岡製糸場に哀史があったというならば、そのような事実が記載された情報を明記すると同時に当時の社会情勢や農家側の事情を前面に解説しなくては誰も納得しない。

 先入観による決めつけをしている覚えはありませんが、限られたスペースであることも含め、情報が不十分であるとおっしゃられるならその通りであると思います。今回の養蚕農家さんの体験談で、その一部を補うことになったと、感謝しております。
 今後も色々ご教示くださるようお願いします。ありがとうございました。

養蚕農家に生まれて2

返信ありがとうございます。

養蚕農家と製糸場とは密接に結びつき仲買を含めて切っても切り離せない関係で地方経済を構成してて製糸場があってこそ養蚕農家が成り立ちいくばくかの現金収入を得て私たちは育てられてきました。

たとえそれが重労働であっても両親はそれで現金収入を得られ製糸場を有難く思っても決して憎い存在と話したことはありませんし未明から深夜にわたる労働が憎いとこぼしたこともありませんでした。
現金収入が得られる製糸工女だって同じ考え方の人がほとんどじゃないでしょうか。

先のような実態を知らない外部の人間がまとめた資料を基に、さらに実態を知らないあなた方偉い学者が興味本位で哀史と資料の数字だけを基に推測から民間に移行した後の富岡製糸場を悪者として扱わないと不自然だと主張することに憤りを覚えます。

限られたスペースだからこそ公平に扱ってほしいものです。

養蚕農家さんへ

 早速のご意見ありがとうございます。

 一つだけご理解いただけたらと思うのですが、私は富岡製糸場が悪者だといってるのではありません。当時の経済や産業構造の中で、大変なご苦労をされた方もあったことも伝え、今の自分達の豊かさが、どういう歴史の上に成り立っているのかも、伝えて欲しいという意見を書いたつもりでおります。

 その表現や思慮の至らなさで、不快な思いをされたならお詫びいたします。ただ、養蚕農家さんからご覧になれば何も知らない勝手な部外者に見えるかもしれませんが、日本の近代化の歴史は、今の生活に直結する自分自身の問題であり、出来るだけ多くのことを知り、また意見も述べ、こうしてご意見も頂戴して、さらに考えていくつもりでおります。ありがとうございました。

養蚕農家に生まれて3

くどいようですが伝えておきます。

当時の経済や産業構造の中で、大変なご苦労をされた方もあったことも伝え、今の自分達の豊かさが、どういう歴史の上に成り立っているのかも、伝えて欲しいという意見を書いたつもりでおります。

大変な勘違いをされています<ご苦労をされた方もあった>などと両親は思っても考えてもいません。なぜならば、それが当然だと考えているからです。

楽を知っている我々が今の感覚でその苦労を代弁するほど当時の人々に対し失礼なことは無いんじゃないでしょうか。

今の私たちだって多少はキツイ仕事もあるけれど少なからず自分の仕事や生き方に誇りを持っているはずですし労働の見返りの賃金をいただくことは当然なことです。

未来の研究者が年老いた我々の孫や子供に聞き取り調査して21世紀に生きた人たちは労働の見返りに施しとして賃金をもらってたらしいよ哀れだね惨めだね可哀想だね、でもその礎があったからこそ今の我々は労せず暮らしていけるんだよ、と現在の我々の生き方を否定するような目で見られたら<失礼な!>という気持ちになりませんか、よく考えてください。

養蚕農家さんへ

お考えをお教えいただきありがとうございます。くどいとはおもいません。

 ここでいう「苦労」は、ご両親がそう思っていたいうことでも、誰かの人生を否定することでもありません。「気楽に何の不自由もなく、快適な環境で楽な仕事をしていられる」ような状況などに対する、反対語として使用しております。
 また、当時の人の気持ちの代弁という、大それたことも意味しません。

 私は親族の葬儀で「故人は、田舎から出て来て、貧乏で苦労の連続だったね」ということをいわれたことがありますが、私はその「苦労」の中に尊敬と哀悼の意を感じ嬉しく思いました。どう感じるかは人それぞれであろうとおもますが、私は昔の人を「哀れだね惨めだね可哀想だね」などと思ったことはないことを申し上げておきたいと思います。

No title

>どうか、ご自分でもご研究ください。

おおきなお世話です。

持論を公開した限りはその内容に責任を持つべきはあなた自身でありそれを証明するのはあなたの手によるべき内容です。

民営化後の富岡製糸場に女工哀史は無かったとする解説ボランティアは間違いであり女工哀史があったとする根拠及び何をもって女工哀史とするのかのあなたの判断基準も指し示して欲しい。


No title

議論が白熱しているみたいですので、一言いわせてもらいます、今回の富岡製糸場の世界遺産登録は、あくまで文化遺産としてですよね、産業遺産としては、赤字垂れ流し経営が常態化していた富岡製糸場ではちょっと無理があると思いますね。本来なら必死の経営努力をした岡谷の中山社(諏訪式製糸機械も)が無ければ生糸生産世界一には決してなれなかったわけですから、本来こちらが産業遺産として世界遺産登録されるべきですよ。(まさに官尊民卑の典型で、富岡が岡谷の功績を盗んだような感じですね。)更に女工さんをイジメた等、負の遺産を岡谷の方に押し付けまでして富岡の方はほんとに厚かましいですなあ。

2014-05-18 Guestさんへ

>おおきなお世話です。

確かにその通りですね(笑)。
根拠や判断基準などはすでにお示した通りです。

2014-05-24 Guestさんへ

お読みいただきありがとうございました。
 日本の製糸産業という大きな枠組みの中で、富岡のみならず、他の生産地、原料の生産地、流通の中継地点などが、日本の近代化に、それぞれどのような役割りを果たしたかを考えられればと思っています。私は各地の製糸関連遺構を見て、日本の製糸産業の重層性を感じずにはいられませんでした。

えと、今回の勧告は他の遺産群とあわせたシステム全体として登録が相応しいとしているんだから養蚕地域システム全体として意見してもらわないとこういう偏見に満ちたブロガが出てくるわけだ
女工哀史は無かったなどとは一言も解説してなかったけどな

解説が変わった ?

たらさん
 ご意見の内容がよく理解できずにおりますが、後半の「一言も解説してなかったけどな」が、現時点でのボランティアガイドの解説内容を指しているなら、それはよいことですね。ご報告ありがとうございました。

No title

貴殿の言いたいことの核心部は、「騒音と熱の中で少女を長時間働かせ、互いの日当を共食いさせるような賃金システム、さらには親を前金という借金で縛り付けるといった少女労働の基本構造はいずれも同じ」「経営者や地主はゴロツキを雇ったり、関係者を金や人間関係の柵で縛る」「政府や自治体、警察、工女の親までもが経営者の味方だった」のところでしょうか。これを強調しすぎるのもどうかと思います。「当時の資料を調べた上での考察」でも、自論に使えるデータに集中して構成していませんか。(例:「工女に外出の自由などありません」は違う。休日は一宮神社や小幡城址にお参りや道中花見、芝居小屋、湯屋なども楽しんでいました。町は娘たちの華やぎに満ちていました。一方、不況時には皆から慕われた経営者が経営と労使紛争で悩み自害したことも。)大変なときは女工も経営者も同じだったと思います。「富岡製糸の場合の恵まれた事実と時代」は確かにきれいごとばかり注目されそうですが、それは不当な事でしょうか?歴史的に俯瞰すれば全てが過渡期、歴史の一部です。その後の悲惨な搾取の歴史「苦労された方」への理解も無しに浮かれているのがいけない、とまで言うのは少し言いすぎではないでしょうか? 私は絹産業という分野は明治から今日にかけ、日本全国、ご先祖から親戚の誰かしら、天皇家まで、また現代の自動車産業からロボットまで、縁ある人や地域・産業が実に広いと思われるし、きっとそれぞれ我が事のように喜ばれる方々がものすごく多いのではないかと感じられて、そのことが一層よかったことに思われます。(岡谷の方のボヤキ、理解します。民間としての中山社、片倉製糸の意義も高く評価すべきと思います。岡谷に対する悪意は誰にもどこにもないでしょう)
あまり難しく考えずまず今は喜んでいい時ではないでしょうか。より深い理解は相応の人が相応に考察するでしょう。ただ「視野の狭い独善的な歴史観は、それを語る人と、その人が住んでる国の未来を暗くするものだと思います」そのとおりだと思います。

No title

興味深く読ませていただきました。
最近太田の方で仕事をした時に、富岡に蚕の繭などを集めて送っていた元商店の(今は書店)ご主人に、「俺が小さい頃には(繭を乗せる)トラックが来てね…その当時はトラックが珍しかったから乗せてもらってその辺を一周したりして…」という話を聞いたりなんだり。その時初めてそんなに最近までやっていたのかと知って驚いたので、いろいろと検索してここにたどり着きました。
そのお店の周りの農家は畑を売って住宅とマンションが新しく出来て風景が変わっていく中でしたから、どうやって伝え残すかは世界遺産と関係なしに考えなくてはならないと感じていました。
いろいろ長文のご意見もあるようですが、民営化後にストライキが起きたことも初めて知りましたし、このような側面に光を当てることは、ここで働いていた人たちの待遇や条件を良くしようとした努力にも目を向けることなのかなと思います。

コメントありがとうございます

蚕が子守唄さん。

コメントありがとうございます。
あまり変わりばえがしない話の繰り返しになると思いますが、蚕が子守唄さんのご意見に対する、私の考えを書かせていただきます。

>貴殿の言いたいことの核心部は、(中略)これを強調しすぎるのもどうかと思います。

 「富岡製糸場への疑問」は、和田英の回想録「富岡日記」の一部を取り出して「製糸場というと女工哀史のイメージがあるが、富岡は労働条件のよい先進的な工場だった」と主張されていることに違和感を覚え、「その考え方はおかしい」ということがいいたくて書いたものです。
 記事にあるようにボランティアの「伝道師」を養成して布教に努めたり、きれいなパンフレットや展示パネルを作ったりして「富岡はよその製糸場とちがってこんなに良かった」ということを「強調」してこられたわけですから、私が反対の事象を強調するのは当然です。予算をかけた自治体ぐるみの宣伝と、私が個人で細々と書いているブログでは「強調」する力に雲泥の差がありますが。

 私の記事に蚕が子守唄さんがおっしゃるような「核心部」があるとすれば、それは「製糸場というと女工哀史のイメージがあるが、富岡は労働条件のよい先進的な工場だった」などと日本国内の製糸労働を比較するような話ではなく、良い事も悪い事も含め日本各地の製糸関連遺構とそこで働いた人々の歴史が、日本の近代化(富国強兵だけでなく、労働環境の改善や人権保護のことも含む)に、どれだけ貢献したかを示すべきだと述べた部分です。そして保存状態がよい富岡の遺構をそのシンボルとすることに異を唱える人はいないでしょう。
 これについてはかなりはっきり書いたつもりです。こうした日本の製糸業への愛と思い入れから書いた記事を、富岡を貶す記事と読み違える方が多いのが不思議です。

>自論に使えるデータに集中して構成していませんか。(例:「「工女に外出の自由などありません」は違う。・・・

 持論に使えるデータで構成しているのではなく、労働史の常識とされているような基本的な事象を複数、根拠として挙げているに過ぎません。少なくとも和田英の回想録だけで富岡はよかったとするのと同程度には公正であると思っています。
 「工女に外出の自由などありません」はコメント欄に書いた、製糸場が閉鎖的な空間であったかどうかの説明の部分ですね。舌足らずな表現であったことは否定しませんが、私は工女の生活や行動には多くの制限があったと認識しています。

 前のコメントにも書きましたが、少ないとはいえ製糸工女にも休日はありました。当時の休日制度が全ての従業員に対して厳格に運用されていたかどうかはともかく、年間数十日という経営者が決めた日数も示しました。その中で各種の慰安行事もあり、工場の外を歩いたり付近の商店で買い物をすることもできたようです。そうなると「外出の自由などありません」が誤りに思えてきます。
 しかし、そうした慰安や外出は富岡だけでなく「野麦峠」の舞台となった信州でも同じように実施されています。そのことが何を意味するかというと、当時の余暇は主人が奉公人の生活を完全に支配した状態で「上から賦与する慰安」であって「自由や権利」とは似て非なる物であるということです。人権を語る場合にはこのことを区別しないと、昔の奴隷にも人権はあったとか、自由に制限があるのは当然だというような話になってしまいます。

 誤解しないでいただきたいのですが、私は工女が笑顔を忘れた「奴隷」であったとは思っていません。特に技術の高い工女は、仲間から敬意を持たれながら、元気に働いていたと思っています。図らずも野麦峠の主人公となってしまったミネの写真を見ると、とても愛らしく、不健康そうに見えたり悲壮感がただよう表情ではありません。そもそも製糸場の関係者といっしょ写真に収まるぐらいのことはできたということです。貧しい農家の娘であった彼女が、後世に写真を残せたのも製糸場で働いたおかげかもしれません。しかし、そのことで彼女の人権が認められ、労働が正当に評価されていたということにはなりません。

>大変なときは女工も経営者も同じだったと思います

 もし労使が運命共同体として、同じ立場で製糸場を支え合い営んでいけたら、官営時代の富岡以上の、理想的な工場が誕生したでしょう。私もそうであればよかったとは思いますが、残念ながら搾取する者とされる者という基本的な関係は変わりませんでした。

 「生死業」といわれたほど不安定な業界ですから、相場の下落や不況でオーナー経営者は大変な窮地に追い込まれます。精神的には従業員の方が楽だったでしょう。しかし、使用人や原料生産者に対して強い権力を持つ当時の経営者は、低賃金、労働強化という形で、損失を彼らに転嫁できました。もし相場が高騰して大きな利益が出れば、それは経営者のものです。
 もし、労働強化や原料価格を押さえることで吸収できない損失が出て、自己資金も融資の道も尽きたら、経営者は夜逃げや自殺といった悲惨な選択を迫られるでしょう。彼らもまた、日本の工業化や近代資本の誕生の影で犠牲になった人達といえます。ただ、使用者として労働者を搾取することが利益の源であったことは事実ですから、労働者と同じ立場であったということはできないと思います。

>歴史的に俯瞰すれば全てが過渡期、歴史の一部です。その後の悲惨な搾取の歴史「苦労された方」への理解も無しに浮かれているのがいけない、とまで言うのは少し言いすぎではないでしょうか?

 過渡期というのは全くおっしゃる通りで、産業構造や人権意識が変化する一過程です。それは現代のこの瞬間も同じです。
 誰も何もしないのに、歴史が勝手に進んでいくということはあり得ず、労働問題だけを見ても、繰り返し起きた争議、人権思想の普及、外圧とそれに呼応した運動や法整備などがあったから変化したといえます。そこには自分の権利を獲得したい人々と、それを妨害したい人々の意志が大きく関与しています。それを知る事は今を生きる上で有益ではないでしょうか。

 最近の、労働者の総フリーター化や労働力の「使い捨てご免」に道を開くような、労働法令改悪の動きなどを見ると、先人達が苦労して手にした労働者の権利を、私を含め今の人間がぼんやりしていたために、近い将来手放す危険が生じたように思えます。ですから私が「浮かれているのがいけない」と主張しているとお感じになったのであれば、それは正しいと思います。

>きっとそれぞれ我が事のように喜ばれる方々がものすごく多いのではないかと感じられて、そのことが一層よかったことに思われます。
>あまり難しく考えずまず今は喜んでいい時ではないでしょうか。

 おっしゃるように、日本には蚕糸に関係した人が多いと思います。なんせ近代化に必要だった外貨を稼ぎ出した産物なのですから、日本人全員が蚕糸業のお世話になったといえるでしょう。そして、生糸を実際に作ったのは、富岡にあるレンガ倉庫や工場などの建物ではなく、そこで働いていた少女達の手です。その実像を知る事は、建物を見学するのと同じぐらい意味があるのではないでしょうか。それが富士山や知床、京都奈良の寺院建築などと、富岡製糸場が大きく違う点だと思います。
 私は、蚕糸産業の関連遺構が世界遺産に登録されるのを喜ぶなといってるのではありません。心から喜ぶために、その内容を知りたい、また知らせるべきだと思ったわけです。

コメントありがとうございます

2014-05-28 の Guestさん

コメントありがとうございます。

 北関東の養蚕地帯は激しく変わっていますね。各地に養蚕文化があったことを伝えるために、世界遺産とは別に色々考えなければならないとのご意見、本当にその通りだと思います。かつて蚕を飼っていた農家が無人となり、朽ちようとしているのを見たりすると焦りを覚え、せめて写真だけでもとっておこうという気持ちになります。
 世界遺産の影で目立ちませんが、群馬県や長野県などでは養蚕文化の伝承に取組んでおられますし、東京の八王子などで畑に桑が新しく植えられているのを見たりすると。少し明るい気持ちにもなります。とりとめのない返信ですみません。

札幌製糸場

こんにちは。先日、NHKの歴史秘話ヒストリアで富岡製糸場が取り上げられていた事もあり、興味を持って検索していたら、このブログにたどり着きました。私の母から聞いた話ですが、母の出身地の札幌にも製糸場があり、その製糸場が閉鎖になった際、母の父が、どんな所だったのか知りたくて、忍びこんだそうです。周囲の塀は高く(女工さんに逃げられないため?)、内部は「念がこもってる様で不気味で怖かった」そうです。母はイタズラをすると、祖父から「製糸場に入れる」と叱られていたそうです(笑)。
コメント欄での討論内容は、私にはよく分かりませんが、同じ時代、同じ場所にいても、立場によって人の感じ方は、ほんと様々ですよね。私は病院勤めですが、「こんなとこで働いていられない」と辞めていく人もいれば、「居心地いいし働きやすいよ」と長く勤務している人もいます。
そんな風に、同じ事に対してでも、立場によって見方が変わるのも、歴史の面白さのように思います。


持ちつ持たれつ

>生糸を実際に作ったのは、富岡にあるレンガ倉庫や工場などの建物では
>なく、そこで働いていた少女達の手です。

大規模工場など要らぬ、各家庭において昔ながらの座繰りで少女が糸取りしていれば明治以後の日本の工業の発展を支えることができた。
だから、労働者さえいれば自動車工場(トヨタもホンダ)も要らぬ。

これはこれは恐れ入った持論だ


大企業が無ければ中小企業も無い、外注(中小企業)が無ければ大企業も無い
会社(工場)が無ければ従業員も無い、従業員が無くては会社(工場)も無い

働き方も自由なのだから【労働法令改悪の動きなど】と切って捨てるあなたに同調する人もいるだろうが、それを歓迎したい労働者もいるということをお忘れなく。

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ところで、何度読み返しても紡績ではない富岡製糸場に女工哀史があったと力説するあなたの文章に見えるのは

【和田英が居た頃の富岡製糸場は、1日8時間労働、週休1日であったが、民間の製糸場では毎日12~14時間働き、月に2日の休みというのが普通になっていった。苛酷な労働は大正5年の工場法施行まで続く。】

この部分だけ、それも【民間の・・・】としている部分は富岡のことなのか他の一般的な製糸場のことを言っているのかあいまいである。

それ以外は女工哀史は無かったとする解説員の話にカチンときてヒステリックな批判を述べているだけである。

【工女に外出の自由などありませんから・・・】と力説する部分に関しても民営化された富岡でさえも通勤工女もおり外出の自由が無いには該当しない。

何度も言うが【・・・らしい】【・・・のようだ】ではなく富岡に女工哀史があったと力説するあなたの明確な根拠(資料)を指し示してもらいたい。

野麦峠を越えて富岡製糸場へ出稼ぎに来ていたと勘違いしている人の多さに、解説員の説明がいつしか女工哀史は無かったに摩り替えられたのではないかと想像している。

ありがとうございました

コメントが増えてきましたので、まとめて返信させていただくことをお赦し下さい。

【からちゃんさん】

 当ブログにたどりついて下さり嬉しいです。ありがとうございました。
 NHKのヒストリア、私もネットのアーカイブで拝見しました。放送作家や演出家の方々は、肝心な富岡日記を読まずに、2次資料から得たイメージだけで映像を構成されたようですね。最初ちょっと驚きましたが、富岡の世界遺産ブームに乗って急ぎ作った番組でしょうから、仕方がないのかもしれません。でも製糸場や工女に興味をよせる仲間が増えるのは嬉しいですね。
 また札幌製糸場の興味深いお話をありがとうございました。札幌製糸場も明治初期ですね。私は勉強不足であまり詳しいことを知らないのですが、競馬場のある桑園あたりに、蚕に食べさせる桑の畑があって、それが地名になったということを聞いたことがあります。製糸場の跡地は今どうなっているのでしょう。興味津々です。

【通りがかりの岡谷人さん】

岡谷の方のお気持ちはお察ししますが、
範囲を広げていろいろ巻き込む中傷は適切でないと思い
削除させていただきました。ご了承下さい。

【Guestさん】

Re,持ちつ持たれつ

この記事に対する批判を何度も書いてこられた方ですね。
今回の設備と労働者の跳躍論法、興味深くはありますが、
話を飛躍させると議論が拡散し、かみ合いませんので、
返答を辞退させていただきます。
それ以外の資料などは、以前書いたものをご覧いただけると幸いです。
ありがとうございました。

朱儒の言葉

返信ありがとうございます。

筆者が「日本の製糸業への愛と思い入れから書い」ている真摯な気持ちは多分本当なのだろうと思います。しかし「残念ながら搾取する者とされる者という基本的な関係は変わりません」、資本家は搾取するものという視点がすべての根底にあってこのような見解になるのだと思います。いくつもの傍証はこれにまっしぐらですよね。実は私も時には結構そう思ったりするのです。貴殿の視点姿勢も意義があり、判らなくはないですが、何でもそんなふうに結びつけて見るのはやめませんか、と私は言いたいのです。その視線の先には、資本家は結局人権蹂躙者、一部は立派でも総体としてはエゴと金に執り憑かれ労働者の生き血を吸う人種、そして一方労働者は金のために働かされる可哀想な犠牲者、という図式があってそれがわかん奴は未熟者、浮かれたのんきもの、という視線。しかしそれは実は、貧しく恵まれないけれど生きる喜び、働く喜びや矜持を持ちたい気持ちを断ち切り、可哀想な分際を知り、わきまえ、戦えと指導しているような視線なのではないでしょうか。万事そう見るのは私はやめています。よく見てケース毎に使い分けています。この富岡製糸場の場合、たとえ短い期間であっても資本家と労働者がまれに見る幸せな時代を共有できたその時間空間がそこに実在したのは確かであり、そこに(のんきに)思いをはせるところへ上記視線で冷水をぶっかけるのがあなたの投げかけ、と私は受け取ります。正義と人権の名のもと、資本家と労働者の永久対立の図式で、上から目線で指導するような視線。ネット空間で持論を展開するのは自由ですが、小生のような少々異議ありの輩も少しはいるとご承知頂けましたら幸いです。芥川龍之介の朱儒の言葉を思い出します。「誰よりも民衆を愛した君は、誰よりも民衆を軽蔑した君だ」私はこれで目が覚めました。

歩み寄り

1 ああ野麦峠の話は岡谷・諏訪の富岡製糸場とは直接関係ない話

2 富岡製糸場の民営化後は就労時間も延ばされる傾向にあり女工哀史と無関係とは言えないけれど確固たる資料が無い

この2点をきちんと線引きすれば両者の言い分に歩み寄れる余地があり貴殿の怒りの矛も収められるのではありませんか。
野麦峠と富岡製糸場をごちゃごちゃに認識してる一般人が多いから擁護派と疑念派と話がこじれるんだと思います。

ちがいますか?

No title

養蚕農家さんへ

提言、了解します。
1、同時代でも発生・地域の違いでおのずと差異のある結果にはなったが誰のせいでもない、ということでしょう。直接関連はない、が、そういう言い方自体が富岡がいいとこどりのように思われてしまうだろうことは確かで、十分な注意が必要ですね。
2、民営後は間違いなく厳しい時代が始まったろうと思います。不況もあって、経営側の余裕もなくなり、工女の労働も厳しさを増す、対立も生まれる、左翼思想も忍び込む。極端な事例もでてくる。そこをどう見るかです。よくぞがんばった、のか、ひでえ話だな、か。私は一方的視点で見たくないし、誘導もしたくないのです。そこにこそ広く公平に虫瞰でなく鳥瞰し、できるだけ色づけしないで事実だけを提示すればいいと思います。
*ただし、ブログ主さんの、対象への強い知的好奇心、ひきつける論の展開、シャープな視点はとても貴重な優れた能力だと思っています。

Re, 朱儒の言葉

蚕が子守唄さん

 コメントありがとうございます。テーマを絞ったやりとりで、自分の思いを全体的に知っていただくのは難しいですね。これまでの私の文で足りない部分をご示唆くださったのは大変ありがたいことだと思っています。

 議論のテーマは戦前の女性の労働史ですので、労使関係には言及せざるをえません。また、できるだけ簡潔に自分が認識している労働環境の背景や構造を説明すべく、ニュアンスを剥ぎ取って身も蓋もない骨の状態で強調したところもあります。このあたりは伝え方が本当に難しい部分ですね。蚕が子守唄さんのご指摘は勉強になります。

 私は、資本家を悪辣な鬼として全否定したことはありません。戦前の製糸家が、日本の文化の保護育成に果たした役割は計り知れないものがあります。地元の方はよくご存知だとは思いますが、製糸業は日本の近代化を支えただけでなく、それぞれの地域で文化の保護育成にも貢献しています。富岡が状態よく保存されたのも、旦那衆の精神的余裕と文化への造詣の深さということができるでしょう。おっしゃるように何事も両面があることを意識して文化財を見たり資料を読んだりしています。

 自分のことになりますが、私は都市の貧民エリアで生まれ、仕事にあぶれて昼間から安酒を飲んでる日雇いや、男と見れば中学生にでも声をかける遊郭のヤリ手婆さんなどを身近に感じて育ちました。人権的には酷い町だった訳で、国や自治体も、悪しき者の巣窟、都市の恥部として、何度も潰して作り替えを画策してきた町です。現在の市長もまた何かビジョンを持っているようです(笑)。しかし、自分にとってはとても暖かい住みやすい場所であり(同時に外の世界にも出たくなったわけですが)、不可能とは思いますがなるべく変わらず残って欲しい場所でした。そこに住んでいた子供や女性を、単純に可哀想な存在とは思いません。
 誰もがそうだと思いますが、自分の故郷、あるいは自分で選んで移住した土地でさえ、好きな部分と嫌いな部分があり、良い思い出と嫌な思い出、誇りと恥などが交錯しています。。
 ですから、昔の工場労働者を、単に資本家に搾取されるだけの可哀想な存在といった、ステレオタイプに解釈したことはありません。もっと事情は複雑で、苦楽を単純に推し量れるものではないことも承知しているつもりです。

 蚕が子守唄さんほどのバランス感覚はないかもしれませんが、私も社会や歴史を解釈するには感受性を基にした、多元的なバランス感覚が大事だと思っています。それを踏まえた上で、ネット上で富岡を紹介する記事のほとんどが、伝道師の方が語る富岡日記の内容ばかりになった頃に書いたのが「富岡への疑問」です。
 来月には世界遺産登録のニュースが流れるでしょうから、ネット上にも様々な視点のブログやウェブサイトが増えていくでしょう。現在富岡関連図書の配本準備を進めている出版社も多いと思います。この記事も沢山の意見の中に埋もれていくでしょう。
 私はまた別の視点やテーマで蚕糸業のことを勉強したいと思っています。皆さんのご指導を賜れば幸いです。

Re, 歩み寄り

養蚕農家さん

 こじれがちな話を整理して、前に進めてはどうかというご提案、本当にありがとうございます。
 「女工哀史」は近畿の紡績工場の話でしたが、「あゝ野麦峠」の副題「ある製糸工女哀史」の「工女哀史」を「女工哀史」と読んで混同する人も多く、さらに「富岡には女工哀史がなかった」というキーワードが広まったことも、混乱が増す原因の一つになったと思います。確かにこれでは「女工」も「工女」も「哀史」も話す人によってイメージがバラバラですね。ご指摘のように色々と線を引いて整理し、言葉にいちいち定義付をした上で話すことが大切だと思いました。

 信州との関係の有無については、日本の各地の製糸業が、相場の面でも、技術の面でも、原料の品種の面でも、互いに影響を受けながら、横浜の地を扇の要として、一定のつながりを持っていたと思いますので、そのことを踏まえて、互いの距離感などが分かればいいなと思っています。

 またおっしゃる通り民営時代の資料は少なく、富岡製糸場総合研究センターの今井幹夫先生も、何かのインタビューで「民営時代の研究は今後の課題」とおっしゃっておられました。先生やそれに続く研究者のご努力によって少しずつ明らかにされ、私もそれを勉強させていただくことを楽しみにしています。

 矛を収めるといいますか、色々な立場や意見の人と「へぇ、そんな事もあったんですね」などと話しながら、自分が感じている富岡の魅力が深まればいいなと思いました。

危惧していること

ご存知の通り岡谷市と富岡市は人口規模が似ておりかつ製糸業がとりもつ縁で姉妹都市提携しています。

似たような人口規模の地方小都市にも関わらず、かねてより製糸から精密機械工業に産業を切り替えた岡谷・諏訪は観光面も含めて活気がある一方で富岡は多くの企業撤退による衰退の一途でその差は歴然としたものがあり和田峠越えや長野道で岡谷・諏訪入りするたびに活気のある岡谷をうらやましく思っていた次第です。

製糸場のまま終焉を迎えた富岡製糸場が俄かに(関係者にとっては俄かでは無いが)世間からの脚光を浴びることとなり同時に野麦峠と富岡製糸場を混同する人の多さをひしひしと感じ取っています。

そのつど私のようなものを含め関係者は(民営化後の就労時間とは切り離して)野麦峠と富岡製糸場は地理的にも無関係であることを説明してきています。

しかし聞く人にとっては野麦峠=女工哀史であり、結果として富岡に女工哀史は無かったと説明を受けてるような錯覚を覚えひいては岡谷は悪者、富岡は善良と差別化してることと受け取られているのではないか。

やがてそれは岡谷と富岡の不仲につながるのではないかと危惧しています。
また、そのように危惧すること自体が上から目線として岡谷側に受け取らていまいか。

富岡が創業当初の復元操糸機の図面貸与を申し出たことにあたり岡谷側で一部反対が起こり復元操糸機そのもを貸与することで決着したように富岡製糸場の世界遺産への登録が現実味を帯びてきた数年前から岡谷と富岡の関係がデリケートな状態になっていると考えています。

こちらの記事および(一部削除されたものを含め)投稿により擁護派VS疑念派であったはずの投稿がいつしか岡谷VS富岡のような構図に摩り替わってしまうことを危惧する、いつまでも仲睦まじい姉妹都市でありたいと願っている一富岡市民です。

Re, 危惧していること

養蚕農家さんへ

 私も町同士が対立してほしくはありません。
 ただ、どのように説明されているのかは分かりませんが、「富岡は野麦峠とは無関係」ということを強調したら、岡谷の人は不愉快かもしれませんね。もしそれが工女の出身地の問題であれば、各地の製糸場の工女が、それぞれ何処からきたのかを説明すればいいと思います。
 ご承知だとは思いますが、岡谷の教育委員会などが作った歴史資料を見ると、説明は俯瞰的であり、富岡製糸場のこともページを割いてきちんと書かれています。ですから富岡でも、同じ日本の製糸産業の仲間として、岡谷のことも折々に触れながら(両者は違うというのではなく、それぞれが共に努力して日本の近代化を支えたというような立場で)説明をされるとよいのではないでしょうか。特に片倉時代は信州と深い関わりがあった訳ですし。

 少し前の事ですが(2011年)、地元群馬県のある大学の紀要に、岡谷の人が読んだら怒りそうなことが書かれていました。あえて引用は控えますが、野麦峠(名指しです)とちがって富岡の工女はエリートだったというような話です。この文書は機関誌交換などで諏訪や岡谷の関連施設にも送られてるかもしれません。今後はこういう富岡への応援記事は必要ないでしょう。必要なのは一次資料と中立的な研究論文だと思います。

 今までのことはなかったことにできませんが、今後は「富岡市が誇る特別な製糸場」といったスタンスではなく、「日本の近代化を支えた遺構」の一つとして、淡々と製糸産業の歴史を発信されれば、すぐに誤解が解けるのではないでしょうか。全ては富岡製糸場が今後発信する内容にかかっていると思います。地元の養蚕農家さんに偉そうなことをいってすみません。
 近い将来、岡谷との協力関係が深まったら、ブリュナ時代の機械のレプリカを沢山作って、富岡の工場に並んでいるところが見たいです。

お知らせ

中傷だけの投稿は見つけ次第削除し、ご利用範囲を制限させていただきますのでご了承下さい。

記事削除について

このような主旨のブログであれば賛否両論渦巻いて当然、中には誹謗中傷を含め過激な投稿もあるでしょう、だからといって主の意向に沿わない投稿をいとも簡単に削除してしまっていいものでしょうか。

それこそ主にとって都合の良い投稿だけを残すことになり公平な意見交換の場とはなりえない。
ならば最初から一般投稿などさせずに一方通行の主の持論を主張するだけのブログとするべきです。



Re, 記事削除について

 恐れ入りますが、賛否両論渦巻く議論と、中身のない中傷の羅列は区別して管理させていただきます。また、後者についてはいちいちコメントしませんのでご了承下さい。
 この場が議論の場として公平さが保たれているかどうかは、これまでのやりとりを見て個々にご判断下さい。

No title

トピ主様、「中身のない中傷の羅列は区別して管理させていただきます。また、後者についてはいちいちコメントしませんのでご了承下さい。」→私の投稿のことですかね。そこまでおっしゃるのなら、お聞きしますが、①実際に端午節は中国発祥の伝統行事であるのを韓国が国をあげて自国発祥だとして、事実をねじ曲げて世界遺産登録申請をしたのは事実ですが、端午節が中国発祥でなく韓国発祥であるという根拠を示して頂けますか?  ②また以下の公的統計→『蚕糸業要覧』1953 年農林省統計局)・『日本蚕糸業史』第 3 巻(1935 年刊 p.151~166)・等から群馬県富岡製糸場が長野県岡谷市の中山社・林、片倉工業等の功績をとったことが明白ですが、もしもこうした事実を指摘するのが「中身のない中傷の羅列」だと、トピ主たる貴殿が主張するならば、群馬県富岡製糸場が長野県岡谷市の製糸家の方より生産量、出荷額、工場数等が勝っていたという具体的な統計等の根拠をお示し願えますか?もし①②の根拠を明確にお示し頂けないのであれば「養蚕農家」氏がおっしゃる様に最初から一般投稿などさせずに一方通行の主の持論を主張するだけのブログとするべきです。

 

通りがかりの岡谷人さんへ

通りがかりの岡谷人さんのコメントを消去した理由は、
投稿を頂いた直後(5月29日)に書きました。
再度掲載します。
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【通りがかりの岡谷人さん】
岡谷の方のお気持ちはお察ししますが、
範囲を広げていろいろ巻き込む中傷は適切でないと思い
削除させていただきました。ご了承下さい。
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というわけです。
範囲を広げた中傷というのは、
岡谷と富岡をそれぞれ中国と韓国に例えて論じられたことです。
中国と韓国の問題をここで論じるつもりはありません。
また、岡谷より富岡が勝っていたとも一言もいっておりません。

なのでご質問にお答えすることは控えさせていただきます。
また、コメント欄を閉じるつもりはありませんのでご了承を。

No title

富岡製糸場について調べていたところこちらの記事が目にとまり、拝読しました。
いろいろ勉強になりました。ありがとうございます。

別に私自身歴史家でも何でもなく、この話題にしても二次資料しか読んでおりません。
それでもこちらの記事は、少なくとも公平さを保とうとされていると感じます。(そもそもトピックの趣旨が富岡製糸場に対する岩井建造氏のインタビュー記事への疑問なので、批判的な書き方になるのは当然)

コメントで話題になっている女工哀史についても富岡では似たような事例が単に「あった、なかった」ではなく
時代背景等を考慮すれば「あってもおかしくない」そういう時代であったと理解できます。(逆に全くないという方難しいかと)
それを「当時ではそれが当たり前、寧ろ環境は他の工場よりもましだった」と捉えるのか
「女工も仕事に誇りをもっていたはず」や「過酷は過酷だろう」というのは個人の感覚の問題になりますので
ここでそれを論じ合うのはあまり意味がないように思います。

労働者の環境(歴史)ということでこの記事を見るなら、野麦峠の女工哀史もその当時のそれを表す一つの資料ということで他の方が指摘されているような
極端なものではないと思います。

以上、長文失礼しました。

ありがとうございました。

 通りすがりの暇人さん、ご意見ありがとうございました。全体を分かりやすく説明していただきましたことを感謝いたします。

 今日(6月20日)あたり、世界遺産正式登録の知らせが届くと聞いております。富岡では増大する見学者に対応するため、周辺施設の整備が始まっているそうですが、これを機会に製糸産業史や製糸労働史の研究の方も発展することを願ってやみません。

良識

富岡製糸工場の世界文化遺産登録の報道で少し違和感を感じており、あれこれ検索している内にここへたどり着きました。よいものにめぐりあえたと思い、少しほっとしました。ただ、このようなブログに対しても、バッシングが行われているのには驚きました。しかもネトウヨだけでなく、関係地域の人たちからも、遺産登録の喜びにケチつけるなといわんばかりのコメントが入っており、現在のこの国の「空気」が読める気がします。観光地として地元が潤うことはいたって喜ばしいことですが、この建物の歴史は明暗両面の評価を背負うことになるわけで、そのあたりの心構えとか気構えがほとんどこの「空気」からは読み取れません。極端な例かもしれませんが、広島の原爆ドームアウシュビッツの収容所が負の世界遺産になっていますけれども、同じ「負」の側面がこの建物にもあるはずです。これが手放しで喜ぶようなことだろうか、なぜメディアはそういう意味の報道をしないのか、僕にはいらだたしい感じがあります。この国のメディアは「空気」を読むことに長けていますから、気配があれば危うきに近寄らない姑息さを発揮します。そういう意味でこのたびの報道は本当にひどいと思っています。だから、木村さんの書かれたこの文章はネット上での良識との出会いであったと思っています。

No title

本当そのとおりですよね。
そういう「負」の部分も含んだ上で、世界遺産に相応しいとは思うんですけど、
世間やマスコミはそういった「負」の部分には目を瞑って手放しで賞賛だけしている状況というのは、
すごい違和感を感じています。

No title

具体的な当時の生糸の総生産高に対する、富岡の生産量の割合がどれほどであったのか、dataは無いのでしょうか。
何もしないで虫のいいことを言っているのですが、どなたか明確な判断材料を示していただけないでしょうか。

記事内容に期待して逆転延期と思ってたのに登録されました。
見通しと取材の詰めが甘いんだわ

Re, 良識

塩崎春彦さん。お褒めの言葉をありがとうございます。
 昨日、文科相が富岡を訪れ、国の資金を投入して支援することを明言したと聞き、富岡製糸場が国民共有の財産になったことが実感できました。今後富岡には世界遺産の条件について国際的な監視の目が付き、また国税の一部が富岡に使われるわけですから、国民の目もそれなりに厳しくなるでしょうね。

No title

2014-06-22 Guestさん。お読みいただきありがとうございます。
 単にお目出度いニュースとして、紹介する記事や番組が多いようですね。群馬県での販売数を伸ばしたい(と思われる)東京新聞の浮かれぶりは異常です。ただ、その他の新聞のこれまでの記事に、民営化時代の情報が少ないことに触れているものも、あるにはありました。ICOMOSも指摘しているその部分をいつまでも放置すれば、日本の文化レベルがその程度だったということになりますね。

生糸の生産

緑の熊襲さん。
 群馬県内の生糸生産高の推移における、富岡製糸場が占める割合というのはよく分かりませんでしたが、県別の生産高や事業所の数については資料がいくつかあり、明治の初頭を除いて長野県が圧倒的に多いことは、誰もが認めるところだと思います。以下はネット上の二次資料ですが参考までに。
http://www3.ueda.ne.jp/~sinsin/sinsyu/text/sansioukoku.pdf
http://www.nias.affrc.go.jp/silkwave/hiroba/summit01/yokohama/koizumi/koizumi.htm

逆転延期

岡谷製糸さん。
 日本の製糸産業を支えた岡谷の方として、私のブログにまで文句をつけたいお気持ちはお察ししますが、私も、長野、埼玉、神奈川、京都などにある、日本の製糸産業遺構を総合的に指定する方向で話が進まなかったことを残念に思っています。

脇道にそれますが...。

義母は8年前96歳でなくなりました。生きていれば、104歳です。
逆算すると1910年の生まれではないでしょうか。
女学校を卒業した年から諏訪の製糸場へ2年間働きに行っていました。
1926、7年くらいからだと思います。
富山県滑川市の裕福な農家の娘で、家にいればお嬢様暮らしの人でした。
冒険心からよそに働きに行くことにしたそうです。
毎日が楽しく貯金もできて、ずっと働いていたかったそうですが、母親が急逝した為泣く泣く実家に戻ったと話していました。
80歳の頃、諏訪の会社の何十周年かの祝いに呼ばれて、当時働いていた人達と再会できたそうです。
交通費、滞在費全てその会社持ち、記念品も出て、今この会社があるのは皆さんのお陰ですと、大変な感謝をされたそうです。
記念写真を見せてもらいましたが、ご存命の方が多く明るい顔のおばあさん達が写っていました。
仕事ですからキツかったと思いますが、少なくとも義母の働いた会社では女工哀史ではなかったようです。

富山は姉妹二人だと、妹が跡取りになる習慣があるようで、長女の義母は母親の喪が明けてすぐ大家族の農家の嫁に行くことになりました。
長女を産んだ2ヶ月後には、姑自身が子供を産み、家事から農家仕事、姑の子供(夫の末弟になります)のオムツ洗いまで全て義母の仕事になりました。
結核の義妹の世話までしていたそうで、義母にとっては女工哀史より切ない、嫁哀史だったと思います。

いろいろな経験をなさった方がいたでしょうが、富岡より年代の下った義母の女工時代もまた真実の歴史です。
諏訪で義母に親切にしてくださった、会社の関係者の方々へお礼を申し上げたくコメントさせていただきました。

世界大恐慌


世界大恐慌が1929年ですから、義母が働いた時代は養蚕業が最後の黄金期であったわけです。
ちょうど良い時に働いていたことになります。

No title

聞き耳頭巾さんの身内のような扱われ方が普通であり、手間ひま掛けて教育し育てた社の宝である技術者を哀史のように粗雑に扱う経営者は今も昔もあり得ない。

いわゆる落ちこぼれで技術が伴わず、同じ繭を材料として使いながら粗悪な生糸を作り出してしまう人の給料が上がらないのは当然の成り行きで、そのような人にスポットをあてたものがいわゆる哀史なので手先の器用な大多数の女工に哀史は当てはまらない。

あたかも全国の女工の全てがそうであったかのように殊更に強調、読む人が誤解するように誘導し、それを富岡のガイドが案内しないのはおかしいとする論調こそがおかしい。

Re, 脇道にそれますが...。

聞き耳頭巾さん

 興味深いお話ありがとうございました。製糸場の仕事を体験された方からの聞き取りは大切な歴史資料ですね。元工女さんの聞き取り調査には、大切にされ、たくさん稼げて楽しかったというものが残っていますし、仕事だけでなく余暇活動の写真も残っています。それらは、製糸場の生活の一端を示す記録ですね。

 
 

2014-07-06 Guestさんへ 待遇のこと

2014-07-06 Guestさん

 今と昔の賃金制度を同一視されているようですが、それは明らかな誤りといわねばなりません。昔の製糸場は、現在のような生活できる最低賃金が保証された上での能力給ではなく、山本茂実が哀史の根源と考えた「共食い」と称される賃金制度の下で働いていました。以下は前にも書いた(2014-05-18)文章ですが、「日本産業史分析によると(高給な工女は)明治後期で工女全体の10%程度おり、60%ほどいた平均的工女の2倍の給料をとっていた。その高給分は平均賃金を低く抑えることと、平均以下の等級の工女の給料や罰金で賄われた)」ということで、つまり、工女の90%は平均か平均以下の賃金で働き、場合によってはマイナスにもなるということです。これは現在の能力給とはまったく異なる(現在では違法な)賃金制度です。

感想です

全くの門外漢ですが、ごめんください。
私も、富岡製糸場といったら、元祖ブラック企業のようにイメージしておりましたので、今回の世界遺産登録で、製糸場は近代的で労働条件も優れていたという報道に驚きました。どうやらそれは数年のことだったらしいと、いろいろな情報から納得していたところです。いろいろお調べいただいての記事、また粘り強い議論に敬服いたしました。
このブログにたどり着いた入口は、上諏訪温泉・片倉館でした。片倉財閥が文化遺産の保護には理解があったということ、同時にそれだけの財力が持っていたこと、また、その片倉財閥の歴史的な限界というのも感じました。
翻って、現代の大企業が、財力に見合った企業の社会的責任を果たしているのか。否、果たさせているか。労働運動の低迷(資本家側の狡猾さのなせる業とは思いますが)の責任は重大であると感じます。

脇道にそれますが...。

度々のコメント失礼いたします。
思い出したことがありまして、義母の月の賃金の話ですが、最初は25円慣れてきたら28円くらいになった、と聞いた気がします。
夫に確認したら、「覚えていないな、あまり苦労話などしない人だったから。」とのこと。
私の記憶違いでしょうか?
その頃の賃金としては高い方なのですか?
義母は愚痴を言わない、芯の強い人で、明るいのですが負けず嫌いをオブラートに包んではいました。
想像するに器用な立ちで、頭も良かったので今で言うところのAランクの仕事ぶりはしていたのではと....。
金額は不確かなんですが、ちょっと気になりましたので御教示頂けましたらありがたいです。

Re, 感想です

山口さん

 コメントありがとうございました。お褒めをいただき励みになります(といっても最近更新を怠っており、すみません)。
 労働運動の低迷はブラックを常態化させますが、昨今のニュースを見ると事態は深刻ですね。産業遺構に注目が集れば、近代の労働と資本にも関心が持たれると考えているのですが、それらは分断されがちですね。

Re, 脇道にそれますが...。

聞き耳頭巾さん

 コメントありがとうございます。返信が遅くなりすみません。

 1926年頃は大正の初めより物価と賃金が上昇しており、内閣統計局の家計調査などによると、国民の80%を占めた下〜中間層世帯の月収は60〜140円程度で、地域によって少しずつ違いますが、月収60円あれば夫婦で暮らせ、子供がいるとかなり苦しかったようです。
 この時代は世帯主が一人で家庭の支出を稼ぎ出すのが難しく、その他の家族の収入が家計を支えていることが多かったようです。
 お母様がご記憶されている25〜28円というのは入社後間もない頃の賃金と思われ、最終的にはもう少し昇給されていたのではないでしょうか。

出典について

貴重な情報を本当にありがとうございます。「民間の製糸場では毎日12~14時間働き、月に2日の休みというのが普通になっていった。苛酷な労働は大正5年の工場法施行まで続く。」の部分の出典もぜひこのページ本文に記載いただけましたならば幸いです。よろしくお願い申し上げます。

Re, 出典について

出典希望さん

 このブログは論文ではなく、個人の備忘録的な記事ですので、文中に引用したものや書籍の紹介文を除いては参考文献を掲載しておりません。書いてあることは自分が現地等で確認したことと、少しお調べ頂ければすぐに資料が見つかるような定説ばかりですので、それぞれご確認頂ければ幸いです。

 製糸労働者の労働条件につきましては、多数の書籍や論文があります。参考までにネット上に閲覧可能なpdfがアップされている論文等の一部をあげておきます。さらに幅広い情報をお求めの場合は、そこに引用された文献を手がかりにお調べいただければ幸いです。

http://ir.lib.fukushima-u.ac.jp/dspace/bitstream/10270/3103/1/3-1078.pdf

http://d-arch.ide.go.jp/je_archive/pdf/book/unu_jpe9_d02.pdf

http://libir.soka.ac.jp/dspace/bitstream/10911/1940/1/KJ00005439832.pdf

http://fourier.ec.kagawa-u.ac.jp/~tetsuta/jeps/no3/chikamoto.pdf

うっかりするところでした

先日(8/17)TV東京の「美の巨人たち」で取り上げられていたのを見ました。(この番組は一つの芸術美術作品を丁寧に扱っている長寿番組で大好きなのですが)明治期のフランス人技師の設計に日本の職人技が加わって造り上げた優れた建築(施設)に武家の娘などがこぞって集まり皆が志高く技術の習得に励んだ幸福な場所だったというエピソードでした・・そうだったのかやっぱり世界遺産に選ばれるだけのことはあったんだ・・と思った瞬間『あれっ昔の蚕糸産業の過酷さって「女工哀史」の世界とは別物なのか?」・・で貴ブログに辿り着きました。うっかりお花畑の世界に行ってしまうところでした。

返信がおそくなりすみません

う゜unimaru さん

 お読みいただきありがとうございました。確かにブリュナたちが教えていた時代は幸福な場所だったかもしれませんね。私はその時代を「富岡女子製糸学校時代」と呼んで、民営時代の「製糸工場」とは区別したいと思っています。
 私はその「美の巨人たち」を拝見していませんが、時代区分の線をはっきり引いて説明されていればよかったのにと思いました。
 情報ありがとうございました。

No title

つい先日、富岡製糸場へ行って参りました。
そしてボランティアガイドさんが「富岡は野麦峠とは違う。女工哀史は無かった。」とハッキリ言っておられました。
(先のコメントに、「無かったとは言っていない」とありましたので、ご報告まで)
私自身は、「富岡はスバラシイ」ばかりの解説に疑問を感じ、こちらのページにたどり着きました。
色々なご意見、参考になります。

情報ありがとうございました

通りすがりです さん

 そうですか、言っておられましたか。
 もし哀史があったら、そんなにマズイのでしょうかね。歴史を美化する事に必死になるのではなくて、分からない事はわからない、両論あることは両論あるときちん伝えるのが、解説員の仕事だと思うのですが。
 ICOMOSから、官営時代だけではなくて通史を明らかにしなさいと、勧告を受けていると聞いたのですが、あれどうしちゃったのかな。

最新情報をありがとうございました。

No title

はじめまして。

先日の祭日、富岡製糸場を見学してまいりました。
ボランティアガイドのツァーに参加しましたが、岡谷や諏訪であったような女工哀史は、説明でも展示でもふれることがありませんでした。
もっとも、見学する方も多く、ボランティアガイドの説明もあまり聞き取れなかったこともあるので、説明はあったのかもしれませんが。

気になっていた女工哀史との関連を検索したり、他の方と意見交換していたとき(以下が、意見交換のときに書いたものです)、その相手の方からこちらを紹介していただきました。

確かに官営工場時代は、工場であるとともに技術を習得する場でもあったことから、女工哀史で語られるような搾取はなかったのかもしれません。
しかし、民営化以後はどうだったのでしょうか。
創業当時は8時間労働、日曜休日、年末年始と夏期休暇があったそうですが、民営化以後は労働時間の延長や休日の削減が行われいったようです。
官営工場から民営化された歴史も含めて、富岡製糸場がどのような工場であったのか、時代の変遷とともにどのような役割があったのかなど、語られるべきことはまだまだあるように思います。
このあたりは、きちんと整理して説明に加えたほうがいいのではないだろうかと思いました。
ことに、花子の妹の件もあることですし。

このブログでの提起と、その後のコメントは、興味深く拝見させていただきました。
ユネスコのサイトでも、
Undertaking research on the transmission of expertise by women, from France and within Japan itself, thanks to their roles as instructors and workers; and improve knowledge about the latter’s working and social conditions.
ということが書かれています。
http://whc.unesco.org/en/decisions/6113
このあたりを、今後、どのようにわかりやすく伝えて行くか、ということは、これからの課題になるのでしょうね。

合わせて、いまの製糸場の見学方法が決して万全だとも思いませんし、工夫の余地は多々あると思いました。
むろん、富岡製糸場だけが世界遺産となったのではないので、他の構成資産を含めて評価しなければいけないことだとは思いますが、建物などの保全ととともに、世界遺産登録家庭で評価された点が、現状では明確な形で展示されてはいないと思いました。
また、周辺のまちづくりとの関連でこれからどうしていくのか、製糸場周辺も含めた多くの見学者の受け入れ体制も、現状では決してプラス評価できるとは思いませんでした。

ありがとうございました。

読ませていただいて

最初のブログからそれに対する議論まで読ませていただきました。木村さんの冷静な、そして懇切な対応に敬服します。
ただ、民営時代、そこに働く若い女性たちの日常が、「女工哀史にイメージされる日々」だったのかは、少し距離を置いて考えてもいいのかなとも思います。イメージとしての「女工哀史」の世界は、勝手に想像すれば、棄民のように生まれ育った郷土を離れ、頬もこけ、打ちひしがれ、目だけが異様に光りを放つ女性達の群れ、というような感じでしょうか。このイメージは、例えば多くの若い女性の中には、おそらく優れた短歌の一つも詠う才気にあふれた女性もいたと思います(確かめたわけではありませんが)。その女性に富岡製糸場の日々を象徴させ「文化的水準の高い職場」と言うのと同じくらいの危うさを感じます。
議論を読んでいて、賃金制度や管理システムを抽出してみれば、「女工哀史」は間違いなくあったと断じてもいいように思います。ただ、想像に過ぎませんが、その過酷な「女工哀史の世界」を生きる日常の実相は、少し異なるのではないかな、と。おそらく若い女性ならではのまぶしさも笑顔もあったはずです。でなければ、今もそうであるように、その時その時を生き抜いていくことはできないと思うからです。一方、官営時代は、社会システムとしての「女工哀史」はなかったかもしれませんが、この世の天国であったとも思えません。ことによるともっと隠微な世界を想定することも可能のように思えます。
そうした日々の延長線上には戦争があり、敗戦を経験し、そして現在の私達の暮らしがあります。私達の現在を肯定するのであれば、物語はそこにまで繋がるものであって欲しいと願います。木村さんの真意もそこにあるのかな、と思った次第です。

コメントありがとうございました

Kusunoki さん

 お読みいただきありがとうございました。返信が遅くてすみません。日本人にとって、明治時代と現代をつなぐ物的証拠として、他の産業遺構といっしょに様々なことを考えるきっかけになる遺構だと思うのですが、現時点ではまだ、初期の富岡はこんなに立派だったということしか伝えられていないようですね。もったいことです。
 この夏、移転中だった岡谷の博物館がオープンしたので見学に行ったのですが、群馬県から見学に来られた団体さんがおられました。様々な交流が進み、富岡の歴史的位置づけが多様になるといいなと、ちょっと思いました。今後も注目したいと思います。

Re, 読ませていただいて

node_kuri さん

 過ぎたるお言葉恐縮です。
 いうまでもなく、どんな時代にも我が世の春を謳歌した人もいれば、悲惨な境遇に苦しんだ人もいて、また同じ職業に就いていた人の中にも、個々の待遇や仕事に対する評価は大きく違っています。 
 歴史調べの楽しみは、そうした事象の詳細や背景が少しずつ明らかになり、おっしゃるように色々な時代や場所、物に話がつながっていくことだと思うのですが、特定の人が好むごく単純なストーリーに、その楽しみを断ち切られてしまうことも多いですね。

No title

富岡が登録されるであろうと言われだしてからずっと気になっていた、女工哀史について今日気になり検索して辿り着きました。
色々なコメント全て読ませていただきました、その人の立場で見方が変わり、それに丁寧に返信されている事に感服しました。
その事実があったのかなかったのか、真実は分かりませんが少なからず近いことはあったっと、全くなかったは私は考えられません。
だからと隠す必要もないと思います。歴史なのだから。
ありがとうございました。

No title

futureさん
 コメントありがとうございます。私もそう思ってこれを書きました。悪い事はなかったと強調することにどんな意味があるのか、全くの謎です。歴史学習の目的は、誰かが気持ちよくなることではないですよね。

女工と水呑百姓

今までのコメントのやり取りを読みました。どのコメントに説得されたかを述べることも、Cicadanさんのブログに対するコメントとして意義があると思います。

2014-05-29 蚕が子守唄の『朱儒の言葉』と題されたコメントが、このブログとのCicadanさんご意見の流れを見事に言い当てているというのが私が最も同意できるコメントでした。「日本の製糸業への愛と思い入れから書いたCicadanさんは、きっと誰よりも民衆を愛することに負けないCicadanさん」なのでしょう。

2014-10-18 のCicadanさんの言葉、「悪い事はなかったと強調することにどんな意味があるのか、全くの謎です。歴史学習の目的は、誰かが気持ちよくなることではないですよね。」については、病膏肓に入れり、と笑ってしまいました(アッ失礼)。せめて、もっと正確に、「良かったこともあったと強調することにどんな意味があるのか、全くの謎です。歴史学習の目的は、誰かが気持ちよくなることではないですよね。」と言ってもらいたかったですね。でも、当たり前のことですが、人間のやること、非もあり是もある。非だけを強調すると歴史を見誤ります。反省すべきは反省し、是とするべきは是とする。反省ばかりでは人は誰でも萎縮してしまい、非生産的になってしまいます。今後の我々の未来を生産的に発展させるためには、自分の先人たちの負の側面をやたらに強調するばかりでなく、両面をバランスよく見て、自分の先人たち正の側面にも意識的に目をやる態度が必要条件だと思います。
 
 私の知る限り、今まで『ああ、野麦峠』によって日本の製糸業の負の側面が一方的に強調されてきた。そこへ和田英著の『富岡日記』が巷の話題に乗るようになって、皆さん「えっ」と驚いた。私には、いよいよ人間の複雑な事象の両面が見られるようになってきたと思えました。

2014-06-01 養蚕農家さんのお書きになっているように、「かねてより製糸から精密機械工業に産業を切り替えた岡谷・諏訪は観光面も含めて活気がある」という発展と、女工哀史が無関係だとは断定できません。意外に正の役割を演じていた可能性だってありえます。1940年に書かれた、『日本における近代国家の成立』 E.H. ノーマン著、で詳しく論じられているように、産業革命前夜、善意に基づいて英国の農民の惨状を救うために制定した英国の法律が原因で農場を追い出された元農民がロンドンのスラム街でもっと悲惨な生活を送り、その反対に、水呑百姓として高い小作料を認めていた日本の法律があったために「出稼ぎ」制度ができ、そのお陰で、世界が驚愕した戦前の日本の経済発展と、当時の都会の労働者ばかりでなく小作人たちの驚くべき生活の改善がなされたのでした。

今まで小作人たちの悲哀はこれでもかこれでもかと喧伝されてきましたが、ノーマンの言うように両面を分析しておかないと、「民衆への愛と思い入れ」から作られた法律がイギリスで起こったようにスラム街を作り出してしまうことになりかねない。

この事実を知ってから、私はもう亡くなった母親がいつも言っていた「お百姓さんに感謝しなさい」言葉の深い意味を知りました。単に食べ物を供給してくれたから感謝せよと言うはなく、水呑の苦しみに耐えて日本の発展を支えてくれたお百姓さんに感謝せよ、と言うことでもあったのですね。

また、今の時代の基準で過去の善し悪しを論じるほど、歴史に対する誤った分析法はありません。何時の時代にも人々は与えられた状況の中で幸せを見付けながら生きてきました。過酷な状況を正当化するつもりはありませんが、今の基準でその幸せを云々することに、私は意味を認めていません。


Re,:女工と水呑百姓

 texas-no-kumagusuさん
 コメントありがとうございます。「朱儒の言葉」を引用された蚕が子守唄さんも喜ばれることでしょう。
 自分が「病膏肓に入れり」かどうかは分かりませんが、この記事を書いた理由は「富岡に女工哀史はなかった」とか「富岡は女工哀史とは無縁であった」との主張に引っかかたことです。ですから当然「良かったこともあった」ではなく「悪い事はなかった」となります。
 『富岡日記』で「いよいよ人間の複雑な事象の両面が見られるようになってきた」になるとは思えませんが、もし富岡の説明に引用するのなら「初期の富岡にはブリュナらを師とする学校のような楽しい時期があった」とでもいえばいいのに、と思います。

 製糸業衰退後の諏訪地方の活気を「女工哀史が無関係だとは断定できません。意外に正の役割を演じていた可能性だってありえます」と考えるような柔軟な発想は必要ですね。
 単純に考えると機械工場に転換できた理由は、都市部の軍需産業が、空襲を避ける疎開先として諏訪地方の遊休工場群に目をつけた、というような、地の利とインフラの充実ということになるのでしょうが、敗戦後も再度企業を誘致して甦った背景には、諏訪地方の人々に明治の創業以来維持してきた起業家スピリットのようなものがあったのでしょう。工女関連でいえば、諏訪地方が製糸業の衰退で大量の余剰労働力を抱えていたことや、遠方の農家からも労働力を集めるネットワークを持っていたことが、新しい産業の労働力確保に役立ったことは確かですね。

 あとノーマンの報告書についてのお話も興味深く拝見いたしました。
 日本の寄生地主は小作人から高額な小作料をとるだけでなく、伝統的な柵や契約で小作人を土地に縛りつけておくことができたといえますが、そのため農民の大量流出などがコントロールできたのでしょう。
 寄生地主が生産量の70%近くを小作料として徴収し、その半分を税に、残りを商工業や金融などに投資したために、農村と農業の近代化が停滞し、各地で血を見るような小作争議が起きたものの、近代資本主義の発展や日本の工業化には大いに貢献したといえます。つまりこうした国ぐるみの小作人搾取がなければ日本の近代化は大幅に遅れたでしょう。
 texas-no-kumagusuさんがおっしゃるような形で、歴史を多面的に捉えて感謝を語るならば、小作人の搾取に励んだ寄生地主さんにも感謝するなど、感謝すべき対象は無限に広がっていきそうですね。

 もちろん全ての農地で搾取が滞りなく行われたというわけではなく、農業が立ち行かなくなって離散した村もあります。生活の基盤となる土地や家族があれば「出稼ぎ」となるのでしょうが、そのまま都市の中に消えてしまう元農民も多かったようですね。都市の工場の農民吸引力が強まると小作料の見直しが行われたといいますから、寄生地主も大変です。

 大都市にスラムは付き物ですから、日本にも近世以前からからスラム街が多数存在しました。近代に入ると土地への縛りがゆるくなったためその人口が増加したようです。明治末から大正にかけては、政府や自治体の環境福祉防犯施策としてスラム街の実態調査やクリアランスが度々実施されています。スラム街は人口調査が難しいですが、明治末から大正初期に全国で数10万人程度、その3分の2が農村出身者であるという推定もあります。その頃、田野橘治の『暗黒の倫敦』など、貧民窟ものが多く出版されたのも、人々の好奇心がスラム街に向けられていたからでしょう。本の内容は今から見れば差別的な記述が多いですが、今の基準でスラムの住民が不幸であったと決めつけることはできませんね。
 近畿の都市に多かった貧民の受け皿マッチ工場では、製糸場と同じように農家の少女も働いていていましたが、彼女らが都会の垢にまみれて身を持ち崩して消えていくことを嘆くスラム街ウォッチャーもいました。そういう意味では女子労働の場として地方の製糸場には別の価値もあったといえそうです。

 長々と書いてしまいましたが、おっしゃるとおり、現代の基準で過去の良し悪しを云々することはできません。ただ、当事者の強い意志や周囲のお節介などによって状況が変化し続けてきた訳ですから、私はその変化と、そこにどんな意志が働いたのかにも注目したいと思います。

どうして硬直してしまうのでしょうか。

連日の「富岡万歳」「世界遺産万歳」で塗り固められたような
報道に、かねてより疑問を感じておりましたが、改めて
いろいろと検索するうちに、こちらにたどり着きました。

端的に言って、管理者さまと同じ意見です。
どうして「女工哀史は無かった」なんていう、
硬直した乱暴な主張になってしまうのでしょうか。

何かを、何かのために、都合よく漂白してしまう、
自分にとっては、これがいちばん怖いことです。

歴史的なことであれば、なおさらです。

都合の悪いことには蓋をする、隠す、見えなくする、
塗りつぶす――そういうやり方でいいと思っている、
それはおそろしいことです。

それに何より、富岡を訪れる人に対して、大変な乱暴、
とても失礼なことではないでしょうか。丁寧な説明、
理解してもらおうとする努力を、はなから放棄したやり方です。

たとえ「世界遺産」の四文字に釣られてやってきたとしても、
観光客は、きれいなものだけを見聞すれば、それで満足して
帰っていくのでしょうか。いやむしろ、現地の人から、
酸いも甘いも噛み分けた、丁寧な説明を受ければ、
「なるほど、そうだったのか。
これは現地まで来た甲斐があった」と、
そちらのほうが、大いに納得して帰ることが
できるのではないでしょうか。

「富岡には女工哀史は無かった」と断言してしまうのは、
まるで「我が校にはイジメは無い」と断言してしまうのと、
同じようにしか、自分には思えません。



Cicadanさんの記事をきちんと読むべきでは...?

なんだか、Cicadanさんの意見を斜めに読んでおられる方が多いような気がいたします。
ざっくりいうと、「富岡製糸場は女工哀史的な側面は全くない先進的な職場と言っているが、日本の労働史を考慮すると、長い歴史の間全くなかったとは言えないのでは」というのがCicadanさんの言いたいことではないでしょうか。
なぜ、富岡製糸場を貶していると思われてしまうのか...。

片倉時代に富岡製糸場内の学校で先生だった方にお話を聞いたことがあります。
富岡製糸場では女工さんに教育を提供していました。一定の条件を満たせば専門学校同程度を卒業したと認められたそうです。
年に一回、勉強の成果(裁縫や華道など)を発表する会が開かれ、そこには親御さんを呼ぶことができ、「これが私の作品だよ」「おお頑張ってるなあ」と話し合う姿が見られたとか。
退職するときは、お嫁さんとなっていかれる方が多かったようです(今でいう寿退社ですね)

この時代はなかなか良い職場だったのかしら、なんて思います。

Re,: どうして硬直してしまうのでしょうか。

品川山人さん、コメントありがとうございました。

 おっしゃる通り歴史遺構の魅力は、その壁や柱に刻み込まれた多層的な歴史の記憶に他なりません。どんな歴史も光と影のヒダからできているのですから、それをツルンとした平面にしてしまう行為は、価値の否定でしかありませんね。
 世界遺産指定に引き続き、国宝にも指定されることによって、「我が町の宝」を超えて「国民共有の宝」もっといえば「人類共有の宝」となるわけですから、今後の展開に期待したいと思います。

Re,: 記事をきちんと読むべきでは...?

エリアさん、コメントありがとうございます。

 片倉が設立した学校で教鞭をとっておられた方のお話を聞かれたとは、羨ましい限りです。特に戦後作られた学園は、文部省の認可も受けた本格的な教育施設だったそうですね。私の場合、戦後の片倉については、埼玉の片倉熊谷工場の展示がとても勉強になりました。
 労働条件は戦前と戦後で大きく変わりましたが、各時代ごとの変化を客観的に見ないと、官営時代の良いことも色あせてしまうと思います。また何か情報がありましたらお教え下さい。

No title

製糸工場と聞いて真っ先に「野麦峠」を思い浮かべたけど案の定か・・・
まぁ今時の子は「野麦峠」を知らないから適当なことを言ってもバレないと思ったんだろう
これじゃ北朝鮮を笑えないよ

2015-02-09のGuestさんへ

 せっかくコメントをいただいたのですが、文章の意図がよくわかりません。もう少し明確にしていただけると助かります、よろしくお願いします。

聞き耳頭巾

ご返事遅くなりました。
母の賃金を教えて頂きありがとうございます。
25円の賃金で魚津の友達と二人で駅で落ち合う約束だったそうです。
当日行ってみたら友人は弟と駅に来ていましたが、父親が長く病気をしていてお金も必要ではあるのですが、母親が亡くなっているので弟と父を残してはいけないと謝られて、諏訪に一人で向かうという出だしであったそうです。

以上のことは私がようやく思い出したものです。
肝心な話なのに息子である夫は、一度くらいは聞いたことがあるはずなのに覚えているのは諏訪に行ったことだけだそうです。
事ほど左様に当事者は、真実を知っていても忘れてしまうのではないのでしょうか。
ましてや、自分たちに都合が悪いことは子々孫々伝えないのではないのでしょうか。
いろいろなコメントを読ませていただいて、女工哀史が頑なになかったと主張するのは無理があるように思います。

江戸時代でも明治、大正、昭和の時代でも貧困層は大勢いたはずです。
昭和30年代の生まれですが、秋田の農村地帯では家に蚤がいるのが当たり前でした。
当然禁止されていたはずのDDTもまだ普通に売られていていました。
小型の筒状の空気入れのような形状でポンプの柄を上下して家中に振りかけたのを覚えています。
昭和でもそうなのですから冷害もある東北の農村は、本当に悲惨でしたでしょう。
父母はあまり昔の話をしませんでしたので、昔話はご近所のご老人達か親戚のおばさん達から聞いただけですが、いろいろありましたよ。
村の近くに川がありますが、戦前までも育てられない赤ちゃんや未熟児で生まれた赤ちゃんはゴザにくるんで捨ていた哀しい歴史があったそうです。
水子と言うのでしょうね。葬式代がないので当然のこととしてなされていたことで産婆さんも水に濡らした和紙を、生まれたばかりの赤ちゃんの顔に貼り付けたとも聞きました。
その為、この地方は、お地蔵さまの信仰が未だに強いのです。
今の時代に聞けば残酷ですが、いいも悪いもそれしか生きていく方法はないのです。
以上の話を2歳下の近所に住む従兄弟に話したら全然知りませんでした。
私はたまたま聞いただけなので特に他の人に話したことはありません。
不名誉な歴史は語られることがないのが普通です。
語られないことは知らないのです。


貧しい農村から即現金収入になる女工は、なれるだけでエリートだったのではないかと思います。
何しろ物心がついた時には「あの家は娘を芸者屋に身売りした」と陰口を言われている家がまだありました。身売りされるより、女工がきつくても当時の農村の百姓仕事に比べれば大したことはなかったのではと、推測してしまいます。
結核が流行ったのも集団生活では当前のことでしょう。
女工の歴史に全く黒歴史がなかったはずはないでしょう。
大竹しのぶさんの野麦峠の映画がTV放映された時、みんな涙して見ましたが
翌日のご近所のご老人たちの反応は、可哀想だけど昔の自分達に比べれば大したことはないと盛り上がっていました。
農地の少ない山の方の出のおばあちゃんは、昭和6年の大冷害で親戚一同80人も亡くなり、残った20人ほどの中から女子は5歳の子供から身売りされたった一人だけ残った話をしてくれました。
「私は今でいう股関節脱臼で足が不自由で、人買いがいらないとい言ったんだ。5歳で売られていった妹はその後の消息は分からない、墓がわかれば拝みに行きたい、死ぬまでに。」
と言っていたのが印象的でした。

おしんが放映されていたときは、「おしんより気の毒なのが俺だ、”おじん物語‘‘でも書いたらもっとヒットする。」と断言したおじいさんもいました。
長くなりましたがどんな時代にも語りたくない黒歴史があると言う観点でコメントをさせていただきます。
(リクエストがあれば、おじんおじいさんの話はまたの機会にでも)
検証する(?)にあたり我が地方の悲惨な歴史を書き連ねてみました。

玉ねぎは剥いても剥いても齧れば涙が出ます。
涙が出る歴史を知っていてあえて隠すのは、おかしいのではないでしょうか?




聞き耳頭巾さんへ

 聞き耳頭巾さん、歴史を学ぶヒントになるといいますか、示唆に富んだ素晴らしいコメントをありがとうございました。

 曲がりなりにも人権が尊重されるようになったのはごく最近のことです。歴史を学ぶということは、良いことと悪いことを分けて取捨選択することではなく、実際にどんなことが行われ、人々がどんな暮らしをしてきたかということを、時代の雰囲気も含め、できるだけ多く知ることだと思います。それによって未来の幸福につながるヒントが得られるでしょうし、誰もが二度と悲惨な目にあわないための処方箋を知ることができます。

 耳障りのよい美しい歴史は、聞くものに幸福感をもたらします。それが自分の住む地域や国のことであれば尚更です。しかし、それは一時的な麻薬のようなもので、麻薬の快感に淫してしまうと間違いに気づいても後戻りが難しくなります。それでは幸福な未来を築くことができません。暗い落とし穴に向かって突き進むだけです。さらに自分だけでなく、次の世代によい話ばかり教えるのは、次の世代から考える力を奪っていくことにもなります。

 「悪い面もあったけど、こんなにいい面があったのだから、結論としてよかったのだ」などと簡単に結論付けてはダメなんだと思います。できるだけ沢山の情報を集め、それを記録し、未来への判断材料にする。ただし、判断に間違いがあるかもしれないので、いつでも後戻りできるよう常に反対の考えも頭の中に入れておく。これは簡単なことではありませんが、心がけるべき理想だと思います。

 ですからこれからも、良いことも悪い事も、みなさんの様々なお話を集め、記録して下さることをお願いします。そしてその一部でもけっこうですからお教え下さると嬉しいです。今後ともよろしくお願いします。ありがとうございました。

No title

昨日富岡製糸場に行ってきました。
女工哀史という言葉を頭の片隅に持っていた私としましては
何かを隠しているような気がする、何かを作っているように気がする
という感覚を持って帰ってきました。

そしてちょっとネットで調べてみようと思い、本ページにたどり着きました。
おかげさまで私のモヤモヤが明快な文章によりスッキリしました。
ありがとうございました。

これからでしょう

「できるだけ沢山の情報を集め、それを記録し、未来への判断材料にする」ことは重要です。しかしそれはあくまで、歴史を研究する人や、それに関して政策的判断をしなければならない人にとって不可欠なものなのだと思います。ですので、富岡製糸場が世界遺産となり物見遊山に訪れる人たちに「負の歴史」も知ってもらった方がよいとまでは、私には言えません。
ガイドの方はたしかに「よいこと」だけをお話されていましたが、私は何の問題も感じませんでした。むしろそのことで、そこで語られていなかったことを知りたいと思い、自分で調べ始めました。インターネットというのは、適切なリテラシーさえ持っていれば、それを必要とする人が極めて容易に情報を探すことのできるメディアです。ですので、ここで管理人様による地道な調査報告が知れたことは本当にありがたかったです。
さまざまな立場の方のやり取りを見ながら、改めて人はそれぞれ必要とする知識に違いがあるのだということを感じました。立場の違いから起こる対立も、大局から見ると悪いこととは言えません。そのことでお互いにがんばり合えることもあります。重要なのは、そこで語られている問題を客観的に研究している人がいることです。
同施設はまだ、学術的な研究にはほとんど手が付けられてない状態だと思います。近い将来、ここが博物館となり、学芸員が入って「歴史的」な研究が行われるようになるとよいです。「負の歴史」が示せるようになるのは、それからでも遅くないと思います。

2015-05-05 の Guest さんへ

コメントありがとうございます。励みになります。
「何かを作っている」と感じられたのは、興味深いお話ですね。

Re,: これからでしょう

困ったさんへ コメントありがとうございます。
 おっしゃられたことの本意は違うところにあると想像しますが、特定の専門家以外には、必ずしも「負の歴史」を知らせずともよいといわれてしまうと、それは違うと反論せざるを得ません(笑)。

 見学者の学習意欲は様々ですが、可能な限り多様な側面を伝え、誰もが多くの情報に触れて、自分達の歴史について深く考えられる環境を提供すべきではないでしょうか。もちろん、歴史に興味のない人が情報を無視するのは自由ですし、歴史的建造物より近くのカフェに惹き付けられてもかまいません。しかし、全ての人に偏った情報しか提供しないのは、一種の情報隠蔽に当たると思います。

 「富岡は民営時代の情報発信が少ない」という意見に対し、地元の研究家が「民営時代は今後の研究課題」などと答えていることから、民営時代のことはまだ研究が進んでいないと思われがちですが、それは違います。
 製糸業や製糸労働は、日本の近代史の重要なテーマとして、長年研究が進められてきました。その成果には、日本人が自分達の歴史として知っておくべき内容が多数含まれています(残念ながら学校教育では近現代史が端折られがちですが)。
 また近代の歴史資料は、近世以前のそれより、内容がはるかに具体的です。現代の産業に直結している部分も少なくないので、良い面も悪い面も含め、圧倒的なリアリティをもって我々に迫ってきます。これを無視した歴史学習は、リアリティのない歴史学習となるでしょう。

 歴史の何を強調し、何を無視するかは、発信者の歴史観と知性の問題であって、歴史研究の進捗状況とは別次元の話ではないでしょうか。また多くの人は正と負の歴史が表裏一体なことを知っていますから、負の歴史を語らないことは不信感を持たれるでしょう。
 軍事や外交などの分野では、全ての情報をリアルタイムで公開したら、国益に反する不都合なことも多くでてきますが、時間が経った産業や労働の歴史は、負の面も含め全て公開することに不都合はないと思います。逆に歴史を粉飾したり一部しか伝えなかったりすることは、歴史情報の発信者が信用を失うことにはならないでしょうか。

5月5日のguestより

夕刻もう一度読もうと思って見てみたら返信コメントをいただいていて嬉しくなりました。
もう少し感想書かせていただきます。

木村さんのように冷静に丁寧に返信を書いているブログに感銘を受けました。
物事にはそれぞれの立場により、様々な見方考え方があると思いますが
とかく自分の意見だけを押し付けたり、反論・攻撃する人も多いです。

また、水の生き物や昆虫を専門にされている方と拝見し、もう一度驚きました。
政治家やジャーナリストをイメージしておりましたので。。

私は、歴史は作ったり、隠したりしてはいけないと考えています。
もちろん、今のところただ見物に行っただけなのでそのような確信がある訳ではありません。
ただなんとなくそんな予感がしただけのことです。
いいことも悪いことも過去に学ぶことにより、より良い未来のために活かせるはずと。

木村さんが示してくれた参考文献や自分で探した資料などを自分なりに読んで
自分なりの意見をまとめていきたいです。

いいゴールデンウィークになりました。
ありがとうございました。




No title

主の主観を基に解釈した豊富な研究結果を、自信を持って富岡製糸場のボランティアガイドとして思う存分観光客に説明したらいかがですか?

ところで、このサイトの性質上読者による投稿記事は主にとって甘いも酸いも苦いも、あるいは取り方によっては過激な反社会的内容や誹謗中傷もあるはずです。
読者投稿の一部にもお見受けしましたが、それらの一切について主の主観だけで取捨選択・削除せず誹謗中傷を含めありのままを掲載しておくべきではないですか?

中にはあえて主が[削除せずにこのまま残します]のような記述も見られました、主にとって我が意を得たりの反論投稿だったからあえて残したと受け取れます。
このことから読み取れるのは主の意にそぐわない多くの過激な賛同投稿が意図的に削除され、主に都合の良い反論投稿と返信および穏やかな賛同投稿だけを残すという手法で読者には見えてこない部分が多くあるのではないかというスッキリしない疑問が残ります。

主は良い面をことさら強調するなら悪い面も明らかにせよ的な考え方を示されています。
>良い面も悪い面も含め、圧倒的なリアリティをもって我々に迫ってきます。
>これを無視した歴史学習は、リアリティのない歴史学習となるでしょう。

それを強く主張するならば主自信が身をもって示さねば説得力に欠けます。

Re, : 5月5日のguestより

ありがとうございます。今後ともどうぞよろしくお願いします。

Re, : 2015-05-05

Guest さんへ

 無記名 無タイトルのコメントが続くと、どのコメントに対する返信かが分かりにくいので引用を多用させていただきます。

 返信させていただいたコメントは、記事の内容とは違う、コメントの管理についてのご意見なので、この方(No title 2015-05-05 Guestさん)への返信という形をとって、管理方針を再度明確にさせていただきます。

>主観を基に解釈した豊富な研究結果を

 論文や書籍を確認しつつ、できるだけ客観的な記述を心がけているつもりですが、不十分なこともあるでしょう。もし主観に基づく偏った解釈をしていると思われる部分がありましたら、その点について議論できるように具体的にお知らせ下さい。

>自信を持って富岡製糸場のボランティアガイドとして思う存分観光客に説明したらいかがですか?

 富岡製糸場の管理者が、私を富岡製糸場の公認ボランティアガイドとして認めて下さり、富岡の見学者に向かって日本の製糸工女の労働条件や搾取など「負の歴史」を説明するのを許可してくれるのなら、いつでも喜んでボランティアガイドに行きますが。

>過激な反社会的内容や誹謗中傷もあるはずです。

 それは当然ありますし、そういうものを好む人が存在することも知っていますが、この場にそんな下らない文書を残すつもりはありません。

>主に都合の良い反論投稿と返信および穏やかな賛同投稿だけを残すという手法で読者には見えてこない部分が多くあるのではないかというスッキリしない疑問が残ります。

 削除した内容について色々と勘繰ってしまう方もおられましょうが、推測の中身は個々の読み手のパーソナリティが作り出すものなので、それをいちいちご報告下さらなくてもけっこうです。私の管理が作為的であるかどうかは、全体をお読みいただきご判断いただくしかありません。
 記事の内容に対する反論であれば、むやみに消したりしませんので、ご安心下さい。
 記事のテーマにひっかけて、民族差別を助長するようなコメントや、中身のない捨て台詞のような誹謗は、今後も同様に削除しますのでご了承下さい。

>それを強く主張するならば主自信が身をもって示さねば説得力に欠けます。

 私の「管理方針」が、記事の説得力に大きな影響を与えるとは思っていませんが、もし私の記事やコメントの「内容」で、説得力がない部分や、間違いなどがありましたら、具体的にその箇所をご指摘下さるようお願いします。

 いずれにしても誰が見ても不快と思われる、中身のないコメントは削除します。

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最優先課題

さっそくのご返事、ありがとうございました。
私も管理人様がおっしゃっているように、「誰もが多くの情報に触れて、自分達の歴史について深く考えられる環境を提供すべき」だと思っています。そして今は、このサイトのように、それをインターネットで自由に提供・享受できる時代になりました。
私が疑問に思ったのはそのことではなく、本文の文頭にある「ボランティアで富岡製糸場を訪れる観光客の案内」人に対して、「地元の人の富岡製糸場への誇りと愛着を高めるイイ話」ばかりすべきではないという発言がどうなのかということでした。
「日本人が自分達の歴史として知っておくべき内容」を伝えるためには、30~40分程度のガイドではとうてい無理です。そのためにはまず全般的な流れを示す視覚教材があり、そこに系統だった説明を加える人がいて、初めて「良い面も悪い面も含め」た総合的な理解が観覧者に与えられるのだと思います。そしてそのためには、ガイドのあり方を云々するよりも、富岡製糸場自体を(単なる観光資源ではなく)博物館にすることが最優先の課題ではないかということが言いたかったわけです。

Re, : 最優先課題

困ったさん、コメントありがとうございます。

 読ませていただきましたが、優先課題ということなら、歴史研究や多様な情報の発信が優先されるべきでしょう。その理由は次の通りです(私は観光対応をやるなといってるのではありません。誤解のないようお願いします)。

 富岡製糸場は、文化財として保存に務めてきた片倉工業の意識と、富岡製糸場を愛する地元の皆さんの意識が重なった時点から、公的な「歴史博物館」としての歴史が始まったといえるでしょう。
 富岡製糸場を愛し守ろうという人々の心の中心にあったのは、富岡の歴史的、学術的価値であって、決して富岡のディズニーランド化ではなかったはずです。
 1988年に発足された「富岡製糸場を愛する会」の活動は、十分な歴史と実績を持っています。また富岡市には教育委員会を核とする「富岡製糸場総合研究センター」というものがあって、こちらは5年前から研究報告書も発行しています。
 つまりこれらのことから、富岡製糸場の公開目的は、観光拠点などではなく、始めから歴史博物館としての使命を持っていたといえるのではないでしょうか。

 困ったさんは、博物館を狭い解釈で考えておられるようですが、今の博物館の概念はもっと幅が広いようです。建物や町並といった空間も、そこで暮らす人々も、博物館の大切な要素として、多くのことが期待されています。
 こうした流れからでてきたのが、各地のエコミュージアムやフィールドミュージアムといったものでしょう。富岡市も当然こうしたミュージアムの一つだと思います。そして、金看板を背負ったことで、日本はもちろん世界に注目されていますから、遺構の保存と積極的な公開、文化的な情報発信については、時期が早いなどとはいってられないと思います。

 ICOMOSは、明治初期だけではなく、民営化時代を含めた内容にしてほしいと注文をつけたと記憶しています。富岡には日本の生糸産業のひとつの研究拠点になることが期待されているのではないでしょうか。
 それに応えることが「地元の人の富岡製糸場への誇りと愛着を高めるイイ話」だと思うのですが。

 長くなりますが、オマケをひとつ。
 30〜40分程度のガイドで無理ということはないでしょう。時間は十分だと思います。たとえば仮に次のようなことを最後に言うとしましょう。

 「これまでお話したことは、富岡製糸場がオープンして間もない頃のお話です。明治26年からは、ここも長い民営化時代に入ります。ごらんの通り中庭にある建物や糸繰り場の機械などは民営化時代のものです。事業に生糸の相場がシビアに反影されるようになりますと、官営時代と同じやり方を続けるのは難しかったと思われます。当時の日本の厳しい経済状態の中で、経営者の方も、働く方も、非常にご苦労されたようです。 労働時間や賃金システムなど、工女さんの待遇も官営時代と同じというわけにはいかなかったようです。悲しいことに病気になり故郷を離れ富岡で命を落とされた工女さんもおられます。その方達のお墓も近くのお寺にあります。しかし、日本の近代化は、こうしたみなさんのおかげといえましょう。詳しくは展示室に資料がございますので、興味がお有りの方は是非ご覧下さい。本日はご来場ありがとうございました。お疲れ様でした」

 これだけのことを付け加えるなら1分でおつりがきます。詳しいことは展示室に資料を置けばいいのです。さらに、民営化時代の話や当時の日本の製糸労働の話をほんの2〜3分追加するだけで、富岡の歴史理解は深まるのではないでしょうか。逆に、なぜこんな簡単なことを避けて、女工哀史はなかったみたいなことばかり言ってたのか、と不思議に思ったわけです。

博物館法

視点のずれが見えてきました。管理者様はたぶん、行政というものをとても信頼しておられるのだと思います。しかし、他の国のことはわかりませんが、少なくとも日本の行政は長期的にものごとを考えることをしません。中期計画が5年、長期計画が10年です。ですから、こうした文化財もまた行政の手に移ったとたん、放っておけば好き勝手にいじくりまわされてしまいます。
おっしゃるように、富岡製糸場を支えてきたのはまさに「文化財として保存に務めてきた片倉工業の意識と、富岡製糸場を愛する地元の皆さんの意識」でした。一方で、市は単純に、それを世界遺産に仕立てて儲けるために片倉から譲り受けたわけです。決して「歴史研究や多様な情報の発信」をするためではありません。
だからこそ博物館法というものが重要になってくるのです。この法律によって「狭い解釈で」の博物館を指定し、法律に基づいた学芸員を配備し、客観性を持たせた調査研究、そして展示と教育活動を行うことを義務づけるわけです。日本では、文化と行政は常に戦いです。

Re, : 博物館法

困ったさん、返信ありがとうございます。

 私は行政を信用していませんし、「博物館法」にもさほど期待していません。
 私の記事は、文化と行政の戦いがテーマではなく、客観的な歴史を述べているように見えて、実は自由主義史観のテキストに基づいた「イイ話」だけで富岡を語ろうとする姿勢への批判です。
 地元の研究者からは、報告書や書籍、講演などを通じて、富岡の文化情報が発信されていますが、それらの内容も基本的な姿勢は変わっていません。一部のメディアも影響を受け、レンガ倉庫の写真とともにこうした情報を再生産しています。
 仮に富岡が博物館法で規定される登録博物館になったとしても、その姿勢はなかなか変わらないのではないかと思っています。

 そもそも博物館法は、研究や情報発信の方向性やバランスを規定するものではありません。また、学芸員には博物館の運営を指導監督する権限もありません。
 もし富岡が登録博物館になるとすれば、その審査登録は、これまで世界遺産バンザイでやってきた群馬県が行います。そして所管は富岡市教育委員会です。これでは現状とさほど変わらないでしょう。穿った見方をすれば、博物館への行政の干渉に、法的根拠を与えることになるかもしれません。

 それともう一つ、現在日本にある博物館の8割は、博物館法の登録博物館ではありません。国立博物館も国立科学博物館も登録博物館ではなく、同法の博物館相当施設です。ほとんどの博物館が登録を受けない理由は、登録してもほとんどメリットがなく、反対に入場料の制限を受けたり、事務手続きが煩雑になったり、所管の干渉を受ける恐れがあるからだと思われます。有名無実とはいいませんが、博物館法はあまり機能していない法律の一つです。

 となると、何が有効かということを考えるのですが、それは、富岡を人類共有の遺産として、その内外から意見や批判を多数発信して、認識の多様化を図る意外にないのではないでしょうか。

ご検討をお祈りします

> 有名無実とはいいませんが、博物館法はあまり機能していない法律の一つです。
そう言われたらもう接点はありません。
管理人様は「富岡市には教育委員会を核とする「富岡製糸場総合研究センター」というものがあって、こちらは5年前から研究報告書も発行しています」と書いています。そうした活動ができるのは、文化財保護法という法的根拠があるおかげです。それがなければ行政はもっと何もしません。
そこでの調査は、とりあえず歴史を専門とする人が行っているはずです。そして、必要に応じて学会で発表をすることもあるでしょう。そのことで初めて、そこでの研究活動は「内外から意見や批判」に晒されるのだと思います。
専門職のいない富岡製糸場にいくら「内外から意見や批判を多数発信」したところで、蛙の面に…でしょう。ご健闘をお祈りします。

Re, : ご検討をお祈りします

 困ったさん 引き続きコメントありがとうございます。
 困ったさんのお話が、なぜそのような展開になっていくのか、今ひとつ理解できずにおりますが、おそらく、文化財に関する国の法律が、自治体の文化事業を規定するようなイメージを持っておられるからだと思います。

 まず、博物館法に関しては前回お話した通り、国立の博物館(現在は独立行政法人)が参加を見合わせるほどの内容であり、期待された法改正にも失敗(あまりにも不十分であったことからあえて失敗と申し上げます)、全国の博物館関係者から不満の声があがりました。これが富岡の歴史研究の原動力となるとは到底思えないのです。もし、そうでない理由や、博物館法に特別に期待されている点などがありましたら、具体的にお知らせ願えれば幸いです。

 もう一つの文化財保護法は、重要な文化財の保護のために機能していますが、残念ながら所有者や管理者の文化的対応を指導監督する力はありません。
 文化財保護法は指定した文化財の管理と活用(公開)を図るための法律ですから、適正に維持管理がなされ、また誰もが見学する事ができ、博物館や美術館への貸出に応じていればOKです。例えば、国宝を所有するお寺さんが、それを秘宝として人目に触れない場所にしまい込んだり、壊れてしまうような管理をしていたら、勧告などを受けますが、お寺が専門職員を雇って研究活動をする義務はありません。もし独自に文化財の学術的な調査研究をしているお寺さんがあったとすれば、それはそのお寺の文化意識の高さによるもので、文化財保護法と直接関係はありません。法的には富岡市の立場もこうしたお寺さんと同じです。
 
 困ったさんは、国の法で地方行政が動くとお考えのようですが、地方行政の思惑に国の法が利用されることも少なくありません。特に文化財関連の法令運用では、地域や所有者の意志がかなり尊重されます。

 群馬県の世界遺産登録のための研究プロジェクトが発足したのは2003年で、2004年からは県庁に「世界遺産推進室」が設置されます。2005年には、片倉工業、富岡市、群馬県の三者協議によって、製糸場の所有者が変わりました。
 これによって富岡市の管理の自由度は高まりますが、当初財政難の富岡市には県が所有する構想もあったようですね。ただ、文化財は地元自治体が所有管理するのが適当であり、国の文化財に指定されれば、県だけでなく国も保存の援助をする法的根拠が得られるということで話は進んだようです。つまり、文化財保護法は資金的な問題を法的に担保するのに機能したわけです。
 そして2006年、製糸場の建物3棟が国の重文指定を受け、残りの世界遺産構成遺構についても、国の文化財登録への働きかけが進められました。つまり、これらの文化財登録は世界遺産観光実現へのステップだったといえます。

 県と市が世界遺産登録に向け盛り上がっていた頃、平泉の世界遺産登録が延期になります。これは県や市にとって大きな衝撃で、以後、遺構群の普遍的価値を証明する作業に全力で取組んだようです。しかし、富岡製糸場が日本初の先進的製糸場で、群馬県内だけで製糸産業が成り立っていたような物語を描いてしまったことで、視野が狭くなったことは否めません。富岡とほとんど同時に製糸業を発展させた長野県など、他の地域との連携がうまくいかなかったのもこのためでしょう。
 イコモスの勧告文にある「女性たちの指導者、または労働者としての役割を通じた技術移転についての調査を行うこと。また、労働者の労働環境・社会的状況についての知見を増すこと」は、時間的にも地域的にも、もっと広い視野で富岡の意義を明確にせよということだと思います。
 こうした一連の流れは、とても残念なことですが、国や国際機関の登録制度が、関係自治体による客観的な歴史研究の動機付けや発展には直接結びつかないことを、図らずも証明したように思います。

 こんな事をいってるとお先真っ暗に思えますが、外部とのコミュにケーションによって、これからよくなっていくのだと思っています。内外からの意見や批判は学会だけが受け皿ではありません。県や市が、内向きの視野の狭い議論になりがちなのは仕方がないことですが、最近は他の産業関連遺産を視察した議員から、展示や研究の方向性についての質問も出ているようです。私も岡谷の蚕糸博物館で群馬県からの視察団体に出会いました。
 群馬限定の世界遺産効果はそう長くは続かないでしょうから(次に日本が登録を目指している世界遺産は広域な工業遺産群ですから、その情報量は富岡と比べ物になりません)、富岡も次に流行する全国的な産業遺産ネットワークに組み込まれようと、日本の産業史における富岡の客観的位置づけを研究し表現する動きがでてくるのではないでしょうか。

 長くなってしまいすみません。

Re, Re, : ご検討をお祈りします

> もし、そうでない理由や、博物館法に特別に期待されている点などがありましたら、具体的にお知らせ願えれば幸いです。
国の博物館はそれぞれ国立博物館法で定められているので、さらに一般的な博物館法の下に位置づける必要はありません。また当然のことながら博物館の状況は日に日に変わっており、現状に合わなくなった部分で現場からの不満はあります。しかしそれは、博物館法はなくてもよいということではまったくありません。さらに○○ミュージアムというのは、最近の観光行政の一環で出てきたものです。博物館法は利用よりも保護を優先するところがあるので、こうした目的を持ったところからは避けられる傾向があります。ちなみに博物館の認定を受けない施設の最大の理由は、指定された学芸員の定数配備ができないということです。

> 困ったさんは、国の法で地方行政が動くとお考えのようですが、地方行政の思惑に国の法が利用されることも少なくありません。
文化関連法で最も重要なのは、専門職の任用を義務づけていることです。管理人様は行政に雇われている専門職をあまり信用していないようですが、日本の文化財保護活動にこれらの人々が果たした役割は計り知れません。またこれからは少しずつ民間の手に委ねられていくことになりますが、すぐにというのは無理です。今は彼らといかに連携できるか考える時期でしょう。たしかに「内外からの意見や批判は学会だけが受け皿ではありません」が、そうした行政内の専門職を無視しては始まりません。そのために富岡は、博物館指定されることが有効だと考えています。

Re, Re, Re, : ご検討をお祈りします

返信ありがとうございます。
 なるほど。困ったさんは登録博物館と学芸員の権威や能力に大きな期待をよせておられるようですね。それをふまえて、再度私の意見を書かせていただきます。

 気になったのですが「相当施設」や「類似施設」が博物館としての登録を受けない理由は、学芸員を配置できないからではなく、博物館を設置する主体の法人格や所管が限定されていることと、博物館法に縛られず自由に事業を展開したいからではないでしょうか。
 近年の学芸員の配置状況ですが、文化庁の資料によると、全国約6,800人(2008年)の学芸員のうち、半数以上となる約3,800人が、学芸員を置く義務のない施設で働いています。この傾向は近年強まっているようです。

 また、日本の学芸員の資格取得は簡単なので、毎年約1万人の学芸員候補が生まれます。しかし採用は1%以下。求人は極端な買手市場となります。ですから気の毒な話ですが、学芸員の給料は非常に低く押さえられ、専門職とはいえあまり人件費はかかりません。学芸員の確保は難しいとはいえないでしょう。もちろん狭き門だけに、博士課程を修了した人や、学芸員の仕事を通じて学位を取得する人もいますが、制度的に質と給与の問題があり、上級学芸員の設置などが求められているのはこのためです。
 
 困ったさんは、文化財の蒐集保存や調査研究に努める、伝統的な博物館に大きな敬意をはらっておられますが、それは私も同じです。
 私は博物館とそこで働く専門職が、人類の文化向上に貢献してきたことは知ってるつもりですし、尊敬もしています。しかし残念なことに、年々増大する資料や仕事に対して人員も資金も不足気味で、部門や場所によって程度の差はあるでしょうが、蒐集物の管理にも苦労する状態です。私はそんな場所で孤軍奮闘する学芸員の能力を信用しないのではなくて、行政の文化に対する対応を信用してないだけです。いくら学芸員が頑張っても、人と金を回してもらえなくては、日本の重要な文化遺産が散逸するのを指をくわえて見ているしかありません。
 
 話を富岡に戻しますが、富岡製糸場が博物館になっても、ならなくても、その本質は変わらないというのが私の考えであることは前に述べました。その理由をもう少し説明します。
 現在富岡で語られている歴史ストーリーが、観光のために適当に作られたものなら、博物館の新しい研究も意味を持ちますが、あれは県内外の学識経験者や地元史家、文化庁などからなる学術ネットワークが、世界遺産推薦のために史実を取捨選択して編んだストーリーが基になっています。そこに無理を感じるのは、富岡を日本の近代製糸業の頂点に据え、群馬県だけで完結する構図を描いたことと、我が富岡は特別な存在であると県民意識の高揚を図ったことですが、ありもしない歴史を捏造した訳ではありません。おそらく博物館もこうした学術ネットワークと一体になって動くでしょう。それでは今とかわりません。

 最後になりましたが、独立行政法人国立博物館法による施設を博物館法の説明に使ったのは不適切でした。博物館法に登録されない質の高い公立博物館を例にあげるべきですね。失礼しました。
 あと細かいことですが、私は博物館の質の向上を望むものです。だから「機能してない法律」とは申し上げましたが「なくなってもよい法律」とはいっておりません。この二つは全く意味が違います。

関係者

管理人様は冒頭の文章で、富岡のガイドが行っている「イイ話」を捉え、「良いことも悪い事も自分達の歴史として受け入れる」よう「関係者」に求めていました。それに対して私は、むしろこの施設を、博物館法に基づいた博物館にすることで解決に向けられるのではないかと書きました。それを受けて管理人様は、「「博物館法」にもさほど期待していません」とおっしゃいました。その上で、「内外から意見や批判を多数発信して、認識の多様化を図る意外にない」と書いておられました。ですので私は、「そう言われたらもう接点はありません」と結論づけました。
とりあえずこれで話は終わっているのですが、私もこういうやり取りは嫌いではないのでもう少し続けさせていただきます。
管理人様が主張されているのは、「内外から意見や批判を多数発信」するということだと思います。しかし管理人様の文章をざっと見ても、では誰に向けてそれを発信するのかが書かれていません。わずかに冒頭の文に出てくる「関係者」ぐらいだけです。そこで改めて質問ですが、この「関係者」というのは誰を想定していますか。

Re, : 関係者

話にお付き合いくださりありがとうございます。嬉しいです。

 確かに曖昧な「関係者」を使った個所がいくつかありました。
 本文中の「関係者は研究整備の期限を決められたと自覚すべきであろう」の関係者は、県知事を筆頭に県や市の委員会、文化庁、富岡市教育委員会、地元の市民研究会などにあって、当時世界遺産推薦作業に関わった、または支援していた人です。

 困ったさんへの返信で書いた「内外から意見や批判を多数発信」する先は、富岡の歴史的価値を主張している人と、その周辺という事になります。
 これまで富岡のストーリーを描いてきた人々はいわば確信犯ですから、意見や批判で何が変わるかはよくわかりません。「労働環境がよいといっても官営時代は採算度外視だからできたのだ」という意見が出始めた頃、ほとんどの人はそんなことに興味がなかったのに「官営時代でも後半はそれなりに利益があった」という資料を探しだし、記者会見を開いた研究者がおられました。こういうのは楽しいですね。

 それとは別にもう一つ、私がイメージしているのは文化事業より観光事業、来場者の数が気になる人達です。
 観光のことを考える人は、いずれ富岡の世界遺産効果も薄れ、人々の気持ちは次の世界遺産に移ることを知っています。ですから、新しい文化的ストーリーや観光のありようを考える必要があります。それには、雑誌やネットの記事にアンテナを張って、外部から富岡がどう見えるか、何を期待されているかを探ることが必要です。今も群馬の皆さんは真剣に考えておられると思います。
 そもそも「富岡には女工哀史はなかった」などと極端なことをいうようになったのも「きっと世間は富岡製糸場を女工哀史の舞台だと思っているに違いない」というような、世間の目に対する思いがあったのだと思います。

 富岡の観光関連で、私の印象に残ったことの一つに、2010年の県議会における観光局長の答弁があります。要約すると「JRのデストネーションキャンペーンで、岡谷、富岡、横浜をつなぐ絹の道がとりあげられている。皆さんも是非お読みいただきたい」というような内容です。当時の「群馬の製糸はすごいのだ」という雰囲気の中では異質な感じがしました。
 JRの企画を担当した代理店のクリエーターは、世界遺産暫定登録に湧く群馬からの情報を鵜呑みにするのではなく、日本の製糸産業の構造を示す資料に目を通したのでしょう。消極的に見えますが、できるだけ多くの意見が媒体の中を漂よっていることは有益だと思います。

 観光局長の答弁は、当時ほとんど無視でしたが、来場者が減れば、外部からの情報も影響力を増すと考えます。観光上、他の遺構との連携が重要と分かれば、片倉などから引継いだ重要な遺産を保管し、よい学芸員さんもいる登録博物館の岡谷蚕糸博物館との関係も改善されるでしょうね。

各位

明日からまた東京を離れます。
お書き込み頂いたコメントへの返信は来週以降にさせていただきます。
すみませんが、よろしくお願いします。

2015.05.13

Re, Re, : 関係者

こちらこそお付き合いいただき、ありがたいです。
「観光事業、来場者の数が気になる人達」という視点は、これまでのコメントになかったポジティブな展開ですね。ただ私の質問はそのことではなく、「内外から意見や批判を多数発信」する対象として「誰を想定して」いたのかです。
まず「研究整備の期限を決められたと自覚すべき」関係者が挙げられていますが、富岡はすでに世界遺産になってしまったので、この人たちはとりあえず除外します。あとは「富岡の歴史的価値を主張している人と、その周辺」ということになりますが、それも「意見や批判で何が変わるかはよくわかりません」と言われてしまうとちょっと拍子抜けです。
そうすると「内外から意見や批判を多数発信して、認識の多様化を図る意外にない」というのは、「何が変わるかはよくわか」らないけれど、やらないよりはやった方がまし程度の主張だったということでしょうか?
ご返事は急ぎません。

関係者のつづき

困ったさん、返信が遅くなりすみません。

>これまでのコメントになかったポジティブな展開ですね。

 私はなるべくポジティブに考えてるつもりなのですが、やはり見えにくいですか(笑)
 「意見や批判で何が変わるかはよくわかりません」といったのは、文中にあるように「確信犯」に対してです。言葉は悪いですが、ここでいう確信犯とは、自分の考えを正しいと強く信じている人、あるいは一つの方向にこだわり、それを押し通すのが正しいと信じている人です。
 そうした考えを持つ人が、反対意見や批判に接すると、別の考えにシフトすることもありますが、逆に自論を強化するために頑張ってしまうこともあります。ですから、どの方向に何が変わるかは予想がつかないということです。意見の受けとめ側には、こうした確信犯も含まれますが、もちろんそれだけではありません。どうなるか分からないけど、やった方がましというような話では全然ありません。

 「内外から意見や批判を多数発信して、認識の多様化を図る以外にない」というのは、あらゆる事象に共通する基本的な方法論だと思っています。 富岡のことも不特定多数に向けた熱心な「情報発信」から始まっています。
 これまでの「製糸女子労働」の暗いイメージを払拭し、県民(一部の人にとっては国民)に誇りを持ってもらうために、歴史資料を調べ、伝道師を育成し、取材に対応し、ホームページやガイドブックなどを充実させて、好ましいストーリーの発信普及に努めました。
 その結果、マスメディアの記事や富岡を訪れた旅行者のブログ、旅行ガイドなどを通じて「富岡は国営の特別な存在で、女工哀史とは無縁の先進的な労働環境であった」という話が拡散していきました。

 富岡は世間に流布していたステレオタイプなイメージを打ち砕こうとしたのですから、これも「認識の多様化を図る情報発信」の一つだったといえるかもしれません。しかし、部分にこだわり過ぎると多様化を妨げますし、そこに行政や住民の意志や願望が加わると客観性が損なわれます。当然それを変だと思う人はいますから、次に発信されるのは、固定化されたストーリーを解体する外部からの新たなストーリーでしょう。

 一般的に、それまでの定説や、広く流布していた評価を覆すような話は、人々の好奇心を刺激し、世間の注目を集めます。メディアや企業はもちろん、行政や学問の世界でもそうしたものが好まれます。学会に発表して専門家がしっかり審査する前に、プレス発表で新説の花火を上げてしまうことなど日常茶飯事です。 社会的な認識は、情報が次々に発信され、次々に消費されていく中で形成されていくことになります。結局のところ、社会を流れていく情報の客観性を高めるには、情報発信の応酬を続けていくしかないと思うわけです。

 次に情報発信は誰が何処で、誰に対して行うのが効果的かという話になると思うのですが、情報の質としては、学会誌や専門誌に投稿された論文や、教育委員会や博物館などの学術調査報告書などが高い水準にあるでしょう。しかし、それが一般的な認識や教養、行政や立法などの議論の材料として広まる段階では、内容を分かりやすく簡潔にまとめる記者や編者、さらにはそれを拡散させるメディアが介在します。
 近年、様々な分野でテクニカルコミュニケーションが重視されるようになったのは、こうした事実を踏まえてのことです。もちろん博物館の展示やホームページ制作に関わる学芸員も、その役割りを期待される職種の一つですが、テクニカルコミュニケーターの範囲は様々な職種に広がっています。

 行政や企業に対してプレゼンテーションを行うコミュニケーターは、ストーリーをダイレクトに伝えることができますが、その外側に広がる中立的なメディア情報も大きな影響力を持ちます。たとえば世界遺産登録など、社会の関心を集めたテーマの場合はそれが顕著です。ネットなどのミドルメディア、マイクロメディアからも情報が吸い上げられ、マスメディアにとりあげられることもあります。事業の当事者はそれを無視できませんし、同じ材料に注目している観光事業者や出版事業者は、新しいストーリーに新たなビジネスチャンスを探ろうとします。こうした対応ができない事業は失速するでしょう。
 私が情報発信を重視する発言をしたのはこういう背景があるからです。

 そして、別の意見や批判を発信する人は、それが社会に与える影響を期待して面倒な資料集めや取材をやるのでしょうから、決して「やらないよりはやった方がまし程度の主張」ではないと思います。
 また長くなってしまいました。

Re, 関係者のつづき

こちらこそ込み入っていてご返事が遅くなりました。

> 事業の当事者はそれを無視できませんし、同じ材料に注目している観光事業者や出版事業者は、新しいストーリーに新たなビジネスチャンスを探ろうとします。
ここで言う「事業の当事者」とは、富岡製糸場では誰になるでしょう?

事業の当事者

困ったさんへ

「事業の当事者」とはその言葉の通りの人々を指しています。富岡製糸場の場合、世界の人々の文化向上に貢献するとともに、観光資源として地域の経済的発展を目指して、富岡製糸場を所有または管理し、その活用を進める人々、またその周辺にあってそれらの事業に直接協力する人々のことです。

Re; 事業の当事者

> 世界の人々の文化向上に貢献するとともに、観光資源として地域の経済的発展を目指して、富岡製糸場を所有または管理し、その活用を進める人々
この4要件を満たしている人というと、次の2課の命令系統に属する市職員およびその統括者(市長)ということですね。
・富岡市世界遺産まちづくり部富岡製糸場課
・富岡市教育委員会教育部文化財保護課

ご質問と確認の意味がよくわかりませんが

私の答えの「当事者」のうち「またその周辺にあってそれらの事業に直接協力する人々」を除外すればそういうことになりますね。

感想

富岡製糸場には女工哀史はなかったと強調する一部ガイドと、どうしても女工哀史はあったことにしないと死んでしまう病をお持ちの主とどっちもどっちかな。
岡谷のような女工哀史があったとするならば富岡製糸場周辺にはそういう酷い工場だというウワサ話が昔からあるはずだから、そのようなことも含めて調査されたうえで自信もって記事を書いてるものと信じる。
工女と女工にしてもちょっと調べればわかることを単なる思い込みから富岡は聞こえの良い工女に置き換えてると思ってる人、単純に岡がつくだけで岡谷と富岡を履き違えてる人、富がつくだけで富山と富岡を穿き違える人等を誘導するにはこの記事は至って有効。
ICOMOSの勧告ではそのような労働環境を含め地元に帰った工女たちの役割を調査するよう求めているので偏りのない報告が楽しみだ。

ところで富岡製糸場には診療所が併設されており民営化後も数度にわたって改築・改修されている事実は女工哀史となった舞台の工場でも存在したのでしょうか、それとも女工哀史はなかったとするための隠れ蓑的な後付の施設?


Re, : 感想

ユニークなコメントありがとうございました。

>女工哀史はあったことにしないと死んでしまう病

すごそうな病気ですね。

Re,:感想

2015-05-27 Guest さん

理解力、読解力、全く不足の方もおられるんですね。
富山と富岡を間違えたりしていませんよ。
義母は富山から、諏訪の現在も存続している(業態は変わりましたが)会社で働いていました。
私は話を直接聞いています、必死に打ち消す理由はなんですか?
写真、記念品の盾、感謝状、招待状も、夫の実家の生前義母が使っていた部屋にまだ飾ってあります。
富岡と時代が違うことも複数回のコメントで書いています。
ひねくれた曇ったガラス越しの思考では、真実は見えません。
女工を経験した身内を持つ者として、知っていることを正直に書いているだけです。
コメント欄は自由に意見を交換できる場所、意見も取捨選択できる場です。
Guest さんは打ち消すだけの経験を持っている当事者ですか、それともお身内で経験された方がいらっしゃるので、自分は正しいと発言しているわけですか?

富岡には知られたくない必死で隠さなければならない、酷いことがあったんですね。
あなた様の根拠のない非難中傷の仕方では、誰にでも逆に疑念を抱かせてしまいます。
かえって真実を知りたくなりました。
隠すとほじくりたくなるものです。
その意味で貴重な意見でした。
ありがとうございます。

聞き耳頭巾さんへ

 聞き耳頭巾さんが真摯なお気持ちで、貴重な一次情報をお教え下さったことは、読者の皆さんもよくご承知と思いますので、どうかご安心下さい。

2015-05-28 聞き耳頭巾さん

ん?
あなたは被害妄想の持ち主?
一般の大学生や高校生が富岡と高岡や富山をぐちゃぐちゃに混同してることを揶揄したつもりだったんだけど?
あなたの投稿など事細かに読んでないので、あなたのコメントに対して揶揄したつもりは毛頭ございませんので悪しからず。

第一に私は近県ではあるが富岡どころか群馬に縁もゆかりも無い、だから真実を知りたい立場だ。
端から色眼鏡で物事(富岡)を見ているのは、あなたやこのサイトの主の思考の持ち主である。
身内に女工がいたからといって富岡の工女ではあるまい富岡の周辺での悪い噂話とかはどうなの?と主に問うている。




2015-06-21 Guest URLさんへ

 残念ながら私は「富岡と高岡や富山をぐちゃぐちゃに混同してる」ような大学生や高校生に会ったことがありません。私も大変興味がありますので、どこに行けば、また何を読めばそんな若者の存在を知ることができるのか、もしよろしければお教え下さい。

 地域に伝承される「噂」の有無が、歴史的事実の裏付けになるとお考えのようですね。しかし噂には根拠に乏しいものが多く、事象の根拠としてそのまま利用されることは少ないのではないでしょうか。ですから、噂についてはまず、様々な証言や資料を調査して、真偽を確かめるのが、物事を判断する基本的な手順となります。これは歴史に限らず同時代の噂についても同じですね。

 もちろん歴史の研究の中で、体験者からの聞き取りや地域に伝わる話の収集、そしてそれぞれの事実確認調査などは、とても重要で面白い仕事だと思います。それは数ある歴史研究の手法の中でも魅力的なものの一つといえましょう。
 しかし、戦前の労働法の下、富岡で働いた方がご存命中に、山本茂実のような優れたフィールドワーカーは富岡にいなかったようです。残念なことです。もちろん私には今となってそれを実施する時間も資金もありません。そこで別の方法として、産業史や労働史の資料から考察する方法をとりました。これは妥当で合理性のある方法だと思っています。

 産業史や労働史から見た富岡における女子労働者の労働条件についての考察は、このコメント欄でも、投稿された方にお答えする形で、資料を確認したり引用しながら何度も書いておりますので、まずそちらをよくお読みいただき、もしその中に、誤りや思い違いなどがあれば、具体的にご指摘いただけると幸いです。
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プロフィール

Kimupon_Cicadan 木村 義志

Author:Kimupon_Cicadan 木村 義志
出身地 : 大阪市
現住所 : 東京都
1955年生まれ
科学図書執筆編集のお仕事
分野は生物学系

写真は特にクレジットや注釈がない限り筆者の撮影です。記事や写真についてのお問合せはなんなりと。
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