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文化財

前橋城

 群馬県の前橋市と高崎市はそれぞれ独立した藩の首都で、それぞれに城があった。幕末の時点で群馬県には9つの藩が存在したが、前橋藩(17万石)、高崎藩(8万石)、館林藩(6万石)以外の藩は3万石以下の小藩である。
 日本は長いこと藩単位で文化や人々の気質が醸成されてきた。だからいくつかの藩を統合してできた県という行政単位が、そこに住む人々の気質に必ずしも合致しているわけではない。
 最近、県民性ということがよく話題となり、それをテーマにしたテレビ番組や本が作られているが、県という括りに無理があると感じることも多い。マスコミの力で県を一つの色で塗りつぶすのはよくないと思う。

 と前置きが長くなったが、下の写真が現在の前橋城である。建物は群馬県庁であるが、県庁が現代の城に当たるという比喩ではなくて、群馬県は明治の廃藩置県から今日まで、前橋城をそのまま県庁として長く使っているのである。城主のいた本丸御殿が明治~大正期の県庁舎であった。
 さすがに昭和に入ると御殿の老朽化が進み新しく建て直された。それが手前に見える3階建ての昭和県庁舎である。なかなかカッコイイ。その後の高層ビルは新しく建てられた平成県庁舎。右端に少し見える写真上邪魔なビルは群馬県警だ。またこれらの反対方向(撮影者の背面)にある二ノ丸、三の丸には群馬地裁、前橋市役所、群馬会館(公会堂)などが建っている。
前橋群馬県庁01
 下は群馬会館。昭和5年築で県庁と同じデザインになっていて(完全オリジナルではなく昭和58年に大改修されている)、この付近の景観をよいものにしている。
群馬会館

 それにしても平成県庁舎はすごいな。地下4階、地上33階、前橋一の高層ビルである。
 そもそも高層ビルというのは、シンボルとしての高さ競争みたいな側面もあるが、過密都市における土地の高度利用という必然が背景にある。だが前橋は広々とした気持ちのよい都市で、土地はまだ十分に余裕があるとお見受けする。つまりビルを上に伸ばす必然性が感じられないのだ。
 もちろん建築は必然性だけで行われるわけではないが、必然性の低い巨大建築物には違和感を覚えることもある。平成庁舎はちょっと微妙な線かな。県民の皆さんはどう感じておられるのだろう。
 最上階は1フロアまるまる展望台として市民に開放されていて、特に夜景が人気で花火のある日は人で埋まるとのこと。筆者もてっぺんまで上がってみたが確かに眺めはよかった。目障りな高い建物が一つもないからね。とにかく展望台としては一級である。
 冬に行って確かめないとわからないが、強い季節風が吹く土地柄、冬は強いビル風で庁舎の周りを普通に歩けないのではないだろうか。地上の入口に設けられた広い風除室の扉が、内と外で対角線上に取り付けられているあたりに上州名物空っ風の威力を感じた。
県庁舎02

 前橋城は元々厩橋(うまやばし)城といって、それが「まやばし」となり、それがさらに「まえばし」と変化して、17世紀末頃から前橋の字が当てられるようになったという。
 関東には石垣に向く石材の産地が少なかったので総石垣の城は少ない。あの江戸城でさえ総石垣にできなかったのだから、前橋城の周囲には盛り土の土塁が巡らされていた。その代わり利根川とそれに連なる沼地を天然の掘としていたので、なかなか守りの堅い城であったらしい。
 現在城の大部分が破壊され、ここに城があったことすら分からないような状態だが、県警の横に土塁の一部が残っている。これが往時のままだとすればかなり立派な土塁である。
前橋城土塁01

 ただ、強力な天然の掘は敵だけなく味方にも牙をむき、洪水のたびに土塁を押し流して城を破壊、ついには天守も壊してしまう。こうなるとお殿様(譜代の酒井氏)も嫌気がさして「戦争もないのにこんな所にいられるか」と本丸の御殿を利根川から離れた場所に移築。さらにその酒井氏が姫路50万石へ大栄転した後(川っぷちの洪水城から、あの名城姫路城に移れたのである。よかったね酒井さん)、新しい藩主に指名された御家門(徳川家の親戚)の松平氏は「俺はこんな洪水城なんて嫌だ。城を修理する金も持ってネェし」と、前橋城も前橋藩も見捨て、郡代奉行と少数の役人だけを残して、もと居た埼玉の川越城に帰ってしまったのである。さすがは御家門、やることが大胆である。これが18世紀中頃の話。下の写真は現在の前橋城本丸の県庁舎展望室から見た利根川。
前橋城川

 前橋城と前橋藩が復活するのは幕末である。開国した江戸末期に輸出用の絹糸の製造販売で力をつけた領民と郡代奉行が力を合わせ利根川に堤防を築き、城を建てるのも手伝うから戻ってくれと松平家に嘆願。幕府も築城を許可したので、ついに慶応3年の春、前橋城のリニューアルがなり、めでたく殿様が前橋に戻って来た。
 しかし、その半年後徳川慶喜が大政奉還をして徳川幕府はなくなってしまう。名門大名の居城としては実に短命な城となった。
 松平氏は前橋城復活前から絹糸製造販売に積極的に介入しており、横浜にも事務所を開いて、かなりの収益を上げていたという。おかげで、攘夷派に押されて再び横浜港を閉鎖しようとしていた幕府と対立することになり、藩主の松平直克は幕府の重役をクビになっている。直克は知的で度胸もよく有能な家臣団を抱えていたというから「幕府が馬鹿だからやってらんネェ」と、最初からクビを前提とした確信犯的抗争だったのかもしれない。戊辰戦争では新政府軍の一員として、同じ御家門の会津藩松平氏を攻めている。こうした軍事費の調達にも絹糸の利益が役立ったことだろう。
 後年廃藩置県が実施され、最初にお話しした通り本丸御殿に県庁が置かれたというわけであるが、幸い幕末の新築物件だったので大正時代まで使えた。
 領民の援助で建てられた前橋城だから、民主主義の時代に市民が利用する施設になるのは正しい在り様かもしれない。ただ惜しむらくは遺構が土塁の一部を除いて徹底的に破壊されてしまったこと。こんな凄いビルをたくさん建てたら地中の遺構も残ってはいまい。あ、でも利根川の水が何度か洗い流しているから今更掘っても無駄か。
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Kimupon_Cicadan 木村 義志

Author:Kimupon_Cicadan 木村 義志
出身地 : 大阪市
現住所 : 東京都
1955年生まれ
科学図書執筆編集のお仕事
分野は生物学系

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