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泉州タコ軍団戦記

 だんじり祭りで有名な岸和田に「天性寺」という浄土宗のお寺がある。通称「タコ地蔵」。タコ地蔵の方が通りがよく本当の名を知らない人も多い。最寄りの駅も南海本線「蛸地蔵駅」である。先日泉州に行ったので30年ぶりにタコ地蔵を訪ねてみた。

蛸地蔵駅01

 蛸地蔵は霊験あらたかなお地蔵さんで、子供の病気平癒などにご利益があるという。ただし、願をかける人は1年もしくは3年の間タコを口にしてはならない。これはタコ好きの大阪人としては非常に辛い条件である。願をかけるのに全員がタコを絶つなんて決まりは、全国でもこのお寺ぐらいなものだろう。16世紀に建立されたとされるが、19世紀の中頃に火災にあって記録が失われ、寺の歴史についての詳細は不明とのこと。

蛸地蔵本堂

 地蔵尊は高さ1.5mほどの石仏で正平17年(1362年・南朝の年号)の銘があるという。日本一大きいといわれる地蔵堂におさめられ、8月23・24日の地蔵盆にのみ御開帳となる。お地蔵さんは屋外や小さな祠に置かれ、お顔は拝み放題が普通と思うが、ここでは秘仏となっている。これもまた珍しいことだと思う。
 南海本線蛸地蔵駅の明かり取りには美しいステンドグラスがはめ込まれていて、画題はサムライと戦うタコ軍団という愉快なもの。その云われについては、蛸地蔵の境内に建てられた石碑に刻まれている。

蛸地蔵駅02

蛸地蔵縁起(改行・句読点等 筆者)

 遠く建武の昔、和田和泉守高家が岸和田に城を築いたころ、蛸の背に乗り給うた地蔵尊が海辺に御姿を現されたが、乱世のため厚く信敬しないまま二百五十余年の歳月が流れた。
 天正十二年三月、紀州根来・雑賀の衆徒が泉州を侵し、中村孫平次一氏らが籠る岸和田城を抜こうとした。城兵らの力戦むなしく敗色ようやく濃くなった日、無数の蛸とともに大法師が出現され、縦横に衆徒を打ち破ったから城は不思議に事なきを得た。
 大法師は地蔵菩薩の化身にほかならない。その後、城主の霊夢によって得た木佛尊像を城内にまつったが、文禄年間泰山和尚の懇望で当天性寺に移された。
 それより諸人の礼拝が自由となり、広大無辺のご利益があまねく伝わったから、参詣の人々たえることなく蛸地蔵の名と共に今日におよんでいる。
 有難や蛸の地蔵に手を引かれ 弘誓の船に乗るぞ嬉しき
<泉州志、和泉名所図絵、岸和田藩志より 岩橋太吉 撰>

蛸地蔵奉納額

 最後の和歌は誰のものか分からなかったが、地蔵菩薩による死後の導きの喜びを詠ったもので、浄土思想の本質をよく表していると思う。
 和泉名所図絵によると(二次資料しか確認していないが)話は少し違っていて、建武年間にタコの背に乗った地蔵像が海岸で見つかったところは同じだが、人々はこれを城の掘りに捨てしまう。後世になって岸和田城が紀州勢に攻められたとき、城内に一人の法師が現れ、敵がまるで蝶や小鳥であるかのごとく軽々と倒し、岸和田城を勝利に導くが、気がついたら法師の姿は消えていた。
 後日城主は、掘にタコがいるのを度々目撃するようになる(海に近い城であるが、掘の水は城域を流れる川から引いていたので、昔から淡水の掘だった思う)。城主が「奇怪なり」と家臣に掘をさらわせたところ、打ち捨てられていた地蔵尊を発見。先の荒法師こそ地蔵尊の化身であるとして、その地蔵を祀るようになったとある。残念なことにタコ軍団が現れたという話は書かれていない。その後の泰山和尚の話は同じ。タコ軍団の話はどこで加えられたのであろう。

 もう少し歴史のディテールを補足すると天正12年というのは、織田家の旧臣を滅ぼした秀吉が大阪に本拠を構え、天下統一に向って動き始めた年である。尾張・長久手の戦いに出陣する秀吉は、大阪の南方を守る部隊として中村一氏を岸和田城に配置した。すると案の定、秀吉の留守を狙って紀州の土豪勢力である雑賀・根来衆が攻め込んできた。侵攻勢力の一部は岸和田城を迂回し、堺を超えて大阪城にまで迫ったという。このため大阪は一時的に混乱に陥り、秀吉は急いで戻らなくてはならなくなった。
 岸和田の中村一氏の手勢は少数ながら敵の攻撃をよく防ぎ、やがて駆けつけた大阪からの援軍とともに反撃に転じて岸和田を守った。また翌年、秀吉が10万の軍勢を率いて実施した雑賀・根来衆討伐戦でも一隊を率いて勝利に貢献している。この功績によって中村一氏は3万石から6万石に加増され近江甲賀へ国替えとなった。蛸地蔵縁起の後半部分はこの岸和田を舞台とする合戦の話で、タコと大法師の活躍以外はほぼ史実通りである。

 筆者の父は生前、岸和田合戦のタコ軍団について、どっかの僧兵が助けたのではないかと推理した。その根拠を聞くと「僧兵は坊主やろ?、そやからタコ坊主や(笑)」。大阪の人間は息子と話をしていても笑いをとりたくなるのである。
 僧兵はともかく、中村一氏の手勢は3千程度であったから地元勢力の協力が勝利の必須条件であったろう。そこで思い出すのが信長VS石山本願寺の戦いで、本願寺の海上補給を絶つべく大阪湾の木津川河口に出陣した真鍋水軍の生き残り達のことである。彼らは勇敢に戦ったが強力な瀬戸内水軍連合に破れ、大将の真鍋貞友は戦死した。この戦いの後、残存兵達は岸和田のすぐ近くにある和泉大津という所で半漁半兵的な暮らしをしていたらしい。
 しかし天正12年3月、岸和田沖でタコを獲っていたかもしれない彼らは、岸和田の有事に際し中村一氏の下に再度集結した。ちょうどその頃、菅達長率いる淡路の水軍2百艘兵2千名が紀州勢の別働隊として和泉大津に向っていた(大津の浜は岸和田の北にあり上陸すれば岸和田城の包囲が完成する)。中村一氏絶体絶命の大ピンチ。そこで真鍋水軍の残存兵達は戦死した貞友の子貞成を大将として和泉大津の守りに着き、淡路軍の上陸を阻止、これを見事に打ち破っている。この功績で真鍋貞成は秀吉から感状を受け3千貫取りの侍大将となった。どうもこのあたりの話がタコ軍団の元ネタとなっているような気がする。でもやっぱり八本脚のタコ軍団が上陸して戦う方が、絵としては面白いけどね。

タコ武将

 岸和田には後日談としてこんな話が伝わっている。中村一氏が近江への国替えの際、地蔵尊も連れて行こうとしたが、夢枕に地蔵尊が現れ「自分は今後もこの地に残るつもりである。代わりにこの錫杖(地蔵尊が持つ杖)を持って行け」といい、中村一氏も喜んでそれに従ったというのだ。もし、中村家ゆかりの寺で古い錫杖でも見つかれば面白いけれど、中村家は子孫に恵まれず一氏の息子の代で断絶となったから、めぼしい記録が残っていない。
 中村一氏は有能で秀吉に重用されているが、スター家臣団の影に隠れテレビの戦国時代劇にはあまり登場しない。でも愛すべきタコ軍団伝説のおかげで泉州の人には親しみを持って語り継がれる存在となった。また、岸和田の危機を救った真鍋水軍の末裔のこともあまり話題にならないが、その後の真鍋貞成は勇猛な侍大将として各地の大名の間で「引っ張りダコ」となり、何人かの大名の下で働き文禄・慶長の役や関ヶ原にも参戦。最終的には紀州徳川家の家臣になったという。

 真鍋軍が泉州タコ軍団の正体だなんて馬鹿なことを考えているのは筆者だけなので他所で言わないように(笑)。
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Kimupon_Cicadan 木村 義志

Author:Kimupon_Cicadan 木村 義志
出身地 : 大阪市
現住所 : 東京都
1955年生まれ
科学図書執筆編集のお仕事
分野は生物学系

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