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久しぶりに更新 信教の自由のことなど

 長く更新しなかったので呆れている方も多いだろう。また少しずつ書いていこうと思うので、気長にお付き合いいただければ嬉しい。

 先日、島根県の津和野というところに行ってきた。津和野は訪れる人も少ない山に囲まれた小さな町であったが、30年ほど前、山口県の萩とともに人気女性誌が取り上げたことで全国的に知られるようになった。近年の町並み保存地区観光のハシリである。

 今更、津和野の町並みを紹介してもつまらないだろうから、九州から津和野に送られたキリシタンについて少し話そうと思う。
 津和野は幕末から明治にかけて起きたキリシタン弾圧事件の地として有名である。下の写真は殉教したキリシタン達を記念して建てられた聖堂である。苛酷なキリシタン弾圧が徳川幕府から明治政府に引継がれ、より苛酷になったことを日本人としてしっかり認識しておくべきだと思う。

 日本の信教の自由は二度の外圧によってもたらされた。一度目は明治初期で岩倉使節団の頃。二度目は昭和の敗戦のときだ。そのため現代の日本人も信教の自由について、未だにきちんと理解できていないと思えてならない。今日はそんな話。

マリア記念聖堂

 世界の誰もが知るように、豊臣秀吉の禁令以来、日本ではキリスト教が禁止され信者は激しく弾圧された。特に苛烈を極めたのが江戸時代初期の九州で、拷問、処刑が日常茶飯事となり、多くのキリシタンが残酷な方法で命を奪われた。
 島原の乱以後幕府は信者の棄教策を研究し、比較的穏やかな方法で時間をかけて弾圧するようになった。そのためキリシタン達は地下に潜り、幕府もそれを知りつつ表面的には沈静化した状態を選択するようになった。
 ときおり「~崩れ」と呼ばれる、信者の存在が公となって逮捕・処刑者を出す事件は起きたが、日本でのキリスト教はフロイスやオルガンティーノが活躍した時代のように社会に影響を与えるほどの力はすでに失っていた。

 そんな事件の最後が1867年の「浦上四番崩れ」であった。日本はまだ徳川の治世であったがすでに開国し、長崎には外国人向けの教会が建てられていた。当然、密かに信仰の火を灯しつづけていた隠れキリシタン達は外国人神父に面会し、その指導を受け信仰を深めた。そんなとき、浦上で仏式の葬儀を拒否するキリシタンがあり、対応に窮した庄屋が長崎奉行に通報したことから、キリシタンの存在が公の事実となってしまった。

 長崎奉行は困惑し、処置を幕府に預けて自らは特に何もしなかったという。このことから当時は、お上に逆らわず治安を乱すようなことがなければ多少のことには目をつぶるといった雰囲気があったと想像される。
 長崎奉行からの報告を受けた幕府は現地に調査員を差し向け、キリシタンであることを進んで認めた70人程の農民を逮捕・拷問したが、そのうち幕府が倒れ明治政府が成立した。
 明治政府はキリスト教に関して幕府の政策を継承し、キリスト教は日本に相応しくない宗教としてこれを禁じ、違反者には厳しい罰を与え棄教させることにした。

 そして明治政府は、この時に逮捕された信者を「流刑」という、およそ新時代には似つかわしくない刑に処し、その一部を津和野に送り、乙女峠近くの仏教寺院に監禁して棄教させることになったというわけだ。
 明治政府はキリスト教弾圧に熱心で、その頃3千人を超える信者が逮捕され、6百人以上が流刑先で死亡している。 その背景には、長く仏教の下位に置かれた神道関係者が、国の神仏分離令で力を得、傍若無人になっていったことも関係しているだろう。当時日本に吹き荒れた廃仏毀釈の嵐は政府も手を焼くほどで、神道者が破壊した国宝クラスの仏教文化財は多い。津和野には最終的に100人を超えるキリシタンが送られた。
 
 流罪、棄教教育といっても、内容は現地まかせで、残酷なリンチが繰り返され、その凄惨さは幕府以上であったという。
 正義を掲げる集団ヒステリーの中で発揮されるサディズムは、人類の歴史の中で多数見られるが、津和野でも体を伸ばせない狭い檻に閉じ込めたり、冬に氷の張った池に浸けたりするリンチが繰り返し行われ、36人が死んだとされている。これは最早「流刑」などではなく、極めて残酷な身体刑である。

 すでに日本には外国人が多く訪れており、明治政府の残酷なキリスト教弾圧は欧米政府の知るところとなっていた。欧米のいくつかの新聞では反日キャンペーンが行われ、各国政府は度々改善を申し入れていたが、明治政府は内政問題として聞く耳を持たず、西洋の宗教は日本に合わず、神道を国教と決めているのだからキリスト教を禁止するのは当然であり、外国人は日本にあっても自由に信仰してよいのだから別によいではないかという発想であった。

 そんな折り、岩倉具視を団長とする使節団が欧米に出発した。目的は徳川時代に締結した不平等条約の改正であるが、行く先々の政府から信教の自由を認めない国家とは交渉できないという反応に直面し、やっと事の重大さに気づいた。それでも、彼らが日本に送った文書からは、信教の自由を理解したとは感じられず、交渉の上でし方がないので考え直そうというレベルである。
 現在も靖国問題がすっきりした形で解決できないのは、この頃から日本人の宗教的世界観が変わっていない事の現れであろう。要するに人間にとっての宗教の重要性と、信教の自由が理解できていないのだ。オウム真理教事件などは、その間隙を突いて起きたことである。

 今、神道の国教化を願う人々は、米英が政治の重要な部分でキリスト教を利用していることを挙げ、日本はその役割りを神道に負わせるのがよいとするが、他の宗教を信じる人や無宗教の人にとって国教の存在は不利益となる。そのことを国民が理解し、不利益が明確に担保されない限り、いかなる宗教も政治に寄り添わせるべきではないだろう。いずれにしても日本人には正しい宗教教育が必要だと思う。でないと、他者との思考の差を埋めることが難しい。世界は宗教に対して無頓着な人ばかりではないのだ。たとえ無宗教で宗教を敵視するにしても、相手を理解しなければまともに戦えない。そういったところにカルトが入り込む隙ができる。
 筆者は神社神道の高校に通い、信仰的には浄土宗の門徒であるが、不謹慎な不信心者である。しかし、日本の伝統を口にする若い右翼達の伝統知らずには驚かされることが多い。

 話が津和野からどんどん離れているが、いずれにしても、津和野は日本の近代化に関連した宗教事件に深く関わっているということだ。
 乙女峠で拷問を受けた信者の中にはキリスト教を捨て故郷に帰った者もあるが、後にそれを悔い再び信者となっている。最後まで信仰を捨てず命を落とした36人の殉教者の一人安太郎(農民)は、拷問の後に一辺90cmの檻に入れられ20日後に絶命するが、夜な夜な女性が現れ励ましてくれたので気力が衰えなかったという。キリシタンや地元の人々は聖母マリアが現れたのだと考え、安太郎の死地を聖母マリア降臨地として今も大切にしている。

マリア像

 明治政府がキリスト教の禁を解いたとき、生き残った人々は浦上に帰郷したが、彼らは全ての財産を失っており、その生活は困窮を極めたという。ある日突然身一つで連れて行かれたのだからそうだと思う。しかも、キリシタンを助ければ同罪に見なされる恐れがあるから、近隣の住民は家や田畑を守ってはくれない。家は泥棒に入られ、古い建物は崩れ、田畑も荒れ放題であったらしい。それを救ったのが有名なマルク・マリー・ド・ロ神父やその弟子達であったという。

 信仰に弾圧を加えたので天罰が当たったという訳ではないが、奉行に通報した庄屋は明治維新後特権を奪われて没落、一家離散となった。津和野でキリシタンを監禁した寺もつぶれてなくなった。そもそも天罰なら流刑を実施した当時の日本の指導者に当たるはずだが、彼らの多くは無事に職務を全うし、現在も尊敬を集めていたりする。

下は津和野の町にある、イエズス会の教会。こじんまりとしてなかなかイイ感じである。昭和初期の建物でドイツ人の設計による石作りの本格派。

津和野教会
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Kimupon_Cicadan 木村 義志

Author:Kimupon_Cicadan 木村 義志
出身地 : 大阪市
現住所 : 東京都
1955年生まれ
科学図書執筆編集のお仕事
分野は生物学系

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