備忘録/自然・文化・社会とニュース

文化財

日本のおカイコさん-4/横浜から読み解く製糸産業

 2014年に富岡製糸場の世界遺産登録が報道された際「富岡製糸場に女工哀史はなかったのか?」というようなことがネット上で話題になった。そのおかげで2010年にここで書いた「富岡製糸場への疑問」へのアクセスが普段の100倍にも増えた。恐るべし世界遺産効果。

 今回はシリーズ第4弾(笑)。生糸輸出の舞台として日本はおろか世界の絹関連産業に大きな影響を与えた町「横浜」をとりあげたい。横浜を知らずして日本の近代化や富国強兵は語れないのだ。
生糸検査所シンボル
横浜に残る生糸関連遺構の一つ「生糸検査所(現横浜第二合同庁舎)」の正面玄関に掲げられた彫刻。唐草装飾風にアレンジされたカイコガの足下にクワの葉と実、胸には御紋と日章旗が配置されている。筆者などはこれこそが横浜のシンボルマークだと思っている。

 製糸工女も、養蚕農家も、製糸家も、生糸商も、日本の製糸業に関わる全て人々の運命を支配していたのは、国際取引における「生糸の価格」である。
 製糸業とはクワの葉でカイコを育て、そのカイコが作った繭から糸をとるという、何千年も前から続くプリミティブな産業であった。でも人の暮らしは貨幣経済の喧噪と無縁ではいられない。日本が開国するやいなや、日本の製糸業は国際商品取引という、生き馬の目を抜くお金の世界に投げ込まれ、踊る生糸相場に翻弄されるようになった。そして、いつもその中心にあったのが横浜というわけだ。
 横浜は幕末以来日本で唯一といっても過言ではない生糸の対外取引場所であり(明治中期、日本各地に生糸の取引所が開設されたが、いずれも振るわず大正までに順次閉鎖されている。また関東大震災で横浜が都市港湾機能を失ったのをきっかけに、神戸での取引が開始されるが、ほどなく復興した横浜の方が扱い量が多かった)、日本にある製糸場のほとんど全てが横浜とつながっていたといえる。横浜から見れば先進の富岡製糸場も全国に数多ある生産拠点の一つに過ぎず、関心は専ら品質と価格に向けられていただろう。

市庁舎鉄冊
「生糸検査所(現横浜第二合同庁舎)」の周囲を囲む繭形のフェンス。
帝蚕倉庫
横浜市は戦後急激に膨張し、1980年には大阪市を抜いて日本第2位の人口を擁する大都市となった。そのため生糸関連の遺構はあまり多く残っていないが、写真の「帝国蚕糸倉庫(大正末期)」は、生糸取引で栄えた横浜の面影を今に伝える貴重な遺構の一つ。付近には同様な倉庫が何棟も並んでいたが現在残っているのはこの1棟だけ。
帝蚕事務棟
上の倉庫と同じ「帝国蚕糸事務棟(旧横浜生糸検査所附属倉庫事務所)」。同社は第一次世界大戦が招いた生糸の大暴落を買い支えるため、官民共同で設立した商社である。社長は生糸取引で巨万の富を得、富岡製糸場を三井家から買い取った原三渓(富太郎)。この会社は役目を終えると短期間で解散し、再び大暴落があると設立するという性質のものであった。

 幕末から明治初頭の生糸商の中には、梱包に細工をして重量をごまかしたり、見本と異なる不良品を納品するなど、デタラメな取引をする者があった。そうでなくとも品質のバラツキなどから安く買い叩かれていた日本の生糸は、国際市場での信用を失い、良品まで買い叩かれるようになったという。
 そこで信用を回復し、少しでも有利な条件で販売するため、官民あげて新しい設備や技術の導入を図り、品質向上と規格の統一化を進めようとした。そうした動きの一つが官営富岡製糸場の建設である。
 また、前橋藩でも富岡に先んじ、外国人技師を雇い入れて同じような取組みを進めていた。前橋藩は早くから生糸の輸出が大きな利益を生むことに気づき、横浜に事務所を開設して利益をあげていたのである。武士の商売下手を揶揄する言葉に武士の商法というのがあるが、前橋藩の場合は全く逆で、さしずめ「武士の商社」といったところ。戊辰戦争の際には生糸売買の利益が戦費に使われたことだろう(当時の藩主は徳川氏と同族の松平直克であったが、新政府軍に加わり会津で松平容保と戦っている)。前橋藩と製糸事業については以前の記事「前橋城」でも少し取り上げたので、興味がお有りの方はご笑覧を。

富岡製糸場
生糸の品質向上と製糸技術の近代化を図るために建設された富岡製糸場。その品質は国際市場で高く評価された。

 ミソもクソもいっしょというか、何もかも同じ色に塗りつぶしてしまうような話をして恐縮だが、「あゝ野麦峠」に代表される製糸工女の哀史も、「富岡日記」に登場する士族の娘達が富岡製糸場で体験した楽しい生活も、その奥底にはどちらも横浜の生糸取引の存在がある。
 前者は横浜の生糸相場の急落によって生じる損失を「(工女同士の)共食い」と批判された低賃金システムと労働強化によって吸収した結果であり、後者は横浜で少しでも有利な商売ができるよう、設備と技術の刷新を図る過程で生じた現象であった(官営富岡製糸場に出現した先進的な労働環境は、富岡製糸場の立ち上げを任されたブリュナが、機械や技術だけでなく、フランス式の福祉や文化も導入しようとしたことによる)。
 官営富岡の労働環境がいかに先進的でも、それは寒帯の草原に熱帯植物の種を1粒蒔くようなもので、当時の日本社会の生態系はブリュナの理想の種を発芽させることはなかった。日本社会の生態系の中にある製糸業というニッチは、良くも悪くも横浜で基本的な枠組みが決められ、その変化は緩慢であったといえる。
 まわりくどい比喩をしてしまったが、日本が発展途上国であった頃の横浜は想像以上に大きな存在で、そのことを調べていくと、世界遺産の遺構を訪れたときに見過ごしたことにも気づかせてくれる。

 話は少し戻るが、開港されたばかりの横浜は、幕府によって貿易が制限され、生糸などの重要産品は、特権を持つ江戸の商人が販売していた。しかし、自由な取引を求める内外の圧力によって、この旧態依然とした制度はなし崩し的に葬られた。
 横浜にとってラッキーだったのは、カイコの伝染病によってヨーロッパで生糸が品薄になっていたことだ。横浜に運ばれた生糸は高値で売れ、成功を夢見る人々も多く集まるようになった。おかげで日本の伝統絹織物業界は原料糸の高騰に苦しみ、廃業の瀬戸際に立たされるものもあったという。

 幸先のよいスタートを切った横浜であったが、外国人と対等な取引ができるようになるまでには、もう少し時間が必要であった。外国の貿易商は不平等条約を背景に有利な取引を展開し、時には理不尽な行為もあったという。もし日本人がしてやられたと気づいても、お奉行様は外国人を裁けないのだから辛い。開国したばかりの日本人が、百戦錬磨の外国商人に対抗するのは容易ではなかっただろう。原善三郎(原三渓の義父)や若尾逸平・幾造兄弟、茂木惣兵衛などのように、取引に成功して莫大な資産を手にする者が現れた反面、大きな損失を出して破滅した者も少なくない。

 生糸貿易は日本の富国強兵と近代化を支えたとよくいわれるが、明治期に横浜の豪商達が扱った生糸の輸出額は国家予算に迫るものがある(明治期の国家予算が少なかったこともあるが)。豪商達が得た利益はべらぼうで、短期間のうちに王侯のような財力を手に入れる者があった。それらが製糸労働者や養蚕農家からの搾取の上に成り立っていたかと思うと、少し暗い気分になってしまうが、逆に失敗したときの反動も大きく、その影響は店主が首を吊ったぐらいで収まるものではなかったろう。歴史に名を残した豪商でも、ある日突然姿を消し、その後の足取りがつかめないという人物もいる。
三渓園
美濃出身の原三渓(本名富太郎/原善三郎の娘婿)は義父の後を引継ぎ、さらに大きな成功をおさめた。富岡製糸場などを買い取ったほか、横浜郊外に東京ドーム4個分にもなる広大な庭園「三渓園(写真)」を造営し、全国から重文クラスの建築物を買い集めて移築したことでも知られる。

 最後に日本の蚕糸業と横浜の生糸取引の歴史がよく分かる書籍を2冊紹介したい。日本の製糸業に興味がある方は必読。2冊とも養蚕試験場や蚕糸検査所の指導員を歴任され、現在はシルク博物館におられるという小泉勝夫さんが書かれたもの。購入してからは、頻繁にこの本のお世話になっている。
蚕糸王国日本と神奈川の顛末3
 一冊目は「蚕糸業史/蚕糸王国日本と神奈川の顛末(2006)」
 表紙に蚕糸業史とある通り、日本の蚕糸業の歴史の(なんと2億年前の鱗翅目の起源から話が始まっている)集大成というか、蚕糸業大百科や蚕糸業白書の感がある。本文は400ページ超。表や図版も充実していて資料性が高い。もちろん横浜の豪商達についても詳しく書かれている。これをお一人で纏められたとはにわかに信じられなかったが、あとがきに15年の歳月を要したとあり納得。
 書店では流通しない私家版だが、2014年7月の時点で横浜のシルク博物館に在庫があり購入可能であった(価格の記載がなく、いくらで購入したかは忘れてしまった)。
開港とシルク貿易3
 次は「開港とシルク貿易/蚕糸・絹業の近現代(2013)」
 世織書房 税別¥2,000- ISBN987-4-902163
 著者が蚕糸絹業専門誌「シルクレポート」に連載していた記事「横浜開港とシルク貿易」を基に、第二の生糸輸出港である神戸の歴史など、新しい文書や資料を加え再構成したもので、日本の蚕糸業の流れを掴むのに最適。解説が非常に具体的で、例えば酸による孵化時間のコントロールなど、自分で実際にやることはないと思うが、読んでいるとちょっと試したくなった。入手しやすくコンパクトにまとめられいるので強くお薦めしたい。

関連記事
Comment

工女の墓

工女の墓が、富岡製糸からちょっと離れた、竜光寺というお寺にあります。
ときどきお参りに行ったときに、寄って手をあわせてくるのですが、
世界遺産で、見学者でにぎわっている中にあってまったく、人が訪ねてくることはありません。
 そのお墓はとても小さく、異郷の地で空しく死んでいった工女さんのことを思うと胸が痛みます。どうして、故郷に戻されて故郷のお墓に入れてもらえなかったんでしょうか?
 あえて、工女のお墓に蓋をし、まったく紹介もしないというところに、女工哀史を隠す行政の体質が、よくわかるのではないでしょうか…

返信が遅れすみません

世界遺産地元民さん。

 コメントありがとうございました。返信が遅れ申し訳ありませんでした。
 先日、竜光寺に眠る工女の方の身元がお1人明らかになつたというのを新聞で見ました。
 創立から現在までの歴史が、すべて明確にされていないのが残念です。その点が世界遺産として不十分だという指摘もありますが、今後、竜光寺のような周辺情報もふくめ、色々なことが明らかになっていくと、製糸場の価値も高まりますね。

 

No title

私は仕事で横浜や八王子によく行きます。
横浜は写真の帝国蚕糸倉庫の近くです。
にもかかわらず、その歴史はよく知りませんでした。

また、八王子の人から次のような昔話を聞きました。
横浜線や八高線も元々は絹を運ぶためのものだったと。

いろいろな記憶が繋がって不思議な感じがします。

Re, : No title 2015-05-05 5月5日のguestさん

guestさん、コメントありがとうございます。

 横浜は日本の生糸産業のヘソですよね。
 ご承知とは思いますが、八王子市内にもいくつか蚕糸関連の資料館や史跡がありますね。
http://www.city.hachioji.tokyo.jp/kyoiku/rekishibunkazai/kinunomichishiryokan.html

知りませんでした。

ご紹介ありがとうございます。
今度仕事のついでに行ってみます。
Trackback
Trackback URL
Comment form













管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

Kimupon_Cicadan 木村 義志

Author:Kimupon_Cicadan 木村 義志
出身地 : 大阪市
現住所 : 東京都
1955年生まれ
科学図書執筆編集のお仕事
分野は生物学系

写真は特にクレジットや注釈がない限り筆者の撮影です。記事や写真についてのお問合せはなんなりと。
小さな写真はそれをクリックすると大画像が開きます。

検索フォーム
ブロとも申請フォーム
QRコード
QRコード

Page Top
Powered by FC2 Blog | | Template Design by スタンダード・デザインラボ