備忘録/自然・文化・社会とニュース

社会とニュース

安倍総理の靖国参拝で思い出した明治初頭の宗教外交史

 安倍総理の靖国参拝を見て、明治初頭の宗教外交を思い出した。安倍首相も、できたての明治政府の指導者達も、それぞれ内輪の柵はあったとは思うが、例えていうなら、身内用のネタをテレビで披露したために滑った、といったところか。
 明治初頭の宗教と外交の事情を知るには、高木一雄の名著「明治カトリック史」が大いに参考になる。この本には著者の考察や解説が少ない。その代わり当時の書簡や外交文書が原文のまま大量に引用されていて「著者が一次資料を整理して並べてやるから、読者はそこから何かを読み取れ」というような硬派な構成だ。この本を頼りに、信教の自由より国家の権威が優先される世界観をたどってみたい。といってもたいしたことは書けないのでお気楽に。

大きな外交問題となった宗教事件の概要

s大浦天主堂
大浦天主堂。左/現在の姿 右/建設当時の姿(大浦天主堂資料館)

 幕末の元治2年(1865年)、長崎の外国人居留地にカトリック教会(大浦天主堂)が建てられると、潜伏キリシタンの中からカミングアウトする者が現れるようになった。200年以上に及ぶ長い禁教政策の下で、密かに信仰を守り続けた日本人教徒の存在は、欧米のキリスト教徒に大きな感動を与えた。このことは欧米人が日本人に親しみを感じ、日本の出来事に関心を持つきっかけにもなった。
 一方日本国内では、カミングアウトしたキリシタンを野放しにしたら法令の権威が地に落ちると、慶応3年(1867年)、幕府は長崎のキリシタン一斉逮捕を強行。約70名を捕らえ、拷問を加えて棄教を促した。
 これに対して欧米各国は一斉に反発。長崎奉行はもちろん、徳川慶喜にも抗議を行った。しかし、3ヶ月もすると幕府が崩壊し、キリシタン達は生きて家に戻ることができた。
 外国人神父は、これでやっとキリスト教が解禁されると明るい気持ちになったという。しかし、自宅に戻ったキリシタン達には、さらに苛酷な運命が待っていた。神道を国教とする中央集権国家の建設を目指す新政府は、耶蘇教(キリスト教)を国家神道の権威に害をなす異端と位置づけ、幕府の禁教政策が継承されることになったのである。しかもパワーアップした形で。

 慶応4年(1868年)九州鎮撫総督に就任した公卿の沢宣嘉は、長崎裁判所(旧長崎奉行所)長も兼任し、最初の大きな仕事として長崎のキリスト教対策に取組むことにした。
s沢宣嘉沢 宣嘉(1
 沢はまず指導的立場にいる者や家長など、約200名を長崎裁判所に出頭させ、改宗するよう諭したというが、そんなことで簡単に改宗するなどあり得ないことであった。そこでより厳しい対応をすべく、中央政府に耶蘇教徒の現状と厳しい処置を要請する書状を送った。
 「凶徒の勢い日々盛ん・島原の乱が再来し九州に争乱が生じることは必然」などと煽る沢宣嘉の要請書は、新政府内の耶蘇教に対する不安と苛立を増幅させ、木戸孝允にして「慨歎に堪えざるなり」といわしめた。
 沢宣嘉の提案は、3,000人ばかりいる耶蘇教信者を全員殺すのも残酷なので、まずは指導者を処刑し、そのほかの者は長崎から追放し、移住先では地元民から隔離して労働させるのがよいというものであった。
 また外国の抗議については、弱腰の幕府が外国人の抗議によって、捕らえた者を帰村させたりするから、奴らは自分達の後には外国がついていると錯覚して増長しているのだ。そもそも宣教師が外国人居留地の外にいる日本人を助けるのは条約違反であり、また我々が罰するのは日本の法律を犯した日本人であるのだから、それは内政問題であって心配ない、としている。

 こうした提案に対し、外交部からキリスト教徒が多い欧米に配慮すべきであるという意見が出されたので、死刑は行わず全員流刑にして改宗するまで戻さないという方向で意見がまとまった。新政府はこれを穏便で人道的な対応と考えていたようだ。

 流配先は加賀藩や石見藩など19藩で(廃藩置県前なので地方行政単位はまだ藩のままであった)、送られた信徒の総数は約3,400名にのぼる(当時のカトリック日本代牧プチジャン司教調べ。日本側の文書では約4,000名)。
 形の上では期限付きの追放刑であるが、信仰を棄てさせることが目的なので、執拗に拷問が行われ、長い監禁生活を通して660名が命を落としている。
 また、長崎とは別に、隠れキリシタンが多くいた九州の各藩でも逮捕監禁が行われており、狭くて寒くて不衛生な牢中で、子供や老人、病弱な者などを中心に死亡者が多数でていた。
 潜伏キリシタンが多かった五島藩の報告書によると「肌寒に耐えかね、あるいは呵責受け候て、死去いたし候者多分にこれあり候」といった状況で、大人には江戸時代から続く石責めや水責めが行われ、幼児や乳児は放置されたため飢えと渇きと寒さで亡くなった。

欧米各国の反応と日本の対応

 これらの事件の詳細は、外国人宣教師やジャーナリスト、それらの協力者などによって詳細に調査され、本国に伝えられていた。また、外国人居留地では新聞が発行されており、歯に衣着せぬ筆致で新政府を攻撃し、在日外国人はもちろん本国でも、怒りの共有化が出来上がってしまった。岩倉具視など渡航する前から悪党の親玉として外国人に知られていたらしい。
 いずれにしても欧米各国から見れば、見過ごすことができない人道に反する残虐行為である。キリスト教やそれを信じる人や国への侮辱や攻撃と捉える人も多かった。各国の領事(アメリカ、フランス、ポルトガル、デンマーク、ベルギー、スイス、オランダ、プロシャ、後に北ドイツ連邦、イギリス)は連名で事実確認とキリスト教徒の解放を求める文書を沢宣嘉に送った。

 長崎裁判所は当然こうした抗議があることは予想しており、前に述べた沢の内向きで独善的な論理で対応した(原文は漢語候文)。

「異教信仰の日本人の一件について----耶蘇教を信仰する日本小民を蒸気船で他所に送ったことは間違いありません。その理由は彼らが国律を犯したからであります。(中略)政府は罪なき国民を仁の道に背く所に送るつもりはいささかもありません。親しく心のこもったお申し入れはかたじけなく存じますが、ご説明させていただきました通り、(疑念を)氷解していただくべく、謹んでお答えいたします。(署名は沢宣嘉の部下3名の連名)」

 欧米の外交官達は「なんじゃこりゃ。全く分かってないではないか」と憤慨したことであろう。その後何度か抗議や質問の文書が送られたが返答は似たようなものであった。そこで欧米各国の公使が協議を行い、英仏米独の公使が日本政府幹部と面会して直接話をすることになった。

 日本側の出席者は三条実美、岩倉具視、福島種臣、沢宣嘉、寺島宗則ら日本政府を代表するお歴々である。興味深いところではドイツ公使の通訳としてシーボルトが出席していた。
 以下はその内容のごく一部だが、外交官寺島宗則の言葉に日本政府の意識がよく現れていると思う。下のドイツ公使はマクシミリアン・フォン・ブラント。フランス公使はマキシム・ウートレーであった(議事録は漢語候文)。
s岩倉具視岩倉具視 (2 会談当時はまだ和装で髷姿
sブラントマクシミリアン・フォン・ブラント(3
s寺島宗則寺島宗則(4
岩 倉「もとより我が国の教えを奉じ、政府の命令を守り、少しも悪い所がない者を移住させることはない」
ブラント「もしヨーロッパに日本の宗教を信じる者がおり、それを我々が罰したなら、貴国政府はさだめて不快に思われるであろう。だからヨーロッパでは、他の宗教を軽んじ侮るようなことはしない」
寺 島「仰せはよくわかるが、そもそも我が国は天皇陛下の御祖宗である天照大神を国民一般が拝んでおり、これに背く者はいない。耶蘇信仰の族はこれを侮辱し政府の命令を受け入れない。もしこれを放置すれば政府は威厳ある命令を出せなくなる」
ウートレー「日本の宗教は神道だけでなく仏教もあろう」
寺 島「仏教徒でも神を拝まぬ者はない。しかるに耶蘇信仰の者は大神を拝まぬばかりかこれを卑しめている。日本人は家に神だけでなく仏も祀るのが普通だ」
ウートレー「ヨーロッパに住む者が耶蘇教を信仰しなくても、我々はそれを咎めることはない」
寺 島「ヨーロッパ各国は規律が確立されているので、信教を自由にしても差し障りはない。しかし我が国は未だそのレベルになく、他の宗教がみだりに入ると政令に差し障る。旧幕府の大名もみな朝廷を頼りとしていた。つまるところ天皇陛下は大昔から我が国の君主であり、大神は陛下の御祖宗であるから、上下の別なく大神を拝めば政令に都合がよろしく、国民は政府のあらゆる指示をよく守る。これがなくては政府の立場が定まらない。もちろんヨーロッパ人に対し、日本に住んでいるのだから大神を拝めというつもりもない」

 こうして議論は平行線のまま、今後も引き続き協議するということを約束して終了となった。
 宗教に関わる闘争で、古くから多くの血を流してきたヨーロッパは、「国家は国民の信教の自由を尊重しなければならない」という基本的な約束事を(たとえ立て前であっても)共有するようになった。そんな彼らからすれば日本の宗教政策は、鎖国するならともかく、欧米先進国サロンにデビューするつもりなら、早急に改めてもらわないと困る独善的な考えと感じられたことであろう。

 尊王攘夷の武闘派公家であった沢宣嘉とはちがい、国際経験が豊富な寺島宗則は、自分の意見が詭弁に近い強硬なものだということをある程度自覚していたかもしれない。しかし幕府相手の内戦を戦うのがやっとの軍事力と、錦の御旗ぐらいしか権威を示す方法がなかった当時の新政府は、天皇と民間信仰を結びつけて権威固めをするために、当面は神道一本でやらせてくれと頼むしかないと判断したのだろう。
 その後も欧米各国の抗議は続き、日本は相変わらず「我が国の特別な事情」を主張するだけであった。しかし岩倉具視らが欧米各国を訪問した際、日本の主張が欧米各国には全く通用しないことを思い知らされる。

予想を超えた米国政府の反応

 明治4年(1871年)の晩秋、岩倉具視を団長とする48名の遣外使節団と、同行する留学生や外国視察の公家や大名、使用人など合わせて100人ほどの日本人が太平洋を渡った。
 一行は1ヶ月足らずの航海でサンフランシスコに着き、各地で予想を上回る歓迎を受けながら、約2ヶ月かけてアメリカ大陸を横断し、ワシントンに到達した。使節団はユリシーズ・グラント大統領(1822〜1885年 元南北戦争の将軍。日本の耶蘇教弾圧を批判していた)を公式訪問し、天皇の国書を手渡している。
sグラントユリシーズ・グラント(5

 また国務省では来たるべき不平等条約改正の地ならしとして、ハミルトン・フィッシュ国務長官らと11回会談している。一行はアメリカが条約改正に応じる意志があることを知って喜ぶとともに、内政問題だと思っていた耶蘇教徒の弾圧が、外交上大きなマイナスポイントになることも思い知らされた。
 以下に条約改正の条件として示された宗教条項に関するやりとりの一部を示す(日本側の漢語候文で書かれた議事録を現代語に要約にした)。
sフィッシュハミルトン・フィッシュ (6

フィッシュ「我々の言わんとすることは、我が国民が自由に意見を述べ、新聞を発行し、自由に信仰することが、貴国にも及ぶことを望んでいるということだ。法律に反さない以上、これらは人生の権利である。人民の意志に政府が関与することがあっては、自由という公権を害することになる」
岩 倉「貴国の人も、我が国の人も、差別無く、あまねくこれを施行すべきという趣旨は承知した。ただその内容を条約に盛り込む必要はないと思われる」
フィッシュ「将来もし政府に登用された者が、言論の自由や信教の自由に反対しても、条約に掲載しておけば、それを守ることができる」
岩 倉「我が国民は仏教を信じているが、各自の公権を大切に思っている。貴国の耶蘇教を信じる人も同じであろう。その件を条約に盛り込むことは内政干渉の発端になるのではないか」
フィッシュ「よくお考えいただきたい、これは一つの宗教について論じているのではない。現行の条約にも宗教に関する条項があるのはご承知か」
岩 倉「承知している。しかしそれは日本人とアメリカ人の交際に関わることで、日本人がアメリカ人を侮辱しないようにするものだ。日本人同士の交際をまで規定するものではない。日本人同士の問題は我が国政府に属する事務だ」
フィッシュ「こちらで求めていることを、みなさんでよくお考えいただきたい」
岩 倉「ロシアにおいても居留地の外国人には信仰の自由を認め、自国民にはそれを認めていないと聞く」
フィッシュ「人々に自由を与えることは、国を進歩させるために重要であることは、あなたもおわかりのはずだ」

 戦後民主主義の中で育った者なら、フィッシュ国務長官(1808〜1893年)の提案の方に親しみを感じるはずだ。アメリカは19世紀末にも太平洋戦争後と同じようなことを日本に要求していたのである。一方、天皇と神道の権威で日本を統治するため、日本人に信教の自由を与えたくない岩倉具視は頑に感じる。

 この次の会談では、岩倉具視に代わって木戸孝允が出席し、日本から同行していたチャーレス・デロング(1832〜1876年)在日公使も発言する。アメリカ側は長崎周辺のキリスト教徒弾圧に直接言及し、会談は厳しいものになった。

s木戸孝允木戸孝允(7
フィッシュ「使節団が日本を出発したあと、長崎で苛酷な弾圧があったと聞いている」
木 戸「そのことに外国人は無関係である。それは宗教上の問題であって、外交と貿易の利益を増進することとは関係がなく、宗教に関する条約を結ぶことは不必要と思う」
フィッシュ「宗教弾圧を防ぐことなく自由な国交はできない。外国の宗教を侮辱するのは外国人を侮辱することになる」
木 戸「それはこの場で議論することではない。一つの弾圧が全ての宗門に及ぶのなら条約に関わるが、現状はそうではない」
フィッシュ「一つの弾圧のことだけを申し上げているのではなく、全てに寛容であることを希望している」
木 戸「人が心に思う権利は天から授かり物である。もし政府がその権利の保護を怠るのであれば、それも条約に書くべきであろう。しかしながら我が政府はこれを保護する意志があるので、条約に書く必要はない」
フィッシュ「日本政府は苛酷な弾圧をしていないということか」
木 戸「そのことは米英仏、その他諸国の公使と会議で話し合った通りだ。同席されたデロング氏も日本政府の考えを承知しておられると思う」
フィッシュ「確証を得たい」
木 戸「それは条約以外の方法で証明する」
フィッシュ「耶蘇教徒4,000人を日本各地に離散させたことは最近のことである」
木 戸「そのことについては理由があるし、その頃と今では状況が違う」
フィッシュ「確かに物事は変化しやすい。だから日本政府が良い法を作り裁判所を設置するまでは、条約で人権を保護すべきと考える」
木 戸「外国人は保護するが、内政に外国人が立ち入って口を出すことは好まない。幕藩時代は国民が外国に保護を求めたかも知れないが、今は日本政府が開明の政治をおこなっている」
デロング「日本では様々な事件が起きている。近年4,000人の耶蘇教徒を何処かに放逐し、山林に寝かせ、鉱山で働かせ、奴隷にしてしまった。各国公使にはこのようなことが起きないようにすると約束されたが、その後も続いている。九州では寒気に倒れたり、餓死させられたり、箱に入れ鎖をかけられ道端にさらされたという。フランスの司祭によると、つい先日新たに70人を追放したとも聞く」
木 戸「我が国は善政に向け努力中で、急激に進歩している。そのときになぜこのような話を持ち出されるのか。貿易や外交とは関係がないではないか」
フィッシュ「日本政府は外国の軍隊を上陸させないことを希望した。だから軍隊を派遣せずにきた。しかし日本の辺境では、政府の許可なく人民を弾圧する役人がいる。当方はこれを防ぐことを望んでいる」
デロング「政府は岩倉公の弾圧はしないという約束を破られたのか」
木 戸「政府の方針は厳刑をやめて、耶蘇教徒に残虐なことはしないということである」
デロング「耶蘇教徒の家族を離散させたことは残虐行為ではないのか」
木 戸「日本政府が寛大な処置をすることを保証すれば今後の憂いはなくなるはずだ」
フィッシュ「なぜ早くそのような告知ができないのか。使節が出国した後も76人の耶蘇教徒が苛酷な弾圧を受けている。だから条約に書いて、政府が人民に条約に従うよう布告すればよい。それが貴国の開化を大いに進めるだろう」

 木戸孝允がちょっと可哀想になるほどのやりとりである。使節団離日後に起きた弾圧の人数まで突きつけられて驚いたであろう。しかし、欧米先進国の大臣クラスとの初会談としてはよく頑張ったし、学ぶことが多かったと思われる。

ヨーロッパの反応

 このあと使節団は欧州各国を回るのだが、岩倉も木戸も、フィシュとの交渉で多くのことを学んだためか、信教の自由問題では柔軟な対応を見せている。ただし、各国の大衆も日本の耶蘇教弾圧のことをよく知っており、行く先々で大歓迎というわけにはいかなかったようだ。

 以下はイギリスの外務大臣アール・グランヴィル(1815〜1891)と岩倉具視とのやりとり(日本側の漢語候文で書かれた議事録を現代語に要約にした。レミュザとの対談も同じ)。
sグランビルアール・グランヴィル(8
グランヴィル「今、英国と日本の政策で最も異なっているのが、耶蘇教の禁教である。日本が相変わらず耶蘇教を厳禁にしているので、私に書面を送り、貴君と交渉するなという者が現れるまでになっている」
岩 倉「そのことについて申し上げたい。300年前天主教が我が国に伝わったが、政治の妨げになるとして禁止令がだされ、それが久しく続いた。そのため人々は天主教がどのようなものであるのかも知らずに忌み嫌うようになった。今解禁の令を出せば、快く思わないものいる。そこで開港の頃から踏み絵をとりやめ、信じる者を厳罰に処すことをやめるようにした。最近は政務に支障のないものは咎めず、いずれは解禁の時がくると考えている」
グランヴィル「それはけっこうなことである」

 また、長崎に宣教師を送り出しているフランスでは、外務大臣シャルル・フランソワ・レミュザ(1797〜1875年)と会談した。
sレミュザシャルル・フランソワ・レミュザ(9
レミュザ「宗教のことは急いで何とかしなければならないだろう。欧米の人心を日本に向けさせるには、古い禁令を廃して寛大に対処し、信教の自由を認めるのが最良の方策である。我々と同じ宗教の人々が他人に煩わせられることなく、残酷な目にあわないことが大切だ。この問題についてフランスは注意をはらい、非常に憂慮している。日本でも文明国が採用している法を実施してもらえれば、我が政府は満足である」
岩 倉「宗教の問題は非常に急がなければならない事案とかねがね考えている。政府でも信教の自由を考えるようになった。ただ国内の実情はまだ大きく変われる状態ではないこともご理解いただきたい。今ご指摘いただいたことは政府に伝え、欧州各国と同様になれるよう努力する。時がくれば耶蘇教禁制の法を廃止するのは必定。ただそれがいつなのか、今時限を決めることはできない」

 さらに岩倉はパリ外国宣教会が派遣している神父が、現時点では違法となっているキリスト教徒を助けているが、それは不正行為であり、そのためにキリスト教徒の間で政府の威厳が損なわれている、それをなんとかしてほしいと注文をつけた。
 それに対しレミュザは、法を犯すものは罰せられるのが道理であり、外国人の保護を受けるのはおかしいと正論を述べた上で「ただし役人が(耶蘇教徒に)残酷な行為をするのを見るは忍びなく、助けたいとは思うのは人情として普通のことであり、これは宗教問題とは別の話である」と反論した。当事者の立場や宗教の種類を超えた、人道上の問題であるというのだ。
 レミュザは伯爵家の出身で父親も政治家。また哲学者としても知られていた。外務大臣に就任したのは70代の最晩年であるが、頭脳は冴えていたようだ。

 この後いくつかの国を回るが、宗教問題については大きな議論は起きていない。ただ、大衆も日本のキリスト教弾圧を詳しく知っており、使節団はキリスト教徒の解放を叫ぶデモにはたびたび遭遇し、酷い時は馬車が包囲されたという。

帰国後のこと

 岩倉使節団は、人権や宗教が近代国家でどんな意味をもっているのかをまのあたりにした最初の日本人といえるかもしれない。沢宣嘉に始まった新政府のあからさまな耶蘇教差別も、アメリカの国務長官や外交官という、ある意味での「教師」を得たことで客観視できるようになり、短期間のうちにより適切な対応に方向転換したようだ。このあたりの明晰さと適応力の高さは、さすが明治維新の立役者達といえよう。
 宗教問題で不平等条約の改正が遅れたと考える人もあるが、使節団は最初から条約改正交渉をするつもりではなかったし、法や官僚組織の整備など、国の体制が全く整っていない状態で米国との単独条約などに手を出したら、日本はもっと苦しい立場に追い込まれていただろう。

 そして明治6年、明治政府は貿易相手であり当面の師でもある欧米各国に配慮する形で、ついにキリスト教の禁教を解いた。と世間ではそういうことになっている。しかし、実際はキリスト教を禁止する高札を撤去しただけで、その理由も「日本人に浸透した法令であるから、高札を掲げる必要がなくなった」というような、とぼけたものであった。しかし、少なくとも、ミサを公然と開いても逮捕されることはなくなった。
 もし、欧米各国の潜伏キリシタンの運命に対する関心が希薄であったり、宗教条項を外交カードとしてゆさぶりをかけられなかったら、解禁はもう少し後のことになっていただろう。

 岩倉らの帰国後、征韓論をめぐる大混乱を経て、天皇の宗教的権威を核とする日本の国家体制が少しずつ固まっていく。そして全ての宗教が国家神道の下に置かれることになり、日本人が獲得したかに見えた信教の自由は、限定的なものであることもはっきりした。岩倉具視の発言にもある通り「我が国の(天皇陛下の)教えを奉じ、政府の命令を守り、少しも悪い所がない」のであれば、別に何を拝んでもいいですよ、というわけだ。明治22年(1889年)に発布された明治憲法では「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス(第2章 臣民権利義務 第8条)」となっている。「日本国民」ではなく「日本臣民」であるのだから、この権利は神道の神である天皇から恩恵的に与えられたものである。

 また神仏を同時に祀り、その他の雑多な民間信仰も受け入れる、日本人のルーズともいえる宗教感覚も、信教の自由に対する理解の妨げとなった。つまり、自分の宗派へのこだわりが少ないと、他者のこだわりに対しても鈍感となり、自分とは違う信仰も尊重しつつ一緒に暮らすという、基本的人権の運用訓練ができにくい。そして日本人なら天皇陛下と神道の神々を拝んで当たり前という考えが、権力側だけでなく一般大衆によっても押し付けられ、それが嫌なら日本から出て行け、というような話になってしまう。

 教義を厳密に解釈するなら、キリスト教やイスラム教はもちろん、仏教にも他宗派と相容れない教義をもつものがある。それらを熱心に信奉する人達にとって神社は自分の神様ではない。だから靖国神社が神社である以上、そこに祀られることを拒否する遺族がいるのは当然である。しかし、平均的日本人から見れば、それは突飛で理解しにくいことであるらしい。
 神社参拝を日本の「伝統的な風習」として捉え、あまり難しいことを考えずに拝めばいいのだという人もいるが、宗派とは古い宗教的風習の問題点に気づき、それを否定して理想のものを求めるところから発生するものだろう。だから神社神道に否定的な人がいてもいいし、真面目に考えた人が異端扱いされる世の中はよろしくないと思う。

参考図書 「明治カトリック教会史」 1巻および2巻 高木一雄 教文館 ISBN:13 978-4764272804 および ISBN:13 978-4764272811 2008年

写真ソース
1) The Eastern Culture Association
2) Library of Congress Prints and Photographs Division Washington, D.C. 20540 USA
3) Japanische Impressionen eines Kaiserlichen Gesandten . Karl von Eisendecher im Japan der Meiji-Zeit. München 2007.
4) Japanische Impressionen eines Kaiserlichen Gesandten . Karl von Eisendecher im Japan der Meiji-Zeit. München 2007.
5) United States Library of Congress's Prints and Photographs division under the digital ID cwpbh.03890
6) United States Library of Congress Prints and Photographs division under the digital ID cph.3a37879.
7) 国立国会図書館
8) Wikimedia Commons
9) Wikimedia Commons

関連記事
Comment

超長文ですみません

富岡製糸場の記事からの流れでこちらの記事に辿り着きました。
どちらの記事も非常に面白く勉強になることばかりで興味深く読ませていただきました。
確かに阿倍政権(というか戦後の日本政府)の外交上のジレンマ・各国との認識のずれ・読みの甘さなど、当時と通じることが多そうです。

中でも、私が2011年の震災以降気になっていた日本の特殊性、すなわち日本人の精神構造は西洋人の精神構造とどこがどのようになぜ異なっているのかという疑問に関連があると思いコメントをかかせていただくことに致しました。
9・11の震災の時、地震の揺れを体験し(私は関東在住です)、テレビで津波によって家々が流されていくのを見た時、ある考えを抱きました。
それは日本人にとって自然は「神」そのものであるという考えです。しかもその「神」は概念上のものではなく、直接、物理的に圧倒的な力を人間に対して行使してくる存在です。
自然を観察しコントロールすることを目指してきた現代でさえもあの状況です。ましてや昔の日本においては、あの力はまさに人知を超えた力すなわち「神」そのものであるという発想が生まれるのも容易に想像がつきます。
日本では、大地が動き、風が家屋を吹き飛ばし、水が全てを押し流し、山が火を噴き、抗うことのできない圧倒的な力で直接人間に手を下してきます。
一方、西洋では自然が人間に物理的な力を行使してくることはありません。(西洋におけるアニミズムと日本の自然崇拝の根源的な違いはここから生じていると考えています)
そのような状況において、日本では「神」とは抗っても無駄な程の物理的な力を持つ存在として認識された。自然のあるところ全てに実際に「神」は存在しているので、信仰を「捨てる」という概念がなく、信仰も当然「自由」たり得ない。
他方、西洋では「神」とは人間の心が作り出した概念でしかなく「自由」に「捨てる」ことが可能な存在です。「神」への信仰を維持するためには寧ろ意識的に教化する必要があるのではないかと。

長々と書いてきましたが、震災の時に感じたことを今までこうして文章として書き記すことがなかったのですが、今回の記事を読ませて頂き、コメントとして書かせて頂きました。(他で書けよバカ野郎ですよね、すみません)
日本人の特殊性は地理的要因があるというのは当然のことなのですが、果たしてこのメンタリティーの溝は埋めることが可能なのかなあと考えさせられます。自然が人間に与える影響をコントロールしていくにつれ均質化していくものだとは思いますが。
重ね重ね駄文・長文すみませんでした。

興味深く読ませていただきました。

 充実したコメントありがとうございます。長いコメントも歓迎です。
 日本にはおっしゃるような宗教的傾向があると思います。古代から為政者はそれを巧みに利用し、ある意味、楽に統治しようとしてきたといえるかもしれません。敗戦後の占領軍もそのあたりをよく研究していたと思います。
 日本人が宗教を捨てられず、西洋人は捨てられるというお話も興味を持ちました。隣の中国やアラブの宗教観なども視野に入れて、もう少し勉強してみたいと思います。

信仰を捨てる

僕も、信仰を捨てるという考えが日本人には芽生えなかった、という意見に新鮮さを感じました。捨てるんじゃなくて、上書きしているのではないですかね。たとえば八幡信仰のようなものです。神と仏が習合するというやつです。あれかこれかではなくて、一緒になる。大和朝廷が地域の豪族を支配下に納めていく過程が古事記や日本書紀から読み取れますが、支配下に収める宗教を改宗させるのではなくて、むしろ国作りの起源説話に取り込んでいくというやり方をとっています。この方法だと、神学や教義は発達しませんけれど、宗教戦争はおこりにくいですよね。政治と宗教が未分化の時代であれば、かなり賢い選択だったように思います。翻ってキリスト教の場合は「改宗」という剣を突きつけてくる。未開の宗教だったら、西洋文明と引き替えにこれを迫られる。屈服すれば、その地域の文化は根こそぎになってしまう。キリスト教によって聖化された地域においては、それ以前の文化と神は異端の領域に追いやられてしまう。ただし、「捨てられる」という考えはどうかと思います。キリスト教は異端と正統を区別するためにさんざん公会議というのをやってきましたけれど、それは逆に捨てられないものを言語化する過程だったのではないでしょうか。正統があるということは、当然異端があるというふうに。上書きではないですが、日本人の宗教とはことなる意味で、西洋文明の知恵だったようにも思うのです。キリスト教は世界宗教としてあらゆる地域を正統と異端とに区分していきましたけれど、この「異端」の排斥がかえって、その地域古来のふるい伝統文化とともに宗教意識も重層化する結果となったように思います。本旨からはずれた意見を長々のべてしまいました。ご容赦ください。

異端と正統

塩崎晴彦さん。
 興味深いコメントをありがとうございます。上書きというお考えから、なるほどと思い出されたことがあります。
 中南米のカトリックには、住民の心にしみついた土着の信仰を全否定せず、神仏習合とまではいかなくても、柔軟に対応して勢力拡大に成功したと思われる部分がありますね。メキシコの骸骨祭り(死者の日)などは、土着のオカルティックな祝祭と、カトリックの祭日が習合したものとして有名ですが、他にも似たものがあると思います。
 また、同じカトリックでも会派や宣教師の資質によって、土着の宗教や風習に対する対応は大きく異なりますから、どの会派が、また誰が中心となって布教活動をしたかで、状況が変わるかもしれませんね。日本でも柔軟で布教地の習慣を尊重するイエズス会だけが布教していたら、26聖人の殉教事件は起きていなかった可能性があります。興味はつきません。
 

No title

コメントに返信して頂きありがとうございます。
前回コメントさせて頂いた時、あまりにも長くなりそうなので書かなかったことを追加させていただきます。
(なぜこのブログのコメント欄なのか?ということに関しては僕自身謎です(笑)。特に意味はありません。twitterにも書くつもりですが。今回の巨大台風の話題で思い出してしまいました。)

まず、『日本人にとって自然は「神」そのものである』という表現について。
これは自然に「神」が「宿る」という表現とは似て非なるものであると僕は考えています。
「宿る」のではなく「そのもの」だという所がポイントです。
自然には明確な境界線がありません。それはあらゆる場所に存在する全てがひとつながりの存在です。個が全であり全が個であるという概念が生まれるのも必然かと思われます。八百万の神という概念はどこにでも存在している「神」を区別するために後から発生した概念なのかもしれないとも考えられます。
昔、『古事記』の国生みを現代語訳で読んだ時、国土を生むという発想がどうもしっくりきませんでした。しかし今ではなるほどと思っております。自然が自然を生み出すのは至極当然のことですから。むしろ自然が人間的な存在を生み出すことの方が不自然です。
そうすると、日本で「神」が異形の姿をしていることが多いのも少し納得できます。自然そのものを表現しようとすれば、人間的な形状ではなくなるはずですから。戦後、昭和天皇が行幸された時に天皇陛下が目の前にいるにもかかわらず天皇陛下のお姿をはるか遠くに探し求める女性の写真がありましたが、あれは「神」たる天皇が人間の姿をしている訳がないとその女性が考えていたためかもしれないと推察しております。

また「自然」が「直接」人間に物理的で抗う気さえ起こさせない様な力を行使してくる存在であるということから様々な「日本人らしさ」が生じる遠因になっているのではないかとも考えております。(所謂「お上に対して従順である」という点などです)

日本人にとって「神」は最初から物理的にそこに存在していた。
他方、西洋人にとって「神」は最初は頭の中に現れた空想でしかなかった。
この違いが両者を決定的に隔てている壁なのではないか?私はそう考えています。

このように考えてみますと、日本の様に「大地・風・雨・海・山」それら自然に存在する全てが物理的に人知を超えた力を人間に対して行使してくる国や地域は他にあるかなあ?と考えた時に思い浮かぶのがフィリピン(あとチリ?)なのですが、なるほど確かに国民性が似ていなくもないと思われたりもするわけです。
同じアジアでも大地が動かず、津波や台風も来ない中国や韓国はむしろ西洋の自然観に近くその意味で日本人よりも西洋的な合理主義に親和性が高いのではないかとも感じております。
所謂「日本人らしさ」はやはり存在しており、それは地理的な要因によって形成されたと考えるに至りました。(島国であり且つ山々によって各地が分断された閉鎖系的空間であるということも含みます)

またまた長々と書いてしまいました。しかし、僕が考えていたことを文章化できて少しすっきりさせて頂きました(笑)。これからも面白い記事を書いていって下さいませ。失礼いたします。

それぞれの神々

2014-07-11のGuest様

 返信が遅れましたが、再び興味深いコメントをありがとうございました。
 自然環境がそこに住む人々の精神に大きな影響を与えることは、私も全くその通りだと思います。

 日本の神とヨーロッパや中国大陸などの神との比較という大きなテーマについては、不勉強でよく分かりませんが、日本の自然が、そこに住む人間が抵抗する気を失うほど厳しいものではなかった、ということはいえると思います。

 大地震があっても、速やかに再生できるのは、世界的に見ても復元力が大きいといえる日本の植生と、それを支える豊かな水資源。さらには、木で出来た簡素な住宅でも暮らしていける温暖な気候のためだと思います。
 反対に、大陸の自然環境は、日本に似た穏やかな場所もありますが、低温や乾燥で農耕に適さない地域が多くあります。大陸で畜産が発達したのは、牧草は生えても小麦など穀物の生産には適さない環境が多かったからではないでしょうか。

 ただ、日本人の諦めのよさというか、建築や器物を作るとき、それをあまり長く残そうと思わない感覚は、地震や洪水、穏やかな気候といったものが関係していると思います。つまり、どうせ壊れるだろうだから堅牢性はあまり重視せず、解体移築が簡単にできる建物の中で、刹那的ともとれるような美を求めるといった傾向はあると思いました。
 
Trackback
Trackback URL
Comment form













管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

Kimupon_Cicadan 木村 義志

Author:Kimupon_Cicadan 木村 義志
出身地 : 大阪市
現住所 : 東京都
1955年生まれ
科学図書執筆編集のお仕事
分野は生物学系

写真は特にクレジットや注釈がない限り筆者の撮影です。記事や写真についてのお問合せはなんなりと。
小さな写真はそれをクリックすると大画像が開きます。

検索フォーム
ブロとも申請フォーム
QRコード
QRコード

Page Top
Powered by FC2 Blog | | Template Design by スタンダード・デザインラボ