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古墳の話「森将軍て誰やねん」

2014年最初の更新です。本年もどうぞよろしくお願いします。(下の写真は今回の記事とは無関係な年賀状)
カワセミ冬02

 新年早々に昨年秋の話題で恐縮だが、上越市から長野市にかけて撮影旅行に行った際の出来事である。3日間の日程を終えて帰路つき、国道18号線を使って善光寺平(長野盆地)を南下していたとき、左手の山の頂上に淡い黄褐色の壁があり、その上に円筒埴輪らしきものが並んでいるのが見えた。どうも大きな古墳のようである。その姿にどこか心魅かれるものを感じ、道を左に折れて正体を突き止めることにした。

 山麓に着くとそこには「千曲市森将軍塚古墳館」という立派な博物館があった。ビンゴである。「あれはやっぱり古墳の埴輪か。でも何で山の上やねん。そもそも森将軍て誰やねん」と、増々興味が深まった。
 しかし、博物館の入口にあったポスターや看板を見ても、森将軍のことがよく分からない。キョロキョロしていると受付の方が「間もなく山の上の古墳に行くバスが出ますが、どうされますか ?」と親切に声をかけて下さったので、博物館で委細を確かめる前にとりあえず山上の現場に向うことにした。山上へ通じる道は一般車の進入禁止となっているので、古墳館と山頂を結ぶ有料シャトルバスを利用するか、自分の脚でせっせと登るかの二者択一となる。
 バスは急な坂道をぐんぐん登り、あっという間に山上の停留所に着いた。短い乗車時間とはいえ徒歩なら途中で後悔しそうな坂道である。バスを降りて少し歩くと大きな古墳らしきものが姿を現した。
森将軍塚古墳
 森将軍塚古墳は狭い尾根に不釣り合いなほど巨大な前方後円古墳で、今から千数百年前の姿に復元されていた。
 後で知ったのだが、森将軍塚古墳は小学6年社会科の教科書(東京書籍「新しい社会」など)に出ているような有名な古墳であった。まったく無知にもほどがある。反省しきり。埴輪が目にとまらなければ一生知らずじまいであったかもしれない。外に出たらキョロキョロすることは大事だな。

 タイトルの「森将軍」の正体であるが、それは森さんという人がいたのではなく、「森」という場所にある「偉い人の塚」という意味らしい。昔の庶民がイメージする一番偉い人物は、たまに暴れん坊だったりする「将軍様」であったのだろう。誤解を防ぐ表記なら「森地区/将軍塚」となろうが、筆者は「森将軍」の方が好きである。エジプトのピラミッドと違い日本の古墳には文字が刻まれていないから、埋葬されているのが誰かは分からない(○○天皇陵などと呼ばれる古墳もあるが、それらは関連文書や周辺状況から推測したもの)。だから突然「森将軍」などといわれると驚くし、愉快な気分にもなるのだ。

 森将軍塚古墳館の資料によると、この古墳について書かれた文書は明治16年(1883年)のものが最も古く、そこには「屋代村の将軍塚」の名で記載されているとのこと。屋代は現在も使われている付近の地名で、森将軍塚の最寄り駅も「しなの鉄道/屋代駅」である。長野盆地は古くから開けた場所なので、いずれもっと古い文書が見つかりそうな気もするが、他に別の塚もあるので、位置や大きさを示す記述がないと特定は難しそうだ。
 「森将軍」の名前が最初に出てくる文書は、大正12年(1923年)の「長野県史跡名勝天然記念物調査報告書(文化財保護法の前身となる史蹟名勝天然記念物保存法に対応するための調査)」とされ、以後その名前が使われるようになったという。

古墳配置
 森将軍塚古墳から見える付近の山々には、川柳将軍塚古墳、越将軍塚古墳、土口将軍塚古墳、倉科将軍塚古墳など多数の古墳があり、それらは善光寺平を取り囲むように築かれている。上の写真は森将軍塚古墳に置かれた展望案内板で、分かり易いよう古墳の位置に赤い矢印を書き込んでみた。
 このような位置に古墳を築けば、山裾の平地からよく見えるので(そのおかげで筆者も国道から古墳の存在を知ることができた)領民は日常的に領主の宗教的権威や支配力を感じながら暮らすことになるだろう。苦労して山の上に大きな古墳を築いた理由はここにあると思われる。
 また森将軍塚古墳の周囲には、13基の小さな円墳のほか、小さな石棺や瓶棺などが多数発見されており、それらは古墳の完成後に埋葬された子孫や縁者の墓と考えられている。
森将軍塚古墳部分
 森将軍塚古墳は10年以上に及ぶ発掘解体調査の後、内部構造を含め完成当時の姿に復元されているが、調査が始まる1981年以前は草木に覆われた山の一部で、方形の墳丘の角などは摩滅したように崩れた状態になっていたようだ。
 平地に築かれた前方後円墳は、文字通り円形と方形の墳丘を直線上に並べた形になっているが、森将軍塚古墳は曲った尾根の上に目一杯の大きさで造ったため、円部は変則的な長楕円となり、古墳全体を「く」の字状に変形させてある。
 全長は約100mもあり、長野県では最大の規模で、1日200人の労働者を動員しても、着工から完成までに1年半を要するという試算がなされている。上の写真に見える墳丘の表面を覆う葺石のうち、傾斜が急な部分には、復元の際に古墳時代のものより奥行きのある石材を使用し、裏込石を入れるなど崩壊を防ぐ改良を施したという(丈夫な石積みの構造は以前こちらに少し書いた)。古墳時代には中世末〜近世の城郭を凌駕するような巨大墳丘が築かれているが、石積みの技術は未熟であったようだ。
森将軍塚俯瞰図
森将軍塚古墳俯瞰図(現地案内板より)

 森将軍塚古墳の見所は、山の尾根上に築かれた巨大な墳丘と、その内部にある巨大な石室である。下の写真は森将軍塚古墳館に展示されている石室の原寸大模型(実際の石室で型をとり、一つ一つの石の形まで正確に再現されている)。
森将軍塚古墳石室
 石室は約7.6m×2m(10畳ほど)の広さで、床面はロの字形に粘土が盛られ栗石が敷かれている。壁の高さは約2.2mと中で人が暮らせるほどの容積を持つ。築造当時、石室の内面にはベンガラ(赤色の顔料)が塗られていたが、顔料を石に固着させる技術が未熟で(技術はあったが面が大きいので予算を節約したのか、剥がれたベンガラを後で目にすることはないので技法選択の失敗に気づかなかっただけなのかもしれないが)、長い年月の間に剥がれた粉末状のベンガラが埋葬品の上に降り積もった状態になっていたようである。
 床には古墳の主が眠る木棺が置かれていたと思われるが、盗掘によって石室内は空っぽの状態であった。
森将軍塚石室
 面白いことに森将軍塚古墳は、最後の盗掘者の名前が明らかになっている。それは幕末生まれの「塚掘り六兵衛」こと北村六左衛門で、明治時代に石室の短辺側の壁(上写真の手前側)に穴を開け内部に侵入した。しかし、値打ちのあるものは六左衛門以前の盗掘者によって持ち出されており、全くの骨折り損であったという。彼は他の塚にも穴を開け、勾玉などを売って小遣いにしたほか、石材などを運びだして田畑の土木整備に利用したという。
 盗掘者というと一攫千金を狙う盗賊のようであるが、その実体は六左衛門のように、付近の農民が塚を掘って売れそうなものを拾ってくる程度のことが多かったのではなかろうか。六左衛門は近所の子供に飴をやって穴掘りを手伝わせていたという。もちろん古い塚を掘り返して小遣い稼ぎをすることに抵抗を感じる人も多かったであろうから、「塚掘り六兵衛」の異名には、近所の人の六左衛門に対する恐れと軽蔑が含まれていたと思われる。

 この記事を書くのに「千曲市森将軍塚古墳館ガイドブック(監修 : 千曲市教育委員会)」を参考にさせていただいた。森将軍塚古墳館などで購入(一冊1,000円)できるので、森将軍に興味をもたれた方は現地の見学とともに一読をお薦めしたい。
 
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プロフィール

Kimupon_Cicadan 木村 義志

Author:Kimupon_Cicadan 木村 義志
出身地 : 大阪市
現住所 : 東京都
1955年生まれ
科学図書執筆編集のお仕事
分野は生物学系

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