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日本の美しい教会建築-4/平戸-紐差教会

 これは昭和4年(1929年)竣工の比較的新しい鉄筋コンクリートの建物だが、教会そのものの設立は明治18年(1885年)と古く、教会設立時の建物から数えて推定三代目となる。なぜ推定なのかは後述する。

紐差教会聖堂正面

 まずこの白い聖堂が建つまでの流れをおさらいしたい。

 1865年(元治2年)大浦天主堂で潜伏キリシタンとの劇的な出会いを体験したベルナール・プチジャン神父は、「フランス寺見物」を装ってやってくる潜伏キリシタンを通じて(プチジャン神父は大浦天主堂を開放し日本人に見物させていた)、各地に潜むキリシタンの情報を収集していた。
 そして明治12年(1879年)、外国人の往来が自由化されると、ジョセフ・F・マルマンや、アルベルト・C・A・ペルーといった若くて有能な神父達を派遣し、潜伏キリシタンの調査と彼らを教会へ迎える準備を進めさせた。

 ペルー神父は五島列島を経て平戸島に入り、多数の潜伏キリシタンと出会う。彼は明治13年(1880年)平戸島の田崎に、布教の足掛かりとなる聖堂と住宅を建てるが、これらが紐差教会の前身となった。
 次にその仕事を引き継いだのが、新約聖書の和訳で知られるエミール・ラゲ神父だ。彼は明治18年(1885年)に田崎の教会を交通の便のよい紐差に移転。翌明治19年に法人登録を済ませ正式に紐差教会が発足した。このときの聖堂が田崎から移築したものか、新築したのかは確認できなかったが、いずれにしてもこれが「初代」の紐差教会だ。

 次に紐差教会にやってきたのが「教会建築-1/宝亀教会」で紹介したジャン・フランソワ・マタラ神父である。彼は福岡に転勤したラゲ神父と交代し、以後長きに渡って紐差教会を支えることになる。
 紐差教会には島内の各所から多数の信徒が訪れたので、聖堂はすぐに手狭となった。そこでマタラ神父が各方面の協力を仰ぎ、奥行き20m間口12mほどの聖堂を建てたとされる。しかし、新聖堂建設に関する記録が残っておらず、マタラ神父が就任時にすでにあった聖堂を、そのまま使い続けたということも否定できない。これが冒頭に「推定」とした理由である。

 しかし、パリ宣教会はマタラ神父を「Le Père Matrat fut un grand constructeur d'églises pour le besoin de ses communautés dispersées.(マタラ神父は広範な信徒の要求に応えた偉大な建築家であった)」と称えている。こんな人物が築50年にもなろうかという手狭な建物を、布教の拠点(明治期の小教区主任教会)として使い続けるだろうか。筆者はマタラ神父が二代目を建てたのは間違いないと思う。

 当然ながら二代目聖堂の竣工年ははっきりしない。パリ宣教会の記録を見ると、マタラ神父が何らかの形で関わった建築事業は、1896・98・1903・09・11・18の各年に竣工していた。全てが聖堂ではないし、所在地は2件を除いて島単位でしか分からないが、付近の教会の竣工年、建築様式、マタラ神父の勤務状況などから考えて、最初の1896年(明治29年)が二代目紐差教会ではないだろうか。

 謎の二代目聖堂として興味が持たれる建物だが、幸運なことに三代目聖堂の建設に際し、少し離れた島に移築され今も残っている。
 当時佐賀県の呼子方面を担当していたヨゼフ・ブルトン神父が、壱岐水道に浮かぶ馬渡島に移し、馬渡島カトリック教会堂として今も大切に使い続けられているのだ。
 馬渡島は呼子港や名護屋港から船便があるが、残念ながら筆者はまだ見学できていない。建築史の川上秀人史近大教授は「長崎の教会建築史」の中で「(馬渡島教会は)明治18年の建築とすることもできようが、形態上から考えるとさらに年代を下げることも可能である」と述べている。明治29年というのは、けっこういい線ではないだろうか。
 
 マタラ神父の就任中、紐差教会に集まる信徒は増え続け、明治末期には施設の拡張が強く求められるようになっていた。そのためマタラ神父は資金集めに努めたが、在任中に現状を上回る規模の聖堂を建てるには至らなかった。
 大正10年(1921年)マタラ神父の仕事を引き継いだのがボア神父だという。このボア神父については調べがつかなかった。パリ宣教会のアーカイブスで見つけたボア神父らしき名は「Frédéric Louis BOIS(フェデリーク・ルイ・ボワ)」だけで、彼は当時九州にはいたが熊本で活躍していたようだ。彼と紐差教会との関わりを示す記述は見いだせなかった。しかし、一時的に誰かの代理として派遣されたことは考えられる。

 その後何年も建設のための努力が続けられ、昭和2年(1927年)に紐差にやってきた荻原浩神父の代になって、やっと着工の運びとなった。設計施工は当時すでに教会建築の第一人者となっていた鉄川与助棟梁である。

紐差教会横

 建物は2階建で、礼拝堂は2階にあり、参拝者は正面の階段から直接2階に入るという珍しい構造になっている。鉄川与助棟梁のコンクリート建築は、これが第2作目とのこと。
 前面の鐘塔は3層で、上に8面体のドームが載る。スタイルとしては白亜のロマネスク様式ということで、夏の明るい日差しの中で見たせいか第一印象は「あっ、メキシコの教会みたい」であった。

紐差教会後ろ

 建物は斜面に建っているので後ろの方は平屋となっている。建物の後端の地下にまで部屋があるかどうかは未確認。
 建築資料によると屋根は桟瓦葺とあるが、建物が大きいし丘の上に建っているので瓦は見えにくい。建物の後ろから祭壇後部の屋根を見ると、桟瓦ではなく平板の材料で葺かれているように見えた。

紐差教会堂内

 外から見ても分かる通り三廊式である。主廊と側廊の間にアーチを支える円柱が並び、柱頭の飾りがアーチ下端の四角い断面と円柱をうまくつないでいる。
 室内の幅は約15mで、ドアを入った所から祭壇までは25m以上ある(建物全体の奥行きは40m以上)。これは戦前に建てられた日本の教会では特に大きなもので、戦後浦上教会が巨大な新聖堂を建てるまでは、紐差教会が長崎県で一番大きい教会であったという。
 天井は中央が高い折上式の格天井で,各ブロックに装飾が施されている。天井の格子は単なる装飾ではなく、鉄筋の入った部材として屋根を支えているそうだ。

紐差教会窓とドア

 2階以上の窓には全てアーチが付き、窓やドアにはステンドグラスがはめ込まれている。ステンドグラスの大半はシンプルな幾何学模様だ。
 建物の1階はかなりのスペースがあるはずだが、どのような使われ方をしてきたのか聞きそびれてしまった。

紐差教会ファティマの聖母

 この教会の敷地には十字架の道行き石(キリストの14の苦しみがそれぞれ石に刻んであり、それらを順に拝んでまわる)など、信者のための仕掛けがある。特に目を引くのはファティマのマリア像だ。ルルドのマリア像はよく見かけるが、ファティマのマリア像をこのように大々的に作った教会は少ないと思う。
 日本ではこの聖母出現譚が、超常現象番組やそれに類する本で宣伝されたために、オカルティックな印象を持たれているが、この素朴な像を見るとなんとも心がなごむ。

 最後に、浦上教会の巨大な新聖堂で思い出したことがあるので、紐差教会とは関係ないが、以下にその話をする。最近新しい本もいくつか出ているし、詳しく知っている方も多いと思うが、全人類的な遺産ともいえた浦上天主堂の被爆遺構が、1958年、浦上教会によって解体されてしまった話だ。教会建築ファンというか、平和を望む日本の一市民として、このことは忘れてはいけないと思う。

 1940年代の終わりから1950年代にかけて、長崎市では原爆で破壊された浦上天主堂を保存するか撤去するかという議論がなされていた。
 長崎市議会では何度も保存が決議され、1951年に当選した田川努市長も保存に賛成であった。
 ところが1955年になると、カトリック長崎教区の山口愛次郎大司教が、教会再建の資金を募るため渡米し、10ヶ月をかけてアメリカ各地の教会を回った。
 最近知って驚いたのだが、山口大司教はアメリカの新聞(ニューヨークタイムス)の取材に対し「カトリック教徒はこの試練を戦争を終わらせるための殉死とみなす」「広島で日本人が受けた犠牲は十分でなかった(だから長崎にも原爆が落とされた)」と述べたという(ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」-高瀬毅/平凡社 による)。これが事実なら、長崎カトリック教会と浦上教会は日本国民にどんな言い訳をするつもりだろう。

 山口大司教がアメリカ行脚をしていた頃、日本では広島市で第1回原水爆禁止世界大会(1955年)が、長崎市で第2回原水爆禁止世界大会(1956年)が開催されるなど、核兵器の使用を「悪」として非難する運動が盛り上がりを見せていた。日本原水爆被害者団体協議会が結成されたのもこの頃だ。
 
 田川市長も山口大司教とほぼ同時期に渡米。名目は姉妹都市提携をしたセントポール市を表敬訪問するということであった。そのときアメリカで何を吹き込まれたのかは明らかでないが、帰国すると保護から撤去へと態度を変え、議会で「多額の市費を投じてまで残すつもりはない」と明確に答えるようになった。

 1949年から活動を続けてきた長崎市原爆資料保存委員会は、教会が具体的な撤去計画を進めていることに驚き、新しい聖堂を建てる代替地の提供を申し出た。
 しかし教会側は、浦上天主堂のあった場所はカトリック信仰史上重要な場所であり、そこで祈ることに大きな意味がある、というような理屈を述べ、原爆遺構の全人類的な歴史価値を全く認めない姿勢で移転案を拒否したのである。
 その後浦上教会は遺構の撤去を開始し、壁の一部などが移転展示されたほかは、廃棄または新しい教会の土台として埋めてしまった。

 広島の原爆ドームは大切に保存され、1996年、人類の負の遺産として世界遺産に登録された。かつてのカトリック長崎教区の長が保護者として頼ったアメリカにとっては目障りな世界遺産ではあるけれど。
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プロフィール

Kimupon_Cicadan 木村 義志

Author:Kimupon_Cicadan 木村 義志
出身地 : 大阪市
現住所 : 東京都
1955年生まれ
科学図書執筆編集のお仕事
分野は生物学系

写真は特にクレジットや注釈がない限り筆者の撮影です。記事や写真についてのお問合せはなんなりと。
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