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銅山における公害との苦闘/大煙突とアホ煙突のことなど

 日本で銅の生産が始まったのは7世紀末から8世紀の初頭とされる。その後優良な銅山の発見と製錬技術の向上で生産量が増え、17世紀には世界一の銅産出国となった。
 しかし、掘りやすい場所での銅鉱石の枯渇や、鎖国による技術の停滞などもあって、元禄時代をピークに生産量が少しずつ下降し、幕末には最盛期の70%程度になっている。

秩父和同銅鉱
我が国最古の銅鉱跡とされる和同遺跡の露天堀跡(埼玉県秩父市)

 明治に入ると政府によって鉱業の近代化が進められた。新しい技術が導入された官営鉱山は順次民間に払い下げられ、活況を呈するようになる。日本が得意とする銅の生産も、19世紀末には幕末の10倍以上となる2万トンを超え、20世紀の初めには6〜8万トン(ピーク時は10万トン)を推移するに至った。
→日本の銅の歴史や生産量の概略についてはJOGMECのサイトに「 我が国の銅の需給状況の歴史と変遷」などの資料がある。

 輝かしい日本の銅生産であったが、その一方で現代に続く負の遺産も生み出していた。それは銅鉱石の採掘や製錬に伴う深刻な環境汚染である。
 銅鉱石は硫化物の塊なので、それを掘り出し精製する際には二酸化硫黄などの有害物質が出る。銅鉱石に含まれる銅はたいてい1%以下だから、純銅を何万トンも作ろうとすれば、途方もない量の廃棄物や排ガスを処理しなければならない。しかし汚染物質の環境への影響や、その対策についての知見が少なく、また環境保全より国家を富ませることが優先される時代であったから、大量の汚染物質が何の処理もされないまま放出されることになった。

足尾銅山坑道跡
足尾銅山の坑道跡(通洞坑)。通洞坑の一部は観光坑道として公開されている。

 銅の生産に伴う環境汚染は日本各地の銅山や製錬所で発生し、周辺地域に深刻な被害を与えたが、中でも栃木県足尾銅山のものは「足尾銅山鉱毒事件」として有名で、栃木出身の政治家田中正造(自由民権運動の活動家として知られ、以前書いた記事「洋風建築の精華」で紹介した強権官僚の三島通庸とも対立した)を中心とする運動体が、汚染物質の流出防止と被害住民の救済を求めて闘争を繰り広げたことは、日本の反公害運動の原点として語り継がれている。
足尾製錬場
足尾銅山本山製錬所。周辺の坑口に点在していた製錬所を一カ所に集め効率化を図った大規模製錬所。1884年から創業を開始し、排煙に含まれる二酸化硫黄があたりをハゲ山にした。右の大煙突は被害の軽減を図って1919年に建設された。高さ45m。1989年に操業停止し一部設備の解体の後、写真に見られるような設備を近代化遺産として保存。

 その後足尾の銅山と製錬所が操業を停止し、田中正造の活躍が昔話となった今も、大量に蓄積された汚染物質が消えたわけではないので、官民による被害根絶に向けた活動が継続されている。
足尾ダム
巨大な足尾砂防ダム(1977年完成)。製錬所の二酸化硫黄で樹木を失った山は、大雨が降ると溜まった汚染土を一気に下流へ流す。このダムはそんな土砂の流下を防ぐために建設された。500万㎥の容量があるが、山が雨を保持できるように、植林も平行して進められている。

 かつて足尾銅山と並ぶ生産量を誇った茨城県の日立鉱山でも、周囲の景観が変わるほど深刻な公害が発生したが、その後の経過が足尾とは大きく異なっていた。
 銅生産がもたらす甚大な環境被害に対し日立鉱業は、当時としては手厚い補償と汚染軽減設備への投資、さらには企業が地域社会を吸収するという対応で、住民との対立を回避している。

日立鉱山第一縦坑櫓
日立鉱山第一縦坑櫓。操業開始時に開削した縦坑の櫓で、当初は木製であったが1929年に鉄製に変更。1981年まで使われた。この櫓の下に地下600mまで降りる垂直のトンネルがある。動態保存といえるほど状態がよく、管理者の鉱山への思いが感じられる。

 日立鉱山の対応が成功した理由には、先行していた足尾の事件を教訓にできたこともあるだろうが、何よりもまず、鉱山の「一山一家」意識を周辺地域全体に拡大し、それを基盤に企業を成長させるという明確なビジョンを持っていたことがあげられるだろう。
 つまり、鉱山の周辺住民は「拡大版の家族」であり、そこで起きた問題は「家長」の責任で円満に処理するという考え方だ。法律に基づく責任範囲の明確化など不要だから即決である。補償に被害者が納得すれば解決ということになる。汚染で農林業の継続が難しくなった土地は、日立鉱山が買うか借りるかしたので、汚染の長期化もあまり問題にならずにすんだ。その是非はともかく、日立鉱山はこのように旧来の農村社会を吸収しつつ、一つの企業による工業都市を作りあげていった。
 
 また、最も汚染が深刻だった時期の交渉が、比較的円滑に進められた理由には、日立側が公害担当者として角彌太郎(かどやたろう)という逸材を登用し、被害者側にも関三郎という温厚で才知ある若者がいたことがあげられるだろう。

 角彌太郎は和仏法律学校出身で、日立鉱山入社前は、秋田県の小坂鉱山で公害補償問題を担当していたという。1907年、日立鉱山社長の久原房之助(くはらふさのすけ)に呼ばれ日立に移るが、久原自身もかつては小坂鉱山の経営陣の一人として活躍し、その後独立して日立鉱山を立ち上げた人物である。なので日立鉱山には久原の部下として小坂鉱山で活躍した人材が多くいた。

小坂鉱山
秋田県の小坂鉱山(Wikimedia Commons)

 角は「法律の範囲内で対応するだけでは企業倫理が確立できず、事業の発展は望めない」という、近代的なコンプライアンスの観念を持っていたようだ(近代的というよりは、近世以来の商道徳に近いものかもしれない)。その対応は被害者の不安や不満を解消し、敵対することを極力避けようとするものであった。
 補償額が具体的にどのような形で決められていったかはよく分からなかったが、被害者が十分に満足できる額であったことは確かなようだ。被害者側の関三郎によれば、鉱山からの補償金を集落で分配する際、その場は盆と正月が一度に来たような喜びで、農民のひとりが「この金を全部貰ってもよいのか」と驚くような額が支払われていたらしい。
 こう書くと現金収入の少ない農民の頬を、札束で撫でてなだめたように見えるが、先祖伝来の土地を汚染され、仕事を奪われた人々から信頼を得るのは容易ではなかったと思う。もし信頼が得られなければ、補償金を拒否して強硬に抵抗する人が現れるものだ。そうなると足尾銅山のような困難な状況になっただろう。足尾では補償金と代換地を拒否した農民が、抵抗小屋を建てて居座るという、成田空港の三里塚闘争のような状況が起きていた。
 角彌太郎は後に、顔に唾を吐きかけられたり、火鉢を投げつけられることもあったと回想しているが、粘り強く交渉を重ねた結果、周辺住民の信頼を得ることができ、交渉も少しずつ円滑に進むようになっていった。
 また、煙を上げる大工場は不気味な要塞に見えるものだが、その中身がよく分からないということが近隣住民の企業に対する不安や不信の一つにもなるので、住民の工場視察なども受け入れている。被害住民の不満と不安を解消するには、目に見える具体的な行動と情報公開しかないということを、角はよく理解していたのであろう。

日立鉱山久原本部
日立鉱山創業時の本社ともいうべき久原本部(1905年築)。久原房之助はここで寝起きし、鉱山のスタッフと様々な計画を練った。最初に掘られた日立鉱山第一縦坑の側に建つ。

 一方、23歳の若さで入四間集落の被害農民代表となった関三郎は、国や自治体とは交渉せず、企業との直接交渉による共存共栄を基本的方針とし、日立鉱山に誠意が見られるならムシロ旗を連ねて騒ぐ必要はないという考えを持っていた。もちろん関に同調せず、集団で事業所に押しかけ警察の介入を招いたり、単独講和を結ぼうとする住民がいなかったわけではないが、彼が長く住民の代表として活動できたのは、住民と日立鉱山の双方から一定の信頼を得ていた証であろう。
 関のような姿勢を、企業の懐柔策の手先と見る人もいるかもしれないが、当時は下手にデモなどすれば治安を乱したとして逮捕される時代であったし、銅の増産は国策で、操業の停止や減産などあり得ない話であったから、鉱山との直接交渉で、少しでも有利な条件を引き出すというのは、現実的で住民の利益になる戦術といえる。
 国や企業と正面からぶつかり、問題の存在を日本中に知らしめた足尾銅山の田中正造とは、全く異なる運動方針だが、田中のように議員の肩書きも、人脈も、自由民権運動の経験も無く、ちっぽけな山村を足場に、色々なことを勉強しながら大企業と対峙しなければならなかった若者としては、唯一の選択肢であったのかもしれない。
 いずれにせよ、住民側も鉱山側も、問題が生じたときに合理的な話ができて対応も早い、角や関のような人材がいたことは幸運であったといえる。

ダルマ煙突
現存する日立鉱山大雄院製錬所のダルマ煙突(アホ煙突)。巨大で複雑な構造を持つくせに、役に立たないどころか状況を悪化させたため「アホ煙突」というあだ名をつけられた。

 角や関の調整で日立鉱山の公害問題が加熱し過ぎることはなかったが、だからといって有害物質の放出が止まるわけではなく、年々その被害は深刻化していった。

 日立鉱山も早くから、公害を放置すると自らの首を絞めることになるという認識は持っていたらしく、被害を低減する研究や実験が続けられてきた。
 農業被害の主な原因は、硫化物を含む排煙や排水なので、硫化物を除去するプラント、たとえば排煙から硫酸や硫黄を取り出す装置などの実験を行ったが、当時の技術や社会環境(硫酸の製造には成功したが、化学工業が未発達な当時は国内需要がなく、無理して作っても少ししか売れず危険な廃棄物になるだけ)では期待した効果が得られず、いずれも頓挫している。

 当時最も現実的な対応と考えられていたのが、排煙を薄めることであった。
 角彌太郎が日立鉱山に来て間もない1911年に竣工した神峰煙道(別名ムカデ煙突/下の写真の左端に見える白い線)は、山の稜線に取り付けられた、全長1.6kmに及ぶ万里の長城のような煙突で、その中にポンプで空気と煙を送り込んで、途中に開けた多数の排煙口から分散して出そうというものであった。しかし、途中で冷やされて重くなった煙は山肌を降り、「ムジナいぶし」と揶揄されたように山の動植物をいぶし、さらには麓の農地にまで被害を与えていた。

大正初期大雄院精錬所
1913年頃の日立鉱山大雄院製錬所。右上の白い円筒がダルマ煙突(アホ煙突)。周りの山に草木がないのは排煙に含まれる二酸化硫黄で枯死したため。(Wikimedia Commons)

 神峰煙道の次に作られた特殊排煙設備がダルマ煙突である。これは政府が打ち出した排出基準、すなわち煙を0.15%にまで薄めて排出するという指示に沿った設計となっている。
 日立鉱山内にはその効果を疑問視する声もあったが、政府の指示ということで、高さ36m、内径18m、内部に6基の卵形煙道を備え、ポンプで空気を送って排煙を希釈するという巨大煙突が建設された。
 実際にダルマ煙突を稼働させてみると、排出基準はクリアしたものの、空気で冷やされ重くなった煙が地表近くに滞留し、汚染の解消に全く効果の無いことがわかった。以後ダルマ煙突は「アホ煙突」とよばれるようになる。角彌太郎によると「付近の煙は以前より多くなり、それが鉱山住宅や(従業員の子供が通う)小学校の方に流れたために、住民や校長から咳や目の痛みが酷いのでなんとかして欲しいという真剣な訴えがあった」ということである。つまり日立鉱山の身内からも苦情が突きつけられたわけだ。

 この頃、汚染物質による農林業の被害は深刻さを増し「いくら補償金をもらっても、農業ができないならここに住む意味がない」と、那須への集団移住が計画されていた。足尾銅山では1905年に集団移住(用地買収に応じず村に残った人々も、政府による家屋の解体という強行手段で1907年までに移住させられた)があったので現実味があった。関三郎が思い描いた共存共栄の夢が、村の消滅という最悪の形で終わろうとしていたのである。
 
 そこで起死回生の打開案として打ち出されたのが、山の上に高い煙突を建てる計画であった。煙を空に拡散させることで、地上の被害を軽減しようというのである。これは久原房之助のアイデアだといわれている。
 この計画には「高い煙突など大気汚染の範囲を拡大するだけだ」というような反対意見も多く寄せられた。そこで調査研究チームが編成され、気象や流体物理の観点から効果が検討された。
 驚いたのは、このために気象の専門家を登用し、建設予定地とその周辺に気象観測所を設け、当時珍しかった観測気球を使って(気球の制作や操作は陸軍気球連隊の指導を受ける)上空の気象を長期に渡って観測していることだ。また煙の流路や天候による汚染物質の動きなどについてもデータが蓄積されていった。ムジナいぶしやアホ煙突のときとはまるで違う、慎重で緻密な対応だ。大煙突がダメなら日立鉱山の未来はないというような危機感が感じられる。

大煙突足場
大煙突の建設が開始された頃の足場。これが天に向かってどんどん伸びていった。(日鉱記念館所蔵)

 こうして大煙突は汚染低減に効果ありという結論に達し、1914年に着工、翌年竣工した。設計は当時30歳になったばかりの日立鉱山工作課長宮長平作。日立での仕事は大煙突のほか石岡発電所(国の登録文化財)の水路設計などがある。
 高さはなんと155.7mもあり、竣工当時は世界一高い煙突であった。根元の太さが11.5m、頂上では8mとなる。日本の鉄筋コンクリート建造物の歴史は始まったばかりであったが、アメリカ製の異径鉄筋を使用するなど当時の最新技術が使われている。
 その一方で、建設用の足場は古風な丸太と棕櫚縄。日本ではまだ煙突内部に足場を組む工法が知られていなかったので、外側にバベルの塔のような巨大な足場を組み上げた。らせん状に取り付けられた足場板の上を、生コンを背負って登る人の列は、まるでアリの行列のようであったという。

日立鉱山大煙突
完成した日立鉱山大雄院製錬所の大煙突。高さ155.7m。竣工当時(1915年)は世界一の高さ。
(Wikimedia Commons)


 1915年3月1日の午後12時半から大煙突の使用が開始され、同時に汚染の元凶となっていたムジナいぶしやアホ煙突など、他の全ての煙突から煙が消えた。
 その結果、付近の汚染は大幅に軽減され、農業に希望が持てるようになった。
 これに対し、周辺の町村は大煙突による汚染の拡大を恐れ、調査委員会を作って1年間煙害の監視をしたが、顕著な汚染は見られず委員会を解散したという。その後農業被害の補償金が年々減っていったことも、環境が改善されたことを物語っている。ちなみに汚染が最も深刻であった大煙突着工年の補償金支払総額は約24万円で、その後の10年で4分の1にまで減っている。

 日立鉱山では大煙突の運用開始後も気象観測を続け、また24時間煙突の監視を行い、煙害が起きそうな状況になったときには、製錬炉の運転を制限するという対応をした。この考え方は現代の大規模プラントの公害監視システムと同じといえよう。こうして日立鉱山周辺の環境が改善され、荒れた田畑や禿げ山の再生に着手できるようになった。

 これで関三郎が願った共存共栄の道が開けたことになるが、その後、日立鉱山を中心に地域の工業化が進められ、農業と鉱業の共存共栄ではなく、農業の労働力が工業に吸収される形で地域が発展していった。

 竣工から78年の歳月が流れた1993年2月。日立の町を見下ろし続けた大煙突が、下3分の1を残して突如倒壊した。日本の近代化に貢献した産業遺産として、市民がその価値を再認識するようになった矢先のできことである。前年秋、日立青年会議所がライトアップしたことに対し「私はそんな晴れがましい存在ではありませんよ」とでもいうように。

大煙突とダルマ煙突線入り
現存する大煙突とアホ煙突。1993年に赤い破線部分が倒壊した。左下の送電線を見るとその巨大さが分かる。

 当時最高の材料が使われたコンクリートも、内側から二酸化硫黄に蝕まれていたと思われる。コンクリート工学の研究者によると、鉄筋コンクリートは二酸化硫黄で耐久性の低下を招くが、現在の大気の状況なら大きな影響はないとのことである。しかしこれは銅製錬所の煙突である。高濃度の二酸化硫黄を、内側から長年浴び続けている。1974年に実施された大煙突の調査では、概ね健全と診断されたものの、二酸化硫黄の影響を懸念する報告もあった。

 当日崩壊を目撃した日鉱金属(旧日立鉱山)の社員によって、それはスローモーションの映像を見ているようであり「とても厳かな感じがしました。あの日はとてもきれいな青空だったんです。まさに大往生という感じでした」という悲しくも美しいシーンが語られている。

 日本が近代化を進める課程で、銅の大増産が農林業を営む周辺住民の生活を破壊し、伝統的な地域社会を崩壊させたことは事実である。また、資本家が労働者を過分に搾取してもあまり問題にされなかった時代だから、鉱夫や工員の労働環境や待遇が、今と比べものにならないほど酷かったことも事実であろう。だから昔は良かったなどというつもりはないし、明治の企業人が今より立派だったとも思っていない。
 しかし、こうした歴史を見ていると、現在の東京電力の社長が久原房之助で、現場担当が角彌太郎なら、どんな対応をしただろう、というようなことは考えてしまう。そういえば、福島第一の1号炉と4号炉を作った日立製作所は、日立鉱山の機械部門からできた会社だ。今回の事故対応について、角彌太郎の感想を聞いてみたい。

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プロフィール

Kimupon_Cicadan 木村 義志

Author:Kimupon_Cicadan 木村 義志
出身地 : 大阪市
現住所 : 東京都
1955年生まれ
科学図書執筆編集のお仕事
分野は生物学系

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