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水産と自然

和井内貞行 アゲインー2/孵化放流事業の実際

和井内桟橋
十和田湖畔 和井内貞行の孵化場前にある和井内桟橋

 前回は導入部というか、教科書や伝記本の話で終わってしまったので、今回は和井内貞行の仕事の様子を簡単にまとめておきたい。
 その基礎資料の一つとなるのが、農商務省の下啓助(しもけいすけ)と篠田平三が、和井内貞行に直接取材してまとめた「十和田湖養殖業状況」という報告書だ。

 下啓助は全国の漁業や水産加工、流通などの実態をまとめた、日本初の本格的水産統計報告書「水産事項特別調査(農商務省/明治27年)」の作成に尽力した人物で、後に水産講習所の所長も務めている。
 篠田平三は下啓助の部下で、下が帰京した後も一人で十和田湖に残り、貞行の事業を詳細に調査、報告した。
 彼らがわざわざ十和田湖に出かけたことから、農商務省も和井内貞行の放流事業に関心を持っていたことが分かる。
 取材結果は明治39年(1907年)11月7日の官報に掲載されており、その視点はタイムリーな話題を追うルポライターのようで面白い。

経費・漁獲物売却勘定書留帳
和井内貞行 経費及び漁獲物売却勘定書留帳(和井内貞一郎氏蔵 十和田ふるさとセンター)
 和井内貞行は養魚事業に関する様々な記録を、見やすい形に整理していたので、篠田も大いに助けられたと思う。

 以下に官報に掲載された下啓助の報告書を引用し、緑色の文字で説明を加えさせていただきたいと思う。原文は濁点も句点も改行もない明治の文書なので、読みにくい漢字を新字、アラビア数字、仮名に改め適宜句点と改行を加えた。また読み易くするために数カ所だが助詞を補っている。◯は活字がつぶれて判読不能な文字。括弧内は筆者の加筆。

官報 第7008号 明治39年11月7日
十和田湖養殖業状況
農商務技師 下 啓助の観察に係る十和田湖養殖業の状況左の如し
(農商務省)
官報1906-11-7

冒頭の十和田湖の位置や地勢などの説明は省略した

 十和田湖は未だ実測したる者なきをもってその面積を詳にせず。湖水清冽にして夏期64°Fを超えず、冬期沿岸は結氷を見れども全面の凍結すること稀なり。
 中山と御倉山との間は噴火孔にして円形の湾をなし中海と称す。水深300尺以上あり、沿岸概して絶壁なるをもって水深し。ただ南方における休屋(やすみや=集落名)の沿岸2~3町のみ砂浜にして少しく遠浅なり。西方もまた十和田銀山跡および大川岱および発荷の沿岸に少しく浅處あり。

 64°F=17.8℃。実際の水深は最深部で1,000尺以上。平均水深が200尺もあって、この膨大な容積が後にコイ漁の障害となる。(1尺=30.3cm)

 東方の子ノ口(ねのくち)において川流となり、約14~15町にして一大瀑布となる。銚子瀧また子ノ口瀧という。直下25~26尺あり、これをもって魚類の遡上を妨げ、昔時より湖中魚介を産せず。ただ無数にイモリを産するのみなりしか。
 明治32年春、出水のために銚子瀧の右側崩潰し、一條の水路を作りたるより魚の遡上に便なるにいたれり。

 滝を迂回する魚道を掘ったのは和井内貞行本人だが、官報には洪水で自然に水路ができたと書かれているのが面白い。結局この魚道は、入ってくる魚より出て行く魚の方が多いとか、入ってきた大形のマス類が放流した若魚を食害することなどが分かったので、結局ふさがれることになった。

 これより先、十和田銀山に勤務せる和井内貞行、同志二人と謀り、コイ、フナ等の移植放流をなして湖を利用せんとし、明治17年より年々移植したりしが、コイは水深きをもって容易に捕獲すべからず。ただ7~8◯月の夜、産卵のために休屋沿岸の水草茂生せる所に来るものを、刺網、曵網等にて捕うるにとどまり、その他は水底に溜居するもののごとくさらに漁獲なかりし。

 和井内貞行は、小学校の教員助手から小坂鉱山の事務方に転職し、十和田湖畔の銀山に転勤を命じられたサラリーマンであった。この時代の十和田鉱山は「十輪田鉱山」と表記するのが普通であったというが、官報には十和田の文字が使われている。
 二人の同志というのは、十輪田鉱山事務所の飯岡政徳所長と、十輪田鉱山に燃料や食料を販売していた三浦泉八と思われるが今一つはっきりしない。この二人は和井内貞行が来る前からコイ等を放流していた。つまり十和田湖に魚を放したのは貞行が最初ではなかったのだ。同好の男達が鉱山事務所に集まり、熱心に魚談義をしている姿を思い浮かべると楽しい。


和井内孵化場跡
十和田湖畔に残る和井内貞行の孵化場跡

 明治34年、日光中宮祠湖(中禅寺湖)よりマス卵を取り寄せ、人工孵化をなして3万5千尾を放流し、爾後毎年マス卵を孵化放流せり。
 明治36年、北海道支笏湖より「カバチェッポ(ヒメマス)」の卵を取寄せ、また人工孵化をなして放流せしもの約3万尾にいたれり。
 このごとく年々コイ、マス、カバチェッポ等を放流しけり。すでにその星霜を積むこと10数年にして、コイのごときは体長2尺有余に達すれども、捕獲は意のごとくならず、いまだ存分の成績を上ぐることあたわず。

 放したコイが大きく育っていたにも関わらず、広い十和田湖では、産卵期に浅瀬に集まったもの以外、まとめて獲る手立てがなかった。

 イワナ、カバチェッポ等は未だ成魚を認め難くも、マスは明治36年より漁獲あり。年々その数を増加し、昨38年のごとき、春期マス1,981尾、秋期マス12,750尾に達せり。
 
 下啓助らが和井内貞行を取材した時にはまだ、ヒメマスの結果はでていなかったが、他のマス類ではそれなりに成果があがっていたことが分かる。
 マスの産卵期は一般的に秋で、冬~春にかけて孵化育成を行った後に放流する。ニジマスなどには春に産卵するものもあるが、ここでいう春期マスと秋期マスが何を意味するのかはよくわからなかった。


 秋期マスは産卵のために湖に注入する河川の近傍に集まるものを、刺網にて漁獲、養成して、その卵精の熟するを待ち、採卵し人工孵化を加えて放流す。
 明治38年の採卵数を挙ぐれば、総数176万6千粒にして、うち20万粒を青森県水産試験場に、2万粒を岩手県稗貫郡太田村(現花巻市)に寄贈し、明治39年春、120万尾を孵化放流せり。

 明治38年は初めてヒメマスの回帰が見られた記念すべき年である。伝記読み物や映画では、貧困に喘ぐ和井内夫妻が、湖面を見つめて涙するクライマックスであるが、その一方でサクラマスなどの孵化放流事業も着実に進められていた。もちろん資金繰りは苦しかったであろうが、和井内貞行がプロの種苗生産者としての意識を持って孵化放流事業に取組んでいたことが分かる。

 孵化場は銀山跡を距る南方2里、生出(おいで)にあり。孵化場12坪、その他事務室13坪半を有せり。採卵場は子ノ口、大川岱、宇樽部および銀山跡の4箇所にして、これらはただ親魚を採捕採卵するの設備に過ぎず。

十和田湖増殖漁業協同組合
和井内貞行の事業を引き継いだ十和田湖増殖漁業協同組合孵化場の旧棟。
貞行時代の建物ではないが、なかなかいい感じなのである。


 和井内貞行は秋田県士族なり。十和田銀山に勤務の余暇、養魚に志し、◯◯飯岡政徳および三浦泉八両人と図りその計画にあたりしが、両人はその同盟を脱したり。
 これにおいて和井内は銀山を辞し、独り専らその事業を継続し、10数年来忍耐してその業に従事し、資金を投ぜしこと約1万円。ようやく2~3年前より収利を見るにいたり、明治37年、区割漁業として湖水全部および湖水より銚子瀧までの使用を、秋田県より同人に免許したり。

 明治26年に十輪田鉱山が休山となり、職員は小坂町の本社にもどっている。その後は休日に十和田湖へ行ったり人を使うなどして養魚を続けていたが、明治30年、限界を感じた(鉱山が民営化されリストラが始まったことも関係したかもしれない)貞行は小坂鉱山を辞職。夫婦で十和田湖畔に移住した。飯岡がそれに同行できるはずもなかった。
 十和田湖には漁業権がなかったので、せっかく育った魚を他者が勝手に獲っていくような状態であったが、貞行に排他的権利が認められたことで、事業は本格的な水産業の形を整えていく。


青森県諸願届綴
和井内貞行が十和田湖を管轄する自治体と取り交わした書類は
今も整理保存されている。写真の書類は漁業税に関するやりとり。
(和井内貞一郎氏蔵 十和田ふるさとセンター)


 和井内貞行は◯手の孵化場を拡張し、本年は500万粒を孵化し、明治41年までに2千万粒を孵化放流の計画中なり。
 十和田湖のマスの採卵期は10月下旬にして、11月中旬において卵は発眼し、採卵50日ないし70日にして孵化し、翌年4月上旬、体長約1寸に達するを待ちて湖に放流せり。
 湖には数多の餌虫発生するをもって、成長ことにすみやかにして、コイのごときは7~8年を出でずして体長2尺餘、目方1貫600匁(6kg)に達し、マスのごときも5~6年にして、雄は体長1尺6寸内外、体重450~460匁(約1.7kg)、雌は体長1尺5寸、体重350~360匁(約1.3kg)にいたれり。マスの繁殖に従いイモリを認めざるにいたれりという。

 十和田湖はプランクトンや水棲昆虫が豊富で、放流したコイやマスは順調に育っていた。経済的に最も落ち込んでた時期とされるが、貞行は意気軒昂に事業計画を語っている。

 湖の周囲には数部落あり。瀧の澤2戸12人、鉱山跡3戸20人、大川岱6戸30人、發荷1戸5人、休屋1戸5人、以上秋田県に属し、休屋12戸60人、宇樽部25戸150人、青ブナ1戸2人、青森県に属せり。
 ◯中、宇樽部および休屋は湖畔における最大なる開墾地にして、水田少◯を有し、農業のかたわら牛の牧畜に従事せり。
 和井内貞行、養魚の結果湖水より年々漁獲のあるにいたり、和井内はこれら村民をして曵網、刺網、または手釣をもってマス・コイを捕獲せしめ、その漁獲物の幾分かを割きては村民に与えり。ゆえに現今、全部落はほとんど半農半漁となるにいたれり。

 下啓介は水産課技官という立場上、報告書をまとめるのに際し水産業の成功を強調しているが、それを差し引いても、近隣住民が新しく始まった放流事業から、すでに一定の利益を得ていたことがうかがえる。

 明治38年、気候◯を失し、湖畔部落の農作物不良なりしを、和井内はマス1万771尾を住民にあたえ、これを救◯せり。

 この報告では「農作物不良なりしを」などと簡単に書いているが、明治38年の東北は長雨と低温にみまわれ、天明の大飢饉もかくやの歴史的大凶作となった。
 そのとき住民に配ったマス約1万尾は、当時の漁獲量のほとんど全てであった。この思い切った救済策を提案したのは妻のカツ子だという。
 佐々木千之の伝記には、獲ったマスを全て売ってその代金1,300円を配ったとあるが、筆者も魚ではなく現金を配ったと思う。
 1.300円を当時と今の白米の値段から価値を換算すると530万円程度だが、職人などの賃金で換算すれば2,000万円にはなる。後者の方が実態に近いだろう。
 それから2年後、45歳でカツ子が亡くなると、近隣住民はその早過ぎる死を悼み大川岱に勝漁神社(カツ子の勝に漁師の漁)を造営。命日の5月3日を祭礼日とした。


和井内神社
後に勝漁神社は貞行を合祀して和井内神社となる 昭和52年建替え 石灯籠は当初のもの

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プロフィール

Kimupon_Cicadan 木村 義志

Author:Kimupon_Cicadan 木村 義志
出身地 : 大阪市
現住所 : 東京都
1955年生まれ
科学図書執筆編集のお仕事
分野は生物学系

写真は特にクレジットや注釈がない限り筆者の撮影です。記事や写真についてのお問合せはなんなりと。
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