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和井内貞行 アゲインー1/教科書で讃えられた貞行

 かつて国語の教科書には「十和田のひめます」という和井内貞行(わいないさだゆき)の伝記が載っていた。50歳以上の方ならこの名前を見て昔を懐かしく思い出されたことと思う。

和井内貞行51歳
50歳頃の和井内貞行 緑綬褒章を胸に

 和井内貞行はいうまでもなく、十和田湖の漁業と観光開発に貢献した明治の偉人である。彼を語る時、失敗を乗り越え目的を達成した強固な意志が強調されがちだが、実際の貞行は石の上にも3年というようなタイプではない。広い視野と合理性、そしてフットワークの良さを兼ね備えた近代的起業家であった。有能な夫人とともに、現代風の明るいドラマの主人公にしても魅力溢れる人物だろう。学校で和井内貞行を習わなかった方もこの機会に興味をお持ちいただけたらと思う。

国語教科書_1

 上が教科書にある和井内貞行の伝記「十和田のひめます」である。内容は、魚のいない十和田湖で養魚を志した貞行が、20年におよぶ試行錯誤の末、ついにヒメマスという新しい水産資源を作り出すことに成功した、というもの。資金難に苦しみながらも執念で夢を実現させたことが感動的に描かれている。
 「十和田のひめます」は、戦後の学習指導要領第二期(1958~1967年)の教科書に見られ、1968年からは別の教材に変わってしまったようだ(筆者の調べは不十分なので詳しい方のご教示を願う)。
 写真の本は学校図書社刊の「小学校国語・四年」昭和35年(1960年)版で、和井内貞行の嫡孫で淡水生物の研究をなさっていた故和井内貞一郎氏の蔵書。現在十和田ふるさとセンターに展示されている。

青年訓練所教科書

 上は青森縣青年訓練所の教科書(青年訓練研究會編著/1932年)に掲載された北垣恭次郎による和井内貞行伝「十和田湖」。同じ内容が伝記集「近代日本の文化恩人と偉業(明治圖書/1941年)」の中に「十和田湖開發の大恩人 和井内貞行翁」として掲載されている。「近代日本の文化恩人と偉業」の方は、国立国会図書館デジタル化資料で閲覧できる。
 北垣恭次郎の作品は時代的に「タメになる話」臭さはあるものの、和井内貞行が単に執念と努力だけで問題を乗り越えたのではなく、成功の背景に科学的な合理性があったことを伝えている。また、妻カツ子の活躍を重視した構成は、近年の女性を意識したドラマ作りを思わせ興味深い。

和井内カツ子
和井内カツ子

 北垣恭次郎は東京高等師範学校付属小学校で教鞭をとり、古い教科書に頼らず独自の指導法を開発したり、校外授業を重視するなど、明治後期から大正にかけての先駆的教育者として多くの実践記録と著作を残している。
 「近代日本の文化恩人と偉業」には和井内貞行のほか、真珠養殖の御木本幸吉、琵琶湖疎水の田邊朔郎、自動織機の豊田佐吉、楽器製作の山葉虎楠ら、産業関係の偉人が紹介されている。
 ちなみにこの教科書を使った青年訓練所とは、将来兵士になる16歳以上の若者を教育する施設で、ここを卒業した者は入隊後の教育期間が6か月短縮された。教科書編者は青森県の若者を元気づける地元の偉人として掲載したと思われる。
 青森縣青年訓練所の教科書も小学校の国語教科書と同じく和井内貞一郎氏の蔵書。

十和田の開発者
 
 和井内貞行の伝記は教科書だけでなく、子供向けの読み物としても出版されていた。上は佐々木千之による「十和田湖の開發者 和井内貞行(三省堂1942年)」で、この本は戦後「ひめます」のタイトルで時代社から再刊されている(1948年)。
 佐々木千之は少年時代を青森県で過し、後に文芸誌の記者・編集者をしながら、文芸作品を執筆した作家で、青森県近代文学館にはその作品が多く展示されている。写真の本は筆者が古書店で見つけたものだが、市場在庫は非常に少ない。

 和井内貞行の伝記は本のほか「われ幻の魚を見たり(大映/1950年)」という映画にもなっている。大河内傳次郎の演技を堪能できる名作であるが、自由な解釈と脚色によってドラマが作り上げられているので、一般的な伝記とは分けて考えた方がよい(リンクしたスチール写真は劇中の貞行とカツ子であるが、悲壮感が強調されていることがご理解いただけよう)。この映画についてはまた別の機会にとりあげたい。

 最初にも書いたが和井内貞行の「失敗と貧困にめげず努力を重ねた苦労人」といったイメージは、彼の意志の強さを語る上では重要となるが、それは長所の一部に過ぎない。その年譜からは忍耐力よりアイデアと積極性を重視していたことが読み取れる。

 たとえば、貞行が最初に行ったコイの放流は失敗に終わったとされているが、実際は初回の稚魚放流から3~4年後には30cm以上のコイが獲れるようになっている。伝記や映画で語られる「湖畔に住む人々に安くて新鮮な魚を提供したい」という目標は十分に達成されたのだ。
 しかし貞行の目標は地域経済の振興であったから、そんなことでは満足しない。当初はたったの600尾に過ぎなかった放流量を、回を重ねるごとに倍増させ、同時に「十和田湖」と「十和田湖のコイ」というブランドイメージを定着普及させるため、当時始まったばかりの水産博覧会にコイを出品したり、湖畔に旅館「観湖楼」を建てて近県の地方紙にタイアップ記事を載せるなど、コイと十和田湖観光の宣伝に務めている。このアンテナショップのような旅館の女将として奮闘していたのが和井内カツ子で、地元民にも遠方から来た人にも信頼されていたという。
 また、コイは死ぬと市場価値がなくなるが、エアポンプも活魚トラックもない当時のこと、何処へ出荷するにも必ず山越えを伴う十和田湖は産地として不利であった。そこで貞行は日持ちする調理済み製品(当時は真空パックやレトルトパウチなどないので缶詰)の研究にも着手していたのである。

和井内貞行が十和田湖に放流したコイの量
コイの放流量
官報1906年11月7日十和田湖養殖業状況 より

 当時は湖の生態系に関する知見は少なく、その生産力を把握することが難しかった。また、十和田湖は浅瀬が少なくコイを漁獲しにくいという問題もあった。軌道に乗るかに見えたコイビジネスも、漁獲量の低下によって先行きが危ぶまれるようになっていく。

 貞行はコイと並行してイワナやフナなども放流していたが、コイの先行き不安を解消するため、マス類の本格放流に取組むことにした。そこで選ばれたのが青森県の水産試験場で孵化放流が行われていたサクラマスと、同じく日光の孵化場にあったビワマスまたはニジマスである(この時点ではまだヒメマスのことを知らなかった)。
 ここで感心させられるのは、コイの漁獲量が低下する前からマスの生産に備え、長男の和井内貞時を日光の宮内省御料局菖蒲ヶ浜孵化場(現在の増養殖研究所)に派遣し(後に次男の貞實を青森水試に派遣している)、マスの孵化放流技術を学ばせていたことだ。貞行はマスの導入について貞時らの意見をとりいれている。
 当時の日本は山村の殖産興業政策の一つとして、マスの研究に熱心で、貞行がコイを放流していた明治20年代には、すでに国や自治体によってマスの孵化放流の研究が行われていた。

 マスの導入には、ドイツのヒルゲンドルフに近代生物学を学んだ日本の水産学者の草分け、松原新之助のアドバイスがあったとされる。当時の松原は農務省の技官で、貞行がコイの放流を始めた頃から十和田湖を訪れ交流を持っていた。その背景には、国の研究機関が魚のいない日光の中宮祠湖(中禅寺湖)でやろうとしていたことと、貞行が十和田湖でやろうとしていたことが、完全に一致していたことがある。
 これらのことからも分かるように、貞行は広範な情報網を持ち、特に淡水魚の増養殖に関しては、日本のトップクラスの研究者からも情報を得ることができたのである。

 話は少しそれるが、上に示した教科書を蔵書されていた和井内貞行の嫡孫、和井内貞一郎氏は、大学で稲葉伝三郎教授(日本の水産増殖学の確立と普及に努めた研究者)から水産増殖学を学ばれ、その稲葉教授が若き日に学ばれた水産講習所を設立したのが文中で紹介した松原新之助技官である。
 こうした先人達の輝かしい業績とは全く無関係だが、筆者も昭和49年4月から50年1月まで稲葉伝三郎先生から水産増殖学の講義(その後引退されたので最後の講義となった)を受けるという幸運にめぐまれており、水産増殖学つながりで十和田湖のヒメマスを身近に感じながら、調べ事を楽しむことができた。というわけで、和井内貞行翁のネタをもう少し続けてみたい。

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Comment

No Title

私が小学校時代と指導要領の時期は重なっても
いるように思うけど(笑)、地域性もあるのか、この人
は初めて知りました。
ご本人なかなかの美丈夫で、奥さんも目元
ぱっちりの現代的美人。
美男美女のカップルでいい感じ~~とつまんない
ことに感心した私でした。

Re: No Title

> 地域性もあるのか、この人
> は初めて知りました。

学校図書だけでなく当時シェアの大きかった光村図書にも出ていたので
わりと皆さん知っておられるかと思ったのですが
実際はどれぐらいだったのか、今度よく調べてみますね。

> 美男美女のカップルでいい感じ~~

でしょ(笑)
ドラマ作るなら誰がいいですかね。
中高年までしっかり演じられるということで
貞行は中井貴一なんかどうでしょ。本木雅弘もいいな(笑)
女優さんはだれがいいでしょね。

No title

秋田県本荘市生まれです。
光村図書の国語の教科書で和井内貞行様の勉強をしました。小学4年生でした。
1969年のことです。秋田県に素晴らしい偉人がいらっしゃると知り感動したものです。6年生で十和田湖に修学旅行に行きました。発荷荘に宿泊した折夕食でヒメマスの味噌漬けをいただきました。今でも味を覚えています。翌日バスの中から和井内ホテルを俯瞰しました。素晴らしいお屋敷でした。結婚して西武池袋線の富士見台に住んでいました。ご近所を散歩したらなんと和井内の名のついた病院がありました。廃業されているようでしたが、あの大きな3階建ての病院のお医者さんは絶対に和井内貞行様の一族でしょうと決めつけておりました。(珍しいご苗字のため)ホントのことは不明ですが通るだびに懐かしさがこみ上げたものです。
和井内貞行様は大変なハンサムですね。秋田イケメンです。
もちろん私は秋田美人ですよ。(ただし自称です。夫は秋田美人には例外もある、その数少ない例外に当たって不幸だと申しておりますが、気にするような私ではありません。)
確かアイヌの言葉でヒメマスのことを「カバチエッポ」と呼ぶという記述があったように思います。

遠い昔を思い出させて下さり、木村様に感謝を申し上げます。
ありがとうございました。

ありがとうございます

秋田の偉人に乾杯さんへ

お読みいただきありがとうございました。
返信が遅くなりすみません。
秋田美人からのコメント、とても嬉しいです。

和井内病院ですか。興味深いです。
和井内家は士族で古い家系ですから東北を中心に
それなりの人数の方はおられるようですね。
岩手県には和井内という地名がありますが、
和井内貞行の父親は南部藩の陪臣ですから、
和井内氏は南部を中心に広がったのかも知れません。

十和田から秋田方面へ下ったとき、どこへ行っても道端にたくさんのフキが生えていて
多勢の地元の方が摘んでおられたのが印象的でした。
あの辺に住んでいたら、店でフキなど買ったことがないでしょうね。
旅行中だったので採って食べることはしませんでした。
それが心残りで(笑) ありがとうございました。
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プロフィール

Kimupon_Cicadan 木村 義志

Author:Kimupon_Cicadan 木村 義志
出身地 : 大阪市
現住所 : 東京都
1955年生まれ
科学図書執筆編集のお仕事
分野は生物学系

写真は特にクレジットや注釈がない限り筆者の撮影です。記事や写真についてのお問合せはなんなりと。
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