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お城のうれしいリニューアル

 以前、東北地方のお城の屋根は赤瓦だったという小ネタ「赤い屋根」を書いたが、その後福島県の会津若松城(鶴ヶ城)では、戦後に復元された建物を江戸時代の姿に近づけるため、屋根を赤瓦に葺き替えるなど大掛かりな改修工事を行った。

 近代になって建てられた鉄筋コンクリート天守には、史実とかけ離れたものが多いが、会津若松城は鉄筋コンクリートながら戊辰戦争直後の古写真にそっくりで、原寸大模型といえるような真面目に作られた天守であった。今回は、それをさらに史実に近づけるための改修がなされたことになる。城郭ファンや歴史ファンにとっては願ってもないことだ。

 しかし不幸な事に、改修工事が終わったところで東電の原発事故が起き、観光客の脚が遠退いてしまった。今は賑わいを取り戻しつつあるが、入場者数は原発事故の前より少ないという。今後の整備事業を盛り上げるために、多くの人に見学してもらえたらと、部外者ながら切に願う。

 下がそのビフォーアフターである。

会津天守旧
改修前
会津城天守新
改修後
 改修の際、妙に目立っていた赤い高欄も黒く塗り替えられた。

 もしかすると、黒い瓦の方が渋くてお城らしいと感じる人もいるかもしれないが、これこそが寒冷地に建つ近世城郭の姿なのだ(釉薬がかかっていない黒瓦は、しみ込んだ水が凍結して割れる)。
 赤瓦の城郭建築は山形県に城門が一つあるだけで、現存例が極めて少ない。このように赤瓦の天守が堂々と建っている姿は貴重であり、たとえ鉄筋コンクリートであっても、その資料性は高いといえる。

瓦旧

瓦新

 平成12年(2000年)発掘や資料分析などの結果を基に、木造で復元された干飯櫓(ほしいやぐら)は、最初から赤瓦で葺かれ、関係者の城跡整備に対する意識の高さを示したが、黒瓦との対比で多少の違和感を感じさせていた。しかしそれも今回の改修で解消。統一感のある美しい姿となった。
 使用された赤瓦は、発掘調査で出た赤瓦の成分分析に基づき、本物に近いものが復元された。オリジナルは会津藩内で焼かれたものだというが、会津の瓦工場はとうの昔になくなったので、出土品に近い土を使っている新潟県安田の瓦工場が、復元瓦の製作を担当した。

干し飯櫓旧
改修前 干飯櫓は写真の奥に見える二階建ての建物
干し飯櫓新
改修後

 戊辰戦争で痛めつけられた会津若松城の建物は、明治初期に解体破棄、または民間に払い下げられた。なので城内に現存建築物はないが、明治3年(1870年)、会津市内の阿弥陀寺に移築された櫓「御三階」が、今も同寺に残っている。

御三階側面

 御三階は本丸御殿の庭園にあったもので、その位置と華奢な姿から戦うための櫓ではなく、庭園に趣をそえるために建てられた望楼だと思われる(天守の方が眺めはよいが、普段は軍事担当者の管理下におかれ、むやみに人が立ち入れない場所であった)。
 内部は四層になっていて、二階と三階の間に隠し部屋があり、そこから階段を引き上げて侵入者を防ぐことができる。しかしこれは軍事的な意味を持つものではなく(御三階に籠城しても防火性能が低そうなので火を放たれたら終わりである)、大名や普請方が好んだ警備システムのひとつといえる。水戸の徳川斉昭が庭に建てた好文亭も、外見は二階建ての民家だが、中は忍者屋敷さながらに隠し階や隠し部屋があって複雑な構造になっている。こうした仕掛けは、政情が不安定で暗殺が横行した幕末にはそれなりに安心材料となったであろう。
 御三階は移築された際に御殿の玄関(右に写っている部分)が追加され、ますます城の櫓らしくない姿になった。

御三階移築予定地
 現在阿弥陀寺の御三階を、城内のもとあった位置に移築するための準備がすすめられている。
 
 会津若松城のように、最近、より好ましい方向で改修されたものに岐阜県の大垣城がある。
 大垣城は関ヶ原の合戦の際、西軍の拠点となったことで名高い。その頃の天守は板張りの実戦的な櫓であったと思われるが、大阪の陣のあと城主となった松平忠良が、美しい白亜の天守に改修したという。

 明治の廃城令後も天守と艮櫓(うしとらやぐら=城の北東に位置する櫓)が運良く残され、昭和11年(1936年)に旧国宝保存法で国宝に指定されたが、昭和20年7月、米軍の空襲によって両方とも焼失した。日本には米軍の空襲で失われた国宝建築(旧国宝保存法で指定)が200以上もある(民家など普通の建物は200万以上)。このことは無差別爆撃という方法論の異常性と、日本の戦争指導者が正常な判断力を失っていたことを強く感じさせる。
 同じく激しい空襲を受けたドイツと日本を較べると、ドイツは日本の10倍もの爆弾を落とされたにもかかわらず、国の機能低下は日本より緩やかであった。その差は、ドイツが早くから工場など重要な建物や設備を疎開させるなど、空襲対策をとっていたことが大きい。日本は無防備に爆撃を受け続けたために、多くの人命や財産が失われた。

大垣城天守01

 焼失した大垣城天守は昭和34年(1959年)に鉄筋コンクリートで再建された。戦後流行した再建天守は観光展望台としての機能を要求されたため、最上層の窓を大きくしたり、本来なかった高欄が取り付けられたり、また立派に見せるために余計な装飾を施されたりすることが多かったが、大垣城は比較的オリジナルに近い姿で再建されていた。

 それでも、最上階に大きな展望用ガラス窓をつけたり、屋根や破風などにオリジナルと異なる部分があったので、2010~2011年の改修でそれらが本来の姿に改められた。
 大垣市では「大垣城郭整備ドリーム構想」として、天守の本格木造建築化や、市街化して失われた城域の復元など、さらなる整備計画が持ち上がっている。

大垣城天守旧
改修前
大垣城天守新
改修後
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Comment

No Title

お城を復元するなら、やっぱり史実に忠実に
が本当でしょうね。
リニューアルして赤い瓦にしたお城は力強さ
は欠いたとしても優美に変わりましたね。

Re: No Title

屋根瓦の色だけで雰囲気がまるで違いますよね。
昔の赤瓦は気候が背景にありますが
地域の人々の好みによっても、
町の屋根の色の平均値みたいなものが変わるみたいですね。
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プロフィール

Kimupon_Cicadan 木村 義志

Author:Kimupon_Cicadan 木村 義志
出身地 : 大阪市
現住所 : 東京都
1955年生まれ
科学図書執筆編集のお仕事
分野は生物学系

写真は特にクレジットや注釈がない限り筆者の撮影です。記事や写真についてのお問合せはなんなりと。
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