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血煙鍵屋の辻/剣豪と大名と同性愛-2

 「血煙鍵屋の辻/剣豪と大名と同性愛-1」の続き。同性愛はほとんど出てこない。

 いよいよ荒木又右衛門が登場し、鍵屋の辻の決闘となるのだが、前回の記事は煩雑で分かりにくいというご指摘があったので、簡単なチャートを作ってみた。

 前回までの状況

 1~3の順で事件が進展。旗本と外様大名の対立に発展するが、池田忠雄が急死。喧嘩両成敗という幕府の裁定で安藤正珍ら旗本は軽い監禁を受け、河合又五郎は江戸追放となった。

伊賀越仇討登場人物01s



 対決前の状況

 江戸の安藤邸にいられなくなった又五郎は、密かに江戸を抜け出し、大和郡山(もしくは近隣の奈良町)にある叔父の河合甚左衛門の屋敷に潜伏する。又五郎は叔父を頼るしか策がなかったと思われるが、仇として追われる身としては大胆な行動である。
 なぜなら、大和には殺害した渡辺源太夫の姉が嫁いでおり、しかもその夫は剣豪の荒木又右衛門であったからだ。

 ただし、荒木又右衛門と河合甚左衛門は、ともに大和郡山藩の剣術師範を務めていて(荒木又右衛門の方が後輩で格下)付き合いもある。このことから、事件の関係者は互いに古くからの顔見知りという可能性もある。
 もしかすると又五郎は、叔父が又右衛門に仇討ちを思いとどまるよう説得してくれることを期待して大和の国に向ったのかもしれない。



伊賀越仇討登場人物02s


 しかし、甚左衛門は又五郎を行方不明とし、そのまま月日は過ぎていった。

 講談や伊賀越道中双六などの劇文学の影響か、数馬と又右衛門が仇を追って長い旅をしたと思っている人もあるが、この二人はどこにいるか分からない相手を探しに、あてもない旅に出るほど愚かな人達ではない。実戦を経験した武将がまだ多く生き残っていたこの時代、剣豪と呼ばれるような人は兵法家でもあった。

 仇を捜すにはまず、河合一族の動向を監視するのが手堅い方法だ。中でも又五郎が頼りとする叔父のことは、当初から注目していたはずである。しかも又右衛門の屋敷から距離的に近い所に住んでいる。門弟や使用人などを使い、甚左衛門の周辺を注意深く監視していたのだろう。又五郎が甚左衛門の屋敷に潜伏していることを突きとめたのは、偶然などではなく監視活動の成果である。

 一方、甚左衛門の方も危険を察知し、又五郎を再び江戸に移すことにした。
 又五郎は一度江戸を追放されているが、甚左衛門の剣術師範としての人脈にすがって、江戸の郡山藩邸や奈良奉行(奈良町は幕府の直轄地として旗本が派遣されていた)の屋敷などに、再び息子を潜伏させるつもりだったのかもしれない。

 しかしこの又五郎脱出計画は、数馬や又右衛門の知るところとなった。目的地や経路、出発の日時などを正確に掴んでいたと思われる。その頃又右衛門らの監視体制はかなり充実したものとなっていたのだろう。

 大和から江戸に行くには、大和街道で関町に出て東海道に出るコースが一般的であるが、行程には徒歩と、途中まで木津川の舟を利用する方法があった。
 鍵屋の辻とは、鍵屋という茶店がある交差点という意味で、東海道に向う道と、南下して伊勢方面に向う道との分岐点となっていた。付近を流れる木津川には舟着き場もあり、そこで待てば徒歩と舟の両方を補足できたし、大和郡山から10里と近く、急に状況が変わったときの連絡もとりやすい距離であった。

 大和街道は東海道と大和、大坂を結ぶ道であるから日中は人通りが多く、仇討ちの待ち伏せには適さない。又五郎一行が早朝に通過する予定であったことも、襲撃地点に選んだ重要なファクターといえよう。

上野城高石垣
上野城高石垣。大和街道から大坂を攻める際の後詰めの城として、当時日本一の高さを誇る石垣が城の西面に築かれた。

 また鍵屋の辻は、津藩の支城、上野城の西大手門から500mしか離れておらず、藤堂家の庭先を汚すことにもなりかねない、事前に城代の藤堂高清に近い筋と親睦を図っていたことも想像される。
 仇討ち決行の際、藤堂家の家中の者が大和街道を封鎖し、邪魔が入らないようにしたという言い伝えがあるが、あながち嘘ではないと思えるほど、城に近い場所なのである。

 寛永11年(1634年)11月7日の早朝。ついに河合又五郎は、護衛や使用人10名とともに鍵屋の辻に現れた。

 当日の状況

 相手は11人もいたが、半分は槍持ちや使用人であったから、戦力的には後世の物語ほど大きな差はなかった。しかし短時間で圧勝しなければ損害が大きくなり、また仇を逃がす可能性もあったので、待ち伏せによる奇襲が絶対条件であった。

 又五郎と護衛の主力は馬に乗り、前衛は霞の半塀兵衛こと桜井半兵衛。槍の名手で、霞の構えというものがトレードマークであったという。
 槍は白兵戦の主力兵器で刀より有利だ。ましてや名人に使われたら刀で戦うのは難しい。そこで又右衛門は門弟の河合武右衛門と岩本六助(後に孫右衛門を襲名)に、半兵衛と槍持ちを分断して槍を奪うことを命じた。

 渡辺数馬は中央にいる仇の又五郎に集中させ、又右衛門自身は河合甚左衛門を討ち果たした後、ほかの3人に加勢するつもりであった。
 四人は道の左右に分かれて隠れたという。河合甚左衛門が又右衛門の前にさしかかったとき、全員が一斉に飛び出し作戦通りに斬りかかった。

伊賀越仇討登場人物03s


 又右衛門は甚左衛門の脚を切って落馬させ、地面に倒れたところへ刀を振り下ろし即死させた。大和郡山藩剣術師範のあっけない最後であった。

 数馬と又五郎はともに未熟であったため、互いに手傷の応酬をしていたようである。

 強敵の桜井半兵衛に向った二人は、六助が槍持ちを倒し半兵衛の槍をとりあげることに成功したものの、武右衛門は半兵衛と小姓の二人に対峙し、半兵衛に斬られてしまう。
 そのとき二人のところに又右衛門が駆けつけて半兵衛を倒す。この時点で体が無事な従者はみな逃げてしまったようだ。

 最後まで残った数馬と又五郎は文字通り満身創痍。決着をつけかねていたが、駆けつけた又右衛門と六助が助成したので、やっと首をとることができた。自業自得とはいえ又五郎の哀れな最後であった。

 事件の特異性

 やはりこの事件は異常といわねばなるまい。近世初頭の昔話ということを差し引いても肌触りの悪さを感じる。三大仇討ちといわれるが、ほかの二つとはかなり異質である。
 事件は少年同士の衝動的な感情に端を発したもので、利己的な家族愛と、大名や旗本といった男性社会の上に立つ者のヒステリーが話をややこしくしていった。そして、戦闘を職業にする者同士が、その特異な倫理観に基づき、相手を殺すという単純な方法で解決している。
 情のもつれの傷害殺人など無数にあったと思うし、権力者のもめ事に絡めとられていくことも珍しいことではないだろう。ただ、それが仇討ちという形式にまとめあげられ、美化され語り継がれてきたことには違和感を感じる。

 生き残った3人のその後について

 決闘が終わると地元の役人の事情聴取を受けた後、藩士の屋敷へ預けられ、傷の手当や介護を受けるなど丁重に扱われた。まだ息のあった桜井半兵衛やその槍持ちも手当を受けたが、間もなく息を引き取ったらしい。

 一段落すると、色々な人と面会し、最終的には城代の藤堂高清にも面会したはずである。藤堂家では三人を客分として迎え、それぞれの藩に帰参するまで、人気スターとして、また藤堂家に保護される中途半端な身分としての毎日をおくる。
 
 数馬の鳥取藩(元岡山藩)は、三人揃っての帰参を望んだが、大和郡山藩が又右衛門の帰参を強く求めたために紛糾した。また3人の討伐をほのめかすような、旗本の不穏な動きもあったといわれる。狭い男社会のヒステリーは始末が悪い。

 結局三人が帰参できたのは、4年も後のこと。その間に鍵屋の辻の仇討ちの話は、尾ひれがつけられて全国に広まり、三人の名はますます高まっていく。後年、講釈場では荒唐無稽な冒険譚に脚色され、荒木又右衛門が倒した敵の数は、最大三十六人にまで膨れ上がった。

 最終的に三人を獲得したのは、鳥取藩で、先代の殿様、池田忠雄の遺言を達成した忠義な者として歓迎された。それは事の起こりの殺人事件から8年後、寛永15年(1638年)の夏であった。

 それから半月ほどすると、兵法家としてチームを勝利に導いた荒木又右衛門が死亡する。あまりにも急なことだったので、旗本の圧力をかわすための隠遁説や、暗殺説など様々な憶測が交錯した。
 
 渡辺数馬は忠義の家臣として厚遇された。しかし、又右衛門の死から4年年後、34歳の若さで亡くなっている。藩主は若く江戸屋敷で養育されていたというから、父親の池田忠雄に代わって労いの言葉をかけられることはなかったかもしれない。

 この仇討ちの中でちょっと救われる気がするのは岩本六助で、死亡した同僚の武右衛門には気の毒だが、命がけで数馬や師匠を助けた功績により、鳥取藩に仕官することができた。彼が仇討ちに参加した動機は、おそらく封建的師弟関係だけで、武士の体面や遺恨などとは無縁であったと思う。彼は仇討ちの準備段階の調査でもよく働いたのではないだろうか。

 仕官すると父親の名である岩本孫右衛門を継ぎ、子孫にも代々岩本孫右衛門を名乗らせている。
 身分は中小姓で50俵五人扶持だったというから、下級武士で節約が必要な暮らしだ。必殺仕事人の中村主人が30俵二人扶持なので、それよりは収入があり、女中ぐらいはおける。
 有名人の割に安月給だったが、大きなストレスもなかったのか、71歳と当時としては長寿を達成している。
 歴代の孫右衛門の中には養子をとることもあったが、概ね子にも恵まれて明治維新を迎えている。現在も子孫の方が各地におられるという。

 もし鍵屋の辻の小説を書くなら、主人公は岩本六助で決まりだな。

 追記/六助の年齢と名前について

 父親も同じ岩本孫右衛門を名乗り、荒木又右衛門の門弟だったことから、六助の年齢に混乱があるように思えた。というのも、六助の生年が慶長2年なら豊臣時代の生まれであり、仇討ちのときには、又右衛門より歳上の37歳だったことになる。もちろん歳上が不自然とは思わないし、その方が小説や映画には向いていると思う。
 また17歳のときに孫右衛門を名乗ったという説もあるが、そばで暮らす父子がダブル孫右衛門というのもヘンなので、改名は鳥取以後という資料に従った。

 
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Comment

No Title

同性愛関係の話大好き(笑)。
山岸涼子のとか、よしながふみの「きのうなに
たべた?」とか(あ、これは食べ物くくりかな。)

で、今回の仇討話~~私歌舞伎や浄瑠璃などに
まったく疎いので、忠臣蔵しか知らなかった~
は事件そのものは、今も昔もすぐキレる若者
っていたんだなぁと。その後の顛末はなんだか
どろどろ。。殿様の寵愛っていうと急にいやらしく
感じるのってなぜかな?

No Title

長い返信が上手く送られないので
また改めて書かせていただきます。

No Title

なぜか、書き込みの調子が悪くて、すみません。

 そうですね。切れやすいのは今も昔も変わらないでしょう。というか、日本の男はヒステリーを起こしやすいと思います。
 昔は腰に刃物をぶらさけていたので今より危険ですよね。
 そこに政治やイデオロギー、性愛なんかがからむと、闇討ちの応酬となる。幕末なんかそうですよね。坂本龍馬の暗殺が有名ですけど、ほかにも無数に斬り殺されていて、血みどろの時代です。

 憎い人物を斬り殺そうと思って出掛けたけど会う事ができない。そこで屋敷から出てきた家臣を斬り殺して帰るみたいなこともあったみたいです。
 
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プロフィール

Kimupon_Cicadan 木村 義志

Author:Kimupon_Cicadan 木村 義志
出身地 : 大阪市
現住所 : 東京都
1955年生まれ
科学図書執筆編集のお仕事
分野は生物学系

写真は特にクレジットや注釈がない限り筆者の撮影です。記事や写真についてのお問合せはなんなりと。
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