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また塔の話/塔の装飾と徳川幕府の宗教政策との関係

 飛鳥時代から少しずつ姿を変えながら今日まで続く日本の寺院建築だが、18世紀以降の作品、特に関東の作風は愛好家の間でも評価が分かれ、好きでないとはっきり口にする人もいる。
 同じ時代でも御殿や城郭建築は人気があるから、時代の新しさが問題ではない。その理由は過剰ともいえる装飾にあるようだ。

 この時代の装飾の中心をなすのは彫刻である。だから江戸時代の寺院建築は木彫の時代といわれたりする。どこかの町で木彫で派手に飾り立てられた古いお堂や塔を見たら、江戸中期以降に建てられたものと思ってよい。あの法隆寺にも、江戸時代の職人が追加した木彫が残っている。

 まずは中世の塔をごらんいただきたい。茨城県桜川市にある、寛正6年(1465年)建立の小山寺の三重塔。時代としては銀閣などの東山文化で知られる足利義政の頃。関東で最も古い塔とされ、国の重要文化財に指定されている。
 部位は二重めの屋根を支える組物。矢印は尾垂木という部材で、綺麗な反りに加工されているが、ただの角材である。

小山寺三重塔01

 ところが18世紀に入ると、三重塔の尾垂木もこんなことになってしまう。物件は上と同じ茨城県桜川市にある薬王院の三重塔で、棟梁は桜井瀬左衛門という人。宝永元年(1704年)建立で、晩年犬公方と揶揄された徳川綱吉の時代。
 竜が団体で並んで壮観というか、かなり濃いデザインだ。それでも塗装がはげているので落ち着いて見えるが、竣工当時は赤、白、緑、青などの鮮やかな色が塗られていたと思われる。垂木には朱色が残っている。

薬王院三重塔01

 彩色された姿がどんなだったかというのが次の写真である。これも薬王院と同じ桜井瀬左衛門が手がけた三重塔。正徳2年(1712年)に建立され、途中何度も修理を受けたが、昭和58年(1983年)の大修理で江戸時代の姿が蘇った。屋根の見所の一つである垂木の並びも波の彫刻で隠されている。場所はあの成田山新勝寺。今も多くの人々の信仰を集める有名寺院だ。これが当時の寺院建築の理想型だったのだと思う。国の重要文化財。

成田山新勝寺三重塔01

 彫刻部門の監督は彫刻家嶋村円鉄という人。嶋村家は代々続く江戸の彫刻師集団の一つである。二つの塔を並べて見ると同時代、同じ棟梁の指揮の下に建てられた兄弟塔であることがよく分かる。

成田薬王合成

 塔をこのように飾り立てることは仏教の教義と関係がなく、それまでの塔が表現してきた密教的な宇宙観に合致しない。この徹底した装飾は、庶民が「立派でありがたい」と思う神仏が住む家の姿であり、また当時の大工や彫り師達が「カッコイイ」と思った姿なのである。

 こうした現象は中世から近世に変わって、仏教の質も大きく変わったことを示している。
 その変化を一言でいえば仏教の大衆化、世俗化ということになろう。その原因の第一として、徳川幕府の宗教政策の影響があげられる。というか、それが全てであったといってもよいかもしれない。
 
 宗教とは原理的に、現世の権力構造を超越した存在である。だから中世までの仏教教団は独立性が高く、自らが武装して他の勢力に対抗した。教団同士の勢力争いも激しく、ときには朝廷にまで圧力をかけることがあったという。仏教が平和的で人々の幸福を願うもの、などと思うのは大きな間違いだ。
 だから権力者は思い通りにならない仏教教団に手を焼き、苦労しながら折り合いをつけてきた。また一時的に武力で押さえ込むことができても、油断していると人々の信仰心を背景に、領主に匹敵する権威を持ってしまうからやっかいな存在だったのだ。

 その点、徳川幕府の宗教政策は巧妙であった。寺社に対する諸法度を定めて厳しく取締る一方、徳川家と縁のある有力寺院などを手厚く保護した結果、仏教界が将軍を頂点とする権力構造に組み込まれてしまったのである。

 さらに、全国津々浦々にある末寺に対しては、幕府の末端権力として宗門人別帳(戸籍原本)の管理を命じ、日本の全ての世帯を強制的に、近くの寺の檀家として登録させた。
 そうするとどうなるか。お上のご威光で寺院の権威が高まるように思えるが、実はその逆だった。確かに寺院の立場を利用して(檀家から外れた者は無宿人として様々な権利を失うので)住民に圧力をかけ支配することもできただろうし、檀家のまとまった寄進で楽な経営が可能になった寺院も多いだろう。しかし宗教的には近代に入っても回復が難しいほどの堕落を招くことになる。幕府によって弾圧された日本のキリスト教が、地下に潜って信仰の意志を保ち続けたのと対照的だ。恐るべし徳川幕府の仏教政策である。
 
 日本人全員がどこかの寺院の檀家になってしまうのだから、教義の研究や論争も、布教活動も重要でなくなり、先祖供養など檀家向け宗教セレモニーと、現世利益を求める素朴な民間信仰の受け皿としての機能があれば十分ということになる。鎌倉時代に見られたような宗教的活力はどんどん失われていき、それが寺院のデザインにも影響を及ぼしたと筆者は考えるのである。

 寺院が俗世と融合したことで、大衆ウケする通俗的な教義解釈や典礼が広まり、建物は派手な方がありがたがられるようになっていった。特に江戸の庶民はこうした木彫の装飾を好んだようである。
 また庶民は自分の旦那寺とは別に様々な信仰を持ち、伊勢参りの行き帰りに他の有名寺社に参るなど、宗教的にルーズである。だから寺院の側も庶民の心を掴めば発展する可能性があり、檀家の力が足りない寺院の中には事業拡大に奔走し成功したところもある。

 成田山新勝寺などは、中世末の戦火で荒廃の極みにあったというが、江戸時代に入ると再建が始まり、18世紀にもなると江戸での出開帳(秘仏を遠隔地に出張させ人々に参拝させるイベント)や、成田山信仰に帰依した歌舞伎役者とのタイアップキャンペーンなどを成功させて、関東有数の人気寺院に発展していった。派手な三重塔はそんな頃に建てられている。

 最後に先にあげた塔の全体像を掲載しておく。どちらからより多くの霊的インスピレーションを受けるかは、全く好みの問題であるが、両者を現代の視点で単純に比較してはならない。

小山寺三重塔02


 文化的にはまだ上方に及ばず、荒々しい雰囲気が残る新興都市江戸やその周辺にあって、経済的な力を持ち始めた庶民が、どんな神仏を求めたかということを考えないと、大工棟梁桜井瀬左衛門の表現したかったものは見えて来ないだろう。

成田山新勝寺三重塔03

 筆者は成田山の塔を始めて見たとき、あまりの派手さに驚いたが、見なれてくると、関東文化のある側面が少し理解できたような気がする。それはヤンキー文化のルーツのようなものであるのだが、そのことについてはまたいずれ。

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Comment

No Title

シンプルなのと極彩色のと、どちらが好きかは
人によるけど、極彩色のはタイの仏像や寺院
を彷彿とさせますね。
いかにも無知蒙昧な庶民を感心させて信心
させようというあざとさがみえて私は苦手ですが。。
そしてそうすることで本来の宗教としての哲学
がおきざりにされてったのもうなずけます。

Re: No Title

 東南アジアのお寺さんはすごいですよね。いわゆる小乗仏教にはストイックな印象があるのですが、やはり大衆化や権力と一体化する過程で派手になっていったんでしょうか。

 庶民の信心ですが、庶民の方もしたたかで、何だかんだいっても寺参りはレジャーでしたから、観光価値を高め、とにかく一回こっきりでもいいから、参拝客を増やすという意識が強かったのかもしれません。
 信仰心の薄い人に信心させるのは大変ですから、仏教に限らずどの宗教もあの手この手です(笑)。中世末日本に来たイエズス会も、はじめ質素にやってたのですが、それでは人の信頼が得られない事に気づき、儀式のときはなるべく豪華なものを身に付け、道具だてもできるだけ華やかにしたという日誌が残っています。そう考えると、宗教に立派さを求めるのは、昔の日本人の好みだったのかもしれませんね。

 比較に使った小山寺の塔は、同じ坂東の塔ということで選んだのですが、修復が過渡的で、まだちょっとやつれた印象のある塔です。差が強調され過ぎたかもしれませんね。今度、塗装されてる普通に派手な中世の塔も出してみますね。
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Kimupon_Cicadan 木村 義志

Author:Kimupon_Cicadan 木村 義志
出身地 : 大阪市
現住所 : 東京都
1955年生まれ
科学図書執筆編集のお仕事
分野は生物学系

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