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文化財

城にあった巨大な井戸と隠し井戸

 5日に書いた「食べログ」の口直しというか、新春第2弾は楽しい文化財ネタを(筆者が楽しいということで、お読み頂く方が楽しいかどうかは分からないのだが)。

 年末に書いていた井戸の話の続きである。今回はちょっと変わった井戸らしくない井戸の話。
s松山城二ノ丸大井戸
 上は愛媛県の伊予松山城二の丸にある大井戸である。向こう側に人が写っているので大きさがお分かり頂けると思うが、25mプールぐらいの広さがあり、深さは10mほど。
 人が井戸の中に降りて直接水を汲むシステムだが、かつては井戸の上に大きな建物が建てられており、巨大な地下水槽になっていたという。

 二ノ丸には御殿の建物が立ち並び城主一族の生活の場となっていた。築城したのは戦国末期の武将加藤嘉明で、その後転封で蒲生忠知に替わるが、忠知が早世したため蒲生氏が断絶。その後入った譜代大名の松平氏が明治まで200年以上城主を務めた。

 なんでこんなに巨大な井戸を作ったのかははっきりしないが、御殿の防火用水的な意識もあったのだろう。井戸から各建物の床下に通路が巡らされていたとされるが、そこに水路をつけて水道完備の建物にしようとは思わなかったようだ。

 日本にはかつて2万5千もの城があったとされ、一時的な砦や陣城を除いてはそれぞれに井戸があったはずだが、こんなに巨大な井戸は他にほとんど例がない。松山城以外で大きな井戸といえば、豊臣秀吉が小田原の北条氏を攻める際に建てた石垣山城の井戸曲輪ぐらいだろう。
 石垣山城の井戸曲輪は、井戸の周囲が石垣で囲まれており、松山城ほどは大きくないものの、広い水場が形成されていたと思われる。

s石垣山城井戸曲輪
 上の写真が石垣山城の井戸曲輪の遺構で、井戸を取り囲むように石垣が巡らされている。井戸の中心は画面の右寄りにあり、下の写真はその部分。今も底部に水が湧いている。
s石垣山城水場01

 この城は豊臣秀吉が一晩で建てたという伝説から「一夜城」とも呼ばれるが、実際は3か月ほどかかっている。それでも凄まじい突貫工事であったことには変わりない。小田原城を見下ろす山の上に突然巨大な城が出現したので北条軍は戦意を喪失。戦うことなく小田原城を明け渡してしまった。

 役目を終えた石垣山城は廃城となり、その後長く石垣だけがのこっていたが、1923年の関東大震災でほとんどが倒壊した。幸い井戸曲輪の石垣は原形をとどめている。
 石垣山には笠懸山という本来の名前があるが、山頂に石垣が残っていたので、近隣住民に石垣山と呼ばれるようになったのだろう。石垣を積んだ者が自分で石垣山城などと呼ぶはずはないので、築城当時は別の城名で呼ばれていたと思うが、なんと呼ばれていたかは分からなかった。

 次は群馬県太田市の金山城内にある直径約15mの日ノ池。これは井戸ではなく露天の貯水池であるが、脇に井戸を備えた広い水場となっている。

s金山城日ノ池

 金山城は室町時代後期に岩松家純が建設したとされ、その後家臣の由良成繁が下克上で奪い、さらに由良氏を滅ぼした北条氏のものとなるが、北条氏が滅亡すると廃城となり池や井戸は埋もれてしまう。
 近年(1990年代)金山城の発掘調査が進められ、その成果に基づいて石垣や池が復元された。あまりにも綺麗に作り込んでしまったので、やり過ぎとの批判もあるが、周囲に石を積んだ円形の池であったことは確かなようだ。丸い大きな池を中心に祝祭的な広場が形成されていることから、何か宗教的な意味があったのではないかといわれている。

 次の写真は、謎の多い熊本県人吉城の地下の大井戸である。
s人吉城大井戸遺構
 地中に埋まっていたものを掘り出して修復整備したもので、いうまでもないことだが石段の上の手摺は新たに設置したもの。

 人吉城の発掘調査で地下の大井戸が二つ確認されており、その位置は江戸初期の絵図から、城の西側にあった家老の屋敷の地下と推定されている。どちらも同じような構造で、縦横高さが5×3×4mの石室の中に、深さ1mほどの井戸があり、水底には杉板が敷かれていた。

 人吉城は戦国時代から江戸時代を通じて相良氏が城主を務め、お家騒動や火事はあったものの、安定した状態におかれていた。ところがなぜか、この地下井戸は江戸初期に破棄され石室ごと埋められている。人吉城を訪ねたとき地下に案内して下さった係の方は、石が非常に綺麗に積まれていることや、水底に板が敷かれていたことなどから、ここは単なる水場ではなく、特別な用途を持った秘密の部屋で、切支丹信仰に関係していたのではないかと話しておられた。地下の石室に降り立つと、確かに古墳などの石室に共通する宗教的な雰囲気がある。

 人吉藩士に隠れ切支丹がいたという資料はないが、人吉藩はキリスト教のみならず、戦国時代に領主と対立した一向宗(浄土真宗)も厳しく弾圧したので、領民の中に隠れ念仏集団がいたことはよく知られている。この地下井戸は案外一向宗のお堂だったのかもしれない。

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プロフィール

Kimupon_Cicadan 木村 義志

Author:Kimupon_Cicadan 木村 義志
出身地 : 大阪市
現住所 : 東京都
1955年生まれ
科学図書執筆編集のお仕事
分野は生物学系

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