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文化財

原爆で消えた文化財/広島城

 ブログの更新が今頃になってになってしまい大変申し訳ない。今回は春先に行った広島城について。

 太平洋戦争時、米軍の空襲で失われた文化財は多い。その中には国宝や重文クラスの物件が多数あった。城郭建築でいえば、名古屋城・和歌山城・大垣城・水戸城・広島城・福山城の天守が失われ、それ以外にも各地に残っていた櫓や門などが失われている。
Burning_Nagoya_Castle.jpg
空襲で炎上する名古屋城天守 Japanese book Showa History of 100 million people: Vol.4 published by Mainichi Newspapers Company.

 中でも特に悲惨だったと思うのは、原爆で一瞬のうちに瓦礫の山と化した広島城とその城下だ。
 目撃者への聞き取り調査や付近の発掘調査、倒壊後の現場写真などから、天守は爆風でふっ飛ばされたのではなく、斜めに押しつぶされるように倒壊したことが明らかとなっている。
 衝撃波や爆風により重要な部材に大きな力が加わり、爆風が通り過ぎた直後一気に崩れ落ちたのだろう。「倒壊直後の瓦礫の山」

 1958年、市民の要望によって天守が再建された。倒壊前の資料が多く残っていたことと、当時は市民の記憶の中に「広島城」の姿が鮮明に残っていたために、各地に見られる「実在しない白亜の大天守」ではなく、旧天守の古風な姿を忠実に再現した、原寸大の外観模型となっている(下写真)。日本の鉄筋コンクリート天守の中では、出色の出来といえよう。
天守01

 平地にある城が空襲されやすいのは、都市の座標として上空から確認しやすいこと。また一部の城は近代に入っても軍事施設として利用され続けたことが原因である。
 城の位置は大きな建物が増えた現代でもよく分かる。広島市中央公園(広島城三の丸)の東隣にある四角い緑地が広島城本丸。ここを中心に旧日本陸軍第5五師団の各種施設が密集していた。

下は広島城本丸の全景。赤丸が戦後再建された天守。
本丸全景

 広島が原爆の投下目標候補になったのは、日清戦争時に大本営が置かれ、日清戦争終結以後も陸軍の拠点として発展し続けた「軍都」であったことが大きい。
 兵器や糧秣、軍服などの工場があり、広島の経済発展は軍隊無しには語れないほどになっていた。戦前の市民には「軍都広島」という意識があったという。
 なのでアメリカとすれば優先的に破壊すべき都市の一つであったが、原爆の実用化に目処が立つと、原爆の威力を正確に調べるために、投下候補地への通常爆撃は控えるよう指示がでた。このため広島周辺では「広島は空襲されない」というデマが流れたという。

 下は広島城本丸にあった陸軍の通信施設。土を盛った半地下構造であったため全壊は逃れた。常設の無線アンテナは爆風で破壊されたと思われるが、ここから何らかの方法で被爆の第一報が発せられたという。
地下通信壕マーク
敗戦後米軍が撮影した通信壕の写真
地下通信壕02
広島城本丸に残る現在の通信壕。上のモノクロ写真の赤枠の部分。

 先に書いた通り、城内には第5師団の権威を示す建築物がいくつもあったが、原爆によって全て失われた。下の写真は日清戦争時の大本営跡。城内では臨時国会が開かれ、天皇の御座所もあった。
大本営跡
広島大本営跡

 広島市への原爆投下は、平和な都市が理不尽に狙われたと思っている人もあるようだが、広島市が攻撃目標にされたことの背景には、広島城を中心とする「軍都」としての歴史があったことを忘れてはならないと思う。広島の人々は被爆後、軍隊や軍需産業による地域の発展など、もう懲り懲りと思ったことだろう。広島の一般市民にとって、軍事基地や軍需工場から長年得てきた利益より、原爆によって一瞬にして失ったものの方がはるかに大きかったはずだ。


プロフィール

Kimupon_Cicadan 木村 義志

Author:Kimupon_Cicadan 木村 義志
出身地 : 大阪市
現住所 : 東京都
1955年生まれ
科学図書執筆編集のお仕事
分野は生物学系

写真は特にクレジットや注釈がない限り筆者の撮影です。記事や写真についてのお問合せはなんなりと。
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