備忘録/自然・文化・社会とニュース

文化財

日本の美しい教会建築-5/外海(長崎市)-大野教会堂

 大きな教会の次は小さな教会を紹介したい。教会の聖堂に対して「珍品」という言葉を使うのは少し抵抗を感じるが、思わずそんな言葉がでてしまうような、人を惹き付ける個性的な建物である。

大野教会

 この教会は長崎外海地区の人々に、今も「ドロ様」と慕われ続けるマルク・マリー・ド・ロ神父が造った建物の一つである。
 ド・ロ神父は病人や高齢者など遠くの教会に行けない人々のために、自身で資金(総額1,000円とされる)を調達し、信者とともに建設作業に汗を流した。
 明治26年(1893年)竣工。幅が6m弱。奥行きは10m強という巡回教会だが、歴史的にも技術的にも興味深い建物だ。地域の信仰の拠り所として、また長崎県の文化財として大切にされてきたが、2008年には国の重要文化財に指定されている。
 巡回教会というのはその名の通り、定期的に司祭が巡回してミサなどを行う常設の聖堂のことで、大野教会の場合、最寄りの出津教会の神父が巡回した。

大野教会壁面窓
 上の写真のように、この建物には正面の戸を隠す壁があり、出入りする人は壁と建物の間を通るようになっている。こういう構造を何と呼ぶのかは知らないのだが、砦の入口に設けられる虎口のようだ。もちろん壁を設置した目的は異教徒の突撃を防ぐためではない。
大野教会見取り図-01
 おそらく暴風雨が戸を直撃するのを避け、台風の最中にでも付近の住民が教会に避難できるようにした壁と思われ、同じような壁はド・ロ神父が設計した別の建物にも見られる。

 下は明治18年(1885年)に竣工した出津の鰯網工場(現ド・ロ神父記念館)。大野教会とは違って壁に白漆喰の化粧がなされているが、やはり壁の内側に正面中央の戸が隠されており、矢印のところから入る(現在は壁の内側にある戸は閉じられ、西側下屋の増築部分から出入りしている)。
大野教会参照用鰯網

 下の写真に見られるように、窓のアーチには煉瓦が使われているが、それ以外は「ドロ様塀」と呼ばれる石積みの壁である。ドロ様塀はド・ロ神父が造った建物に共通する特長の一つとなっている。
 また軒下には箱のような軒天井が見られるが、これは後世の改築で、当初この部分には土壁があったとされる。

大野教会横

 ドロ様塀の仕組みは、天川漆喰(あまかわしっくい/長崎で土間の床面などに使われていた漆喰)と赤土を混ぜたモルタルを接着剤として、平板の玄武岩の割石を石垣のように積み上げたもの。大量の石を使うため、重い荷を担いで何度も坂道を登る重労働が必要であった。ただし、苦労は多かったと思うが、強制された労働ではなく、信仰に基づく自主的な行動であるから、笑顔の多い現場であっただろう。

大野教会参照ドロ様塀

 聖堂内は学校の教室のような質素な作り。竣工当時は床が張られておらず、土間であったという。もしかすると天川漆喰のタタキであったのかもしれない。
 基本的に無人の建物なので現在は施錠されているようだ。戸のガラスを通して内部を拝見できるし、場所がら救いを求めて村人以外の人がやってくる可能性も低いと思うので、文化財保護のために施錠もやむを得ないだろう。
大野教会堂内

 聖堂の後方には6帖2部屋と土間からなる和風住宅がくっついていて、祭壇横の戸から出入りできるようになっている。中は見えなかったが、6帖間は一つが板張り、もう一つが畳敷。それぞれに1帖の押し入れがついているとのこと。設計は日本人の棟梁であろう。

大野教会奥部屋

 この住宅はド・ロ神父時代のものではなく、外海地区に赴任してきたジョセフ・ブルトン(Marie Joseph BRETON)神父が大正15年(1926年)に「司祭館」として増築したものである。
 上の写真の左に見える雨戸を開けると縁側がありその内側に司祭が使う6帖の居室がある。

 出津教会から大野教会までの道は、アップダウンのある海岸の傾斜地にあるが、ゆっくり歩いても2〜3時間で着くだろう。しかし、仕事のスケジュールによっては巡回教会に泊まった方がよいこともある。昔は巡回司祭が聖堂の床で眠っていたといわれるから、ブルトン神父以降の担当神父達は巡回の疲れが大いに軽減されたことであろう。また祭壇の後に控え室があるのは行事の進行時に何かと便利であったはずだ。
 ブルトン神父は、ド・ロ神父らと同じくパリ宣教会が派遣した神父の一人で、「日本の美しい教会建築-4/平戸-紐差教会」で紹介したように、後に佐賀の教区に移り、紐差教会の二代目聖堂を貰い受けて馬渡島に移築した人物である。

大野教会奥

 司祭館の方から見るとカトリックの教会には見えない。キリスト教が伝来して間もない頃、地方の教会はみなこんな姿だったのではないだろうか。
 ド・ロ神父が造った小さな建物は寄棟屋根のものが多く、屋根の内部はシンプルなトラス構造である。
 通常の見学では大野教会堂の骨組みは見えないが、ド・ロ神父が造った他の建物から推測すると、日本の大工さんが使う木組みの技法はほとんど使わず、金具を多用して組み立てられていると思われる。当時は鉄の金具を手に入れるより、大工さんを探す方が早かったと思うのだが、ド・ロ神父は自分が学んだ建築方法で手作りしていった。

 ド・ロ神父については、彼が長く布教の本拠地とした出津教会を紹介するときに、もう少し詳しく紹介したい。

文化財

浦上天主堂撤去についての本

 前回の「日本の美しい教会建築-4/平戸-紐差教会」の終わりで少し書いた本を紹介しておきたい。
 高瀬 毅『ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」』平凡社

 戦後史や日米関係に興味のある方は面白くて一気に読んでしまうような本であるが、日本のカトリック教会関係者にとっても面白い本であろう。今更古い話をほじくり返しても無意味だという人は、過去に目を閉じ未来を放棄する人だ。こうした問題はそれぞれの時代ごとに、また新しい世代ごとに執拗に検証を繰り返すべきものである。
 TPP参加推進など、今のアメリカに追従してしている為政者や財界人は、近い将来この本に登場する長崎市長やカトリックの司教のような疑いを持たれる可能性は高い。つまり、この本に書かれていることは、現在進行形の日本の姿なのだ。

 <池松氏は衝撃的なことを話し始めたのだった。それは浦上天主堂の廃墟の取り壊しについてだった。「遺跡の取り壊しについて、あるところから巨額の寄付金が来たんだよ。事実あれを残していたらアメリカが困るんだ。(遺跡を)この世から抹殺する力が働いた」>本文より

 <破壊されたものを醜いものとする捉え方自体、真実から眼をそらすことであり、歴史の抹殺、人類の自己否定に通じる行為だということも >本文より

 <被爆した浦上天主堂の廃墟は戦後13年間、保存を前提に残されていたが、突然撤去された。その裏には何があったのか? 米国の影を背後に見つつ、綿密な取材で現代の闇に迫った問題作。>平凡社のコピーより

01消えたもう一つの原爆ドーム
 
定価:1680 円(本体:1600 円) 四六判 272頁 2009.07 
ISBN978-4-582-82453-7 C0020 NDC分類番号 209.7

文化財

日本の美しい教会建築-4/平戸-紐差教会

 これは昭和4年(1929年)竣工の比較的新しい鉄筋コンクリートの建物だが、教会そのものの設立は明治18年(1885年)と古く、教会設立時の建物から数えて推定三代目となる。なぜ推定なのかは後述する。

紐差教会聖堂正面

 まずこの白い聖堂が建つまでの流れをおさらいしたい。

 1865年(元治2年)大浦天主堂で潜伏キリシタンとの劇的な出会いを体験したベルナール・プチジャン神父は、「フランス寺見物」を装ってやってくる潜伏キリシタンを通じて(プチジャン神父は大浦天主堂を開放し日本人に見物させていた)、各地に潜むキリシタンの情報を収集していた。
 そして明治12年(1879年)、外国人の往来が自由化されると、ジョセフ・F・マルマンや、アルベルト・C・A・ペルーといった若くて有能な神父達を派遣し、潜伏キリシタンの調査と彼らを教会へ迎える準備を進めさせた。

 ペルー神父は五島列島を経て平戸島に入り、多数の潜伏キリシタンと出会う。彼は明治13年(1880年)平戸島の田崎に、布教の足掛かりとなる聖堂と住宅を建てるが、これらが紐差教会の前身となった。
 次にその仕事を引き継いだのが、新約聖書の和訳で知られるエミール・ラゲ神父だ。彼は明治18年(1885年)に田崎の教会を交通の便のよい紐差に移転。翌明治19年に法人登録を済ませ正式に紐差教会が発足した。このときの聖堂が田崎から移築したものか、新築したのかは確認できなかったが、いずれにしてもこれが「初代」の紐差教会だ。

 次に紐差教会にやってきたのが「教会建築-1/宝亀教会」で紹介したジャン・フランソワ・マタラ神父である。彼は福岡に転勤したラゲ神父と交代し、以後長きに渡って紐差教会を支えることになる。
 紐差教会には島内の各所から多数の信徒が訪れたので、聖堂はすぐに手狭となった。そこでマタラ神父が各方面の協力を仰ぎ、奥行き20m間口12mほどの聖堂を建てたとされる。しかし、新聖堂建設に関する記録が残っておらず、マタラ神父が就任時にすでにあった聖堂を、そのまま使い続けたということも否定できない。これが冒頭に「推定」とした理由である。

 しかし、パリ宣教会はマタラ神父を「Le Père Matrat fut un grand constructeur d'églises pour le besoin de ses communautés dispersées.(マタラ神父は広範な信徒の要求に応えた偉大な建築家であった)」と称えている。こんな人物が築50年にもなろうかという手狭な建物を、布教の拠点(明治期の小教区主任教会)として使い続けるだろうか。筆者はマタラ神父が二代目を建てたのは間違いないと思う。

 当然ながら二代目聖堂の竣工年ははっきりしない。パリ宣教会の記録を見ると、マタラ神父が何らかの形で関わった建築事業は、1896・98・1903・09・11・18の各年に竣工していた。全てが聖堂ではないし、所在地は2件を除いて島単位でしか分からないが、付近の教会の竣工年、建築様式、マタラ神父の勤務状況などから考えて、最初の1896年(明治29年)が二代目紐差教会ではないだろうか。

 謎の二代目聖堂として興味が持たれる建物だが、幸運なことに三代目聖堂の建設に際し、少し離れた島に移築され今も残っている。
 当時佐賀県の呼子方面を担当していたヨゼフ・ブルトン神父が、壱岐水道に浮かぶ馬渡島に移し、馬渡島カトリック教会堂として今も大切に使い続けられているのだ。
 馬渡島は呼子港や名護屋港から船便があるが、残念ながら筆者はまだ見学できていない。建築史の川上秀人史近大教授は「長崎の教会建築史」の中で「(馬渡島教会は)明治18年の建築とすることもできようが、形態上から考えるとさらに年代を下げることも可能である」と述べている。明治29年というのは、けっこういい線ではないだろうか。
 
 マタラ神父の就任中、紐差教会に集まる信徒は増え続け、明治末期には施設の拡張が強く求められるようになっていた。そのためマタラ神父は資金集めに努めたが、在任中に現状を上回る規模の聖堂を建てるには至らなかった。
 大正10年(1921年)マタラ神父の仕事を引き継いだのがボア神父だという。このボア神父については調べがつかなかった。パリ宣教会のアーカイブスで見つけたボア神父らしき名は「Frédéric Louis BOIS(フェデリーク・ルイ・ボワ)」だけで、彼は当時九州にはいたが熊本で活躍していたようだ。彼と紐差教会との関わりを示す記述は見いだせなかった。しかし、一時的に誰かの代理として派遣されたことは考えられる。

 その後何年も建設のための努力が続けられ、昭和2年(1927年)に紐差にやってきた荻原浩神父の代になって、やっと着工の運びとなった。設計施工は当時すでに教会建築の第一人者となっていた鉄川与助棟梁である。

紐差教会横

 建物は2階建で、礼拝堂は2階にあり、参拝者は正面の階段から直接2階に入るという珍しい構造になっている。鉄川与助棟梁のコンクリート建築は、これが第2作目とのこと。
 前面の鐘塔は3層で、上に8面体のドームが載る。スタイルとしては白亜のロマネスク様式ということで、夏の明るい日差しの中で見たせいか第一印象は「あっ、メキシコの教会みたい」であった。

紐差教会後ろ

 建物は斜面に建っているので後ろの方は平屋となっている。建物の後端の地下にまで部屋があるかどうかは未確認。
 建築資料によると屋根は桟瓦葺とあるが、建物が大きいし丘の上に建っているので瓦は見えにくい。建物の後ろから祭壇後部の屋根を見ると、桟瓦ではなく平板の材料で葺かれているように見えた。

紐差教会堂内

 外から見ても分かる通り三廊式である。主廊と側廊の間にアーチを支える円柱が並び、柱頭の飾りがアーチ下端の四角い断面と円柱をうまくつないでいる。
 室内の幅は約15mで、ドアを入った所から祭壇までは25m以上ある(建物全体の奥行きは40m以上)。これは戦前に建てられた日本の教会では特に大きなもので、戦後浦上教会が巨大な新聖堂を建てるまでは、紐差教会が長崎県で一番大きい教会であったという。
 天井は中央が高い折上式の格天井で,各ブロックに装飾が施されている。天井の格子は単なる装飾ではなく、鉄筋の入った部材として屋根を支えているそうだ。

紐差教会窓とドア

 2階以上の窓には全てアーチが付き、窓やドアにはステンドグラスがはめ込まれている。ステンドグラスの大半はシンプルな幾何学模様だ。
 建物の1階はかなりのスペースがあるはずだが、どのような使われ方をしてきたのか聞きそびれてしまった。

紐差教会ファティマの聖母

 この教会の敷地には十字架の道行き石(キリストの14の苦しみがそれぞれ石に刻んであり、それらを順に拝んでまわる)など、信者のための仕掛けがある。特に目を引くのはファティマのマリア像だ。ルルドのマリア像はよく見かけるが、ファティマのマリア像をこのように大々的に作った教会は少ないと思う。
 日本ではこの聖母出現譚が、超常現象番組やそれに類する本で宣伝されたために、オカルティックな印象を持たれているが、この素朴な像を見るとなんとも心がなごむ。

 最後に、浦上教会の巨大な新聖堂で思い出したことがあるので、紐差教会とは関係ないが、以下にその話をする。最近新しい本もいくつか出ているし、詳しく知っている方も多いと思うが、全人類的な遺産ともいえた浦上天主堂の被爆遺構が、1958年、浦上教会によって解体されてしまった話だ。教会建築ファンというか、平和を望む日本の一市民として、このことは忘れてはいけないと思う。

 1940年代の終わりから1950年代にかけて、長崎市では原爆で破壊された浦上天主堂を保存するか撤去するかという議論がなされていた。
 長崎市議会では何度も保存が決議され、1951年に当選した田川努市長も保存に賛成であった。
 ところが1955年になると、カトリック長崎教区の山口愛次郎大司教が、教会再建の資金を募るため渡米し、10ヶ月をかけてアメリカ各地の教会を回った。
 最近知って驚いたのだが、山口大司教はアメリカの新聞(ニューヨークタイムス)の取材に対し「カトリック教徒はこの試練を戦争を終わらせるための殉死とみなす」「広島で日本人が受けた犠牲は十分でなかった(だから長崎にも原爆が落とされた)」と述べたという(ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」-高瀬毅/平凡社 による)。これが事実なら、長崎カトリック教会と浦上教会は日本国民にどんな言い訳をするつもりだろう。

 山口大司教がアメリカ行脚をしていた頃、日本では広島市で第1回原水爆禁止世界大会(1955年)が、長崎市で第2回原水爆禁止世界大会(1956年)が開催されるなど、核兵器の使用を「悪」として非難する運動が盛り上がりを見せていた。日本原水爆被害者団体協議会が結成されたのもこの頃だ。
 
 田川市長も山口大司教とほぼ同時期に渡米。名目は姉妹都市提携をしたセントポール市を表敬訪問するということであった。そのときアメリカで何を吹き込まれたのかは明らかでないが、帰国すると保護から撤去へと態度を変え、議会で「多額の市費を投じてまで残すつもりはない」と明確に答えるようになった。

 1949年から活動を続けてきた長崎市原爆資料保存委員会は、教会が具体的な撤去計画を進めていることに驚き、新しい聖堂を建てる代替地の提供を申し出た。
 しかし教会側は、浦上天主堂のあった場所はカトリック信仰史上重要な場所であり、そこで祈ることに大きな意味がある、というような理屈を述べ、原爆遺構の全人類的な歴史価値を全く認めない姿勢で移転案を拒否したのである。
 その後浦上教会は遺構の撤去を開始し、壁の一部などが移転展示されたほかは、廃棄または新しい教会の土台として埋めてしまった。

 広島の原爆ドームは大切に保存され、1996年、人類の負の遺産として世界遺産に登録された。かつてのカトリック長崎教区の長が保護者として頼ったアメリカにとっては目障りな世界遺産ではあるけれど。

文化財

日本の美しい教会建築-3/平戸-平戸教会(平戸ザビエル記念教会)

 しばらくブログの更新をサボってしまった。その間にこのページを開いて下さった皆様、本当に申し訳ない。
先日久しぶりに長崎に行って教会の写真を撮ったので、以前のと合わせて教会シリーズ ? を引き続きアップしたい。

 というわけでまずこの写真から。これは平戸名所の一つ「寺と教会が見える坂道」。手前が浄土真宗の光明寺で、奥に見える塔はカトリック平戸教会(聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂や、平戸ザビエル記念教会とも呼ばれる。色々な名前で呼ばれる教会だが、本稿ではシンプルに平戸教会と書かせていただく)。
平戸教会光明寺
 光明寺は17世紀の初頭から続く名刹。境内にはいくつもの建物があり、特に19世紀の整備事業で整えられた経堂、鐘楼、山門は、意匠や施工技術が優れているだけでなく、坂道から眺めることを意識した(ような)絶妙の配置となっている。
 一方平戸教会は、いうまでもないことだが光明寺よりずっと新しい。大正2年(1913年)頃、前身となる集会所か巡回教会を、現在ある聖堂の近くに建てたと伝えられるが、司祭のいる本格的な教会が正式に設立(法人登録)されるのは、昭和5年(1930年)まで待たねばならなかった。現在の聖堂はその1年後の昭和6年竣工。平戸島に5つあるカトリック教会の中では、最も後から生まれた若い教会である。

 光明寺や平戸教会が建っている平戸市境川町は、松浦氏代々の居城を臨む城下町の一部である。いわば平戸島の首都。現在も近くに平戸市役所や平戸警察署などがある。
 平戸島のこんな大きな町に昭和5年まで教会がなかったというのはちょっと不思議な気もするが、よく考えてみるとこの町は、過酷なキリシタン弾圧を行った権力者のお膝元でもある。そのため、明治6年(1873年)にキリシタンの禁教が廃止されても、この町にはキリスト教に復帰する潜伏キリシタンも、新しくキリスト教徒になろうと思う者も、ほとんどいなかったという。
 自前の教会を持つほどに信者が増えるまでは、最寄りの上神崎教会や、小教区の主任教会であった紐差教会が、この町のキリスト教徒の面倒を見ていた。
平戸教会聖堂
 建物は鉄筋コンクリート製で重層屋根構造の平屋。設計は上神崎教会も手がけた末広設計事務所で、設計主任者の名前は分からなかった。ヨーロッパのクラシカルなゴシック様式の教会を手本に建てられているが、コンクリートらしい直線で簡潔にまとめられた装飾と、緑(シアンが多めの緑に白を混ぜたような微妙な色)と白の塗装に、石造りの本格ゴシックにはない清々しさが感じられる。
 中央の高塔(鐘塔)は3層で、先端に十字架を頂く尖り屋根は八角錐。正面から見たデザインは左右対称ではなく、向かって左側にだけ小窓のある八角形の小塔が付く。
平戸教会堂内
 内部は三廊式で中央の幅は約6mあり、左右の側廊はその半分ほど。正面のドアから祭壇までは20mほどある。
 天井はリヴ・ヴォールトで、細い骨と板の白さが相まって非常に繊細で軽やかな印象を受ける。柱は一見大理石に見えるが実は漆喰仕上げで、建築史の川上秀人らが解説する「長崎の教会(智書房)」によると、下に塗った顔料を白漆喰の表面にしみ出させる技法が使われているという。
 また柱頭の飾りは真っ黒に塗られ、柱のぼんやりした色と模様を引き締める意図が感じられるが、下段のものは少し目立ち過ぎるように思う。
平戸教会聖堂奥
 奥の祭壇側から見た建物。飛梁(上の写真にある上層側壁から斜め下に伸びて下層外壁の柱につながる梁)の列がゴシック様式の雰囲気を漂わせているが、ノートルダム寺院などの長大な飛梁に較べれば「これで本当に壁の強度に貢献してるの ? 」と確認したくなるほど小さく控えめである。
平戸教会ザビエル像
 上は境内に立つ聖フランシスコ・ザビエル像。建立されたのは昭和46年(1971年)で、この年は聖堂の竣工40周年にあたる。以後この教会は「聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂」と呼ばれることになったが、その後また改名して「平戸ザビエル記念教会」という名称も使われるようになった。
 地図サイトを見ると、Mapion、いつもNAVI、Yahoo地図、goo地図、ing 地図などが「聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂」と表記した地図を使用し、Google map、Map Fan Web、NVITIMEなどが「カトリック平戸ザビエル記念教会」という表記の地図を使用していた。

プロフィール

Kimupon_Cicadan 木村 義志

Author:Kimupon_Cicadan 木村 義志
出身地 : 大阪市
現住所 : 東京都
1955年生まれ
科学図書執筆編集のお仕事
分野は生物学系

写真は特にクレジットや注釈がない限り筆者の撮影です。記事や写真についてのお問合せはなんなりと。
小さな写真はそれをクリックすると大画像が開きます。

検索フォーム
ブロとも申請フォーム
QRコード
QRコード

Page Top
Powered by FC2 Blog | | Template Design by スタンダード・デザインラボ