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水産と自然

和井内貞行 アゲインー2/孵化放流事業の実際

和井内桟橋
十和田湖畔 和井内貞行の孵化場前にある和井内桟橋

 前回は導入部というか、教科書や伝記本の話で終わってしまったので、今回は和井内貞行の仕事の様子を簡単にまとめておきたい。
 その基礎資料の一つとなるのが、農商務省の下啓助(しもけいすけ)と篠田平三が、和井内貞行に直接取材してまとめた「十和田湖養殖業状況」という報告書だ。

 下啓助は全国の漁業や水産加工、流通などの実態をまとめた、日本初の本格的水産統計報告書「水産事項特別調査(農商務省/明治27年)」の作成に尽力した人物で、後に水産講習所の所長も務めている。
 篠田平三は下啓助の部下で、下が帰京した後も一人で十和田湖に残り、貞行の事業を詳細に調査、報告した。
 彼らがわざわざ十和田湖に出かけたことから、農商務省も和井内貞行の放流事業に関心を持っていたことが分かる。
 取材結果は明治39年(1907年)11月7日の官報に掲載されており、その視点はタイムリーな話題を追うルポライターのようで面白い。

経費・漁獲物売却勘定書留帳
和井内貞行 経費及び漁獲物売却勘定書留帳(和井内貞一郎氏蔵 十和田ふるさとセンター)
 和井内貞行は養魚事業に関する様々な記録を、見やすい形に整理していたので、篠田も大いに助けられたと思う。

 以下に官報に掲載された下啓助の報告書を引用し、緑色の文字で説明を加えさせていただきたいと思う。原文は濁点も句点も改行もない明治の文書なので、読みにくい漢字を新字、アラビア数字、仮名に改め適宜句点と改行を加えた。また読み易くするために数カ所だが助詞を補っている。◯は活字がつぶれて判読不能な文字。括弧内は筆者の加筆。

官報 第7008号 明治39年11月7日
十和田湖養殖業状況
農商務技師 下 啓助の観察に係る十和田湖養殖業の状況左の如し
(農商務省)
官報1906-11-7

冒頭の十和田湖の位置や地勢などの説明は省略した

 十和田湖は未だ実測したる者なきをもってその面積を詳にせず。湖水清冽にして夏期64°Fを超えず、冬期沿岸は結氷を見れども全面の凍結すること稀なり。
 中山と御倉山との間は噴火孔にして円形の湾をなし中海と称す。水深300尺以上あり、沿岸概して絶壁なるをもって水深し。ただ南方における休屋(やすみや=集落名)の沿岸2~3町のみ砂浜にして少しく遠浅なり。西方もまた十和田銀山跡および大川岱および発荷の沿岸に少しく浅處あり。

 64°F=17.8℃。実際の水深は最深部で1,000尺以上。平均水深が200尺もあって、この膨大な容積が後にコイ漁の障害となる。(1尺=30.3cm)

 東方の子ノ口(ねのくち)において川流となり、約14~15町にして一大瀑布となる。銚子瀧また子ノ口瀧という。直下25~26尺あり、これをもって魚類の遡上を妨げ、昔時より湖中魚介を産せず。ただ無数にイモリを産するのみなりしか。
 明治32年春、出水のために銚子瀧の右側崩潰し、一條の水路を作りたるより魚の遡上に便なるにいたれり。

 滝を迂回する魚道を掘ったのは和井内貞行本人だが、官報には洪水で自然に水路ができたと書かれているのが面白い。結局この魚道は、入ってくる魚より出て行く魚の方が多いとか、入ってきた大形のマス類が放流した若魚を食害することなどが分かったので、結局ふさがれることになった。

 これより先、十和田銀山に勤務せる和井内貞行、同志二人と謀り、コイ、フナ等の移植放流をなして湖を利用せんとし、明治17年より年々移植したりしが、コイは水深きをもって容易に捕獲すべからず。ただ7~8◯月の夜、産卵のために休屋沿岸の水草茂生せる所に来るものを、刺網、曵網等にて捕うるにとどまり、その他は水底に溜居するもののごとくさらに漁獲なかりし。

 和井内貞行は、小学校の教員助手から小坂鉱山の事務方に転職し、十和田湖畔の銀山に転勤を命じられたサラリーマンであった。この時代の十和田鉱山は「十輪田鉱山」と表記するのが普通であったというが、官報には十和田の文字が使われている。
 二人の同志というのは、十輪田鉱山事務所の飯岡政徳所長と、十輪田鉱山に燃料や食料を販売していた三浦泉八と思われるが今一つはっきりしない。この二人は和井内貞行が来る前からコイ等を放流していた。つまり十和田湖に魚を放したのは貞行が最初ではなかったのだ。同好の男達が鉱山事務所に集まり、熱心に魚談義をしている姿を思い浮かべると楽しい。


和井内孵化場跡
十和田湖畔に残る和井内貞行の孵化場跡

 明治34年、日光中宮祠湖(中禅寺湖)よりマス卵を取り寄せ、人工孵化をなして3万5千尾を放流し、爾後毎年マス卵を孵化放流せり。
 明治36年、北海道支笏湖より「カバチェッポ(ヒメマス)」の卵を取寄せ、また人工孵化をなして放流せしもの約3万尾にいたれり。
 このごとく年々コイ、マス、カバチェッポ等を放流しけり。すでにその星霜を積むこと10数年にして、コイのごときは体長2尺有余に達すれども、捕獲は意のごとくならず、いまだ存分の成績を上ぐることあたわず。

 放したコイが大きく育っていたにも関わらず、広い十和田湖では、産卵期に浅瀬に集まったもの以外、まとめて獲る手立てがなかった。

 イワナ、カバチェッポ等は未だ成魚を認め難くも、マスは明治36年より漁獲あり。年々その数を増加し、昨38年のごとき、春期マス1,981尾、秋期マス12,750尾に達せり。
 
 下啓助らが和井内貞行を取材した時にはまだ、ヒメマスの結果はでていなかったが、他のマス類ではそれなりに成果があがっていたことが分かる。
 マスの産卵期は一般的に秋で、冬~春にかけて孵化育成を行った後に放流する。ニジマスなどには春に産卵するものもあるが、ここでいう春期マスと秋期マスが何を意味するのかはよくわからなかった。


 秋期マスは産卵のために湖に注入する河川の近傍に集まるものを、刺網にて漁獲、養成して、その卵精の熟するを待ち、採卵し人工孵化を加えて放流す。
 明治38年の採卵数を挙ぐれば、総数176万6千粒にして、うち20万粒を青森県水産試験場に、2万粒を岩手県稗貫郡太田村(現花巻市)に寄贈し、明治39年春、120万尾を孵化放流せり。

 明治38年は初めてヒメマスの回帰が見られた記念すべき年である。伝記読み物や映画では、貧困に喘ぐ和井内夫妻が、湖面を見つめて涙するクライマックスであるが、その一方でサクラマスなどの孵化放流事業も着実に進められていた。もちろん資金繰りは苦しかったであろうが、和井内貞行がプロの種苗生産者としての意識を持って孵化放流事業に取組んでいたことが分かる。

 孵化場は銀山跡を距る南方2里、生出(おいで)にあり。孵化場12坪、その他事務室13坪半を有せり。採卵場は子ノ口、大川岱、宇樽部および銀山跡の4箇所にして、これらはただ親魚を採捕採卵するの設備に過ぎず。

十和田湖増殖漁業協同組合
和井内貞行の事業を引き継いだ十和田湖増殖漁業協同組合孵化場の旧棟。
貞行時代の建物ではないが、なかなかいい感じなのである。


 和井内貞行は秋田県士族なり。十和田銀山に勤務の余暇、養魚に志し、◯◯飯岡政徳および三浦泉八両人と図りその計画にあたりしが、両人はその同盟を脱したり。
 これにおいて和井内は銀山を辞し、独り専らその事業を継続し、10数年来忍耐してその業に従事し、資金を投ぜしこと約1万円。ようやく2~3年前より収利を見るにいたり、明治37年、区割漁業として湖水全部および湖水より銚子瀧までの使用を、秋田県より同人に免許したり。

 明治26年に十輪田鉱山が休山となり、職員は小坂町の本社にもどっている。その後は休日に十和田湖へ行ったり人を使うなどして養魚を続けていたが、明治30年、限界を感じた(鉱山が民営化されリストラが始まったことも関係したかもしれない)貞行は小坂鉱山を辞職。夫婦で十和田湖畔に移住した。飯岡がそれに同行できるはずもなかった。
 十和田湖には漁業権がなかったので、せっかく育った魚を他者が勝手に獲っていくような状態であったが、貞行に排他的権利が認められたことで、事業は本格的な水産業の形を整えていく。


青森県諸願届綴
和井内貞行が十和田湖を管轄する自治体と取り交わした書類は
今も整理保存されている。写真の書類は漁業税に関するやりとり。
(和井内貞一郎氏蔵 十和田ふるさとセンター)


 和井内貞行は◯手の孵化場を拡張し、本年は500万粒を孵化し、明治41年までに2千万粒を孵化放流の計画中なり。
 十和田湖のマスの採卵期は10月下旬にして、11月中旬において卵は発眼し、採卵50日ないし70日にして孵化し、翌年4月上旬、体長約1寸に達するを待ちて湖に放流せり。
 湖には数多の餌虫発生するをもって、成長ことにすみやかにして、コイのごときは7~8年を出でずして体長2尺餘、目方1貫600匁(6kg)に達し、マスのごときも5~6年にして、雄は体長1尺6寸内外、体重450~460匁(約1.7kg)、雌は体長1尺5寸、体重350~360匁(約1.3kg)にいたれり。マスの繁殖に従いイモリを認めざるにいたれりという。

 十和田湖はプランクトンや水棲昆虫が豊富で、放流したコイやマスは順調に育っていた。経済的に最も落ち込んでた時期とされるが、貞行は意気軒昂に事業計画を語っている。

 湖の周囲には数部落あり。瀧の澤2戸12人、鉱山跡3戸20人、大川岱6戸30人、發荷1戸5人、休屋1戸5人、以上秋田県に属し、休屋12戸60人、宇樽部25戸150人、青ブナ1戸2人、青森県に属せり。
 ◯中、宇樽部および休屋は湖畔における最大なる開墾地にして、水田少◯を有し、農業のかたわら牛の牧畜に従事せり。
 和井内貞行、養魚の結果湖水より年々漁獲のあるにいたり、和井内はこれら村民をして曵網、刺網、または手釣をもってマス・コイを捕獲せしめ、その漁獲物の幾分かを割きては村民に与えり。ゆえに現今、全部落はほとんど半農半漁となるにいたれり。

 下啓介は水産課技官という立場上、報告書をまとめるのに際し水産業の成功を強調しているが、それを差し引いても、近隣住民が新しく始まった放流事業から、すでに一定の利益を得ていたことがうかがえる。

 明治38年、気候◯を失し、湖畔部落の農作物不良なりしを、和井内はマス1万771尾を住民にあたえ、これを救◯せり。

 この報告では「農作物不良なりしを」などと簡単に書いているが、明治38年の東北は長雨と低温にみまわれ、天明の大飢饉もかくやの歴史的大凶作となった。
 そのとき住民に配ったマス約1万尾は、当時の漁獲量のほとんど全てであった。この思い切った救済策を提案したのは妻のカツ子だという。
 佐々木千之の伝記には、獲ったマスを全て売ってその代金1,300円を配ったとあるが、筆者も魚ではなく現金を配ったと思う。
 1.300円を当時と今の白米の値段から価値を換算すると530万円程度だが、職人などの賃金で換算すれば2,000万円にはなる。後者の方が実態に近いだろう。
 それから2年後、45歳でカツ子が亡くなると、近隣住民はその早過ぎる死を悼み大川岱に勝漁神社(カツ子の勝に漁師の漁)を造営。命日の5月3日を祭礼日とした。


和井内神社
後に勝漁神社は貞行を合祀して和井内神社となる 昭和52年建替え 石灯籠は当初のもの

水産と自然

和井内貞行 アゲインー1/教科書で讃えられた貞行

 かつて国語の教科書には「十和田のひめます」という和井内貞行(わいないさだゆき)の伝記が載っていた。50歳以上の方ならこの名前を見て昔を懐かしく思い出されたことと思う。

和井内貞行51歳
50歳頃の和井内貞行 緑綬褒章を胸に

 和井内貞行はいうまでもなく、十和田湖の漁業と観光開発に貢献した明治の偉人である。彼を語る時、失敗を乗り越え目的を達成した強固な意志が強調されがちだが、実際の貞行は石の上にも3年というようなタイプではない。広い視野と合理性、そしてフットワークの良さを兼ね備えた近代的起業家であった。有能な夫人とともに、現代風の明るいドラマの主人公にしても魅力溢れる人物だろう。学校で和井内貞行を習わなかった方もこの機会に興味をお持ちいただけたらと思う。

国語教科書_1

 上が教科書にある和井内貞行の伝記「十和田のひめます」である。内容は、魚のいない十和田湖で養魚を志した貞行が、20年におよぶ試行錯誤の末、ついにヒメマスという新しい水産資源を作り出すことに成功した、というもの。資金難に苦しみながらも執念で夢を実現させたことが感動的に描かれている。
 「十和田のひめます」は、戦後の学習指導要領第二期(1958~1967年)の教科書に見られ、1968年からは別の教材に変わってしまったようだ(筆者の調べは不十分なので詳しい方のご教示を願う)。
 写真の本は学校図書社刊の「小学校国語・四年」昭和35年(1960年)版で、和井内貞行の嫡孫で淡水生物の研究をなさっていた故和井内貞一郎氏の蔵書。現在十和田ふるさとセンターに展示されている。

青年訓練所教科書

 上は青森縣青年訓練所の教科書(青年訓練研究會編著/1932年)に掲載された北垣恭次郎による和井内貞行伝「十和田湖」。同じ内容が伝記集「近代日本の文化恩人と偉業(明治圖書/1941年)」の中に「十和田湖開發の大恩人 和井内貞行翁」として掲載されている。「近代日本の文化恩人と偉業」の方は、国立国会図書館デジタル化資料で閲覧できる。
 北垣恭次郎の作品は時代的に「タメになる話」臭さはあるものの、和井内貞行が単に執念と努力だけで問題を乗り越えたのではなく、成功の背景に科学的な合理性があったことを伝えている。また、妻カツ子の活躍を重視した構成は、近年の女性を意識したドラマ作りを思わせ興味深い。

和井内カツ子
和井内カツ子

 北垣恭次郎は東京高等師範学校付属小学校で教鞭をとり、古い教科書に頼らず独自の指導法を開発したり、校外授業を重視するなど、明治後期から大正にかけての先駆的教育者として多くの実践記録と著作を残している。
 「近代日本の文化恩人と偉業」には和井内貞行のほか、真珠養殖の御木本幸吉、琵琶湖疎水の田邊朔郎、自動織機の豊田佐吉、楽器製作の山葉虎楠ら、産業関係の偉人が紹介されている。
 ちなみにこの教科書を使った青年訓練所とは、将来兵士になる16歳以上の若者を教育する施設で、ここを卒業した者は入隊後の教育期間が6か月短縮された。教科書編者は青森県の若者を元気づける地元の偉人として掲載したと思われる。
 青森縣青年訓練所の教科書も小学校の国語教科書と同じく和井内貞一郎氏の蔵書。

十和田の開発者
 
 和井内貞行の伝記は教科書だけでなく、子供向けの読み物としても出版されていた。上は佐々木千之による「十和田湖の開發者 和井内貞行(三省堂1942年)」で、この本は戦後「ひめます」のタイトルで時代社から再刊されている(1948年)。
 佐々木千之は少年時代を青森県で過し、後に文芸誌の記者・編集者をしながら、文芸作品を執筆した作家で、青森県近代文学館にはその作品が多く展示されている。写真の本は筆者が古書店で見つけたものだが、市場在庫は非常に少ない。

 和井内貞行の伝記は本のほか「われ幻の魚を見たり(大映/1950年)」という映画にもなっている。大河内傳次郎の演技を堪能できる名作であるが、自由な解釈と脚色によってドラマが作り上げられているので、一般的な伝記とは分けて考えた方がよい(リンクしたスチール写真は劇中の貞行とカツ子であるが、悲壮感が強調されていることがご理解いただけよう)。この映画についてはまた別の機会にとりあげたい。

 最初にも書いたが和井内貞行の「失敗と貧困にめげず努力を重ねた苦労人」といったイメージは、彼の意志の強さを語る上では重要となるが、それは長所の一部に過ぎない。その年譜からは忍耐力よりアイデアと積極性を重視していたことが読み取れる。

 たとえば、貞行が最初に行ったコイの放流は失敗に終わったとされているが、実際は初回の稚魚放流から3~4年後には30cm以上のコイが獲れるようになっている。伝記や映画で語られる「湖畔に住む人々に安くて新鮮な魚を提供したい」という目標は十分に達成されたのだ。
 しかし貞行の目標は地域経済の振興であったから、そんなことでは満足しない。当初はたったの600尾に過ぎなかった放流量を、回を重ねるごとに倍増させ、同時に「十和田湖」と「十和田湖のコイ」というブランドイメージを定着普及させるため、当時始まったばかりの水産博覧会にコイを出品したり、湖畔に旅館「観湖楼」を建てて近県の地方紙にタイアップ記事を載せるなど、コイと十和田湖観光の宣伝に務めている。このアンテナショップのような旅館の女将として奮闘していたのが和井内カツ子で、地元民にも遠方から来た人にも信頼されていたという。
 また、コイは死ぬと市場価値がなくなるが、エアポンプも活魚トラックもない当時のこと、何処へ出荷するにも必ず山越えを伴う十和田湖は産地として不利であった。そこで貞行は日持ちする調理済み製品(当時は真空パックやレトルトパウチなどないので缶詰)の研究にも着手していたのである。

和井内貞行が十和田湖に放流したコイの量
コイの放流量
官報1906年11月7日十和田湖養殖業状況 より

 当時は湖の生態系に関する知見は少なく、その生産力を把握することが難しかった。また、十和田湖は浅瀬が少なくコイを漁獲しにくいという問題もあった。軌道に乗るかに見えたコイビジネスも、漁獲量の低下によって先行きが危ぶまれるようになっていく。

 貞行はコイと並行してイワナやフナなども放流していたが、コイの先行き不安を解消するため、マス類の本格放流に取組むことにした。そこで選ばれたのが青森県の水産試験場で孵化放流が行われていたサクラマスと、同じく日光の孵化場にあったビワマスまたはニジマスである(この時点ではまだヒメマスのことを知らなかった)。
 ここで感心させられるのは、コイの漁獲量が低下する前からマスの生産に備え、長男の和井内貞時を日光の宮内省御料局菖蒲ヶ浜孵化場(現在の増養殖研究所)に派遣し(後に次男の貞實を青森水試に派遣している)、マスの孵化放流技術を学ばせていたことだ。貞行はマスの導入について貞時らの意見をとりいれている。
 当時の日本は山村の殖産興業政策の一つとして、マスの研究に熱心で、貞行がコイを放流していた明治20年代には、すでに国や自治体によってマスの孵化放流の研究が行われていた。

 マスの導入には、ドイツのヒルゲンドルフに近代生物学を学んだ日本の水産学者の草分け、松原新之助のアドバイスがあったとされる。当時の松原は農務省の技官で、貞行がコイの放流を始めた頃から十和田湖を訪れ交流を持っていた。その背景には、国の研究機関が魚のいない日光の中宮祠湖(中禅寺湖)でやろうとしていたことと、貞行が十和田湖でやろうとしていたことが、完全に一致していたことがある。
 これらのことからも分かるように、貞行は広範な情報網を持ち、特に淡水魚の増養殖に関しては、日本のトップクラスの研究者からも情報を得ることができたのである。

 話は少しそれるが、上に示した教科書を蔵書されていた和井内貞行の嫡孫、和井内貞一郎氏は、大学で稲葉伝三郎教授(日本の水産増殖学の確立と普及に努めた研究者)から水産増殖学を学ばれ、その稲葉教授が若き日に学ばれた水産講習所を設立したのが文中で紹介した松原新之助技官である。
 こうした先人達の輝かしい業績とは全く無関係だが、筆者も昭和49年4月から50年1月まで稲葉伝三郎先生から水産増殖学の講義(その後引退されたので最後の講義となった)を受けるという幸運にめぐまれており、水産増殖学つながりで十和田湖のヒメマスを身近に感じながら、調べ事を楽しむことができた。というわけで、和井内貞行翁のネタをもう少し続けてみたい。

文化財

お城のうれしいリニューアル

 以前、東北地方のお城の屋根は赤瓦だったという小ネタ「赤い屋根」を書いたが、その後福島県の会津若松城(鶴ヶ城)では、戦後に復元された建物を江戸時代の姿に近づけるため、屋根を赤瓦に葺き替えるなど大掛かりな改修工事を行った。

 近代になって建てられた鉄筋コンクリート天守には、史実とかけ離れたものが多いが、会津若松城は鉄筋コンクリートながら戊辰戦争直後の古写真にそっくりで、原寸大模型といえるような真面目に作られた天守であった。今回は、それをさらに史実に近づけるための改修がなされたことになる。城郭ファンや歴史ファンにとっては願ってもないことだ。

 しかし不幸な事に、改修工事が終わったところで東電の原発事故が起き、観光客の脚が遠退いてしまった。今は賑わいを取り戻しつつあるが、入場者数は原発事故の前より少ないという。今後の整備事業を盛り上げるために、多くの人に見学してもらえたらと、部外者ながら切に願う。

 下がそのビフォーアフターである。

会津天守旧
改修前
会津城天守新
改修後
 改修の際、妙に目立っていた赤い高欄も黒く塗り替えられた。

 もしかすると、黒い瓦の方が渋くてお城らしいと感じる人もいるかもしれないが、これこそが寒冷地に建つ近世城郭の姿なのだ(釉薬がかかっていない黒瓦は、しみ込んだ水が凍結して割れる)。
 赤瓦の城郭建築は山形県に城門が一つあるだけで、現存例が極めて少ない。このように赤瓦の天守が堂々と建っている姿は貴重であり、たとえ鉄筋コンクリートであっても、その資料性は高いといえる。

瓦旧

瓦新

 平成12年(2000年)発掘や資料分析などの結果を基に、木造で復元された干飯櫓(ほしいやぐら)は、最初から赤瓦で葺かれ、関係者の城跡整備に対する意識の高さを示したが、黒瓦との対比で多少の違和感を感じさせていた。しかしそれも今回の改修で解消。統一感のある美しい姿となった。
 使用された赤瓦は、発掘調査で出た赤瓦の成分分析に基づき、本物に近いものが復元された。オリジナルは会津藩内で焼かれたものだというが、会津の瓦工場はとうの昔になくなったので、出土品に近い土を使っている新潟県安田の瓦工場が、復元瓦の製作を担当した。

干し飯櫓旧
改修前 干飯櫓は写真の奥に見える二階建ての建物
干し飯櫓新
改修後

 戊辰戦争で痛めつけられた会津若松城の建物は、明治初期に解体破棄、または民間に払い下げられた。なので城内に現存建築物はないが、明治3年(1870年)、会津市内の阿弥陀寺に移築された櫓「御三階」が、今も同寺に残っている。

御三階側面

 御三階は本丸御殿の庭園にあったもので、その位置と華奢な姿から戦うための櫓ではなく、庭園に趣をそえるために建てられた望楼だと思われる(天守の方が眺めはよいが、普段は軍事担当者の管理下におかれ、むやみに人が立ち入れない場所であった)。
 内部は四層になっていて、二階と三階の間に隠し部屋があり、そこから階段を引き上げて侵入者を防ぐことができる。しかしこれは軍事的な意味を持つものではなく(御三階に籠城しても防火性能が低そうなので火を放たれたら終わりである)、大名や普請方が好んだ警備システムのひとつといえる。水戸の徳川斉昭が庭に建てた好文亭も、外見は二階建ての民家だが、中は忍者屋敷さながらに隠し階や隠し部屋があって複雑な構造になっている。こうした仕掛けは、政情が不安定で暗殺が横行した幕末にはそれなりに安心材料となったであろう。
 御三階は移築された際に御殿の玄関(右に写っている部分)が追加され、ますます城の櫓らしくない姿になった。

御三階移築予定地
 現在阿弥陀寺の御三階を、城内のもとあった位置に移築するための準備がすすめられている。
 
 会津若松城のように、最近、より好ましい方向で改修されたものに岐阜県の大垣城がある。
 大垣城は関ヶ原の合戦の際、西軍の拠点となったことで名高い。その頃の天守は板張りの実戦的な櫓であったと思われるが、大阪の陣のあと城主となった松平忠良が、美しい白亜の天守に改修したという。

 明治の廃城令後も天守と艮櫓(うしとらやぐら=城の北東に位置する櫓)が運良く残され、昭和11年(1936年)に旧国宝保存法で国宝に指定されたが、昭和20年7月、米軍の空襲によって両方とも焼失した。日本には米軍の空襲で失われた国宝建築(旧国宝保存法で指定)が200以上もある(民家など普通の建物は200万以上)。このことは無差別爆撃という方法論の異常性と、日本の戦争指導者が正常な判断力を失っていたことを強く感じさせる。
 同じく激しい空襲を受けたドイツと日本を較べると、ドイツは日本の10倍もの爆弾を落とされたにもかかわらず、国の機能低下は日本より緩やかであった。その差は、ドイツが早くから工場など重要な建物や設備を疎開させるなど、空襲対策をとっていたことが大きい。日本は無防備に爆撃を受け続けたために、多くの人命や財産が失われた。

大垣城天守01

 焼失した大垣城天守は昭和34年(1959年)に鉄筋コンクリートで再建された。戦後流行した再建天守は観光展望台としての機能を要求されたため、最上層の窓を大きくしたり、本来なかった高欄が取り付けられたり、また立派に見せるために余計な装飾を施されたりすることが多かったが、大垣城は比較的オリジナルに近い姿で再建されていた。

 それでも、最上階に大きな展望用ガラス窓をつけたり、屋根や破風などにオリジナルと異なる部分があったので、2010~2011年の改修でそれらが本来の姿に改められた。
 大垣市では「大垣城郭整備ドリーム構想」として、天守の本格木造建築化や、市街化して失われた城域の復元など、さらなる整備計画が持ち上がっている。

大垣城天守旧
改修前
大垣城天守新
改修後
プロフィール

Kimupon_Cicadan 木村 義志

Author:Kimupon_Cicadan 木村 義志
出身地 : 大阪市
現住所 : 東京都
1955年生まれ
科学図書執筆編集のお仕事
分野は生物学系

写真は特にクレジットや注釈がない限り筆者の撮影です。記事や写真についてのお問合せはなんなりと。
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