備忘録/自然・文化・社会とニュース

文化財

擬洋風建築の精華(旧済生館病院本館/山形県)

 山形城二ノ丸(現・霞城公園)内には、擬洋風建築の最高傑作とされる済生館病院本館(三層楼)が移築保存されていて、これを見学するだけでも山形城にでかける価値があると思う。

済生外観1

 この建物は封建領主のような強権を振るった県令(県の長官)三島通庸(みしまみちつね)の強力な指導の下に建設されたもので、県の技官筒井明俊や医師の長谷川元良らが基本設計を行い、明治11年(1878年)に着工。薩摩出身の原口祐之を現場監督に据え、山形県内の宮大工を動員して7か月という短い工期で完成させた。昭和41年(1966年)国の重要文化財に指定されている。

 三島通庸は元薩摩藩士で、戊辰戦争では補給部隊を指揮して活躍。大久保利通らにその能力を認められて政府の地方行政官となった人物である。
 山形、福島、栃木の県令を歴任し、それぞれの地で明治政府の近代化政策を実施した。特に大規模な土木工事を強引に推進したことで知られ、地方税の増税はもちろん、労役や寄付金を強要し、反対勢力に対しては弾圧で臨んだという。そのため農民や議会の自由民権派と激しく対立し、ついには暴動や暗殺未遂事件を招くが、強権をもってそれらの鎮静化に成功。強力な中央集権国家を目指す明治政府は、そんな彼の能力を評価したのか、後に警視総監に任命している。
 
 済生館は文明開化を象徴する病院であっただけでなく、破格の給与で外国人医師(オーストリア人アルブレヒト・フォン・ローレツ)を招聘して日本人医師や医学生の指導に当たらせるなど、医学校としての機能も備えていた。
 ちなみにローレツの給与は月額300円。これは三島県令の給与の3倍に当たり、しかもそれを交換価値の高い貿易銀(対外取引用の銀貨)で支払っていたという。当時の金額を今の金額に換算するのは難しいが、貿易銀の価値から推定すると、少なくとも月額500万円程度にはなり、それは現在の山形県知事の給与の4倍以上である。
 その後三島県令が福島県に転任すると、財政難に苦しむ山形県議会は、費用がかかり過ぎるとしてローレツの解任を可決した。
 
済生外観2

 明治初期の東北を旅行し「日本奥地紀行(Isabella Lucy Bird/1880/Unbeaten Tracks in Japan)」を著したイザベラ・バードも完成前の済生館を訪れており、「非常に立派な設備」とその印象を書き残している。彼女が見たのは竣工2か月前の姿で、その頃は三階部分が未完成であったようだ。

済生外観3

 建物は円形(多角形)平屋の病室棟に三階建の楼閣を結合したユニークな形状で、楼閣の二階はホール、三階はベランダと高欄のついた展望室になっている。
 二階と三階の間には中間階があり、元済生館病院薬局長の小林忠氏の「三層楼の思い出(郷土館だよりNo,56)」によると、この中間階には医学標本が保管されていたという。
 戦時中、高い建物はアメリカ軍の爆撃目標になる可能性があるとして、済生館も三階部分が撤去され、二階の屋根に三階の屋根を載せたような姿になっていたが、二ノ丸に移築保存される際に復元された。

済生中庭

 放射状に部屋を配置した円形の建物は、そこに収容された人々を円の中心から一元的に管理するのに適しているとされ、18世紀の哲学者ジェレミ・ベンサムなどは、円形刑務所の設計図とともに収容者の管理構想を発表している(Jeremy Bentham/1791/Panopticon)。しかし、済生館は管理目的で円形を選択したのではなく、円の中心は単に丸い中庭となっている。この形状は外界から隔離された静かな空間の創出と、部屋の採光や通気をよくするためである。
 元済生館病院薬局長の小林忠氏によれば、昭和30年頃には中庭で盆踊り大会が催され、浴衣を着た看護士などの職員が踊りながら丸い廊下を回ったという。

済生正面

 済生館の建設に集まった大工棟梁の中には、後に庄内地方の擬洋風建築に腕を振るった高橋兼吉や高橋権吉なども含まれ、済生館の建設が県内の擬洋風建築に与えた影響は大きいといえよう。
 外壁は下見板張り、屋根は一階部分が赤瓦、それより上の階は銅板で葺かれている。

済生館2階ホール

 講堂と呼ばれる二階ホールには柱がなく、医学関係の講習や講演などに使われていた。他に医療教育の施設ができた後は、多目的ホールや娯楽室として使われ、卓球台が置かれたり、病院の芋煮会で雨が降ると、臨時会場になったりしたという。
 窓の上に掲げられた額は、竣工当時の太政大臣三条実美の直筆による「齊生館」。これを写した扁額が正面二階の窓の上に掲げられている。

済生扁額

 一階と二階は中二階の廊下(下写真)を介して普通の階段でつながっているが、二階の上にある中間階へは螺旋階段で垂直に登っていく。

済生館二階へのアプローチ

 螺旋階段は太い欅の柱に、彫刻のある段板が太い鉄輪を介して取り付けられている。見学者がのべつ登り降りすると痛みが進んで危険になるためか、ここから上は立ち入り禁止となっている。階上に臓器などの液漬標本等が並んでいた頃、夕暮れ時に螺旋階段を登るのはちょっと不気味であったかもしれない。

済生螺旋階段

 県立済生館病院は、竣工後10年で県の財政難から民営化され、さらにその後山形市が買い取って市立済生館病院となった。
 戦後は大きな総合病院として建物の整備が進み、昭和30年代の終わりには、三層楼が絵本「ちいさいおうち(Virginia Lee Burton/1942/the little house)」のような状態となり、その対応が問題となっていた。
 隣接する中央棟の改築を迫られた昭和40年11月、市議会議員と学識経験者からなる「市立病院済生館建物処分審議会」は、ついに本館三層楼の廃棄処分を決定する(明治村などに移築するという案もあったが、山形市の財政状態から費用の負担は困難とされた)。つまり46年前には、三層楼は壊される運命にあったのだ。

 しかし、当時の大久保伝蔵市長はじめ、町のシンボルであった「三層楼」の保存を願う人は多く、彼らは審議会の答申を「具体的な解体については未定」と解釈して時間を稼ぎつつ、保存に向けての活動を続けた。
 そして文化庁が建物の調査をした結果、歴史的に重要な建築物であることが認められ、廃棄処分の答申から約1年後の昭和41年12月、国の重要文化財に指定された。このことで国と県の費用負担が可能となり、病院から800m離れた現在の場所に移築保存できることになった。

 たとえ残っても遠隔地へ移築したのでは、市民にとっては残念なことであるし、所在地そのものも歴史や文化の一部であるのだから、800mの移動ですんだことは最良の結果であったといえよう。

 一見学者に過ぎない筆者ごときが感謝しても何の足しにもならないが、日本の近代化遺産や擬洋風建築の価値を理解する人がまだ少なかった時代に、三層楼の保存に努力された人々には心から感謝したいと思うし、また、平屋部分の一部や三階部分を欠く不完全な状態で、しかも資料も乏しい建物を丁寧に解体し、竣工当時の姿に再び組み上げた現代の棟梁達にも心から敬意を表したいと思う。つまりそれほど魅力的な建物なのだ。一度ご覧あれ。

水産と自然

サケとマスのちがい

 先日久しぶりに長良川に行き、これまた久しぶりにサツキマスをいただいたので、今回はサケとマスの話。

サツキマス
サツキマスの焼き物。長良川河口堰の竣工以来不漁と聞くので他所のサクラマスかもしれない。
 
 生物学的にはサケとマスはほとんど同じもので、シロザケ、ベニザケ、サクラマス、カラフトマスなど多くの種類があるが、例えば今あげた4種はいずれも同じサケ科サケ属に分類され、雑種が作れるほどに近い。なので体の特徴からサケとマスの間に線を引くのは難しいといえる。ただサケ、マスと呼び分けられていることにはそれなりの理由があり、しかも時代とともに名前のイメージが変化してきた。

 サケ・マスの語源は諸説あってはっきりしないが、奈良時代の文書にはすでにサケやマスという言葉が登場する。
 奈良時代に編纂された「常陸国風土記(721年)」には、常陸国の助川郷の語源が、大きな鱒の意味である助(鱒の助=鮭)を獲った助川に由来するとの説明がある。また「出雲国風土記(733年)」出雲郡の章には、出雲大川(斐伊川/ひいかわ)に見られる魚として、年魚(アユ)、鮭(サケ)、麻須(マス)、伊具比(ウグイ)、魴鱧(ウナギ)が紹介されている。

 こうした古い時代に文字文化や食文化をリードしていたのは都周辺の人々と思われるが、彼らはサケよりマスの方を身近に感じていたはずである。
 その理由は、サケが少ない西日本の川にはサクラマス類が遡上し、京都や奈良を流れる川にも見られたこと。また、サケのことをわざわざ「鱒の助(マスの大きいもの)」と呼んだことなどがあげられる(現代の標準和名マスノスケはキングサーモンを指す)。

 サケ(日本の川に遡上するのは主にシロザケ)は、日本海側の南限が山陰地方、太平洋側は東海地方とされるが、日本海側の新潟以南と、太平洋側の茨城以南では非常に数が少ない。以前「カムバックサーモン」と称してサケの稚魚放流が流行ったとき、南関東の多摩川でサケを放していた人達が、遡上のほとんどない多摩川にサケを放すのはナンセンスであると批判されていた。

 平安時代には塩蔵加工された越後あたりのサケが、都に運ばれていたということであるが、それらは高級な贈答品であり、近畿以西の庶民にとってサケはさほど身近な魚ではなかったと思われる。
 新潟県の三面川(みおもてがわ)は、江戸時代から孵化放流事業が行われていたことで知られるが、そこで作られた「塩引き鮭」が、各地の有力者へ贈答品として送られていた記録が残っている。つまり、西日本の人にとってサケは塩干品として遠くから運ばれてくる物であった。三面川河口の町、村上市では今も塩引き鮭が盛んに作られ、町の名物となっている。

村上塩引き鮭02
村上の塩引き鮭。腹を一気に全部裂かず、腹びれの前でつないでおくのが村上式。
村上の鮭産業は武士が主導したので、切腹を嫌ったとの言い伝えがある。

村上塩引き鮭

 サケは秋に川を遡るが、サクラマスやサツキマスはその名が示す通り春~初夏に川を遡る。だから「鱒」の季語は春~初夏で、この遡上時期の差が本来のサケとマスの区別点となる。

 サケもマスも産卵期は秋だが、春に遡上するマスは川で餌をとりながらゆっくりと上流に向うので、川で餌をとらないサケと違って身に脂がのって美味い。サクラマスやサツキマスが遡上する川では、初夏の御馳走として喜ばれ、有名な富山の鱒寿司も、神通川のサクラマスが使われていた。

 ところが、海産魚が豊富にとれる沿岸部では、マスの人気も今ひとつで、サツキマスが獲れる伊勢湾沿岸の人に聞いたところ「あまり食べない」とのことであった。川魚の王様であるマスも、タイやヒラメといった海の高級魚に比べられると、そのランキングは下がるるということだ。さらに時代が進んで北洋のベニザケ(味、色ともにサケの最高級品とされた)などが流通するようになると、マスの価値は増々下がっていった。

 やがて水産資源としてのマスは、完全にサケの影に隠れるようになり、消費者からはサケの亜流のように思われるようになっていく。特にマスのイメージを悪くしたのは、東北北部より北に分布するカラフトマスであろう。
 カラフトマスは夏~秋に遡上するので、日本語の古典的な分類でいえばサケと呼んでもいいような魚だが、体が小さいのでマスと呼ばれるようになったらしい。

 北海道や南樺太の沿岸が日本の領土として開拓され、さらに北洋に日本の漁船が出漁するようになると、ほかのサケ類とともにカラフトマスも大量に漁獲されるようになり、その缶詰や塩蔵品が日本の食卓にのぼるようになった。しかし昔のカラフトマスの塩蔵品は「身が薄くて塩辛いだけのおいしくない塩鮭」として評判が悪く、マスのイメージを低下させた。戦中世代には今も、美味しくないサケ類を食べると「これはマスだな」などという人もある(カラフトマスは脂肪が多いので常温流通の塩鮭に向かず、塩を強く利かせる必要があった。今は低温流通の発達でカラフトマスも美味しく食べられるようになっており、産地の漁協ではカラフトマスの利用普及に力を入れているところもある)。

カラフトマス塩蔵品
カラフトマスの塩蔵品。尾びれに黒い斑点があり鱗が細かいことが特徴(imagenavi提供)。

 その後もマスの地位は回復せず、食卓の魚としてはほとんど無視されたような状態となり、各地の河川にダムができてマスの姿が消えていったことにも、ほとんど注意が払われなかった。
 長良川は最近まで、まとまった量のサツキマスが見られる川として有名であったが、河口堰ができてからは減っている。戦前は琵琶湖から出て京都を通り大阪湾にそそぐ淀川でも70トンぐらいの漁獲量があり、これは同じ時代の長良川の漁獲量より多い。

長良川01
大阪の淀川などと同じように、サツキマスの「いた」川になってしまうかもしれない長良川。
長良川河口堰
 下は長良川河口堰。ご覧のように一直線に河口を塞いでおり、魚道を付けても海と行き来する生物の減少は避けられない。また堰より上流は海水の影響がなくなったので、汽水の生物が激減した。手前は堤と中州を隔てて隣接する揖斐川河口。

 長良川とサツキマスに興味のある方には、この本を紹介したい。写真家の田口茂男氏が1991年の段階で2011年、つまり現在の長良川を憂いて出版された写真絵本である。大判の児童書であるが、河川行政に責任を負う有権者にこそお読みいただきたいと思う。
 サツキマスのいた川(草土文化/1991年)
サツキマスのいた川

文化財

「うだつがあがらない」語源考

 「うだつがあがらない」という慣用句は「地位や生活などがよくならない。ぱっとしない」といった意味だが、その語源についてはいくつかの説がある。たとえば、(株)ルックバイス運営のネット版「語源由来辞典」には以下の4つが紹介されている。

1. 梁と棟木の間に立てる部材を「うだつ(別名小屋束)」といい、い
  つも屋根に押さえつけられている姿を人の境遇に見立てたもの。
小屋束S
   建築部材の「うだつ」は赤い部分で、小屋束ともいう。
2. 家を建てるのに1のうだつも立てられない、または、うだつを欠く
  ような家に住む境遇にあること。
3. 井戸の石積みの最下部に置く木枠を「うだつ」といい、1と同様に
  年中押さえつけられている境遇にあること。
4. 装飾的な防火壁も「うだつ」といい、それを付けるにはお金がかか
  るため、うだつは成功の証しと見られた。
うだつアップ

 さらに大辞林や大辞泉では次の説が紹介されていた。

5. 家を建て棟上げすることを大工言葉で「うだつがあがる」といい、
  それが転じて志を得るという意味になった。

 13は「上から押さえつけられていること」に注目しているが、特に上から押さえつけられなくても、その人に能力や運がなければ「うだつがあがらない」状況に陥る。説明としては不十分であろう。
 またこれらは「うだつ」というものの状況を示しているだけであって、「うだつがあがるかどうか」とは無関係なので、言葉の構成としても無理が感じられる。だから13の建築部材説は除外してもいいと思う。

 有力な説と感じられるのが2.4.5.で、25はほぼ同じ意味である。
 その25について少し意地悪な見方をすると、棟木を支える部材の「うだつ」は、安普請の家にもあるし(これがないのはテントのような仮小屋ということになってしまう)、逆に天井を貼った立派な座敷だとうだつが見えない。「出世して立派な家を建てる=うだつがあがる」とするには、ちょっと無理があるように思う。
 ただし、一般人が専門職の符牒を真似て、それが慣用句として広まることは、いかにもありそうなので、捨て難い説ではある。

 一番もっともらしい説と思えるのが4の防火壁である。商売で成功した人は家に豪華なうだつ(防火壁)をあげ、それがステータスシンボルとなった。家にうだつがあげられない人は、うだつがあがらない人というわけである。

美濃町並

 うだつのある古い町並は中部から西日本にかけて多く見られるが、上の写真の岐阜県美濃市は町ぐるみで美濃和紙と「うだつのあがる町」の整備と宣伝に力を入れている。

小坂酒造01
 
 上の写真のように建物の両端に防火壁を設け、その上面に瓦を載せたのが「うだつ」である。上は美濃の町並でも特に古いとされる小坂酒造所。安永元年(1772年)築と伝えられ、国の重文に指定されている。ゆるやかな曲線を描く「むくり屋根」が美しい。

海野宿うだつ

 こちらは信州の北国街道沿いにある海野宿のうだつ。写真の建物は明治以降のもので、うだつが目立ち、美濃とは違った雰囲気がある。一番手前は近年改修されたもので鯱ほこが載っている。防火というより装飾性に重きが置かれた変則的なもの。

福井袖壁

ちなみに ↑ こういうのは袖壁というらしい(福井県若桜町)。

上田うだつ

 こちらは信州上田。うだつと袖壁の中間的なもので「袖うだつ」と呼ぶ人もある。明治初期の建物で、昔は呉服店を営んでおられたようだが今は喫茶店となっている。

脇町うだつ

 徳島県脇町のうだつ。このようにうだつが低く、大屋根の破風が露出していると防火力が落ちると思われるが、うだつに厚みがありどっしりとした構えである。脇町にはこのタイプが多い。

篠山/妻うだつ

 これは兵庫県の篠山市でみつけた変わり種。屋根の妻側に付けられており、完全な装飾品。大正末~昭和初期の建物と思われ、看板建築の一種に分類できるかもしれない。

文化財

珍しく感じが悪いと思った名刹

 筆者は「~が嫌い」ということを公言して憚らないのであるが、あるとき友人の僧侶から「自分には好きと無関心の二つしかない」といわれ、さすが人の手本となるべき立場の人は違うなと思ったことがある。しかし「~が嫌い」は、向上心や積極的な行動へのエネルギー源にもなるから、筆者は今後も理不尽と思うことへの不満を持ち続けたいと思う。
 というわけで、今回はあるお寺さんの文化財公開姿勢に対する悪口。

看板01

 岐阜県関市にある新長谷寺(しんちょうこくじ)には、国の重要文化財に指定されたお堂や塔がある。先日見学にお邪魔したのだが、上や下の写真のような「撮影禁止」の看板がいくつもあり、ちょっと不愉快であった。
 もちろんどんな看板を掲げようと、何を禁止しようと、お寺さんの自由である。
 修行僧が多くその学習環境を維持するために観光客を入れなかったり、反対に人手が足りず留守がちなために、拝観希望者が多くても限られた日時にしか公開できない寺院もある。だから新長谷寺だって普段は人に見せないないというやり方もアリだろう。しかし、境内を一般に解放し、不特定多数からの祈祷や供養の依頼を歓迎しながら(新長谷寺の境内ではおみくじやお守りも売っている)、こんな看板を立てて境内での撮影を全て禁止している寺院は少ない。
 筆者は小学生の頃から各地のお寺を見学してきたが、こんな風に写真撮影を介して発揮される寺院建築への愛着を全否定されたのは初めてである。

看板02

 もちろん文化財保護のため境内での火気の使用やボール遊びは禁止すべきだし、建物によっては人が立ち入ったり壁や柱に直接触れるのを防ぐことも必要だろう。写真撮影のことでいえば、堂内でストロボを光らせたり、修行や参拝をしている人の横でパシャパシャとシャッター音を立てる奴がいたら大迷惑だと思う。しかし、来訪者に解放された境内で、建物の写真や家族の記念写真を撮ることが、お寺にとってどんな迷惑になるというのだろう。過去に何か嫌なことでもあったのだろうか。あるいは信徒から苦情がでたのだろうか。

 日本を代表する名建築の舎利殿で知られる鎌倉の円覚寺は、写真撮影者に対してこんな注意を呼びかけている。
 ・一脚や三脚などカメラの足や支えは、他のお客様にご迷惑にならな
  いようお願いいたします。
 ・樹木や杭、柱などに寄りかかって撮影しないでください。
 ・商業的にご使用される場合は、使用許可を得てください。
 写真撮影に関してはこれで十分ではないだろうか。

看板03

 話は少し横道にそれるが、上の写真にある「水子供養」は伝統的なものではなく、1970年頃から人工妊娠中絶と関連づける週刊誌記事等によって流行したものだ。埼玉県の紫雲山地蔵寺(戦前からの右翼思想家で水子供養の仕掛人といわれる橋本徹馬が1971年に立てた新寺院)などは、水子供養に特化することで、地蔵像を1万体も売ることに成功したという。値段は不明だが仮に像込みのお布施が10万円とすれば10億円もの売上となる。こうした事業を、妊娠中絶の苦しみや悲しみにつけ込む商法と批判する人も多い。
(新長谷寺がそうした商法を行っているということではないので誤解しないでお読みいただきたい)
 水子供養で癒される人もいるのだからよいではないかという意見も聞くが、人工妊娠中絶の問題は寺院が癒しを提供すればそれですむというようなものではない。関係法令や性教育、性差別などを含め社会問題として議論すべき課題だ。
 仏教界は人工妊娠中絶について、供養などしなくても何も起きないと明言しておくべきではなかろうか。そもそも仏陀も鑑真も空海も最澄も、さらには名だたる鎌倉仏教の開祖達も、死んだ胎児が家族を不幸にするなんてことは一言もいってないのだ。それをわざわざ「水子供養」といった言葉を使って強調すれば、女性に不要なプレッシャーをかけることになる。宗教による贖罪や癒しは、それをしなければ不幸になるといった恐怖を生みやすい。そう考えると水子供養は寺院によるマッチポンプ商法に見えてしまう。
 
全景

 次に撮影禁止の姿勢を、指定文化財という観点から見てみたい。

 見るのはよくて写真を撮るのはダメという新長谷寺の塔やお堂は、国の重要文化財に指定されている。
 重要文化財は文化財保護法に基づいて指定されるが、この法の目的は文化財の保護だけに留まらず「国民の文化的向上に資するとともに、世界文化の進歩に貢献すること」となっている。つまり、啓蒙のための教材や資料として活用されなければ指定する意味がないのである。だから公開が原則で、所有者が隠しておいたりすると、文化庁から公開を命じられることもある。

 ただし、所有者は文化財の維持管理に努めなければならず、傷んできたのに放置すれば、文化庁から修理勧告を受けることもある。気の毒と言えば気の毒だ。もちろん国から修理費用の援助があったり、税制面で優遇されたり、無利子の貸し付けがあったりするが、国の援助が必要十分というわけではない。申請すれば国内の誰かに売却することも可能だが、大きな建物の場合移築費はかかるし、管理責任も押し付けるわけだから買い手は限られるだろう。

 国が行う文化財保護のための費用は、文化庁予算の6割近くを占め、年間約580億円の税金が投入されている(建物の修理費は100億円以下)。この額は伝統文化を誇る先進国というにはあまりにも少ないが(イギリスは建物の修理費に年間500億円を使っているという)、指定文化財には国民共有の宝として税金が投入されていることは確かである。だから文化財を見て、また写真に撮って資料とし、自らの「文化的向上」に供することは、国民に認められた権利といえる。

 ただ、所有者が指定を拒否することもできるから、面倒な指定を受けて、維持管理に苦労している文化財所有者には大きな敬意をはらうべきであろう。建築物の撮影を趣味にしている人は、寺社なら多めに賽銭を投入したり、修理の勧進などをして積極的に協力したいと思う。無料あるいは拝観料のみで写真だけ撮って帰るのは申し訳ない。
 だから新長谷寺さん。これからもできる限り文化財保護に協力しますから、気分が萎える看板を撤去して、写真を撮らせてもらえないでしょうか。

プロフィール

Kimupon_Cicadan 木村 義志

Author:Kimupon_Cicadan 木村 義志
出身地 : 大阪市
現住所 : 東京都
1955年生まれ
科学図書執筆編集のお仕事
分野は生物学系

写真は特にクレジットや注釈がない限り筆者の撮影です。記事や写真についてのお問合せはなんなりと。
小さな写真はそれをクリックすると大画像が開きます。

検索フォーム
ブロとも申請フォーム
QRコード
QRコード

Page Top
Powered by FC2 Blog | | Template Design by スタンダード・デザインラボ