備忘録/自然・文化・社会とニュース

文化財

血煙鍵屋の辻/剣豪と大名と同性愛-1

 前回紹介した学校を見学した日の朝、ホテルの近くにあった鍵屋の辻へ行ってみた。
 鍵屋の辻とは寛永11年(1632年)、剣豪の荒木又右衛門が、義弟の仇である河合又五郎と、又五郎の護衛をしていた河合甚左衛門(又五郎の叔父で郡山藩剣術指南役勤めた人物)、同じく尼崎藩槍術指南役「霞の半兵衛」こと桜井半兵衛らと対決し、討ち倒した場所である。

鍵屋辻石柱茶屋

 この事件は人々に語り継がれ、講談の人気演目となった。さらにそれが歌舞伎や人形浄瑠璃にも取り入れられて「伊賀越乗掛合羽(作/奈河亀輔/1776年)」や「伊賀越道中双六(作/近松半二・カ近松加助/1783年)」といった作品が生まれている。

 日本人は仇討ちモノが好きなので、近代に入っても鍵屋の辻の映画やテレビドラマが数多く作られている。
 トーキー以降に作られた主な作品で荒木又右衛門を演じた俳優を並べてみると、
・大河内伝次郎
・阪東妻三郎
・三船敏郎
・市川右太衛門
・松本幸四郎(先代)
・大川橋蔵
・長谷川一夫
・高橋英樹
・仲代達矢
・加藤剛
・里見浩太朗
といった具合に、日本の時代劇スター勢揃いの感がある。

 日本三景のように、日本には「日本三大◯◯の一つ」を自称する物がたくさんあって、そのくせあとの二つがはっきりしないことが多いのだが、鍵屋の辻の仇討ちは「日本三大仇討ち」の一つとされ、あとの二つは曽我兄弟に忠臣蔵とはっきりしている。この三大仇討ちに異存のある人は少ないだろう。

鍵屋辻伊賀越資料館01

 現在の鍵屋の辻は、観光地として多少地味ながら、鍵屋の辻公園として整備され、関係資料を展示した資料館もある。また最初の写真にある通り、数馬茶屋という昔風の茶屋も営業しており(ネット電話帳ではちゃんとカフェ・喫茶に分類されていた)、当時を偲ぶのに適した環境が整っていた。

鍵屋辻伊賀越資料館02

 資料館は「伊賀越資料館」といい、建物はごらんの通り寺院のお堂である。この地にあった廃寺を流用したものか、どこかから移築したのかは分からない。間抜けなことに詳しい由来を聞き忘れてしまった。

鍵屋辻首洗池

 資料館の裏には、討たれた河合又五郎の首を洗った池というものがある。立て札によると、昔この付近に首洗いの池や首洗い地蔵というものがあり、線香や花を手向ける旅人が後を絶たなかったという。現在の池は往事の首洗い池を復元したものだというが、庭や公園によくある普通のコンクリート池のようであった。

 先に書いた鍵屋の辻の仇討ちをテーマにした浄瑠璃「伊賀越道中双六(作/近松半二・近松加助/1783年)」は、名作として今日でも盛んに上演されているが、近松半二が先行作品にある「仇討ち」「東海道を行き来する登場人物」「親子の情と武士の面目」といったキーワードから練り上げた物語なので(半二は執筆半ばで没し、加助が仕上げたとされる)、史実とはかけ離れた、複雑でこみ入ったストーリーになっている。

 実際の仇討ち事件は、浄瑠璃よりずっとシンプルな、私的な怨恨による殺人事件であるが、それだけに関係者のドロドロした人間性が出て迫力が感じられる。

 1630年の夏、岡山藩士河合半左衛門の息子又五郎が、渡辺源太夫という少年の家に遊びに行ったところから事件は始まる。このときの二人の年齢は資料によって差があるが、今の数え方でいうと、又五郎は15~17歳で、源太夫はそれより2歳年下であった(鍵屋の辻公園の看板にあった又五郎19歳というのは、生年からいって多過ぎると思う)。いずれにしても二人とも未熟な少年であったことは確かだ。

 その日二人の少年の間にどんな会話があったのかは分からないが、又五郎は源太夫を殺してしまう。
 もちろんそれは大きな事件ではあるが、通常なら藩士の子弟の喧嘩として、藩の目付役が処理する問題であり、東海道を又にかける敵討ち事件になるような話ではなかった。
 しかし、殺された源太夫は藩主池田忠雄(ただかつ)に寵愛された小姓だったので、「又五郎憎し」と藩主が直々に介入してきた。一方、河合半左衛門の方も息子を守るべく、又五郎を城下から脱出させたので、話がややこしい方向に発展していく。

 主への忠孝が尊ばれた時代、半左衛門が息子を逃がしたのは、主君への反抗であり、親馬鹿の極みのように見えるかもしれない。しかし、武士は自分の家の存続と発展が第一であって、家が断絶するような事態になれば、主君であろうが上司であろうが抵抗する。その後河合一族が力を合わせて又五郎を守ろうとしたのも当然の行動であった。

 もちろん河合半左衛門も命がけである。身柄を拘束されることは覚悟の上。積極的に逃がしたことがバレたら打ち首の可能性もあり、最終的にはその通りになったようだ。

 河合半左衛門は息子を放浪させておく訳にもいかないので、知人にあずけて江戸の旗本、安藤正珍(まさよし)にかくまってもらうことにした。安藤家は三河武士団の一員で、徳川軍の武将として家康の政権奪取に貢献した。ちなみに安藤正珍の祖父は、伏見城の玉砕戦で活躍した猛将、安藤定次である。

 この旗本屋敷潜伏作戦は妙案であった。旗本には「自分こそ三河以来徳川家を支えてきた直属の武士」というプライドがあり、外様大名を見下し対抗意識を持っていたし、池田氏に個人的な恨みを持つ旗本もいたという。
 安藤正珍は又五郎の受け入れを承諾し、池田忠雄からの犯人引き渡し要求を拒否した。

 そうなると池田忠雄も黙っちゃいない。外様とはいえ忠雄は、徳川家康の次女、督姫の実子。神君家康公の孫にあたる人物である。さっそく幕府に働きかけて反撃にでた。

 幕府は困惑し、調停を模索したが解決には至らなかった。そうこうするうちに、池田忠雄が急死してしまう。幕府は忠雄が亡くなったことに配慮し、また三河以来をいいことに、江戸市中で身勝手な振る舞いをする旗本を問題視していたこともあって、又五郎には江戸所払い、かくまった安藤正珍ら旗本には寺預け(監禁謹慎罰の一種)という裁定を下した。池田忠雄側の全面勝訴である。
 鍵屋の辻の決闘は、外様大名と旗本の対立が背景にあるとされるが、少なくとも旗本屋敷潜伏ができなくなったこの時点で、状況は改善されたといえるだろう。仇討ち決行はまだ先の話。

岡山城天守
池田忠雄の居城、岡山城天守(外観復元)忠雄は宇喜田、小早川、池田と受け継がれたこの城を整備拡張した。


 池田忠雄は死に際し、家臣に又五郎を討つことを厳命したという。
 可哀想なのは源太夫の兄、渡辺数馬である。主君の「遺言」として又五郎の討伐を命じられたため、本懐を遂げるまでは鳥取に引っ越す事もできない(忠雄の後継ぎ光仲がまだ幼かったため、戦略的に重要な岡山藩の統治は難しいとされ、鳥取にいた忠雄の甥、池田光政と領地替えをさせられた)。もし忠雄が生きていれば岡山藩にいて多くの支援が受けられただろうに、脱藩して自家だけで対処する厳しい事態となった。

 本来武士の仇討ちは、親や兄といった尊属の仇を討ち、尊属の地位や財産を相続するために行うものである。だから子弟や家臣など卑属の仇討ちはしないのが普通だ。いくら家臣思いであったとしても、大名が小身者の仇討ちに熱心なのは、あまり体裁のよいものではない。にも関わらず池田忠雄は自ら刀をとって仇討ちをしそうな勢いであった。

 池田忠雄がそこまで又五郎を討つ事に執着した背景には、旗本に対する恨みもあるが、それ以前に大名と小姓の性愛による強い結びつきが根底にあったといえよう。
 近世以前は男同士の性関係もノーマルな行為であり、特に武士階級にあっては主従関係が絡むので、女性より高尚な関係と捉えられていた。
 だから又五郎が源太夫を殺害した原因も、源太夫が「男性経験」豊富な美少年であり、又五郎が血気盛んなアニキ分であったと考えれば、やはり愛欲のもつれと思えてくる。

 原因が同性愛の三角関係だとすれば、剣豪達の真剣勝負がアホらしいものに見えるかもしれない。しかし又五郎を討たねばならなくなった渡辺数馬にすれば、理由が何であれ勝って終わらせないことには、自分の未来はないのである。また河合一族にとっても、大切な跡取り息子をおいそれと討たれるわけにはいかない。
 長い戦乱が終わり太平の世を迎えたというのに、両者は血を見ずには終わらない状況に追い込まれていった。そしてこのあといよいよ荒木又右衛門が登場するのだが、それはまた次回にでも。

鍵屋:宮川一笑掛物
宮川一笑画 女装の少年。振り袖の女性と思いたいところだが、連作に性器を描いたものがある。Wikimedia Commons

 人形浄瑠璃の名作、絵本太閤記(近松柳ほか/1799年)の「瓜献上の段」にも、同性愛が一般的であったことを示すこんな文章がある。
 「(私は)岸田村の百姓の息子、岸田太吉という者を小姓にしておきました。ときに貴方がお立ち寄りあそばし、その小姓に茶を汲ましたのがお目にとまり、美しい小姓じゃ、こちへよこせとおっしゃるゆえ、二言なしに若衆を献じた献穴と申す者」(平仮名と句点は筆者)
 男色は武士社会と僧の社会で盛んだったとされ、献穴とはこの台詞をいう僧の名。穴を献上とは浄瑠璃作者の下品なギャグである。観客が笑うところであるが、現代の観客はあまり笑わないようだ。というか「瓜献上の段」の上演そのものが少ない。

文化財

美しい学校-追加/伊賀国の2校

 以前書いた「美しい学校」「美しい学校-その2」の続編。

 忍者で知られる三重県伊賀市には明治時代の木造校舎が二つも残されている。つい先日見学してきたのでご紹介したい。

 一つは啓迪学校(後に小田小学校と改称)の本館。明治14年に地元民の寄付と労働奉仕で建設され、建材の一部に近隣から集めた古材が利用されているという。明治初期の小学校には、こうした地域住民の熱意によって建てられたものが多い。
 旧小田小学校

 竣工以来80年以上に渡り初等教育の場として機能してきたが、昭和40年、児童の減少から小田小学校は上野西小学校に統合され、学校としての使命を終えた。
 昭和44年、本館裏の校舎の一部を改築してひかり保育園が開園。すぐ側から子供達の声が聞こえてくるのは、この建物にとって幸福なことと思う。

 下は明治期に描かれた「平井神社境内圖」の一部である。右側が神社に隣接する啓迪学校の校舎群。平井神社の方も周囲を住宅に取り囲まれてはいるが同地に健在だ。

旧小田小-平井神社絵図
明治24年/旧小田小学校本館の展示物より

 屋根は寄せ棟で桟瓦葺き。壁は白漆喰で石造りを模している。平井神社境内圖に見られる長押形は現状の壁には見られない。

旧小田小側壁面

 デザインのポイントは円柱で支えられた玄関ポーチだが、装飾は控えめで天井などは質素な和風竿縁天井となっている。棟梁の名前は分からなかったが、限られた予算と工期の中で最大限の意匠を凝らしたといえよう。

旧小田小バルコニー

 二階のバルコニーの戸は民家に使われているようなごく普通のガラス障子だが、赤と青の色ガラスがはめられ、ステンドグラスのような雰囲気を演出している。建設当時近隣には色ガラスの在庫がなく、わざわざ神戸から取り寄せたという。
 色ガラスの窓は、同時代の校舎によく見られる装飾で、新しい時代を感じさせるアイテムとして好まれたようだ。

旧小田小色ガラス

 現状は1990~1994年にかけて半解体修理が施されたもので、老朽化によって取り外されていた塔もこの時に復元された。

旧小田小太鼓櫓

 塔は六角堂となっており、擬宝珠のある高欄をめぐらした太鼓櫓といったところ。これが屋根の上にあると洋風に見えるから面白い。

 内部は教育史に関する展示館となっており、教職をリタイアされた方々の手作りである。内容は充実しており、特に社会科・生活科に関する展示は力作で、古い教科書のコレクションもある。

旧小田小社会科展示

 もう一つの物件は県立第三尋常中学校(現県立上野高等学校)校舎。上の啓迪学校より少し新しく明治33年に竣工した。

旧第三尋常中学校

 設計は県庁舎や三重県立師範学校校舎(どちらも明治村に移築され現存)を手がけた棟梁清水義八で、彼は明治9年から34年まで三重県庁に籍をおいて活躍したので、啓迪学校の設計に関わった可能性もある。ただし明治村に保存されている清水家文書(清水義八の図面など約1,200枚の書類)の中に啓迪学校はないらしい(リンク先の右にあるプレビューをクリックすると読める)

 以前紹介した静岡県磐田市の見付学校を手がけた棟梁伊藤平左衛門も清水義八と交流があり、同じように三重県の仕事をしていたので、啓迪学校は伊藤の可能性もあるし、また県内には両者の影響を受けた技術者も多かったであろうから、啓迪学校は二大棟梁を核にした「その辺りの人々」ということで筆者は納得してしまった。

旧第三尋常中学校玄関

 県立第三尋常中学校の校舎は横長の平屋で、玄関と両翼に和風の入母屋破風をそのまま取り入れるなど和洋折衷色が強い。和風の屋根と洋風の意匠が破綻なくまとまって見えるのは、久居藩(津藩の支藩)の作事方として、格の高い建築作法を修めた義八の、繊細なセンスのなせる技であろうか。

旧第三尋常中学校玄関内

 上の写真では見えにくいが、校庭の向こうに見える門柱も竣工当時のものである。
 この校舎がよいのは、なんといっても現役であること。今も学校の中にあって教室には生徒達の声が響いている。生徒達は校舎の周りをウロウロする怪しいオヤジにも元気に声をかけてくれた。そしてオヤジはこんな校舎を使える生徒達をうらやましく思うのであった(見学希望者は三重県立上野高等学校事務室にお問合せを)。

 旧第三尋常中学校内部


社会とニュース

週刊誌のヨタ記事から

 ネット版の週刊ポストの記事にこんなのがあった。
 福島近郊のSAで福島の銘菓、野菜、米など大量に捨てられる

 内容は、福島に帰省または旅行に行った人が、もらったお土産の菓子や農産物を、帰り道の高速PAのゴミ箱に捨てて行くと言う話である。
 サービスエリアの清掃担当者から取材したということだが、その信憑性は不明だし、量的なことも分からない。記者自身がゴミを確認したわけでもない。要するに俗情を煽るための、ありふれたヨタ記事の一つである。

 早速この記事への意見がソーシャルメディアに多数投稿されはじめた(Twiterはリツイートを含め1分間に10本以上ペースで投稿があり、恐らく万単位の数になるだろう。MIXIは1時間当たり150本以上のペースで、これを書いてる時点ですでに2500本を越えた)。記事への批判や捨てた人に同情する声もあるが、筆者が目を通した範囲では捨てた人を非難する意見が目立った。

 お土産を途中で捨てるというのは、いかにもありそうな話である。お土産の農産物や菓子を渡してくれた人に「放射性物質が心配なので遠慮します」と言える人はいないであろう。たとえ安全だといわれても、これまでの行政の対応を考えると信用などできない。家で捨てればいいのだが、その辺は昨今の公衆道徳の欠如というか、家にゴミを持ち込まずPAで捨ててしまう人もいそうである。

 こうした問題の責任は全て、事故以後、効果的な対策が立てられず、ウソや誤摩化しで市民の消費動向を操作しようとしてきた国や自治体にある。
 今更福島の食品が安全であるといっても、心から信用する人などいないだろう。仕方なく食べなければならない人が横目で見て気休めにする程度だと思う。
 筆者はガンになっても原発事故との因果関係がよく分からない年齢なので何でも食べるようにしているが、国や県のいう安全など全く信用していない。

 生産者に申し上げたいのは、こんなヨタ記事など無視して、信用を再構築することを考えて欲しいということだ。
 消費者は人として被害に遭った生産者に同情はするが、たとえ健康被害が出ない水準であっても、放射性物質が入っている、またはその可能性がある食品は食べたくないと考えている。

 それは無農薬野菜が割高でも売れたことを考えればわかる。農薬をふんだんに使った野菜でも、残留農薬の量が規制値を越えていなければ安全な食品ということになるが、消費者はそれを体に悪いと感じ、無農薬や低農薬のものを求めてきた。また生産者もそれに応えることで、生産物の付加価値を高めようとしてきたはずだ。

 放射能汚染はゼロではないが、安全基準を大幅に下回っているから食えというのは、これまで無農薬でやってきた畑に農薬を撒き、それでも残留農薬は基準値を大幅に下回っているから、今までの無農薬野菜と同じように食ってくれというのと同じなのだ。これでは消費者の心は福島からどんどん離れていく。

 こんな頭の悪そうなヨタ記事で、消費者と生産者が直接いがみ合うことはないだろうが、福島に最大限の同情を示しながら、自分の子供には福島からできるだけ遠い場所で採れたものを食べさせたいと思うのが消費者である。誰もそれを責めることはできない。そのことを分かった上で、何をすればよいかを考えれば、答えを見いだせるのではないだろうか。

 筆者の答えはシンプルである。生産物は全て放射性物質の検査を実施し(もちろん全量ではなくトレーサビリティを確立した上での統計的手法に基づく部分検査)、それを継続的に製品に添付し続け、間違っても安全宣言のような馬鹿げた花火をあげないことだ。地道な正攻法しかないと思っている。

 今後も汚染状態は続くし、ロシアの例からみて何年後かに医療的な問題が持ち上がることがあるかもしれない。信用を失った行政がそれを誤摩化すことは不可能である。原発事故との因果関係が明らかにされなくても、福島市の若者の癌発生率が1パーセントあがったらしいというだけで、今よりもっと過激な拒絶反応が起きるだろう。

 何度もいうが、消費者に対し「基準を大幅に下回る安全なレベルなので、安心して食べて欲しい」なんて話は通用しない。消費者の希望は汚染ゼロであって、それ以外は生産者や行政から嫌なことを「強要」されていると感じるのだ。今はほかの地方の産物も選択できるのだから尚更。それを忘れたら消費者離れが加速するだけだ。

 福島の人はどんなに悲しくても、涙をのんでお土産捨てた人に寛大になって欲しいと思う。福島に近づかない人もたくさんいるなかで、少なくとも福島の地を踏み、食事をした人々なのだから。
 次回は放射能検査済みというシールでも貼ったお土産で勝負して欲しい。

 筆者は今年、郡山経由で会津城の赤瓦を撮影に行くが、メヒコでカニピラフを食べ、ママドールをお土産にするつもりである。
プロフィール

Kimupon_Cicadan 木村 義志

Author:Kimupon_Cicadan 木村 義志
出身地 : 大阪市
現住所 : 東京都
1955年生まれ
科学図書執筆編集のお仕事
分野は生物学系

写真は特にクレジットや注釈がない限り筆者の撮影です。記事や写真についてのお問合せはなんなりと。
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