備忘録/自然・文化・社会とニュース

文化財

城の井戸にまつわる話のつづき「お菊虫」のことなど

 前回はお城の井戸について、自分の興味に基づく細かい話を半端に書いてしまったので、今回はその反省という訳でもないが、行ったことのある人が多い有名な井戸の話を書いてみたい。

 お城の井戸で最も有名なのは、なんといっても姫路城のお菊井戸であろう。この井戸には夜になると、こんな美しいお方が現れるらしい。

s新形三十六怪撰_皿やしき於菊乃霊_月岡芳年明治23
「新形三十六怪撰/皿やしきお菊の霊/月岡芳年」(明治23年)
Wikimedia Commonsより版権切れの版画を引用させていただき色調を補正


 この姿を一目見ようと大勢の男どもが群がるのは落語の世界の話だが(上方落語「皿屋敷」)、今もそれなりに観光客の注意を惹くようで、井戸の周りで写真を撮る人を見かける。

sお菊井戸

 この井戸は「播州皿屋敷」に因んではいるが、基になった物語は中世のものとされ、その頃には今のような姫路城はまだなかった。だから、お菊井戸の名は完全に観光用といえる。ただ、人通りも途絶えがちな平日の夕方、カラスが群がる天守を背にこの井戸を見るとちょっと不気味かもしれない。上の「新形三十六怪撰」が発行された頃の姫路城は、あちこちの瓦や壁が崩れ落ち、天守が傾いていたから、怪談物語の舞台としては申し分なかったと思う。(姫路城の古写真/長崎大学蔵

 皿屋敷伝説は播州だけでなく、各地に伝えられている。中でも江戸の「番町皿屋敷」は有名だ。播州姫路が本家を主張したい訳ではなかろうが、今の姫路城下には皿屋敷の故郷というようなアイデンティティがあり、姫路市はお菊の化身とされるジャコウアゲハを、市の蝶に指定した。
 市の花や木、鳥などは珍しくないが、蝶まで指定しているところは少ない。今の江戸にはこうした動きはないが、昔はお菊の墓がいくつも作られたという。

sジャコウアゲハ01
sじゃこうあげは02

 上が姫路市の蝶ジャコウアゲハ。でもこの写真を撮ったのは静岡県の韮山城だ。つまり姫路の特産品ではないということ。選定は別に特産物でなければならないという規定はないから、播州皿屋敷の姫路だから「お菊虫」というのは正しい選択だと思う。神奈川が東京や大阪と同じようにイチョウを県の木に選んでしまった分かりにくさよりずっといい。

 ジャコウアゲハは黒っぽい色のアゲハ蝶の一つであるが、クロアゲハより色が薄く華奢な印象。胴に赤くて毒々しい模様があり、実際体内に毒を含み鳥は食べないという。毒の起源は幼虫が食べるウマノスズクサという毒草。
 下がオス、と思ったが、よく見たら両方メスだな。雑な同定と写真整理である。手元にあったジャコウアゲハの写真で、なんとか見られるのはこの2枚だけ。両方メスだが裏表が見えるのでこのままにしておく。もっと気を入れて撮らなくちゃ。
 メスは色が薄く、黒というより黄褐色。後翅表面に黄色い紋が並ぶ。オスは黒っぽく、後翅表面の紋は赤いが目立たない。ただし、オスにも色の薄いものがいるので、見つけたら斑紋の色なども合わせてごらんいただきたい。

 お菊の姿をしているという「お菊虫」は、成虫ではなく前段階のサナギである。肝心のサナギは、成虫よりももっとちゃんと撮っていないので、借り物写真を掲載させていただく。

sジャコウアゲハ蛹
著作権フリーとなっていたが一応出所を。MUSASHI-Sakai Wikimedia Commons

 このサナギをよく見ると、後ろ手に縛られ井戸の上に吊り下げられた日本髪の女性に見えなくはない。また、ゴツゴツした厳つい姿なので、ロボットや妖怪も連想させる。だから、死んだお菊が巨大なお菊虫となって、かたきの青山鉄山を襲い、恨みを晴らすという怪異譚も生まれた。
 写真の個体は黄色いが、ジャコウアゲハのサナギは色彩変異が多く、様々な色と模様がある。探せばもっとお菊さんぽいのがあるかも知れない。
 不安定な草本植物に依存している虫なので、ちょっとした環境変化で発生量が大きく変わる、時に大発生して、そこらじゅうにサナギがくっついているのを見ることがあり、それをお菊の怨念とする話もある。
 姫路の十二所神社はお菊を祀る「お菊神社」として知られるが、かつて土産にお菊虫を売っていたという。今はパワースポットブームだし、オカルルティックなものも根強い人気があるので、養殖して販売すれば喜ばれると思うが、どうだろう。


文化財

福知山城に深井戸がある理由

 水と食糧がなければ長く戦えないので、城には必ず水場があり、多くの城が複数の井戸を持つ。深い穴が人の好奇心を刺激するのか、城の井戸には謎や伝説が付きものだ。

 先日紹介した福知山城の本丸にも「豊磐井/とよいわのいど」という有名な井戸がある。なぜ有名かというと、とにかく深くて水量が豊富なのだ。井戸の口は標高40数メートル位置にあるのに、穴の深さは50mもあって、底はすぐそばを流れる由良川の川底より低く、その由良川が注ぎ込む日本海の海面よりさらに下にあるのだ。城の内にある井戸では日本一深いという。

s福知山城井戸p
豊磐井の石造り井桁


福知山井戸
数値地図(福知山西部)や、西ケ谷恭弘「名城の日本地図(文春新書)」などを参考に作図

 この井戸の水深は30m以上あるという。井戸の標高がもう少し低ければ、水が地表に吹き出すような水脈に達しているのだろう。こうした城内の深い井戸には抜け穴伝説があるものだが、こんなにたくさん水があっては危険だし使いづらいから、抜け穴を作るなら別に掘ったほうがよさそうだ。

 この井戸のことを知ったとき、川のそばの低い丘なのに、なんでこんなに深い井戸を掘る必要があったのだろうかと思った。ここまで掘らなくても水が出そうなものだし、深く掘り進む過程で水が大量に出るだろうから、排水しながらの掘削となる。そんな難工事をやりとげるからにはそれだけの理由があったはずだ。

 その答えを探しているうちに、福知山城と城下町を建設するとき、由良川と土師川の流れが大きく変えられ、山から舌状に突き出した丘も分断して堀が作られた作ったことを、遅まきながら知った。
福知山城山上門跡発掘調査現地説明会資料/福知山市教育委員会
福知山城石垣発掘調査現地説明会資料/福知山市教育委員会
 こうした大規模な土木工事が、城の周りの地下水に影響を及ぼしたのではないだろうか。その結果、すでにあった井戸が涸れたとか、掘っても掘っても満足に水が出なかったと考えると、この深い井戸に合理性が感じられる。

s三国名勝図絵笠野原
三国名勝図絵(薩摩)に描かれた笠野原台地における深井戸の水汲み風景。牛が釣瓶のロープを曵く。

 日本の深井戸では、南九州のシラス台地の井戸が有名だ。江戸時代後期に掘られた深さ60mの井戸が今も残されており、かつては深さ80mクラスもあったという。
 シラス台地にも城があったので、城主達は水の確保に苦労したであろう。保水力の小さい火山灰が厚く体積した地層だから、水は井戸の深い所にしかなく、長いロープを牛に曵かせて水汲みをしていた。その点福知山城の豊磐井は、水深が30m以上もあるので人力で簡単に水が汲めたはずだ。

追記

 中世までの福知山は暴れる由良川に酷く苦しめられており、城や城下町の整備において、由良川に堤防を築いて流れを変えるなどの治水対策は最重要課題となっていた。統治した期間が短いにも関わらず、明智光秀が福知山で敬愛されているのは、その知名度だけでなく、治水に成功したことが大きい。
 上記の大規模な土木工事も、自然破壊の類ではなく、住民の悲願でもあったことを付け加えておきたい。
福知山光秀

自然

虻蜂不獲(アブハチとらず)

 「アブハチとらず」という諺がある。子供の頃「二兎を追う者一兎をも得ず」と同じような意味だと聞いて、ウサギなら両方獲りたくなるかもしれないが、アブやハチを欲しがる奴なんているのか ? と思った。
 後で知ったのだが、欲張ってアブとハチを欲しがったのは、人間ではなくクモ。それなら少し分かる。でも昆虫が好きな子供なら、それも変だと思うだろう。
 クモはハチに食べられることが多く、ベッコウバチのようにクモばかり狙うハチもいるからだ。世界最大のハチとされる中央アメリカのオオベッコウバチは、世界最大のクモ、ゴライアストリトリグモを専門に狩るタランチュラホークとして有名である。

sTarantula_hawk.jpg
捕らえたトリトリグモを引きずって運ぶオオベッコウバチ(全長約60mm)お借りした写真
Astrobradley Wikimedia Commons


 アブハチとらずの諺を考えた人は、アブを獲ろうとしてハチに襲われそうになったクモでも見たのであろうか。そうなると「アブとりハチとられ」である。
 上の写真のように、網をはらず歩きまわるクモは、天敵のハチに襲われたらまず逃げられない。しかし、網をはるクモには、ハチに襲われそうになると網から落ちて逃げるものがあるという。それならまだ生きのびるチャンスがありそうだ。また小さなアブやハチなら、逆に網に引っかかってクモに捕まるものもいるだろう。そうなれば「アブハチとった」である。

ホソヒラタアブ01
都市部でも見られる小形のホソヒラタアブ。ハチに似ていても翅が2枚なのがアブ

 そんなくだらない事を考えていたら、ついに見つけたのである。「アブハチとった」のドヤ顔クモを。
 今年の10月上旬、ジョロウグモが網にかかった獲物を巻き巻きしてるのに出会った。クモの日常風景である。獲物は何かと覗き込んだら、どうもミツバチっぽい。カメラを持っていたので、適当に何枚か撮ってその場を後にした。
 しばらくして写真を拡大したらビックリ。獲物は1匹ではなく小形のアブらしきものがいっしょにからまっているではないか。こんなことならクモから餌を取り上げて、中の種類を確認すればよかった。撮ってから時間が経っているので後の祭り。私の野外観察にはこういう間抜けな事が多い。とにかく下がその写真である。

sクモとハチ

sクモとハチ02

 ところで「アブハチとらず」を早口でいうと、刑務所で有名な「アルカトラズ」に似ている。別にたいした意味はなく、ただそれだけの話。下はアルカトラズ島の刑務所跡。行った事がないので、これもお借りした写真。
Alcatraz_Island_Lighthouse.jpg
Ⓒ Centpacrr at en.wikipedia

自然

カメラの身分証明効果

 テレビをつけたら、カメラマンの渡部陽一が地方都市で旨い物を探すというような、呑気なバラエティ番組をやっていた。渡部陽一は番組の中で、ずっと大きなカメラをさげていたが、写真を撮る場面はほとんどなかった。それは渡部陽一がカメラマンであることを示す小道具として持たされていたからである。
 カメラが普及し誰もが持ち歩くようになって半世紀が経つが、立派なカメラには今も、文化的な記号として持つ者の身分を示す機能があるらしい。
 不審者と思われがちな筆者も、こうしたカメラの身分証明効果の恩恵にあずかろうと思う。

トノサマバッタ顔S
写真は本稿の内容と無関係。トノサマバッタの褐色型

 筆者は生き物の採集と飼育観察が好きで、そのノウハウと楽しみを人に伝えるのを仕事の一部にさせてもらっているが、フィールドで採集をしていると肩身の狭い思いをする、というか、怪しいオヤジとして白い目で見られる。
 特に不審がられるのは、人家近くのフィールドで、一人で何も持たず(ピンセットやサンプル瓶ぐらいはポケットにあるが)地面にしゃがみ込んでいるときである。警察に通報された事はまだないが、遠巻きに注視されたり、付近の家の窓がピシャリと閉まる経験は何度かある。人間に限らず生き物は、自分のテリトリーに理解できない行動をする者が近づくのを嫌がるものだ。
 しかし、カメラを持っていれば、見る人の反応が違うことに気がついたのである。

 仕事がら写真家に友人知人が多いので、自分は制作、撮影は彼らの領域、という意識が強く、カメラは持っていたが、使うのは旅行のスナップぐらいしかなかった。ところが、デジタルカメラが普及し、フィルムや現像に費用がかからなくなったので、メモ代わりに使っていたコンパクトカメラがエスカレート。ついに一眼レフやストロボを持ち歩くようになってしまった。

筆者2011_10
カメラのおかげで畑の際に突如伏せても大丈夫?

 少し重くなるが、人に理解されにくい行動をごまかすには、カメラはなるべく大袈裟で目立つ方がいい。携帯電話やコンパクトカメラにこの効果は期待できないのである。カメラさえ持っていれば、地面に長時間寝転がっていても、不審者と思われないから不思議だ。それに写真まで撮れる。何でもっと早く気づかなかったのだろう。

 あまりよい自然ネタではなかったな。


文化財

石垣のお楽しみ/大阪城の巨石

 鏡石の記事で巨石なら大阪城と書いた。とにかく大阪城の巨石コレクションはすごい。それは鏡石がどうのというようなレベルではなく、石垣という言葉の定義からはみ出していると思う。

s大阪城多聞櫓
 これは大阪城の大手門の内側。写真が小さいので分かりにくいが、人と石の大きさを較べていただきたい。巨大な門の石垣をたった2段で積んでいる。このクラスの石なら1個で50~80トンはありそうだ。
 比較していただくため、下にほぼ同じ規格の江戸城大手門の写真を貼った。こちらは四角い石を6~7段に積んである。全国的に見ればこれでも大きい石を使っている方だ。
s江戸城大手門多聞櫓

 驚くのはまだ早い。大阪城にはもっと大きな石がゴロゴロある。
s大阪城大手枡形巨石
 これは「見付石」と名付けられた巨石で、大手門の枡形の内面にある。表面の広さが29畳敷きで推定重量が108トン。大阪城の石の中では4番目に大きいという。そしてこの石の左右にも、同じぐらいの石が並んでいるのだ。
s大阪城見付石左右3連発

 下は本丸にある有名な「蛸石」。左の方にタコが寝ているようなシミがあるのでそう呼ばれているらしい。表面積が大阪城内で一番広く36畳敷き。推定重量は130トンといわれていたが、調査で予想より厚みがないことが分かり、もう少し軽いといわれている。また、この写真では見えにくいが、縦に積んだ方形の石の向こうに「振り袖石」という33畳敷きで推定重量120トンの巨石がある。人力だけでこれらの石を運び、面を整え、所定の位置に並べていったのだから恐れ入る。
s大阪城本丸枡形蛸石

 下は大阪城の北西にある出入り口「京橋口」。空襲で石垣の上の建物は失われてしまったが、ここにも多くの巨石が置かれている。観光客の大半が大手門から入るので、京橋口の巨石群は意外に知られていない。
s大阪城京橋口巨石群
 京橋口を代表する巨石が下の「肥後石」である。広さ33畳敷きで推定重量120トン。大阪城内では2番目に大きい石とされている。肥後石の名は、肥後(熊本)の加藤清正が置いたからだといわれている。しかし、これも名古屋城の「清正石」と同じで、清正の豪快なイメージから生まれた伝説である。実際に京橋口の工事を担当したのは備前(岡山)領主、池田忠雄であった。
 京橋口の巨石に傷みが見られるのは、アメリカ軍の空襲で、石の上に並んでいた建物が全て焼け落ちたからである。大阪城にはそうした対米戦争の傷痕が随所に見られる。
s大阪城京橋口枡形肥後石

 大阪城といえば豊臣秀吉のイメージがあり、地元にも「大阪城は太閤さんの城」と思っている人が意外に多いが、今見られる大阪城は、徳川秀忠が1620年、全国の大名に号令して建てさせた徳川の城である。
 秀忠は豊臣の影響力を一掃し、西日本に徳川の力と権威を知らしめるため、豊臣大阪城の上に、より大きな徳川大阪城を築くことにした。秀忠は普請奉行の藤堂高虎に「いっとくけど、堀も石垣も豊臣の2倍でなきゃダメだからね」と念を押したらしい。
 既にある城跡に新しい城を築く時は、古い城の土台を利用するのが普通だが、藤堂高虎は2倍を実現するために、豊臣大阪城の上に何メートルも土をかぶせて更地にするという、なんとも大胆なプランを採用した。だから大阪城では地面を深く掘らなければ豊臣時代の遺構を目にすることはできない。

 下は本丸部分の地層断面図。石山本願寺のあった石山に盛り土をして豊臣大阪城が造られ、さらにその上に土を被せて、巨大な徳川大阪城が築かれている。このため豊臣大阪城と徳川大阪城は石垣や堀の配置が違っている。
s大阪城本丸断面
岡本良一「大阪城(岩波書店)」等を参考に筆者が適当に作図

 徳川大阪城は、日本の築城技術の集大成といえる大城郭で、江戸城、駿府城、名古屋城などで培われた技術と経験をさらにパワーアップし、「徳川の城が一番強い」ということを具現化するために作られている。
 建設には、外様大名の財力を消耗させるという目的もあったので、工事現場を細かく分割し、担当大名を決めて競争をさせるという方法がとられた。
 古くから優れた石工集団がいた西日本の大名にとって、石垣建設は得意分野であった。しかも大阪は良質な花崗岩が採れる瀬戸内地方に近い。大名達は競って巨石を切り出し、お祭り騒ぎで大阪に運び込んでは、その存在をアピールした。その結果が、今日見られる巨石群である。また、普通サイズの石を積んだ壮大な外周石垣も、強固で美しい仕上りとなっている。
s大阪城連続櫓
石垣下部が白いのは、水堀の水位が下がったため。石の種類に上下で違いはない。

 徳川幕府の本拠地である江戸城は、石の産地から遠いこともあって、全ての場所に高い石垣を築くことができず、土塁との併用になっているが、大阪城は全てが石造りであることはもちろん、良材を贅沢に使っている。例えば普通サイズの石でも、奥行きを長くとって安定性を向上させたり、石垣の角を形作る上で重要な算木積みも、同じ大きさに整形した石をダブル、トリプルと積んで強度と美観を向上させている。
s江戸大阪算木積み比較
江戸城北桔梗門西角の算木積み(左)と、大阪城六番櫓の算木積み(右)
s江戸城土塁
江戸城の土塁部。江戸城の方が穏やかな印象を受けるのは土塁の存在と石垣が低いことによる。

 徳川大阪城は難攻不落のはずであったが、実は二度落城している。
 一度目は幕末。籠城した徳川軍の総大将徳川慶喜が、戦う事なく江戸に逃亡したので、城内は混乱に陥り、建物に火がかけられたあげく、薩長軍の占領するところとなった。
 二度目は1945年の米軍による大空襲である。このとき5基の櫓を失い、辛うじて残った建物も損傷が激しく、崩れた石垣もあった。大阪城が攻撃された理由は、本丸に陸軍の師団司令部、外郭に兵器工場などがあったからで、同じ敗戦国でもドイツは空襲に備えて、早くから工場の疎開や地下施設化を進めていたが、大阪は終戦まで(最後の爆撃は終戦の前日8月14日)上空からのよい目印となる大阪城にあった(米軍は都市の住宅を目標にした爆撃も行っているから、もし陸軍がいなくても被災はしたであろうが)。
 1945年の大阪城炎上のことは、またいずれ。

追記 大阪と大坂の表記について

 歴史や城郭の本などでは「大阪城」を「大坂城」と「つちへん」のサカで表記されていることが多い。これは大阪城が造られ城として機能した時代にはそう表記されていたからだ。
 大阪に都(難波宮=大阪城の隣に宮殿があった)があった7世紀には、付近の地名を「烏瑳箇(ヲサカ)」と呼んだという。ヲサカが大坂と書かれるようになり、それが文献資料に頻繁に登場するようになるのは、15世紀末に浄土真宗の高僧蓮如が、石山本願寺や大阪城の基となる石山御坊を建ててからとされ、以後幕末まで大阪は大坂と表記されてきた。
 坂から阪に変わった経緯ははっきりしないが、幕末に「坂は土に反る(返る)と書くので城として縁起が悪い」といった者がおり、それで丘を意味する「こざとへん」の阪を使うようになったなど、もっともらしい説がいくつかある。いずれにしても、近代以降は大阪が一般的になった。
 現在大阪市では大阪城一帯の施設を「大阪城~」と表記しており、また、天守を管理運営する法人「大阪城天守閣」も「大阪城」と表記している。
 筆者としてはどっちらでもよかったのだが、ネットの検索入力では、大坂城より大阪城の方がはるかに多いようなので、多くの方に読まれたいというスケベ根性で「阪」を使うことにした。

プロフィール

Kimupon_Cicadan 木村 義志

Author:Kimupon_Cicadan 木村 義志
出身地 : 大阪市
現住所 : 東京都
1955年生まれ
科学図書執筆編集のお仕事
分野は生物学系

写真は特にクレジットや注釈がない限り筆者の撮影です。記事や写真についてのお問合せはなんなりと。
小さな写真はそれをクリックすると大画像が開きます。

検索フォーム
ブロとも申請フォーム
QRコード
QRコード

Page Top
Powered by FC2 Blog | | Template Design by スタンダード・デザインラボ