備忘録/自然・文化・社会とニュース

文化財

標高634m、天然の高石垣を持つ天空の城

 前回「天空の城」と形容される竹田城に行った話を書いたが、山国ニッポンには他にも天空の城と呼びたくなるような山城がいくつもある。東京の人に馴染み深いのは、山梨県大月市にある岩殿城ではないだろうか。ただし、竹田城が山に溶け込んだ人工美であるのに対し、これは山そのものが堅固な城となっており、人工物として残っているのは、山の稜線を削って平地にした郭の跡と、門や井戸の痕跡ぐらいである。

is岩殿城遠景01

 上の写真に見える山の頂上一帯に、かつて大きな城があった。頂上の直下に見える岩肌がこの城の正面を守る天然の高石垣となっていて、近づいてみるとその巨大さに驚かされる。

is岩殿城岩盤01

 写真では分かりにくいが、岩の裾からてっぺんまで、垂直に近い角度で、その高さは120mもある。ここを登って攻めかかることは不可能だ。
 岩殿山と呼ばれる山としての頂上は崖の上の少し奥にあり、岩盤の下に立つと見えない。標高は634メートル。ミシュランガイドで紹介された東京の高尾山より高く、スカイツリーとは同じ高さである。

is岩殿城岩盤02

 近くでこの巨大岩盤を見れば、城に興味がない人でも、大自然の奇観として楽しめると思う。
 ちなみにこの岩は、中央道の下り、談合坂SAから8kmほど進んだ地点の右手前方によく見える。ただしすぐにトンネルになるし、運転者は脇見運転になる方向なので注意。

 現在の登城路はよく整備されているが、35階ぐらいのビルを階段で登るようなもので、大汗をかくことになる。しかし途中の景色は素晴らしく、足元がスリリングな場所もあって、ちょっとした登山として楽しめるだろう。
 山頂に近づくと、自然石を利用した城門跡と、敵が直進しないよう通路をクランクさせた虎口がある。下の写真は城門があった場所。石垣を積まずとも巨大な岩がその役目を果たしてくれる。

is岩殿城城門跡

 岩山を登り切って城域に立つと、甲州の山々が見渡せる。下の写真は北西方向。天空の城の醍醐味が味わえる。

is岩殿城郭からの遠景

 山頂部分の稜線上には東西方向に平坦地が連続し、かつてそこに郭が連なっていたことが分かる。下から見ただけでは分からないが、意外に大きな城である。
 三国志の「泣いて馬謖を斬る」の故事(将軍馬謖は軍司令官孔明の指示を守らず、水のない山頂に布陣して大敗したため、孔明は軍律保持のため泣いて腹心の部下馬謖を斬った)のように、こういう岩山の頂上には、水がないと思われがちだが、ここは土と岩盤の間に地下水がうまく保持されるらしく、井戸が作れるので籠城ができた。

is岩殿城山頂連郭部

is岩殿城現地案内図


 この城の前身は、山岳修行の寺院とされるが、一度登り下りすればそれが実感できる。16世紀になると、この地の支配者であった小山田氏が、防衛拠点として整備した。小山田氏は後に武田信虎(信玄の父)に従属し、武田軍団の一員として、この城から関東方面の敵に睨みを利かせていた。

 代替わりして名門武田家の家督を継いだ勝頼は、よく知られているように、三河長篠の戦いで織田信長と徳川家康の連合軍に大敗した。実際にはドラマに描かれるような騎馬軍団が消滅するほどの損害はなかったとされるが、戦後処理に失敗し武田家は四面楚歌の状況に陥っていく。家臣にも逃亡する者や敵に寝返る者が相次ぎ、長篠の戦いから7年後には新築した居城の新府城(山梨県韮崎市)を捨てて東に落ち延びるはめになった。そのとき目的地に選んだのが、簡単には落とせない天空の堅城、岩殿城である。
 その頃岩殿城に居た小山田信茂は、落ち目の武田氏をすでに見限っていた。そこで新府城から落ち延びてきた勝頼一行に手勢を差し向け攻撃。岩殿城下に近づくことを拒んだ。主家の当主として迎えられると思っていた勝頼はさぞや驚き絶望したことであろう。慌てて退却するが、今度は西から追ってきた徳川勢に攻められ、ついに天目山に逃げ込んだ。その時の様子を描いたのが下の錦絵である。

勝頼錦絵
歌川国綱/天目山勝頼討死図(wikimedia commons)

 自分の生きる場所はどこにもないと悟った勝頼は、ごく僅かな将兵や親族とともに、天目山の山中で自害して果てる。その様子を描いたのが下の凄惨な錦絵である。

勝頼自刃の図
月岡芳年/勝頼於天目山遂討死図(wikimedia commons)

 岩殿城は名門甲斐武田氏の滅亡に手を貸した城といえ、それが岩殿城の歴史で一番有名な出来事となった。
 もし勝頼が岩殿城を選ばず、勝頼を迎える準備をしていた真田昌幸の岩櫃城(群馬県)に向っていれば、もう少し生きることができたであろう。なんせ昌幸はわずか2千の兵で徳川軍3万8千をよく防ぎ、攻略を諦めさせた名将である。しかし岩殿城の堅固さと近さが、疲れ果ててた勝頼と家臣達に悪い選択をさせたのだろう。

 その後の岩殿城主小山田信茂は、武田氏から織田氏への乗り換えを図り、領地の安堵を願ったが、信長の信用を得る事ができず、捕らえられて殺されてしまう。領地に深く根を下ろし、自領の独立性を守ろうとする古いタイプの地侍は、織田軍団に不要と思われのであろう。ただし、極めて優れた天然の要害である岩殿城の方は、小山田氏が滅んでも廃城とはならず、江戸時代になっても甲府城の後詰めの城として残されていた。
 幕末、岩殿城に近い勝沼あたりで、近藤勇が率いる幕府軍と、江戸に向う官軍との衝突があったが、岩殿城は両軍から無視され全く関わっていない。それは高い山の上から、はるか下に見える街道を進む大軍を阻止することなどできないからだ。地域の領主の権威を巡って少数の軍勢同士が槍と弓で戦う山城の時代は、とっくの昔に終わっていたのである。

 山頂の西寄りの郭に一段高くなった場所があり、のろし台と伝えられているが、現在そこにはテレビの中継施設など電波設備が置かれている。遺構と景観を損なうものではあるが、電波を使った通信が現在ののろしとすれば、これは正しい利用法といえよう。

is岩殿城山頂電波塔

社会とニュース

「自転車は車道」警察が急にトーンダウン

 先日「自転車は車道」という警察の方針強化を批判したが、このところ警察は「別に歩道を走ってもよい」と方針をトーンダウンさせている。
自転車、徐行なら歩道OK…警察庁局長の見解(2011年11月21日09時10分 読売新聞)
「自転車は車道」迷走…真意は「歩道暴走ダメ」(2011年11月21日09時10分 読売新聞)

 本件の責任者の一人である石井隆之交通局長によると、要するに、歩道でスピードを出すなど危険な運転をする自転車を取締り、スピードを出したい人は車道を走ってもらうだけ、ということらしい。
 これはマスコミに迎合した警察が、とりあえず取り組みをアピールしようとして失敗した例といえる。
 道路交通問題の改善とは、警察が何か方針を打ち出せば改善できるものではない。警察の役割りはどちらかというと、作られた制度や設備の円滑な運用を図ることであり、意見を聞くべき相手はマスコミではなく、まず第一に道路利用者であり、あとは関係省庁や自治体である。

 今回の騒ぎのきっかけは、マスコミが自転車と歩行者の事故に関するキャンペーンを行ったことにあるといえる。
 人身事故の中で、歩行者と自転車の事故は少数派である。自動車と自転車、自動車と歩行者の事故の方がはるかに多く、何らかの事故防止策を示して、速やかな事故の減少が望まれるのはそっちであろう。
 しかし、環境負担が少なく穏やかなイメージがある自転車が、歩行者を死傷させているとなれば、実数はともかく、意外性があってニュースバリューがある。そのために、他の交通事故より、自転車と歩行者の事故がクローズアップされることになった。要するに、マスコミでは実際の危険度より目先の珍しさが優先されるということだ。そんなものに警察が振り回されたのでは国民はたまったもんじゃない。

文化財

天空の城ブーム

 日本の城めぐりで、このところ大きなブームとなっているのが、但馬の竹田城である。テレビや雑誌でも何度か紹介されているが、地味なのでご存知ない方も多かろう。城跡、特に地味な山城の場合、雑誌やテレビで少しでも紹介され、城マニアでない人まで登城するようになれば、それでもう十分にブームなのである。

 但馬地方は霧がよく発生し、特に秋は谷間を真っ白に埋めつくす日が多い。まずはこの写真をごらんいただきたい。
竹田城朝来市提供
 これを天空の城といわずして何をかいわんやな風景である。竹田城を日本のマチュピチュと形容する人もいるが、日本の物を外国の有名な物に例えて「日本の○○」というのはあまり好きじゃないな。これは日本の山城なのである。
 残念ながらこの写真は筆者が撮影したものではなく、地元の朝来市が無償で提供しているものだ。そこで自分でも同じようなカッコいい写真が撮りたくて竹田に行ってきた。

 その結果が下の写真。暗いうちから重い望遠レンズと三脚を担いで城の向かい側にある山に登り、霧が発生しやすいという夜明けを待って撮影を開始したものの、霧が全く出ず、ご覧の通りの間抜けな姿となった。
 ただ城そのものは雲海がなくても十二分にカッコよく、頑張って登るだけの価値はあった。
竹田城撮影筆者
竹田城望遠遠景02
 山城の多くは中世に建設されたので、土塁と堀切で構成されている。しかし竹田城は近世初頭に改修されたので、総石垣の近世の丘城を山のてっぺんに置いたような姿となった。
竹田城南千畳方向
 山の稜線に沿っていくつもの防衛拠点を配置する、いわゆる連郭式の縄張りで、石垣の構成はなかなか技巧的である。
 石は兵庫県らしく大部分が花崗岩で、近隣の転石や岩盤露出部から集めたと思われる。切り出した花崗岩は灰色だが、地表にあって風化が始まったものは黄色みを帯びる。自然石を積み上げる野面積の典型で、安土城との類似点が多いとされることから、近江の石工集団「穴太衆」が工事の指揮をとったと言われている。
竹田城天守台_南方向
 朝来市では城跡の維持保存はもちろん、登城観光の誘致にも力を入れており、登山道路や中腹の駐車場などがきちんと整備されている。どんなに閑静な名所でも、ブームになると人が増え場荒れしがちだが、竹田城は車で行っても途中で降りて坂道を登らなくてはならないし、頂上に着いてもトイレや売店等はないから、一定の秩序は保たれているように思えた。
竹田城北方向
 竹田城は古くから訪れる人が多い名城なので、麓の登山道の入口には、大正時代に建てられた石柱がある。
竹田城登山口

 
 

文化財

明智光秀の合理性と唯物主義

*最初にアップしたとき、何を勘違いしたのか兵庫県と書いてしまった。いうまでもなく福知山市は京都府です。

 物語に登場する織田信長は近代的な合理主義者で、神仏を恐れぬ乱世の梟雄として描かれることが多い。一方その家臣であった明智光秀は、伝統的な権威を重んじ、また神仏や学問にも敬意を払い、何かにつけ信長と対立し、比叡山焼き討ちにも批判的であったかのように描かれている。しかし、明智光秀もなかなかの合理主義者で、神仏など屁とも思っていなかったようだ。その証拠の一つが京都府福知山市の福知山城に残っている。

福知山城天守

 写真は明智光秀の居城福知山城の天守。光秀の死後、主が次々に変わり、江戸前期に朽木氏が土浦から転封してきて、そのまま代を重ね明治を迎えた。朽木時代の福知山藩は3万2千石。その身代では大き過ぎる城だ。御殿に人が住めるよう維持するだけでも藩の財政を圧迫したことであろう。
 明治になると政府の廃城令で建物は民間に払い下げられ、城の建つ丘陵地も本丸以外は削られてしまった。今見られる天守は、江戸時代の絵図を基に復元されたもの。中身は鉄筋コンクリートだが、外観は専門家による時代考証がなされ、古風な下見板張りの望楼型天守になっている。観光用の白亜のコンクリ天守とは一線を画す仕上り。

 城そのものは中世からあったようだが、石を積んだ織豊時代らしい城郭に改修したのは光秀とされている。その際、支配地の寺からも石材を集め、石垣の一部とした。集めた石には多くの五輪塔や塔婆が含まれている。つまり、寺に行って墓石を引き倒し、自分の尻の下に敷いたというわけである。

 江戸中期に書かれた丹波地方の地誌「丹波志(福知山藩士古川茂正・篠山藩士永戸貞著)」に、光秀は築城の際に福知山で石を集め、今も天守台の石垣に法名を刻んだ石塔や五輪塔が散見できるとある(原書未確認なので孫引き)。
 丹波志(永戸貞著、古川茂正 編)
 この石垣は今も残っているので、古川や永戸の時代と同じように見ることができる。

福知山城石垣

 ↑ こんな感じで寺から奪ってきた石が他の石に混じって積まれている。そのほかにも発掘調査で多数発見され、その合計は500個もあるという。そのうち多数を占めるのが五輪塔で、墓や供養塔として用いられていたものだ。最も古い碑文は延文4年(14世紀の中頃)で、新しいものでも光秀が生きた時代以前のものであると解説板にある。発掘された石は本丸の片隅に並べて置かれていた。↓

福知山城転用石石塔

 こうした石材の転用は各地に見られるが、これほど多いところも珍しい。
 寺から石材を接収してくるのは、経済性や工事期間短縮のためではない。この程度の数では大してメリットがあるとはいえないだろう。それよりは、油断すると宗教的権威で領民を支配してしまう寺院に圧力をかけ、新しい領主となった光秀と領内寺院の力関係を明確にしておくデモンストレーションの一種と考えた方がよい。
 古くから大寺院は僧や信徒を将兵として武装し、土地の支配を巡って領主と激しく対立してきた。だから戦国時代の大名にとって、領内の寺院をいかにおとなしくさせておくかは、重要で優先順位の高いテーマであった。
 また、家臣や住民に対しては、自分が神仏と対等以上の支配者であることを誇示すこともできる。
 秋川雅史が「私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません、眠ってなんかいません」という歌をヒットさせ、墓苑業界を慌てさせたが、石は所詮石でしかない。光秀だけでなく戦国武将の多くがそんな認識の下で動いていたのである。

文化財

美しい学校-その2

 先日書いた古い学校紹介の続編。個々の説明を小文字にすると読みにくいというご意見があったので、説明も同じ文字の大きさとし、幼稚園から大学まで、ごちゃ混ぜに羅列させていただく。見づらいけどおゆるしを。

聖園マリア園
 秋田県小坂町にある聖園マリア園(幼稚園)。「小坂鉱山で働く人の子供達のために教育施設を」という聖心愛子会(後の「聖心の布教姉妹会」=ローマ教皇庁公認の修道会)会長シスター・テレジアの呼びかけに、当時鉱山を運営していた藤田組が応え建設された。
 竣工は昭和7年。戦後は社会福祉法人こばと会の保育園として、平成4年まで現役にあった建物。国の登録有形文化財。

土浦中学校
 茨城県土浦市にある旧制土浦中学校本館(現県立土浦第一高等学校)。明治37年竣工。県庁の技師であった駒杵勤治設計の木造校舎。駒杵はは20代で県内の学校を次々に設計し、その後政府の仕事をするようになっているので、彼の出世作の一つといえるだろう。
 学校建築としてはかなり意欲的なデザイン。中央の破風と二つの塔が印象的で、一階建てだがより大きな建物に見える。国の重文。

水海道小学校本館
 茨城県の水海道小学校本館。現在は水海道(現常総市)から水戸市の県立歴史館に移築されている。明治14年竣工。
 地元民の寄付によって建てられた学校で、設計施工は大工棟梁羽田甚蔵。横浜の洋館を見学して意匠を考えたという。
 当時の擬洋風建築には華奢なバルコニーが多いが、これは建物の張り出し部分と一体化しているので、大きく堂々としている。チャイム代わりの太鼓を吊るした塔に、小学校らしい可愛らしさを感じる。歴史の中で改築が繰り返されたが、現存していた図面を基に竣工当時の姿が復元された。県の文化財。

盛岡高等農林学校
 岩手県盛岡市の旧制盛岡高等農林学校本館(現岩手大学農学部)。大正元年竣工(明治45年という資料もあった)。
 日本初の高等農林学校であり、そして何より宮沢賢治の母校であることで有名。設計は文部省の谷口鼎。比較的地味な手堅いデザインだが、それが周囲の標本林や庭の緑によく溶け込み美しい。国の重文。

金沢四高
 石川県金沢市の旧制第四高等学校本館。明治24年竣工。国家がエリートを育てる目的で設立した8つの旧制高校の一つ。まるで官庁のような二階建ての煉瓦建築だ。地方の旧制高校は、地元の国会議員が誘致合戦を繰り広げるような、教育における権威の象徴であった。
 設計は文部省の山口半六と久留正道。屋根は寄せ棟で和風の瓦で葺かれているが、稜線の装飾や煙突がそれを感じさせない。国の重文。

柳原学校
 滋賀県の安土町にある柳原学校。元は高島郡新儀村(現新旭町太田)にあったが、安土考古博物館に隣接する近江風土記の丘に移築され、公開されている。
 地元民の寄付によって建てられた、小さな可愛い小学校。明治9年竣工。大工棟梁清水吉平による木造二階建。瓦に漆喰壁という日本建築であるが、浅葱色の塗装とバルコニー廊下、鎧戸によって洋風に見える。鐘楼のような塔にはやはり太鼓が吊るされていた。県の重文。

旧制松高
 長野県松本市の旧制松本高校校舎。金沢の第四高校と同じ目的で作られた旧制高校の一つだが、明治に作られた第一から第八までの高校に対し、その後の大正時代に増設された旧制高校は所在地の名前で呼ばれることになった。信州の山々に囲まれた美しい木造校舎として知られる。大正9~12年の竣工。国の重文。
 「どくとるマンボウ」こと北杜夫の母校で、学校生活の様子が「どくとるマンボウ青春期」に活写されている。きれいに補修され、現在は市民の集会場や展示場などに使われている。下はその写真。
松高イベント

松高内部
 見学に行った日はこの有様で、内外ともに建築物としてのイメージを伝える写真はほとんど撮れなかった(これはこれでとても面白いが)。見学される場合は校舎の利用予定を確かめられた方がよいだろう。
 歴史的な建物をこんな風に使うことには様々なご意見もあろうが、市民に開放し保存のための予算に理解を得るためには仕方がないのである。文化財は国民共有の財産であるから、管理は国民に開放された形でやるべきだと思っている。

 松高のイベントで話が横道にそれたが、最後は本年度まで現役で、子供達が通っていた小学校。
吹屋小学校
 岡山県高梁市にある吹屋小学校。明治42年竣工。現役小学校では最古の建物であったが、過疎による少子化でこの記事を書いている平成23年度を最後に廃校が決定された。
 雪が積もった山を越えてたどり着いた小さな学校から、子供達の声が聞こえてくる様子は、美しい夢の世界に佇むかのような体験であった。もちろん授業の妨げになるので、旅行者は学校の外から見学するだけだが、それで十分であった。だから内部がどうなっているかはよく知らない。廃校となるのは誠にもって残念で悲しい。県の重文。

 また学校の写真がたまればご紹介したいと思う。
プロフィール

Kimupon_Cicadan 木村 義志

Author:Kimupon_Cicadan 木村 義志
出身地 : 大阪市
現住所 : 東京都
1955年生まれ
科学図書執筆編集のお仕事
分野は生物学系

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