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社会とニュース

「自転車は車道」場当たり的な交通行政

 警視庁が自転車の車道走行を徹底させる方針を打ち出し、現場の警官は、幅3m未満の歩道では自転車を車道に下ろしたり、歩道をゆっくり走るよう指導を強化するらしい。

歩道自転車01
車道を走る自転車を見るといつもハラハラする。自分の家族が歩道から出てこのように車道を走っていたら、直視できるだろうか。
歩道自転車04
このトラックのドライバーは、自転車を追い越すとき、十分な間隔を空けるために、黄色のセンターラインを越えて、対向車線に大きくはみ出した。自転車と同じ速度で走り続けるわけにもいかず、かといってこのくらい間隔を空けないと、自転車がふらついたとき引っ掛ける恐れがあるからだ。

 まったくもってデタラメな交通行政のありようだと思う。
 今回打ち出された方針の原因は、自転車と歩行者の事故件数がこの10年で4倍に増えたことだろう。
 しかし警視庁の統計によると、自転車がらみの死亡事故で対歩行者のものは、年間0~4人(2006~2011年)で、対自動車は232~319人(同)と、自転車が歩行者を殺すより、自転車が自動車に殺される方がざっと100倍ぐらい多いのである。

 自転車を歩道から危険な車道に追い出せば、自転車に乗った人の死傷率が上がることは容易に想像がつく。車道と歩道を区分するガードレールや段差は、自動車から歩行者だけでなく自転車も守ってきたのである。

 歩行者と自転車の事故を問題視するなら、同じ空間の中で歩行者と自転車の関係改善を考えるべきだ。もし、歩行者と自転車を離すというなら、それらは自動車からも離さなければならない。自転車を歩行者から離し、それを自動車とくっつけるのなら、交通事故の組み合わせをかえただけで、安全対策などとはいえない。しかも、自転車と自動車の方が重大事故が起きやすいのだ。
 ノーヘルで体がむき出し、自動車にぶつかられたらひとたまりも無いという点では、自転車も歩行者も同じである。だから、自転車を車道に出すのも、歩行者を車道に出すのも、基本的には同じ。どちらも危険な行為なのだ。多くの人の場合、自転車は歩くより不安定で道幅をとるから、より危険かもしれない。

 今回の方針の法的根拠は、道交法の旧態依然とした「車両」の定義に基づくもので、それによると、自転車はもちろん、人が曵く荷車や人力車も、スポーツカーや大型ダンプも、同じ「車両」として、同じ道路区分の中を同じルールで通行することになっている(ただし自転車や荷車などの「軽車両」は、歩道のない道路の両端に引かれた白線の外の通行も認められている)。大量の車がビュンビュン通る広い道路は、たとえガードレールに守られた歩道があっても、その幅がせまければ自転車も車道を走れというのである。

 現在、歩道があるような広い道路の制限速度は40~60km/hである。そこを大型トラックからバイクまでが制限速度を上回る速度で大量に走り抜けていく。普通の自転車なら一生懸命こいでも20km/hが限界であろう。
 ヘルメットもかぶらず全身をむき出しにした人間が、加速が悪くスピードも出ず、ブレーキもチープ、風でよろけるような不安定な乗り物に乗って、全く性能が違う鉄の塊の群れに参加させられようとしているのだ。
 しかも、道路の端は傾斜や段差があり、大きなゴミが落ちていたりする。駐車中の自動車が前方を塞いでいたり、脇道から自動車が鼻先を突き出してくることもある。自転車の車道走行はあまりにも苛酷で地獄への近道なのである。警察官僚は、幹線道路の車道をママチャリで走ったことなどないであろうし、これからもあるまい。

 警察は自動車の運転者が思いやりをもって減速し、自転車との距離を十分に空けて追い越せばよいという。そんなことはもちろん承知であるし、道交法でそのように決められている。それでも危なくて恐いから、自転車は歩道があればそこを走るようになったのだ。
 それに、加減速と進路変更は事故や交通障害の重要なファクターである。ふらつく自転車におどろいて急ハンドル、急ブレーキをかけて事故を起こすこともあるだろう。また交通渋滞は車の流れに緩急がつくところに起きるのであるから、自転車が大量に車道へ出ることによる、渋滞の増加も覚悟せねばなるまい。

 対策は簡単ではないかもしれないが、自転車の登録手続きと対人対物保険の加入を強制し、運転も許可制にするのが近道だと思う。自転車には免許制度こそなかったが、道交法ではきちんと網がかかっており、危険な運転は禁じられている。基本的にはそれを罰則付きできちんと運用するだけの話である。
 警察と競輪のJKA(旧財団法人自転車振興会)、さらに保険会社が組めば可能であろう。天下り法人を作れば警察官僚も喜ぶにちがいない(笑)。未成年については学校に自転車運転許可カリキュラムを設け、学校以外の公費で外部委託するしかないな。日本の学校は実効性のある交通安全教育と消費者教育が欠如しているからよい機会ではないか。
 *追記 中学生以下と70歳以上の高齢者は除外されるらしい。ほれみろ、やっぱり危ないことは認めてるんじゃないか。スポーティーな自転車に乗る中学生より、ママチャリに乗る中年の方が不安定だと思うぞ。
 取締は警察が自治会や警備会社に委託すればよい。すでに駐車違反取締を民営化し、うまくいっているように見える。
 小型船舶振興会(競艇の財団)と運輸省がいっしょになって、海外には存在しないプレジャーボートの免許制度という珍しい体制を作り上げた日本である。やってやれないことはないだろう。自転車がルールを守れば、歩道の上で歩行者と共存することは可能である。

歩道自転車03
歩行者と自転車の事故が増えたのは、自転車の増加と自転車の運転ルールが周知されてないことに原因があると思われるが、根本的な問題として道路が狭過ぎることがあげられる。

 手軽さが身上の自転車にこれ以上、官の網をかけるのはいかがなものかという意見もあろうが、放置自転車の山や、自転車には所有権がないとまで言われるほどのルーズな管理と盗難の横行。これらの解消にもつながるし、ある程度の規制は歩行者と自転車に乗る人のためになる。
 一部の不心得者が歩行者に与えた被害は赦されるものではないが、それに対する場当たり的な対応がより多くの人を危険に陥れるということの例にならないことを祈るばかりである。

文化財

美しい学校

開智学校看板

 明治政府は教育を重視し一早く学校制度を導入し、各地にたくさんの学校が建てられた。近世の藩校を受け継いだものもあれば、官費を投入して新しく建てたものもあり、また長野県佐久市の中込学校のように、地域住民の出資で建てられたものもあった。
 「学校」や「教育」という言葉が今よりずっとシンプルで、自分達の未来を明るくするものと感じられていた時代の校舎を見ると、たとえよく似た建築様式であっても、官庁舎や有力者の邸宅などにはない幸福感のようなものを感じる。
 時代も場所もバラバラで統一性はないが、とりあえず、これまで行った学校の写真をざっと並べてみる。

*写真のキャプションを小さい文字にしていたが、長いくて読みづらいので、本文と同じ大きさに修正した。(2011.11.06)

宮城県登米市:登米高等尋常小学校
 宮城県登米市の登米高等小学校。明治21年。コの字型の校舎で廊下はテラス式の外付け。2階バルコニーの後ろが校長室になっていた。今回の震災で漆喰壁の一部がひび割れ崩れた。国の重文。

福島県郡山市:福島県尋常中学校本館
 福島県郡山市の福島県尋常中学校本館(現・県立安積高校)。明治22年築。各地の旧制高校の旧校舎に見られるタイプ。玄関の上が多角形のバルコニーだが、2本の柱を欠く不思議な姿となっている(元は下まであったが戦後切り取られ、何故かそのままになっている 括弧内2012年3月追記)。昭和53年に解体修理され美しい姿が蘇った。国の重文。

新潟県村上市:村上高校門舎
 新潟県村上市にある旧制村上中学校(現・県立村上高校)の門柱と門舎。校舎は昔に取り壊され、現在はこれだけが残っている。立派な校舎だけ残して門舎など安普請の付帯建築物は解体されていることが多いので、かえって貴重かも知れない。現状放置で特に文化財に指定されているわけではない。大正から昭和初期の建築と思われる。

長野県松本市:開智学校
 全国の古い学校の中でもスター的存在の長野県松本市にある開智学校(小学校)校舎。明治9年。外観も内部も綺麗に補修され、松本の観光名所の一つとなっている。大工棟梁立石清重の手になる日本を代表する擬洋風建築の一つ。国の重文。

長野県小諸市:小諸義塾
 長野県小諸市にある小諸義塾という私熟の建物。旧制中学レベルの教育を行っていた。明治29年。島崎藤村もこの学校の教師をしていた。財政難で明治39年に閉校し、その後は小諸町立の学校となる。現在見られる建物は復元修復されたもので新築のよう。

長野県佐久市:成地(中込)学校
 長野県佐久市にある成知学校(後に中込学校に改名)。明治9年。決して豊かとはいえなかった近隣三か村の住民が資金を集めて建てたという。大工棟梁市川代治郎の手による擬洋風建築だが、屋根瓦を除けば「擬」を外してもいいような本格的デザイン。国の重文。塔には太鼓が吊るされ、学校のチャイムとして打たれていた。

長野県上田市:上田蚕糸専門学校講堂
 長野県上田市にある上田蚕糸専門学校の講堂。校舎とはかなり趣が違うが、現存する旧制専門学校の施設は珍しいと思ったので掲載した。現在は信州大学繊維学部が講堂として使用している。開校は明治42年だが、講堂竣工は昭和4年。設計は文部省の柴垣鼎太郎。登録有形文化財。

静岡県磐田市:見附(小)学校
 静岡県磐田市の見附学校(小学校)。明治8年。大工棟梁の伊藤平右衛門による擬洋風建築。石垣の上に立つ立派な建物で、2階建ての建物を後に3階2層塔付きに改築したという。国の重文。

滋賀県近江八幡市:八幡小学校
 滋賀県近江八幡市にある八幡東小学校。現在は白雲館という観光案内所として使用。明治10年。近隣の住民(主に商人といわれる)の寄付で建設されたという。明治26年に新校舎が完成し、それ以後は役所や電電公社など公的な事業所として使われた。登録有形文化財。

三重県松坂市:松阪工業高校赤壁
 三重県松坂市の工業専門学校赤壁校舎。明治41年。化学専門学校だったので、化学薬品に強い硫化水銀の赤い塗料を使ったという。敷地にはかつて赤い建物が並んでいたが、現存するのはこれだけ。経産省の近代化遺産に指定されている。

山口県萩市:明倫小学校
 長州の藩校「明倫館」を母体とする萩市の明倫小学校校舎。敷地内には藩校時代の剣術道場「有備館」がある(下写真)。昭和初期の建物だが屋根に鴟尾をあげた堂々とした木造校舎。中高年にとっては懐かしさを感じさせる建物。
明倫館:有備館

愛媛県宇和町:開明学校
 愛媛県西伊予市宇和町にある開明学校校舎。明治15年。擬洋風建築とされるが、玄関の廂が唐屋根であるなど、和風の色彩が濃い。松本の開智学校とは姉妹校提携している。国の重文。

文化財

吉野ヶ里遺跡/環濠集落は労働力の収容所

 先日有明海に行ったとき、ついでに吉野ヶ里遺跡の写真も撮ってきたので、前に書いた記事「吉野ヶ里遺跡は巨大な奴隷キャンプか」の補足をさせていただく。
 環濠集落は日本の城の先祖だとされ、その代表格である吉野ヶ里遺跡は日本100名城にも選ばれているが、私にはやはり奴隷を集めておく場所にしか見えなかった。

吉野ヶ里:監視塔:堀
 上の写真の左が集落の中で、右が外。敵は土塁にとりつけば、策の間から集落を監視し、矢を射かけることができる。これでは外敵に利する設備となるので城とはいえない。しかし、内側に人を閉じ込めておくための設備と考えれば合理性があり、立派な櫓が刑務所の監視塔に見えてくる。
 当時は奴隷がたくさんいて、しかも権力者の大切な財産として贈り物にもなっていたことが、魏志倭人伝などを読むと分かる。
 奴隷というと鎖でつながれ苛酷な肉体労働を強いられた家畜のような存在と思われがちだが、奴隷はもっと多様あり、様々な仕事をしていた。中央アジア、北アフリカ、南ヨーロッパなどでは、軍人になったり、権力者の財務を担当する奴隷もおり、一部で奴隷保護法のような制度も作られていた。また、中世のイスラム王朝の一つマムルーク朝は、奴隷出身の軍人達が国を支配していたことで知られている。だから吉野ヶ里にも、支配階級の護衛や身の回りの世話、また技能者や農民として、たくさんの奴隷がいたと想像される。

 城郭ファン向けのムック「日本の城(西ケ谷恭弘監修・世界文化社)」にも、環濠集落が日本の城の始まりとして紹介されており、その中でこうした堀と柵の位置関係の矛盾について、防御側は堀の手前に藁束を重ねて矢を防ぎ、刺さった矢を再利用するという珍説を唱えていた。つまり、大変な労働力を費やして作った土塁と丸太柵で敵の身を守り、自分達は仮設の藁塀で矢を防いだというのだ。武器や工具の少ない時代に知恵と工夫で外敵や自然と対峙していた古代人が、そんな馬鹿げたことをするのだろうか。

吉野ヶ里:堀:横矢

 写真は土塁の隅を外側に突出させた箇所。後世の城なら土塁にとりついた敵兵に横から矢をいかける防衛拠点となるが、堀が内側にあるためにそれができない。しかも櫓は後退しており、もしここを攻められたら、櫓の方が三方から矢をあびることになってしまう。これが城だというのはやっぱり変でしょ。
プロフィール

Kimupon_Cicadan 木村 義志

Author:Kimupon_Cicadan 木村 義志
出身地 : 大阪市
現住所 : 東京都
1955年生まれ
科学図書執筆編集のお仕事
分野は生物学系

写真は特にクレジットや注釈がない限り筆者の撮影です。記事や写真についてのお問合せはなんなりと。
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