備忘録/自然・文化・社会とニュース

文化財

大砲が欲しかった -1

 今回は幕末の反射炉遺構の話。反射炉というのは鉄などの精製に使う金属融解炉の一種で、18世紀頃から使われ始めたが、日本では幕末に研究炉の建設が始まった。目的は近代的な鉄の大砲を造るためだ。

反射炉模式図
反射炉断面図(萩反射炉現地案内板)

 まずは近世から近代にかけての大砲事情を考えてみたい。
 近世は初頭を除いて、大砲と縁のない時代であった。徳川幕府は軍事国家であるにも関わらず諸藩の軍備拡充を執拗に妨害し、その結果自らの軍事力も弱体化させていったからだ。それを一番強力に押し進めたのは三代将軍家光と、松平信綱や阿部忠秋といった側近達で、この人々は日本史上稀に見る軍縮内閣といえるだろう。そのため日本の軍事技術は17世紀から19世紀までの300年間停滞することになる。当然大砲の製作技術も運用ノウハウも停滞した。
 ただこれはこれで高く評価すべきであろう。軍人が治める国家でありながら、軍縮による平和を実現しようというのだ。諸法度を厳格に運用するために身内の首を刎ねたり、功のあった名門家臣でも滅ぼすぐらいの覚悟が必要だ。家光の重臣達はそれを断行した。大名達にとっては恐怖の平和主義だ。

伊豆臼砲S2

オランダ人から指南された臼砲。これを木製の台に据え付けて撃つ。
命中精度は低いが、城攻めでは効果がある。


 大砲は鉄砲の少し後に伝わったとされるが、高価であることから装備数は少なく、最初は南蛮の珍しい兵器といった印象で、実際の損害より敵をビックリさせる効果の方が大きかったようだ。
 最初に日本にもたらされた大砲らしい大砲は、青銅製の「フランキ砲」で、1576年、豊後の戦国大名大友義鎮(宗麟)がポルトガル人から購入し(数ははっきりしないが多くても10門程度とされる)、臼杵城を取り囲んだ島津軍に向けて発砲したという。また大友義鎮を味方に取り込んで九州支配に乗り出した豊臣秀吉も、この砲を入手またはコピーを造ったとされる。大坂の陣では大阪城に多くのフランキ砲が装備されていたというが、戦局に影響を与えるほどの戦果はなかったようだ。
 織田信長は大坂の石山本願寺攻めの際、巨大な軍船に大砲を積み、石山本願寺に味方する毛利水軍を大阪湾で撃破したとされるが、どのような大砲であったかはよく分からない。
 フランキ砲は射程が短く、命中精度もよくなかったので、徳川家康はイギリスから「カルバリン砲」や「セーカー砲」という、射程の長い大きな砲を購入した。家康はこの砲で大阪城を砲撃し、淀君の戦闘意欲をそぐのに成功している。

フランキ砲
フランキ砲 Wikimedia Commons
カルバリン砲
カルバリン砲 Wikimedia Commons

 大坂の夏の陣が終わって天下が安定すると、大砲はお城の飾りか武器庫の肥やしになってしまうが、1638年、島原の乱が起きると、日本の空に久々の砲声が響いた。
 注目すべきはオランダ東インド会社による砲撃。幕府の上使松平信綱の要請を受け、海と陸から砲撃するが、ほとんど効果が無かった上に「農民の武装蜂起を鎮圧するのに外国の力を借りるとは情けない。幕府に人はいないのか」と揶揄され中止となっている。その際幕府は、オランダ人が持っていた臼砲と榴弾(着弾すると爆発する大砲の弾)に関心を持ったらしく、オランダ商館に見本を入手したいと申し入れている。

 オランダ商館は入手まで時間のかかる輸入をさけ、平戸で3門の臼砲を造って献上した。当時の臼砲は青銅の鋳物なので簡単に造れたし、榴弾も材料があれば戦地で造れるものであった。試射では目標に命中しなかったが、立ち会った役人達はとても満足したという。しかし幕府がこの砲を追加発注したという記録はない。 
 さらにその10年後、オランダ商館は再度臼砲を献上し、当時オランダ東インド会社に雇われていたスウェーデン人士官によって、江戸で御前試射が行われた。臼砲の発射と榴弾の爆発を見た将軍家光は大いに喜び、射手らに褒美をくれたが、砲は江戸城の蔵にしまい込まれたという。徳川家光にとって臼砲の試射は、兵器のデモンストレーションではなく、まるで花火の見せ物であったかのようだ。

 こうして江戸時代の大砲は200年という長い眠りにつき、機能も運用方法もほとんど発達することなく19世紀を迎える。
 最初に目を醒ましたのは大坂城にあった大砲で、大塩平八郎の武装蜂起を鎮圧するために発射された。大塩軍も3門の大砲を装備しており、大坂の町中でちょっとした砲撃戦を演じたらしい。発射訓練や砲の手入れはそれなりに行われていたのだろう。ただし双方がどんな大砲を引っ張り出してきたのかは分からない。
 その頃の海に目を向けると、沖を外国船が往来しており、中には補給や商取引を求めて近づいてくる船もあった。モリソン号事件も大塩平八郎の乱と同じ年である。さすがの軍縮幕府も「こりゃまずい」と思ったのか砲兵戦力の充実を考え始めた。

 ここまでで随分長くなってしまったのに、肝心の反射炉の話がまだである。申し訳ない。これを前編とし、次に後編として本題の反射炉の話をさせていただくことにする。

文化財

うだつが上がる土佐の「水切り瓦」

 「うだつが上がらない」という言葉の「うだつ」は、装飾的な防火壁の「うだつ」からきていることはよく知られている。つまり、家に立派なうだつを上げる(設置する)のは金がかかるが、うだつぐらい上げられないようでは一人前とは言えない。うだつの上がらない家はうだつが上がらない、ということだ。
 しかし、所変われば品変わる。南国土佐には「うだつ」と同じ社会的意味を持つ「水切り瓦」というものが存在する。特に室戸市吉良川町は水切り瓦を多用した明治期の建物が多く残り、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
吉良川町並み04
吉良川町の町並み
吉良川町表蔵02 吉良川町表蔵01 足利水切り土蔵
吉良川町の土蔵・腰壁なまこ 吉良川町の土蔵・近年補修   比較参考・栃木県足利市の土蔵

 水切り瓦とは、蔵や住宅の壁に何段か重ねて付ける小さなひさしで、強い雨や日差しから壁を守る働きがあるという。蔵など窓のない広い壁面にひさしを追加するのは日本各地で見られるが、高知の水切り瓦は小さいものを何段も重ね、ひさしというよりフリルのイメージ。
 技巧的な左官仕事で装飾性が高い、というか、実用性より装飾性に重きが置かれ、技術的にも高度な壁であるから費用がかさみ、その家の経済力を示す記号となっている。。

吉良川町並み02 吉良川町水切り瓦  水切り断面

 ひさしには平瓦を横方向に用い、左官職人が技を駆使して美しくかつ頑丈に取り付ける。土や漆喰の強度は職人の腕によって大きく違うものだが、土佐の水切り瓦を施工する職人は、毎年襲ってくる台風にも耐え100年持つ技術を伝承しているという(断面図は中脇修身の土佐漆喰を参考にした)。

吉良川町商店m34s

 水切り瓦は、土蔵だけでなく、住宅や商店にも見られる。上の写真は塩や醤油を商う商店。以前は雑貨を扱っていたという。明治34年築。二階は厨子二階(つしにかい)といって、天井が低い江戸後期~明治の様式。こうした黒漆喰の古い商店は各地に残っているが、二階の壁に水切り瓦が取り付けられているのが、この地方独特の意匠である。屋根のひさしが覆いかぶさっているので水切り瓦の実用性はゼロ(笑)。

 吉良川町には古い建物があるだけではなく、新しく家を建て、そこに水切り瓦を取り付けたいという人も多い。当然、隣の家より少しでも多く付けたいということになる。また細部の意匠も少しずつ違い、そのあたりも自慢のしどころ。かっこいい水切り瓦を家の目立つところにこれ見よがしに並べるのだ。今もそんな精神文化が残る町を歩くのは楽しい。

文化財

瓦道楽武士

 高知市には全国に12か所しかない現存天守と、4か所しかない御殿がある。そちらはいろんなものに出ているので後回しにすることにして、高知城のついでに行った手嶋さん家のお屋敷が面白かったので今回はその話。
高知城天守 手嶋家玄関
高知城木造現存天守     手嶋家屋敷の玄関

 手嶋家の初代とされる手嶋重次は、戦国末期の騎馬武者で、司馬遼太郎の「功名が辻」で有名な戦国武将、山内一豊に馬廻りとして仕えた。ただし子飼いではなく、戦力充実のために慶長5年(1600年)から、知行200石で能力を買われたプロ。
 慶長5年といえば関ヶ原の合戦の年。武者の需用が高まることを察した連中が、情報や活躍の場を求めて京や大坂に集まっていた。仕官前の手嶋重次もそんな連中の一人であったと思われる。
 一方、山内一豊は、徳川家康に急接近し、その立場を固めるべく策を労していた頃で、豊臣と徳川の権力抗争に対応するため、自軍の充実を図っていた。
山内一豊
高知城の山内一豊像
 本番の関ヶ原では、華々しい活躍のなかった山内軍ではあったが、存在感は十分に示したらしく、家康から西軍の有力大名であった長宗我部盛親の領国、土佐を与えられた。それが山内土佐藩の始まりで、重次も主について土佐に入っている。
 その後の土佐は決して平穏ではなく、山内氏の圧政に対し長宗我部の遺臣が激しく抵抗した。一豊は影武者を何人も用意しなければならなかったというから、警護にあたる馬廻り衆には戦国さながらに活躍の場があったのだろう。
 その後、主家も手嶋家も代替わりしたが、明治維新まで主従の関係が続く。現在見られる屋敷はその途中、1700年代の初めに建てられたという。

 屋敷には明治時代まで手嶋家の子孫が住んでいたが、その後放置されて老朽化が進み、市の文化財案内によれば昭和が終わる頃には「荒廃の極み」に達したという。幸いなことに1988年頃から手嶋屋敷の保存運動が起き、1996年県が文化財に指定。安政2年(1855年)の大改築の記録を基に解体修理がなされて往時の姿をとりもどした。
手嶋家長屋門 手嶋屋敷書院
手嶋家屋敷長屋門     書院

 手嶋家代々クラスの武士は、有事の際には従者を連れた騎馬武者であるから、長屋門や厩のある屋敷を構え、馬に乗ることが認められる。しかし200石の収入は、そうした体面を保つギリギリの額といわれ、厩はあっても馬がいないという武士も多かったようだ。実際の手嶋家の経済状態はよく分からないが、屋敷の充実ぶりを見ると、200石の知行のほかにも、副収入が相当あったのではないだろうか。
 武士の知行と実際の収入は必ずしも一致せず、100石でも立派な屋敷に住んだ者もいれば、300石でも貧しい暮らしを強いられた者もいる。下は信州松代10万石の家臣の白井家の長屋門。知行100石にも関わらずこの門構え。役職は真田家の「御金奉行」だったから、相応の役料を与えられていたのだろう。
松代白井家
信州松代藩白井家長屋門

 下の写真は手嶋家の長屋門の屋根を拡大したもの。屋敷の管理をされている方に指摘されるまで気がつかなかったのだが、ごらんの通り凝った瓦の葺き方をしている。一般的な瓦の並べ方との違いがお分かりいただけるだろうか。
 中央に1列だけ並べた平瓦を中心に、左右対称の桟瓦で葺いている。普通の桟瓦は下から見て左に桟がくる「へ」の字型だ。右に桟がくる桟瓦は珍しい。特注品かもしれない。
 管理人さん説明によれば「ここは台風が多いので、こうすれぱどちらの風向きにも強くなります」とのことだが、そんなことはないと思う。瓦が飛ばされるような風が吹けば、どちら向きでも飛ぶだろうし、桟の向きより固定方法が大事だ。これはやはり手嶋家主の美意識なのだ。すでに瓦が普及していた幕末とはいえ、高価であったろう。それをふんだんに使い、しかも美しく見せるために(あまり目立たないが)瓦の種類を増やしている。竣工して悦に入る手嶋家主人の顔を想像すると楽しい。
手嶋家瓦

 このことをふまえて、上の白井家長屋門の瓦を再度ご覧頂きたい。白井家でも凝った形の屋根を拵えているのが分かる。江戸後期~幕末の中級以上の武士にとって、門の屋根に凝るのがステータスの一つだったのかもしれない。
 これが家老クラスになるとお城やお寺のような本瓦で屋根を葺くものが現れる。下は日本で一番有名な家老職、大石内蔵助(1,500石)屋敷の長屋門。ただし大石内蔵助が仕えた浅野家は断絶しているから、この門は赤穂藩を受け継いだ森家の家老が幕末に改築し、さらに最近大石氏の巴紋の瓦に替えてそれらしくしたものだ。大石時代の屋根がどうだったかは分からない。
大石長屋門
赤穂藩家老長屋門

 ちょっと地味なネタだったのでオマケ。これは手嶋家の屋敷に使われている釘隠し。手嶋家の家紋の橘が使われている。面白いのは玄関にだけ見られた蝶の釘隠し。定紋が橘で替紋が蝶なのか、そのあたりは分からないが、橘に蝶といえばアゲハチョウである。アゲハの幼虫は橘の葉をむしゃむしゃ食べるからつじつまが合う。
釘隠し蝶 釘隠し橘 釘隠し六葉
釘隠し蝶          釘隠し橘           釘隠し六葉



 
プロフィール

Kimupon_Cicadan 木村 義志

Author:Kimupon_Cicadan 木村 義志
出身地 : 大阪市
現住所 : 東京都
1955年生まれ
科学図書執筆編集のお仕事
分野は生物学系

写真は特にクレジットや注釈がない限り筆者の撮影です。記事や写真についてのお問合せはなんなりと。
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