備忘録/自然・文化・社会とニュース

文化財

昔の発電はベンチャーだった

 黎明期の電力会社は小規模で多分にベンチャー的であったが、第一次大戦の戦争景気で日本の重工業が盛んになると電力事業も発展し、今日につながる発電所の大型化や長距離送電の基礎が形成されていった。今回はそんな時代に「電力王」と呼ばれた胡散臭い男の足跡を紹介したい。その人物は前回の記事で紹介した、大井ダム・発電所を造った福澤桃介である。

すべての写真はクリックすると別窓で大きいデータが開きます。
桃介橋1

 まず上の美しい吊り橋をご覧頂きたい。これは福澤桃介が、読書(よみかき)発電所の建設資材を運ぶために木曽川に架けた通称「桃介橋」である。大正11年(1922年)に完成し、全長は約248m。完成当初はトロッコのレールが敷かれていた。場所は木曽川の南木曽町(なぎそまち)にある。
 しかし、航空写真を見るとおかしな事に気づくだろう。上の青い目印が桃介橋で、下の目印がすぐ下流にある現代の三留野(みどの)大橋である。桃介橋はわざわざ川幅の広い所を選んで、しかも斜めに架けられているのだ。おかけで三留野大橋の倍以上の長さになっている。
 +をクリックすると写真の拡大。ドラグで移動。Googleマップより引用。
 
 大きな地図は ココ で表示

 なぜこんな無駄の多いやり方で橋を架けたかというと、単に立派な橋を見せびらかせたかっただけ。架橋技師達は、川幅の狭い場所を選び、最短距離で橋を架けようとしていたらしいが、桃介の我が侭のおかげで、建設資材は500mほど遠回りして運ばれることになる。当時の補給担当者は毎日ぼやいていたことだろう。福澤桃介はそんな社長であった。

 福澤桃介は埼玉県中部の貧しい農家に生まれ、元の姓を岩崎というが、岩崎の本家は川越にあって、そちらは銀行の経営に参加するような資産家であった。桃介は本家のコネで第八十五国立銀行に就職している。裸足で登校するほど貧しかったというが、村では有名な秀才で、しかもかなりの男前であったらしい。
 桃介は、日本一の芸者と賞賛された川上貞奴と暮らしたことで知られているが、貞奴以外にも人生の転機に名のある女性の世話になっており、若い頃から胡散臭さ万点の人物なのである。

第85銀行
第八十五国立銀行(現埼玉りそな銀行)

 一人目の女性の名前は知られていないが、彼女の父親が有力者で、その伝手で慶応義塾に入学したといわれている。ネットで旧川越藩士眞野秀雄という名前を見つけたが、慶応出身の海軍大将真野秀雄と同一人物かどうかは確認できなかった。
 その次に関わった女性は、なんとあの福澤諭吉の妻。慶応の運動会のときに彼女の目にとまったというのだ。いかにも怪しいエピソードだが、福澤家と急に親しくなったことは事実らしく、在学中に福澤諭吉の養子になったという。あまりにも調子が良過ぎる話なので、養子というより、諭吉の内弟子や書生といった待遇だったのかもしれないが、いずれにしても、若き日の桃介は利発で姿もよく、男女を問わず人を惹き付ける何かを持っていたのだろう。
 このときすでに、貞奴との交際も始まっていた。

福澤桃介
福澤桃介 撮影年不明 
版権切れ ウイキメディア・コモンズより


 慶応義塾を卒業した桃介は、福澤家の援助で渡米。鉄道や工場などの産業施設を視察している。そして帰国するとすぐに、福澤諭吉の次女ふさの婿となり、高名な福澤家という家柄を手に入れた。以後福澤桃介と名乗って船会社や製紙会社などのエリート社員として働いている。
 ところが5年ほどすると肺結核を患い療養生活に。江戸時代ならこれで桃介伝は終わりであるが、当時すでに結核は治る病気となっていた。桃介が一般的な病人と違っていたのは、療養生活中に株式投資に熱中したこと。退院するころには、今の価値で数十億円の金を稼いだというから驚きである。
 桃介は天才相場師として投資家向けの実用書などに登場するし、金儲けに関する著書も残しているが、株取引に成功した大きな理由は、やはり日清戦争の戦勝バブルと、彼が身に付けていた産業の知識にあるといえる。その後バブルがはじけると、株式投資から足を洗って、株で得た資金を基に実業に乗り出している。
 最初は鉱山経営をしたり、重役として日清紡に関わったり、また代議士にもなったが、最も成功し名を成したのは木曽川の電源開発であった。

読書発電所
大同電力時代の代表的発電所「読書発電所」

 電力王としての歴史は、既存の名古屋電燈の役員に就任し、鉄鋼産業用に木曽川の電源開発に着手したところから始まる。桃介は名古屋電燈から鉄鋼部門と電源開発部門を分離してその社長に就任する。また同時に京阪電鉄との共同出資で大阪送電という会社を設立し、名古屋ではなく遠く離れた京阪地区へ送電線を伸ばすという、当時としては画期的な事業を開始した。今、電力会社の独占状態を解消するために、発電部門と送電部門を分離すべきだという議論があるが、大型電力事業の始まりは発電と送電が別々の会社であった。
 後にこの2社に日本水力株式会社を加えた3社が合併して、今の電力会社のような発電送電一致の大同電力株式会社となり、桃介は引き続き社長を務めた。

読書水路橋
読書発電所に続く柿其水路橋
読書水路暗渠
水路は暗渠となって山を貫く

 大同電力時代の旗艦的な発電所は、前回紹介した巨大なダムを擁する大井発電所だが、それに先駆け造った同クラスの発電所が読書(よみかき)発電所である(1923年/大正12年運転開始)。読書は発電所のある村名で、与川(よ-がわ)村、三留野(み-どの)村、柿其(かき-ぞれ)村の三村合併でできたことに因んでいる。無筆の人が多かった明治初期に「読み書き」の名は新しい時代を感じさせるよい名前に感じられたことであろう。
 読書発電所は長らくダムを持たない水路式発電所であったが、1960年に取水堰を大型の読書ダムに替え、発電機を増設している。しかし古い水路はそのまま利用されており、建屋と水路設備が国の重要文化財に指定されている。現役の発電所で国の重文はここだけ。発電能力は当初4万kWクラスであったが、現在は11万kWを越えている。

須原発電所
須原発電所

 上の写真は読書発電所の上流に前年(1922年)造った須原発電所。建屋は装飾が多く教会のような塔まで備えている。木曽川の岸に建てられ、ダムの無い水路式発電で、2つの水車で最高1万kWの出力を得ている。
 桃介は工場には飾りなどいらないという考えの持ち主で、美観を重んじる設計者に、無駄なものは着けるなと命じていたという。しかし、外から批判を受けて考えを改め、大同電力時代にはこうした美しい建物を残した。

桃介館02
発電所建設中に桃介が住んだ山荘。

 大同電力は、戦時政策で日本の電力会社が整理統合されるまでの20年ほどの間に、木曽川水系に少なくとも7つの発電所を建設している。こうした活発な電源開発は、川を利用する農家や林業者との間に紛争を招いたが、業界に活力があり面白い時代であったと思う。
 桃介が木曽川沿いに次々と発電所を造っていたとき、その前線基地に使っていたのが上の山荘である。桃介はここで愛人の貞奴と暮らしながら現場を監督した。
 貞奴は、山荘で大人しくしているような人ではなく、桃介といっしょに現場を回り、男でも怖がるような危険な場所にも平気で出かけて行ったという。また桃介は会社経営や議員の仕事があるので木曽を離れることも多かったが、貞奴は山荘に残り、桃介の代理として赤いオートバイを駆って現場を回ったと伝えられている。まるで映画のようにカッコイイ現場指揮官ではあるが、中間管理職の男達はさぞやりにくかったであろうと思う。

桃介館01 桃介館03
この部屋からは桃介橋が見える。

 福澤桃介は日中戦争が本格的になり始めた1938年(昭和13年)2月に亡くなっている。墓所は東京の多摩霊園。そして翌年の4月、先に述べた通り戦時政策として全国の電力会社が統合され、桃介が情熱を傾けた大同電力は消滅した。
 日本の電力会社は半官半民の日本発送電株式会社1社となり、その状態が1951年(昭和26年)まで続く。現在9社ある日本の電力会社は、日本発送電を地域ごとにただ分割したものに過ぎず、企業としての異常性はこの一点にあるといっても過言ではないだろう。福澤桃介の発電所は、大半を関西電力が引継ぎ今も稼働させている。

貞奴
貞奴 撮影年不明 
版権切れ ウイキメディア・コモンズより


 桃介の死後貞奴は、戦時中ということもあってひっそり暮らし、終戦の翌年、熱海の別荘において75歳で亡くなった。墓所は生前自分で建立した木曽川近くの貞照寺にあり、廟は大井発電所の方向を向いている。

文化財

ダムによる景観論争の古典

 岐阜県立自然公園の恵那峡は、水力発電用の大井ダムによってできた人造湖である。奇岩に囲まれた美しい湖ということになっているが、本来の自然景観は湖底にある。

画像をクリックすると別窓で大きい画像が表示されます
恵那峡001

 恵那峡は人造湖でも名勝となり得る例として挙げられることが多いが、ダムが完成(1924年)した当初には、元々あった川の美しさを破壊したという批判もあった。また付近に地元の用水取水口があったため、住民との紛争も起きているが、そちらは実利問題であるので、割とすぐに解決したようだ。
 景観問題は、結論を出しにくいものではあるが、結局は建造物の必然性と、建てる人や見る人のデリカシーの問題ということは言える。筆者は基本的に、誰かが目障りと感じるものは建てるべきではないと考えている。もちろん必要な物は建てないと暮らせないので、できるだけ目立たないよう、周囲の風景にいかにうまく溶け込んでいるかというところに、オーナーや設計者の知性が現れるのだと思う。また、自然の中に建てる場合は、景観だけでなく生態学的な配慮が重要なことはいうまでもない。

大井ダム001

大井発電所002

 さてそこで、大井ダムと大井発電所はどうかというと、歴史的価値と必然性という点で及第点といえるのではないだろうか。日本の近代化に多大な貢献をした産業遺産の一つである。
 幅約270m、高さ約53mの堂々たる重力式ダムであるが、後に造られた100m超級のダム群に較べればかなり小ぶりで、時代を経たコンクリートの風合いも、周囲の岩肌との調和がとれているように感じられる。コンクリートや石材、煉瓦などの経年変化は「違和感」をある程度はカバーしてくれるようだ。ただし、時代的に河川の生態系への配慮は全くなされていないので、できればダム下に注ぎ込む支流(阿木川)とダム湖の間に魚道を通せないかとは思う。

導水管001

 落差は約42mと小さいが、最大約140㎥/s(毎秒ドラム缶70本分)の流量を持つ導水管がたくましい。最大約52,000kW(運転開始当初は約4万kW)の発電能力を持ち、1924年(大正13年)の運転開始以来、90年近く働き続けている。
 当初から地元の中部ではなく京阪地区に電気を送り、現在も中部電力ではなく関西電力がそのまま(もちろん発電設備は更新されているが)運用している。1983年には隣に新大井発電所が増設され、そちらは最大約32,000kWの発電能力がある。
 このダムと発電所を造ったのは、福澤諭吉の養子で電力王と呼ばれた実業家、福澤桃介である。桃介については、同じ木曽川沿いにある読書発電所を紹介するときにでも詳しく紹介したい。

大井発電所紀功碑表

 上は発電所にある大井ダム・発電所の紀功碑「普明照世間(あまねく世間を明るく照らす)」で、岩崎紀博によるダム・発電所の建設記録が刻まれている。岩崎家は福澤桃介の実家であり、桃介は貧しい分家の出身であったが、本家は川越の名士で、銀行を経営に参加したり文化人を何人か出している。福澤諭吉との結びつきも深く、岩崎家と諭吉の書簡も残されている。紀博がどような人物であったかはよく分からなかった。碑の裏には工事関係者のレリーフがはめ込まれている。

奥戸発電所001

 見落としがちだが大井発電所の対岸にもう一つ小さな発電所がある。こちらは500kWの小規模発電所で、ダムを造らず川の流れを集めて直接水車を回す仕組み。大井ダムの工事用に造られたとされる。現在は中部電力奥戸発電所となっているが、電力的にはほとんど戦力外といえるだろう。ただし大井ダム関連の歴史遺産としての価値は高い。

文化財

黎明期の水力発電所

 日本の水力発電所は、1882年(明治15年)、旧薩摩藩主の島津氏が「集成館(実験的な近代工場)」に造ったのが最初とされるが、文書資料に乏しく、水路と伝えられる遺構が僅かに残っているだけなので、証拠不十分として、公式には日本初の水力発電所とは認められていないという。
 その翌年、集成館は解体され、就成所が新しく建てられることになったが、同時に発電所も建て直され、そのときの貯水桝と伝えられる遺構が残っている。場所は島津家別邸の中にあり、庭園の一部として公開されている。

画像をクリックすると別窓で大きい画像が表示されます

就成所
小規模な発電用ダムといえる貯水桝は石造りで、しかも石垣の上に乗っており、石材と石工にめぐまれた九州らしい造りだ。

 現在、日本初の水力発電所とされているのは、陸前宮城郡の実業家、菅克復(かん-こくふく)が、1888年(明治21年)に造った三居沢(さんきょざわ)発電所である。こちらは文書資料も遺構もよく残っており、東京や京阪より早く電灯が灯ったことが、宮城県民の誇りとなっている。
 菅は自身が経営する紡績会社の電源として、東京で買い付けた国産の5kw直流発電機と多数の電灯を、出来たばかりの東北本線で宮城に運び、自前で水車を開発して発電に成功した。
 その後所有会社が変わり、また発電能力も5kWから、30kW、75kW、300kWと順次増強され、現在の姿になったのは1909年(明治42年)。その時点での発電能力は菅時代の200倍、1,000kWとなった。戦後、東北電力がこの発電所を受け継ぎ、今も稼働を続けている。
 現在の仙台市の電力需用からすれば、数のうちに入らない発電規模であり、現役発電所というよりは、近代化遺産の動態保存という意味が大きいが、1,000kWといえば大きな工場や路面電車を動かすぐらいのことはできる(現在の通常運転は200~600kW程度)。

三居沢発電所導水管
現在使われている導水管(左は余分な水を捨てる余水管)。管長は約45m。貯水池からの落差は約27m。右に見えるレンガの遺構は古い水路の一部。

 発電機のある建屋は明治42年竣工。木造平屋で、現存する棟札から伊藤今朝五郎という棟梁の名が明らかになっているが、伊藤家が代々大工の家であるらしいということ以外、どんな人物なのかはよく分からなかった。実用的で簡潔な建物であるが、屋根には奈良時代の寺院建築のような鴟尾が付く。内部には発電機のメンテナンスなどに使う10tの天井クレーンが設置されている。現存する明治の水力発電所の建屋はレンガ造りが多く、木造建屋は珍しい。

三居沢発電所建屋
奥に見えるビルは「三居沢電気百年館」。三居沢発電所の歴史と周辺の自然に関する展示が無料で見られる。東電の原発PR館のような胡散臭さと過剰な豪華さがなくて好感が持てる。見どころは初代の5kw発電機(菅克復が買ったものではなく、東大が所蔵する同型機)。
三居沢発電所建屋鴟尾
屋根の鴟尾。なんでこんな古風な飾りがあるのかは不明。

 先に述べた1,000kWの発電機は、ドイツのジーメンス・シュッケルト社製で、同じドイツのフォイト社製の水車ともども、100年間も働き続けている。たった40年の寿命しか持たない原発とえらい違いだ。しかもこの発電所は、100年間排ガスも出さず、環境に影響を与えるほどの熱もだしていない。なんせ、木造小屋に置いても安全なのだから。こういうのが、人と地球に優しい発電設備といえる。

三居沢発電所発電機
三居沢電気百年館側の壁に大きなガラス窓が開けられ、発電機(左)と水車の容器(右)が見られるようになっている。ジーメンス・シュッケルトは世界で最初に電気機関車を造った会社で、このような1900年初頭の発電機は、当時買収したジーメンス・ウント・ハルスケの技術と思われる。ジーメンス・ウント・ハルスケの発電機は、明治時代にいくつか輸入され、現存するものもある。現在ジーメンス・シュッケルトは多国籍企業に発展し、名称は英語読みのシーメンスとなった。またフォイト社も水力発電設備などの会社として世界的に知られている。

三居沢発電所送電設備
三居沢発電所の送電設備。

文化財

水力発電所は楽しい

 これまで、文化財ネタとしてお寺の塔やお城の遺構などを紹介したが、日本の古い水力発電所めぐりのネタもけっこう溜まってきたので、原発事故にからめてというわけでもないが、水力発電所の話も加えていこうと思う。

 日本の全ての発電所を稼働させれば、電力需用の2倍程度の発電能力があるとされる。そのうち水力は2割程度を占め、全ての水力発電所がフル稼働すれば、消費電力40%を賄える計算になる。もちろん天然の水量には増減があるので、ある程度の余裕をもって供給計画を立てねばならないが、現在、水力発電は能力の2割程度しか利用されていないという。なんとも勿体ない話である。
 水力発電は自然エネルギーの一つであるから、今後はもう少し注目されるようになるだろう。というか、注目しなければならない。

 写真は、今大変なことになっている福島県にある、東京電力丸守(まるもり)発電所。阿武隈川水系の水で3基のタービンを廻し、合計約6,000kWの発電能力がある。運転を開始したのは今から90年前の1921年。

丸守発電所

 竣工当初は大峰発電所と名付けられ、戦時中の電力会社の統廃合時に丸守発電所に改称されたという。建物はレンガ造りで、当初は白い石で装飾が施されていたらしいが、現在は全体がレンガ色1色に塗りつぶされている。装飾を維持するための費用を惜しんだのであろうか。導水管の落差は約87m。
 古い発電所にはレンガ造りの建物が多く、なかなか魅力的だ。これらの小さな設備が日本の近代化を支え、バカみたいに大きな原発と、その利権に群がる連中が、先人達の築いた信用と地元民の生活を破壊した。皮肉なものである。
 以前は建物に「東京電力-丸守発電所」の文字があったが、撮影した09年には何故か文字が塗りつぶされていた。理由はよく分からない。

 下は鉄の門に掲げられていた看板。原発と違って一般人が内部を見学することができるらしい。各地の水力発電所の中には、事前に申し込まなくても、内部を見学できるところもある。

丸守看板


社会とニュース

JAも怒りの抗議

 6日と8日に全漁連が東電に抗議したしたことを書いたが、ほぼ10日遅れで農協が行動を起こした。
 農協は行動を起こしにくいのではないかと書いてしまったが訂正する。今後も責任を厳しく追及し、納得できる補償を勝ち取ってもらいたい。

 抗議が遅くなった理由として、震災被害の救助等に専念していたことを挙げている。すでに金銭に換算できる被害が大きくなっているので、抗議には説得力があった。
 ただ、原発のある海岸で活動する全漁連が、原発には今後一切協力しないと、原発そのものに対する態度を明確にしたのに対し、JAはそのことには触れなかった。

 東電は全漁連のときと同じく、社長・会長は抗議文を受け取るだけで直接話を聞いたのは常務であった。そのことで怒りが増幅している。常務は直後に「予定が詰まっていたので申し訳ない」とそのことを詫びている。
JA抗議文

プロフィール

Kimupon_Cicadan 木村 義志

Author:Kimupon_Cicadan 木村 義志
出身地 : 大阪市
現住所 : 東京都
1955年生まれ
科学図書執筆編集のお仕事
分野は生物学系

写真は特にクレジットや注釈がない限り筆者の撮影です。記事や写真についてのお問合せはなんなりと。
小さな写真はそれをクリックすると大画像が開きます。

検索フォーム
ブロとも申請フォーム
QRコード
QRコード

Page Top
Powered by FC2 Blog | | Template Design by スタンダード・デザインラボ