備忘録/自然・文化・社会とニュース

文化財

糸を吐き繭を結びて世のために 死を返り見ぬ虫ぞ貴き

 このところ仕事に追われ、部屋に閉じこもっている。思い出すのはあちこちうろついた楽しい思い出。というわけで現実逃避、怒濤の連続ブログ更新(笑)

 蚕糸の町岡谷には、立派な蚕の供養塔がある。
 タイトルの歌はそこに掲げられていたもの。詠み人は曽我部俊雄大僧正。

蚕霊供養塔01

 写真がその岡谷市本町にある照光寺にある蚕霊供養塔。
 昭和9年建立で、高さ11mの小さな塔だが手抜きのない本格木造建築だ。お寺の表示には多宝塔造りとあったが、古式の多宝塔建築と違って、正面に唐破風を付け、二層目も方形で亀腹(普通の多宝塔の二層目基部にある白い饅頭みたいなやつ)を欠く、お堂と塔の折衷案のような建物。
 一層目が細いためやや安定感を欠くが、細工はなかなか立派だ。棟梁は石田房茂という人。あまり詳しいことは知らないのだが、諏訪大隅流の名工で、信州各地に作品が残っているという。
 平成7年に銅屋根に葺き替えたとあるので、それまでは今のような銅葺きではなく古風なこけら葺きだったのだろう。
 新しいものを建てる人は、寺社であっても古典の100%コピーであってはならないと思っているので、こうした高度な木造建築技術を基礎に新しさに挑戦するのは大好きである。評価は100年ぐらい経った頃に下るだろう。

 戸には蚕の供養塔らしく桑の葉の彫り物がはめ込まれている。
 日本の皇后さんは代々蚕を飼っておられる関係からか、貞明皇后が昭和24年に参拝されている。

蚕霊供養塔戸

 4月29日の法要には、僧侶と檀徒によって以下の和讃が詠じられる。

野山に繁る草も木も、葉末にすだく虫にだに、
分ちたまひし魂の、わきて勝れし蚕には、
そも掃立の其日より、やがて死すべき誓願の
偲ばるヽさへ貴きに、桑の一葉に足るを知り
四度眠りの夢さめて、精進うまず糸を吐き
繭を結ぶは知恵の業、さて世の中に施興の
功績を残し潔く、身を犠牲の心こそ
偲ぶもいとど貴しや、さらば諸人集りて
尊き虫の魂に、篤き供養を捧げつヽ
永久の解脱を願はなむ、南無蚕霊大菩薩

 作詞はタイトルの歌の作者と同じ。掃立とか四度の眠りとか、さすがは岡谷の大僧正、蚕のことをよく知ってるなあ、と思って調べたら、曽我部俊雄師は大阪は河内の金剛寺の和尚を勤めた後、高野山の金剛講総本部詠監に就任。和讃の楽理を研究、編纂した名僧とのこと。ちなみに河内の金剛寺は女人高野として名高く、大好きな重文の多宝塔のあるお寺。7月に塔の写真を撮ってきたので近いうちに紹介したい。

 和讃というのは ↓だいたいこんな感じの歌ね。日本の賛美歌みたいなもんといったら怒られるかな。グレゴリオ聖歌以前のそれと似てると思う。詞の内容は違うが、同じ真言宗金剛流和讃を参考までに無断リンク。音楽ホールで拍手されながら和讃を詠ずるのもちょっと奇妙な感じ。




文化財

心に残る風景/丸山タンク

 なんだかめんど臭い話が続いたので、今日は楽しい写真はいかがでしょ。

丸山タンク外

 これは岡谷市の丸山というところにある給水タンクの残骸。夕方こういう風景をみていると妙に懐かしく感傷的になってしまう。
 竣工は大正4年。訪れた日は市が草刈をしたあとで、とても見やすかった。
 通称丸山タンクと呼ばれていて岡谷駅近くの小さな丘の上にあり、この丘は古墳ではないかと言われている。
 タンクの用途は岡谷市内の製糸工場の「お湯」と、岡谷駅で蒸気機関車に給水するため。付近にあった5つの製糸業者が共同で建設した。
 直径は約12m。約650m離れた天竜川からポンプで水を引き、タンク内で不純物を沈殿させてから各工場に水を供給した。落差が小さいため配水にもポンプが使われた。
 繭は水質にうるさく、煮繭や繰糸には中性の軟水がよいという。工場ごとに水質のよい沢から水を引いていたが、不足しがちなので専用水道を作ったとのこと。この大きさで3.500個の釜に対応できたという。総量で50トンぐらいであろうか。給水能力は1時間あたり100トン。
 内部は二層構造になっており、外か内からオーバーフローで水を流し、砂や不純物を沈殿させるということは何となく分かるが、稼働時の詳しい構造や仕組みはよく分からなかった。上面は開け閉めできる鉄板などの蓋で覆われていたと思われる。

丸山タンク内

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富岡の追記

上田蚕種協同組合ロゴ
信州上田の蚕種協同組合の入口にあるロゴマークと装飾。上州や信州には蚕や繭、蚕蛾をモチーフにした装飾は数多く見られる。本稿の内容とはあまり関係がないイメージ写真(笑)

 官営時代の富岡がどれぐらい赤字を出していたのか調べようと思ったのだが、自宅にいて調べる範囲では限界があった。いくつかの資料が赤字であったとしているのだが、具体的な記述がなく、唯一数字があった別の資料は若干の赤字と黒字を行き来してるものだった。
 巨費を投じて大工場を建て、その直後から黒字なんてのもおかしな話であるが、敷地は草ぼうぼうで建物内は乱雑であったというから、節約第一で頑張ろうとしたことはうかがえる。
 あと、数名のフランス人の給料が無くなったことで黒字が増えていた。いくら外国人の給料が高いといっても、それが収支に大きな影響を与えるような事業規模なら黒字もたかが知れている。
 でも、前の記事の「赤字」というのを「収益があがらない」と修正しておきたい。別に赤字でもいいんだけどしっかりした根拠が用意できなかったので(笑)。

 国から工場を払い下げてもらって経営を引継いだ三井(他の製糸会社も欲しがったが高くて買えなかったので、明治政府の御用商人として富岡の面倒を見ることになったという捉え方もできる)の収支も、官営時代とさほど変わらなかったようで、三井の頃の労働環境はまだ穏やかだったといえるかもしれない。
 当時7つの製糸・紡績工場をかかえていた三井だが、儲からない製糸場で無理をしてもしょうがないと三重製糸所などといっしょに原合名会社に譲渡した。この当たりの判断の早さは「さすが越後屋おぬしもやるな」である。

 ところで、経営が三井に変わって間もなく起きたストライキは、給与システムの変更が原因であったらしい。
 製糸業界では、色々な給与システムで試行錯誤したが、結局工女に不利な格差の大きい歩合給と、罰金制の組み合わせが一般的となった。それはまず人件費の総額を決め、それを技能によって細かく等級分けした工女に差別的に分配し、さらに不良品を出した場合は罰としてそのつどマイナス加算し給料を減らすというシステムである。これなら、人件費を経営計画通り低く抑えられ、しかも賃金の安さを労働者の技量に転嫁し、それでいて工女の不満を抑え競争心を煽って労働意欲と質を高めることができるという寸法だ。
 この結果、少数の高給取りが生まれる反面、労働法が整備されるまで最低賃金という制度が無かったから、生活できないほどの低賃金や、最悪の場合は給料がゼロやマイナスという事態に陥る者も生まれた。
 就職した少女の全員が繰糸が上手にできるわけではなく、実際に自殺者や逃亡者がでたというが、貧農出身で郷里を離れて働く若い女性が工場から逃亡しても、悲惨な結末を迎えることになっただろう。

 また悲しいのは、工場内の売店や付近の商店が、ツケで工女達に色々なものを売っていたらしく、現金などほとんど手にしたことがなく経済観念が未熟な少女達は、そこでローン超過になるような買い物をして、借金を抱える者もいたという。いい家のお嬢さん達だったといわれている明治初頭の模範的工女、和田英の仲間達も、売店で借金を重ね、松代から連れ戻しに来た男が、持参した公費でツケの清算をせざるを得なくなり、帰りの旅費が無くなってしまうという事態に陥っている。

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日本のおカイコさん-3/岡谷蚕糸博物館ほか

 読む人がくたびれるような富岡製糸場の話を書いてしまったので、今回は写真中心に軽くいってみようと思う。

 富岡市と国内姉妹都市の関係にある長野県岡谷市の話。
 かつて岡谷は製糸業で栄え、最盛期には200以上の製糸工場があり、山一争議で労働運動史に名を残す山一林組の製糸場も岡谷にあった。
 ただし今の岡谷には製糸工場の遺構がほとんど残っていない。その理由は、岡谷は製糸から精密機械への産業転換に成功し、その際古い工場をどんどん解体して新しい建物を建てたからだという。
 精密機械の製造で名を馳せ、東洋のスイスとも呼ばれた岡谷であるが、製糸アイデンティティもちゃんと残されているようで、それを物語る施設の一つが岡谷蚕糸博物館だ。

岡谷蚕糸m

 小規模で地味な博物館だがコレクションは充実している。
 9/18の記事に書いた和田英が富岡で使ったフランス式繰糸機も展示されている。それと同型というのではなく富岡製市場にあった機械そのものなのだ。現在残っているのはこの1台だけである。
 この機械はフランス製ではあるが、日本人が使いやすいように作られた特注品なので、製造国の産業遺構や博物館にもないだろう。
 富岡製糸場にはこれが片側75台ずつ2列に配置されていたらしい。ただしこの機械は後世の改造が加えられている上に不動品であったため、岡谷では構造の研究を兼ねて、輸入当時の姿を再現した完動品を1台新しく製作している。やるな、岡谷の蚕糸博物館。写真はオリジナルの古い方。 
 なぜ富岡の機械が岡谷にあるかというと、富岡製糸場を経営していた片倉工業の社長が、各地に散らばっている古い機器を、自社の本拠地である長野県諏訪市に集めて保管したからで、後にそれが隣町の岡谷にある蚕糸博物館に寄贈されたというわけである。

フランス式オリジ

 とにかく繰糸機のコレクションは素晴らしく、富岡以前の座繰機から最近の大型自動繰糸機まで、日本の蚕糸主要機械の歴史を辿れるようになっている。
 あと目を引いたのが、ポール・ブリュナが特注したといわれるフランス製の生糸水分検査器。高さが1m以上もあって、まわりに美しい絵が描かれた美術工芸品のような検査器である。これじゃ富岡が大赤字になるわな。

水分検査器

 繰糸機といっても、動いている所を見ないと仕組みがよく分からないかも知れないので、松本市で動体保存されている昭和興行の繰糸場の写真を見て頂きたい。
 繰糸機は諏訪式と呼ばれる型で、基本構造はフランス式と同じである。2008年に撮ったもので、他に見学者がいなかったにもかかわらず、元工女さんとそのお弟子さんがわざわざマンツーマンで実演をして下さった。感激と興奮。ここでもう一度お礼を申し上げたい。

繰糸04

 台の上のシンク(釜)の中には70~80℃の熱湯が入っており、湯は別棟のボイラーから供給される。ここに別の大型釜で煮た繭を入れるのだが、明治中期ぐらいまでは、この台にさらに高温の釜が付いており、その中で繭を煮ていた。その場合、個人の技量や作業の流れによって煮加減にバラつきがでるので、煮繭と繰糸の作業を分けることで煮繭の均一化と作業の効率化を図ったというわけだ。フランス式では釜や台が金属であったので、それらに触るとさぞ熱かっただろうと思う。
 繭を煮るのは糸を固めているセリシンという物質を溶かすためで、繰糸作業は常に熱湯と湯気の中で行われる。横に置かれたフィンガーボールのような小さな容器は、お察しの通り指を冷やすための水である。

繰糸01

 ふやけて糸が少しほつれた繭から、稲穂を束ねたもので糸の端を拾いだし、もつれをきれいに解した上で一定数の繭の糸を合わせ、ベルト駆動で回転する糸巻きに巻き取っていく。糸巻きは頭の後方にある。
 途中で糸が切れたり繭の糸が終わったら別の繭の糸を足していくわけだが、最初の糸の端を正確に手早く拾い出すのと、太さを変えずに糸を継ぎ足していくところに工女の技量の差が大きく現れるそうだ。昔の工女はほとんど休まずこの作業を日に12~14時間も続けたのである。

繰糸02

 あと、熱さだけでなく糸巻きの騒音が酷いことも付け加えておきたい。そもそもがベルト駆動やチェーン駆動の機械はうるさい上に、昔は回転軸や軸受けの精度が低いため、振動も多く色々なノイズが発生した。
 昔の製糸工場の写真を見ると、着物を着た女性が並んで静かに手仕事をしているように思えるが、実はガンガラガンガラ機械の音が鳴り響き、あちこちでボイラーの蒸気がシューシューいってる、かなり騒々しい工場だったのだ。

繰糸03

 分かりにくい写真で恐縮だが、右から2つめの糸巻きに、うっすら絹糸が巻き取られているのが見える。糸が細いので、相当量巻き取らないと糸が見えてこない。戦前アメリカに輸出していた糸は、日本の伝統的な絹糸よりずっと細いストッキング用の糸だったで、品質管理に苦労したという。この繰糸機は一つの釜から同時に4条の糸を巻き取る。

 ここで養蚕や製糸に興味をお持ちの方へ情報(笑)。大学の紀要には論文の数を稼ぐことを目的にしたようなつまらない物も多いが、岡谷蚕糸博物館の紀要は門外漢でも興味が持てるような研究報告が多く、テーマも生物学から経済史まで色々揃ってるし、中には100歳を超える元工女さんへのインタビュー記事まで掲載されていたりするので、大部分のページが楽しく読める。紀要というよりは機関誌かな。1冊1,000円。リンク→「岡谷蚕糸博物館出版物案内」

文化財

日本のおカイコさん-2/富岡製糸場への疑問

 昆虫の家畜カイコをめぐる旅もいよいよ佳境へ(笑)。先月の上州に引き続き今月は信州に行ったのだが、その話をする前に、8月の日記で予告?した「富岡製糸場」への疑問を書いておこうと思う。

Meiji5.jpg
富岡製糸場東繭倉庫のアーチに掲げられた明治5年の竣工年。今回は文字が多いので写真はサムネールで挿入。クリックで拡大。

 富岡製糸場の保存展示や世界遺産登録運動に関わっている人達は(もちろん全てではないが)、ここ何年もの間「富岡製糸場に女工哀史は無かった」ということを強調してきた。おかげで富岡製糸場を紹介する旅行者のブログやサイトには「富岡製糸場に女工哀史は無かったらしい」という記述が数多く見られるようになった。でもちょっと調べれば「女工哀史は無かった」などといえないことが分かるだろう。

 以下は女工哀史がなかったとする地元の発言の一つ、富岡製糸場世界遺産伝道師協会会員の岩井建造氏のインタビュー記事である。岩井氏はボランティアで富岡製糸場を訪れる観光客の案内もしているとのこと。少し長くなるが、重要な部分をそのまま引用する。

 「製糸業というと『ああ野麦峠』に代表される『女工哀史』の世界と思われがち。明治から大正にかけての民間紡績会社では、粗末な食事と低賃金で過酷な長時間労働を強いていたそうです。でも、ここは全く違うんですよ。とても先進的で労働条件にも配慮されていたんですね。だから『女工哀史』とは無縁なんです。
 外国人技術者が飲むワインを見て「生き血を吸われる」などと噂され、工女がなかなか集まらなかったので、現場の総責任者であり初代場長になった尾高惇忠が、自分の娘を工女第1号として入所させました。そして廃藩置県で地位を失った旧士族の娘たちや戸長の娘などをはじめとして、農工商の身分に関係なく多くの娘たちが全国から集まってきたんです。いわゆる「富岡乙女」と呼ばれる優秀な娘さんたちが、ここで働いていたんです。
 また、ここにはフランス人の考え方が至る所に現れていて、例えば、当時からお化粧は女性の身だしなみとして奨励していたそうです。フランス製の大きな鏡があるのもそんな名残りなんです。工女たちはそこで身だしなみを整えて仕事に励んでいたんでしょう(ぐんま見聞録第188号別冊付録 協働の現場から/岩井健造さんに聞く)」

 地元の人の富岡製糸場への誇りと愛着を高めるイイ話であるが、よくありがちな郷土美化史観の一つであるといわねばならない。もちろんそれは岩井氏自身の責任ではない。氏は善良な地元民として富岡製糸場のガイドを養成する講座に参加し、そこで習った内容を熱心に「伝導」しているに過ぎないのだと思う。なぜなら富岡に女工哀史は無かったとする話のほとんど全てがこれと同じ内容であるからだ。ということは出所がいっしょということになる。結論をいってしまえば例の「教科書が教えない歴史(藤岡信勝、自由主義史観研究会)」の中にある「進取の気概にあふれた富岡製糸場」の歴史観まんま。ちなみに藤岡氏らのいう自由主義史観というのは、日本のイイ話だけをつなぎ合わせて、自分たちが心地よく感じる歴史物語を(自由に?)作り上げようというもので、決してリベラルな歴史観という意味ではない。

富岡東倉庫
主要遺構の一つ東繭倉庫。内部は一部を除いて非公開。

 確認のためここで富岡製糸場の歴史をおさらいしてみたい。
 富岡製糸場の始まりは、工業化による富国強兵を目指す日本政府が、上州富岡に建設した国営の近代製糸工場である。いきなり重工業は無理だから、すでに経験のある繊維手工業の近代化を目指したのはよい発想だったといえる(日本初の大型製鉄所の成功は富岡製糸場の30年後)。
 建設に先立ち横浜に滞在していた若きフランス人技術者ポール・ブリュナに製糸事業のプランニングと工場開設後の管理運営を委託。工員には士族の子女などを集め明治5年に創業を開始した。
 官営工場時代の富岡製糸場は採算を度外視した赤字を生む公共事業であり、特に初期の数年間は生糸を大量生産する工場というより、寄宿制の女子繊維工業専門学校といった方がその役割りを正しく表現しているといえる。労働環境も労働法が整備されたフランス式に整えられていたから、この時期に限っていえば富岡に女工哀史はない。しかしそれは、115年にも及ぶ富岡製糸場の歴史のうち、ごく一部の出来事に過ぎない。

ブリュナ亭
ブリュナ夫妻用に敷地内に建てられた疑洋風建築。地下カーヴ付き。内部は非公開。富岡製糸場の遺構のほとんどが内部を公開していない。最近まで片倉工業が使用していたので、人が立ち入れない訳ではないと思う。

 創業3年目には早くもポール・ブリュナを解雇(高額な給与が問題視されていた。再契約はなく明治9年に帰国)。日本人の手で生糸の製造が開始されるが、思うように生産量が伸びず赤字が解消されないまま明治26年には民間に払い下げられている。
 
 民営移行後間もない明治31年、早くも工女のストライキが起きた。採算度外視の実験的工場からシビアに利潤を追求する工場に変えようとすれば労働条件が悪くなるのは当然だ。
 富岡製糸場の建設に深く関わり、富岡の仕掛人ともいえる渋沢栄一も、富岡製糸場は国による採算を無視した経営であり、それゆえ上手くいった面もあるが、実際に製糸の近代化に貢献したのは民間の人々であると語っている。
 しかし富岡製糸場の売店で売られていた資料には、民営後の経営や労働環境の変化について何も触れられておらず、子供向け書籍「世界へはばたけ・富岡製糸場(上毛新聞社発行)」でも、富岡市発行の有料パンフレットでも、富岡製糸場を愛する会発行の有料パンフレットでも、ごく初期の学校みたいな官営工場時代だけが富岡製糸場であるかのごとき記述となっている。

事務棟
3号館(検査人館)建設当初はフランス人検査官の館であったが、その後は事務室や応接室として使用。現在は富岡製糸場管理事務所。ここも内部は非公開。重要文化財を事務所として日常的に使いながら、見学者に中を見せないとは、富岡市の管理者が考える事はユニークだ。

 富岡製糸場の先進性を強調する人々が資料として必ずとりあげるのが、創業当初工女として働いた和田(旧姓横田)英(えい)の「富岡日記」である。これは当時の富岡製糸場の状況を知る資料として重要であり、日本の近代化に貢献した日本人の一人として、その功績は高く評価すべきものであるが、彼女が富岡製糸場で受けた待遇が、その後の製糸従事者にそのまま受け継がれたわけではない。
 和田英は郷里の松代区長であった横田一馬の長女で、区長は富岡製糸場工女募集の地域責任者でもあったから、立場上率先して娘を参加させる必要があったのだが、かねてから親戚の娘が東京にメリヤスの勉強に行ったことを羨ましく思っていた英は、富岡行きを非常に喜んだ。
 英は松代を立つとき父親にこう訓示されたという
「さてこの度、国のためにその方を富岡御製糸場へ遣わすについては、よく身を慎み、国の名、家の名を落さぬように心を用うるよう、入場後は諸事心を尽して習い、他日この地に製糸場出来の節、差支えこれ無きよう覚え候よう、かりそめにも業を怠るようのことなすまじく、一心にはげみまするよう 気を付くべく」
 これを見ても分かる通り、英は地元に新しくできる製糸工場で働くために技術の習得に出向いたのである。初期の富岡製糸場を寄宿制の専門学校と見るのは決して無理な解釈ではないのだ。
 在籍中は父の激励もあってか、たった1年で技術を習得して富岡を出ている。つまり彼女は創業を開始した最初の1年しか富岡にいなかったのだ。その後は予定通り松代に新しく建設された民間製糸工場の指導工女となった。「富岡日記」はそんな和田英が後年(30年後)、昔を思い出しながらまとめた回想録である。

和田英看板
富岡市では和田英をモデル?とした「おエイ」ちゃんというキャラクターを作製。富岡製糸場を愛する会にはカイコガをモデルとした「シルキー」というキャラクターがいる。狭い展示室に2種類もキャラクターがいてややこしい。

 次の時代の工女達は、和田英の頃とかなり事情が違っている。多くが貧農出身で、もちろん全てが「ああ野麦峠」に登場するような薄幸の少女だったわけではないが、農業労働から工場労働へ移行した日本の産業構造の変化と生まれて間もない資本主義経済の矛盾を、その細腕で受けとめることになってしまった人々である。
 和田英が居た頃の富岡製糸場は、1日8時間労働、週休1日であったが、民間の製糸場では毎日12~14時間働き、月に2日の休みというのが普通になっていった。苛酷な労働は大正5年の工場法施行まで続く。

 富岡市や一部の歴史家が、いくら明治初頭の官営工場のことだけを強調しようとも、現在我々が目にする富岡製糸場は、三井、原、片倉という民間企業の手を経た姿である。また操業停止後長く解体されずこの姿を維持できたのは片倉工業に維持管理費を出せる財力と文化財保護意識があったおかげである。
 現存する30棟ほどの建物のうち、6棟が明治初期のもので、それ以外は民営時代のものである。もちろん現時点では明治の煉瓦造りの建物や洋館が観光の目玉となるのだが、他の建物に価値がない訳では決してない。
 富岡製糸場は明治5年から昭和63年までの、日本の製糸業の姿を総合的に伝える貴重な近代化遺産といえる。つまり、近代日本の輝かしい未来を託した明治の工場遺構であるとともに、労働者と経営者が対立しながら生々しく日本の経済を支えていた繊維産業の遺構でもあり、また、ピークを過ぎて斜陽となった糸偏産業の残骸でもある。これだけの歴史が、あの狭い場所に凝縮されているのだから、大した遺構だと思う。それを活かすには広い視野と、良いことも悪い事も自分達の歴史として受け入れる度量が求められ、富岡は特別で女工哀史は無かったなどと力説してる場合ではないと思うのである。

繰糸場
繭から糸を採る繰糸場。ここはめずらしく内部も公開。建物は創業当初からあまり変わっていないようだが、設置されている繰糸機は、最近まで片倉工業が使用していた最新鋭の大型機。
大煙突
中庭に入ると一番目立つ大煙突と繭の乾燥場。煙突は片倉工業時代に、乾燥場は原合名会社時代にそれぞれ建てられた。市の発行するパンフレットなどには一切説明がない。市は明治初期の美談にのみ固執しているのでこんな不思議な事が起きる。

 富岡市は製糸場の世界遺産登録を目指していて、最近日本の暫定リストに加えられた。でも、ごく一部の歴史だけを抽出して美化したり、関連する他の遺構と比較して富岡が特によいとする視野の狭い発想では、世界遺産登録など無理だと思う。世界遺産登録を目指すなら、全国の養蚕製糸関連遺構と横浜など生糸貿易関連遺構を全て合わせて「欧米の生糸需用と日本の近代化を支えた蚕糸産業遺構群」としなければ、世界遺産の要件を満たせないのではないだろうか。失礼なことをいってしまうが、富岡製糸場が単独で世界遺産として通用するほどの遺構だとは思えないのだ。

祝-世界遺産暫定リスト

 暫定リストというものは各国が独自の判断で、10年以内をめどに登録申請を目指す物件のリストに過ぎず、ユネスコがその価値を認めた候補物件のリストではないし、日本がユネスコに推薦した物件というわけでもない。
 文化庁がかつて無責任に公募した無数の候補の中では、富岡の遺構はかなりましで、今後の整備によっては可能性がないわけではないといったレベルの話である。価値を確立する努力がなされないまま、いつまでも暫定リストに記載しておくと、逆にユネスコから見込み無しと判断され、世界遺産になる権利を失うこともありうる。関係者は研究整備の期限を決められたと自覚すべきであろう。浮かれている場合ではない。

 すでに群馬、長野、神奈川の蚕糸遺構関係者は、近代化産業遺産というくくりのなかでストーリーを描き連携を深めつつあるが、その中で世界遺産というものを位置づけ整備を進めて欲しいと思う。批判ばかり書いたが、応援したいと思っているのである。筆者に出来る事などほとんど無いに等しいだろうが。

 長くなってしまったが、最後にもう一つだけ。
 女工哀史に代表されるような労働搾取は、単に暗くて悲劇的な負の歴史と思われがちであるが、権利意識や労働環境の近代化に直接影響を与えたという側面を持っている。
 製糸工女は日本で最初の工場労働者であり、日本で最初に近代資本に搾取された人々であると同時に、日本で最初に近代資本と戦った人達でもある。女工哀史なくして日本の近代化は語れないといっていいほど、日本の労働史の重要なテーマになっている。
 現在の我々が享受している労働時間制限や休日制度といった基本的な権利も、天から自然に降ってきたのではない。日本に限らず世界中のたくさんの労働者の犠牲と戦いによって手に入れたものである事を思えば、女工哀史が無かったことなど自慢にはならない。歴史の「良い事」は、たくさんの「悪い事」とそれを改善しようとする強い意志からできている。

2014年8月「日本のおカイコさん-4」を追加しました。


プロフィール

Kimupon_Cicadan 木村 義志

Author:Kimupon_Cicadan 木村 義志
出身地 : 大阪市
現住所 : 東京都
1955年生まれ
科学図書執筆編集のお仕事
分野は生物学系

写真は特にクレジットや注釈がない限り筆者の撮影です。記事や写真についてのお問合せはなんなりと。
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