備忘録/自然・文化・社会とニュース

文化財

うどんの茹で汁におけるトホホ

 以前、讃岐うどんの茹で汁が環境を汚染しているという話をマスコミがとりあげ、けっこう話題になったらしい(2004年頃)。その後うどんの茹で汁をバイオ燃料に利用するなどと、寝言は寝てから言え的な話もあったが、それに似た事が実現しそうだという記事が、日刊工業新聞(2010/06/11)にあった。

 記事によると「県は廃棄うどんを原料としたバイオエタノールの生成に乗り出す」そうで「県内中小企業が生産プラントを開発」し、「産学官連携で」「廃棄うどんの有効活用を目指す」のだとか。「冷凍うどん製造メーカーは年間2000万円程度かかる廃棄うどんの処理費用の削減にもつなげる」と張り切っているらしい。
 お調子者が私事で浮かれているとしかいいようのない話である。これが日本の地方行政の姿かと思うと情けない。
 自治体の議会と行政は地元有力企業のために働き、研究費が乏しい学者は産業に密着したテーマに群がり、地域の王者である有力企業は地元の官と学を安く利用して業績を伸ばすという図式そのままである。

 有機廃棄物を発酵させてガス、もしくはエタノールを取り出し(バイオエタノールって発酵でできるただのアルコールのことね)、それをボイラーで熱にかえて発電、給湯などに利用し、少しでも工場の経費の足しにする技術はすでに実用化されており、各地の工場が「自己資金」で導入し運用している。「県がのりだす」という表現は、まるで香川県が鎖国でもしていて、工業技術が著しく遅れているようで滑稽である。
 廃うどんは澱粉だから酵母が利用しやすい。だからプラントの基本的な原理は焼酎を作る工場と同じである。塩分を含んだ小麦粉でも性能を発揮する酵母もとうの昔に育種済み。産学官共同という派手な花火をあげたんだから、今後全国の工場が導入するような先駆的なプラントにしなきゃ笑われるだろう。

セルフの醍醐味
讃岐名物セルフうどん。この写真は前にも使ったかな?

 香川県でうどんが環境問題になった根本的な理由は、香川県の下水インフラの整備率の低さと、気候条件による河川水量の少なさにある。また、うどん屋さんは個人経営の零細商店が多く、排水処理施設の導入が難しいことや、メディアのグルメ情報によって、うどん店の数や消費量が伸びたことも影響している。
 工業新聞の記事には「香川」「うどん」「環境」という3つのニュースキーワードが入っているが、讃岐うどんの茹で汁問題とは全く別の話である。何で県が一つの企業の経費節減(しかもどこの会社でもやっているような事業)に乗り出すのか理解に苦しむ。県立廃棄うどん処理工場でも建てて、県下の製麺業者の廃棄うどんの処理をまとめて行うとでもいうつもりなのだろうか。

 マスコミで「うどん環境問題」がニュースバリューを持つようになったのは、讃岐うどんの茹で汁が環境を汚染しているという意外性と一般市民にとっての身近さにある。だからマスコミはさかんに取り上げた。

 しかし、うどんの茹で汁など大した問題ではないのだ。毒性はゼロ。微生物による酸化還元前であれば悪臭もなく、排水処理は実に簡単なのである。問題はお店から出るうどんの茹で汁が、何の処理もされないまま水量の少ない讃岐平野の小河川に流れ込むことにあるのだ。悪いのは自治体のインフラ整備のマズさである。
 本来なら自治体がしてこなければならなかった下水システムの整備を、うどん事業者に負担させることで解決しようとしているように思えてならない。爺ちゃん婆ちゃんのうどん店にそんなことができるかっ!!。だから対策は今も遅れている。
 雨が少なく「水に流す」ことが難しい県のくせに、全国で最下位に近い排水処理能力しか持たない事への反省の言葉は聞かれない。水が少ないなら、処理水の中水道活用等で全国の規範になってもよさそうなのだが。今の香川県の下水行政は非常に情けない状況にある。名物であるうどんの茹で汁でさえうまく処理できずにいるのだから。

御殿浄水場ポンプ
 これは大正10年に竣工稼働した高松の御殿浄水場の給水施設の一部で、この古い取水ポンプとモーターは昭和61年まで稼働していた。なかなかロマンチックな機械設備だと思う。水の少ない高松に香東川の伏流水を供給した先人達の意志を引き継ぎ、今の水行政に携わる人達にも頑張ってもらいたいと思うのである。

 かくして、讃岐の零細うどん屋さんは大量の茹で汁が人に迷惑をかけるのではないかと肩身の狭い思いを続け、なんとか排水処理設備が買える中小のうどん屋さんは、県に代わって排水処理費を負担した上に「環境にやさしい」などと味とは無関係な看板を出すことになる。

うどん屋さん用

 30年以上前に行った観音寺のうどん屋さん、客が来てから生地を伸ばし切って茹でていた。その間に漫画雑誌が何冊か読めた。あの頃なら裏の小川に茹で汁を流しても全然平気だったけどね。

 東京の人間が勝手なことをいうなとお思いだろうが、讃岐は子供の頃から高校生の頃まで、夏休みを過した自分にとってとても大切な場所。だから他の地方のことより腹が立ってしまうのだ。すまんのう、ゆるせよ。

文化財

死者の城

 7月の出張の余禄はお寺が多くなってしまった。寺院建築にハマると抜け出せなくなりそうなので、以前からほどほどにしようと思っているが、何か面白いものを発見すると時間を忘れて見入ってしまう。和歌山県海南市の長保寺はなかなか見応えのあるお寺であった。

長保寺本堂多宝塔

 長保寺は紀州徳川家の菩提寺で、初代から15代までの藩主と何人かの夫人、また明治以降の16・17代当主も埋葬されている。ただし吉宗と家茂は将軍として江戸城に入ったので、墓所はそれぞれ寛永寺と増上寺。
 近くの高野山には初代~7代までの紀州藩主の墓所と伝えられるものがあるが(こちらも5代吉宗を除く)、長保寺を紀州徳川家の菩提寺と定めたのは初代の頼宣本人だし、高野山に墓があるというのは不思議な気もするが、高野山には家康、秀康、秀忠の霊廟もあるから、徳川家と高野山のつながりに基づく供養塔ということなのだろうか。このあたりの宗教的慣習については無知なのでよく分からない。

長保寺墓所

 徳川家の廟墓といえば日光東照宮に代表される、金ピカ趣味に彩られているものだが、長保寺は全然違っていた。一言でいえば山城、しかも石垣だけを残す荒城の趣。その郭のひとつひとつに墓が建っていて、こりゃ死者の城だと思った次第。武家の墓なら金ピカじゃなくて本来こうあるべきだろと主張しているようにも見えた。
 上の写真は六代藩主徳川宗直(吉宗の従兄弟)の墓所の石段。こんなのが山のあちこちにある。

 長保寺は紀州に徳川家がやってくるはるか以前、平安中期の創建。お寺の資料によると一条天皇の勅願寺で、2011年は一条天皇の1000年忌とのこと(勅願に関する文献資料がなく反対意見があることも説明し、その上で大門の額の裏書きや本尊の祀り方の格式などから、勅願寺説の補強を試みている。歴史の捏造や美化の多い昨今、嬉しい姿勢だなあ)。
 その後の鎌倉後期に寺域が定まり伽藍が整えられ、現在の姿に近いお寺になったという。現在見られる一連の国宝建築はこの時代のもの。中世の寺は宗派にあまり拘りを持っていなかったらしいが、紀州徳川家の菩提寺になった時に天台宗と定められ今日に至っている。長保寺のホームページは資料性が高く読み応えがある。興味がおありの方はご一読を。筆者がつべこべ説明するより面白いしためになる。
長保寺ホームページ

長保寺本尊

 本堂には平安~鎌倉期の釈迦三尊がこともなげに置かれているのだが、特に平安期の作とされる彩色脇侍(左は文殊菩薩・右は普賢菩薩)は小振りながらかなり魅力的。といっても遠くて暗かったので撮影してから詳細が分かったのだけれど。仏像にストロボを当てるのが躊躇われ、望遠長時間露光となってしまいピントが甘い点はご容赦を。

 近世城郭のファンで和歌山城を見に行こうと思っている方は、ひと足を伸ばして長保寺を見学されることをお薦めする。現世御利益にはあまり対応してないらしく境内は上品で静か。お寺を教養豊かと表現するのもおかしな話だが、そんな感じがした。

文化財

泉州タコ軍団戦記

 だんじり祭りで有名な岸和田に「天性寺」という浄土宗のお寺がある。通称「タコ地蔵」。タコ地蔵の方が通りがよく本当の名を知らない人も多い。最寄りの駅も南海本線「蛸地蔵駅」である。先日泉州に行ったので30年ぶりにタコ地蔵を訪ねてみた。

蛸地蔵駅01

 蛸地蔵は霊験あらたかなお地蔵さんで、子供の病気平癒などにご利益があるという。ただし、願をかける人は1年もしくは3年の間タコを口にしてはならない。これはタコ好きの大阪人としては非常に辛い条件である。願をかけるのに全員がタコを絶つなんて決まりは、全国でもこのお寺ぐらいなものだろう。16世紀に建立されたとされるが、19世紀の中頃に火災にあって記録が失われ、寺の歴史についての詳細は不明とのこと。

蛸地蔵本堂

 地蔵尊は高さ1.5mほどの石仏で正平17年(1362年・南朝の年号)の銘があるという。日本一大きいといわれる地蔵堂におさめられ、8月23・24日の地蔵盆にのみ御開帳となる。お地蔵さんは屋外や小さな祠に置かれ、お顔は拝み放題が普通と思うが、ここでは秘仏となっている。これもまた珍しいことだと思う。
 南海本線蛸地蔵駅の明かり取りには美しいステンドグラスがはめ込まれていて、画題はサムライと戦うタコ軍団という愉快なもの。その云われについては、蛸地蔵の境内に建てられた石碑に刻まれている。

蛸地蔵駅02

蛸地蔵縁起(改行・句読点等 筆者)

 遠く建武の昔、和田和泉守高家が岸和田に城を築いたころ、蛸の背に乗り給うた地蔵尊が海辺に御姿を現されたが、乱世のため厚く信敬しないまま二百五十余年の歳月が流れた。
 天正十二年三月、紀州根来・雑賀の衆徒が泉州を侵し、中村孫平次一氏らが籠る岸和田城を抜こうとした。城兵らの力戦むなしく敗色ようやく濃くなった日、無数の蛸とともに大法師が出現され、縦横に衆徒を打ち破ったから城は不思議に事なきを得た。
 大法師は地蔵菩薩の化身にほかならない。その後、城主の霊夢によって得た木佛尊像を城内にまつったが、文禄年間泰山和尚の懇望で当天性寺に移された。
 それより諸人の礼拝が自由となり、広大無辺のご利益があまねく伝わったから、参詣の人々たえることなく蛸地蔵の名と共に今日におよんでいる。
 有難や蛸の地蔵に手を引かれ 弘誓の船に乗るぞ嬉しき
<泉州志、和泉名所図絵、岸和田藩志より 岩橋太吉 撰>

蛸地蔵奉納額

 最後の和歌は誰のものか分からなかったが、地蔵菩薩による死後の導きの喜びを詠ったもので、浄土思想の本質をよく表していると思う。
 和泉名所図絵によると(二次資料しか確認していないが)話は少し違っていて、建武年間にタコの背に乗った地蔵像が海岸で見つかったところは同じだが、人々はこれを城の掘りに捨てしまう。後世になって岸和田城が紀州勢に攻められたとき、城内に一人の法師が現れ、敵がまるで蝶や小鳥であるかのごとく軽々と倒し、岸和田城を勝利に導くが、気がついたら法師の姿は消えていた。
 後日城主は、掘にタコがいるのを度々目撃するようになる(海に近い城であるが、掘の水は城域を流れる川から引いていたので、昔から淡水の掘だった思う)。城主が「奇怪なり」と家臣に掘をさらわせたところ、打ち捨てられていた地蔵尊を発見。先の荒法師こそ地蔵尊の化身であるとして、その地蔵を祀るようになったとある。残念なことにタコ軍団が現れたという話は書かれていない。その後の泰山和尚の話は同じ。タコ軍団の話はどこで加えられたのであろう。

 もう少し歴史のディテールを補足すると天正12年というのは、織田家の旧臣を滅ぼした秀吉が大阪に本拠を構え、天下統一に向って動き始めた年である。尾張・長久手の戦いに出陣する秀吉は、大阪の南方を守る部隊として中村一氏を岸和田城に配置した。すると案の定、秀吉の留守を狙って紀州の土豪勢力である雑賀・根来衆が攻め込んできた。侵攻勢力の一部は岸和田城を迂回し、堺を超えて大阪城にまで迫ったという。このため大阪は一時的に混乱に陥り、秀吉は急いで戻らなくてはならなくなった。
 岸和田の中村一氏の手勢は少数ながら敵の攻撃をよく防ぎ、やがて駆けつけた大阪からの援軍とともに反撃に転じて岸和田を守った。また翌年、秀吉が10万の軍勢を率いて実施した雑賀・根来衆討伐戦でも一隊を率いて勝利に貢献している。この功績によって中村一氏は3万石から6万石に加増され近江甲賀へ国替えとなった。蛸地蔵縁起の後半部分はこの岸和田を舞台とする合戦の話で、タコと大法師の活躍以外はほぼ史実通りである。

 筆者の父は生前、岸和田合戦のタコ軍団について、どっかの僧兵が助けたのではないかと推理した。その根拠を聞くと「僧兵は坊主やろ?、そやからタコ坊主や(笑)」。大阪の人間は息子と話をしていても笑いをとりたくなるのである。
 僧兵はともかく、中村一氏の手勢は3千程度であったから地元勢力の協力が勝利の必須条件であったろう。そこで思い出すのが信長VS石山本願寺の戦いで、本願寺の海上補給を絶つべく大阪湾の木津川河口に出陣した真鍋水軍の生き残り達のことである。彼らは勇敢に戦ったが強力な瀬戸内水軍連合に破れ、大将の真鍋貞友は戦死した。この戦いの後、残存兵達は岸和田のすぐ近くにある和泉大津という所で半漁半兵的な暮らしをしていたらしい。
 しかし天正12年3月、岸和田沖でタコを獲っていたかもしれない彼らは、岸和田の有事に際し中村一氏の下に再度集結した。ちょうどその頃、菅達長率いる淡路の水軍2百艘兵2千名が紀州勢の別働隊として和泉大津に向っていた(大津の浜は岸和田の北にあり上陸すれば岸和田城の包囲が完成する)。中村一氏絶体絶命の大ピンチ。そこで真鍋水軍の残存兵達は戦死した貞友の子貞成を大将として和泉大津の守りに着き、淡路軍の上陸を阻止、これを見事に打ち破っている。この功績で真鍋貞成は秀吉から感状を受け3千貫取りの侍大将となった。どうもこのあたりの話がタコ軍団の元ネタとなっているような気がする。でもやっぱり八本脚のタコ軍団が上陸して戦う方が、絵としては面白いけどね。

タコ武将

 岸和田には後日談としてこんな話が伝わっている。中村一氏が近江への国替えの際、地蔵尊も連れて行こうとしたが、夢枕に地蔵尊が現れ「自分は今後もこの地に残るつもりである。代わりにこの錫杖(地蔵尊が持つ杖)を持って行け」といい、中村一氏も喜んでそれに従ったというのだ。もし、中村家ゆかりの寺で古い錫杖でも見つかれば面白いけれど、中村家は子孫に恵まれず一氏の息子の代で断絶となったから、めぼしい記録が残っていない。
 中村一氏は有能で秀吉に重用されているが、スター家臣団の影に隠れテレビの戦国時代劇にはあまり登場しない。でも愛すべきタコ軍団伝説のおかげで泉州の人には親しみを持って語り継がれる存在となった。また、岸和田の危機を救った真鍋水軍の末裔のこともあまり話題にならないが、その後の真鍋貞成は勇猛な侍大将として各地の大名の間で「引っ張りダコ」となり、何人かの大名の下で働き文禄・慶長の役や関ヶ原にも参戦。最終的には紀州徳川家の家臣になったという。

 真鍋軍が泉州タコ軍団の正体だなんて馬鹿なことを考えているのは筆者だけなので他所で言わないように(笑)。

文化財

お寺の塔

 先日大阪へ行った。実家に帰省したのではなく、大阪と和歌山の県境をうろうろしただけ。
 大阪市内から南海電車に揺られて行けば、頭の中に座標が形成されて見慣れた懐かしい風景になったと思うけど、羽田から関空へ飛んで、初めて見る失敗都市りんくうタウンから泉州に入ったので、どこか知らない土地を訪れたみたいで面白かった。

 梅雨時だったのであまり多くは期待しなかったけど、見たかった建物を全部見ることができたので大満足であった。

 で、これがその物件の一つ。河内長野市にある観心寺というお寺のお堂。この写真を見て何か変だなと感じた人はお堂の通 ?
 観心寺建掛堂

 こんな日本昔話のアニメに出てきそうな茅葺きのお堂にしちゃ屋根がゴツ過ぎるし、それを支える木組みが豪勢過ぎるでしょ。実はこのお堂、五重塔や三重塔といった層塔建築の1階部分に、茅葺き屋根をポンと乗せたもの。
 寺に伝わる伝説では、楠木正成の援助で塔の建設を開始したが、1層目が完成した時点で正成が討死。工事が中断したためにこのような形になってしまった。だから名前も「たてかけ堂」というのだと。でも実際は楠木正成が死んでかなり経った16世紀初頭にできた建物らしい。
 古い文書によると当初観心寺には三重塔があり、その後の資料によると二重塔になっているらしい。現存するのは一重だけ。時代とともに1層ずつ減ってきたというのだ。おそらく塔が老朽化して倒壊の危険が生じたものの、三重のまま修理するだけの資金繰りがつかず、一層ずつ低くして倒壊を防いだと思われる。
 こうした層塔には、上下に建物を貫く心柱はあるが、心柱が塔を支えるのではなく各層を積み上げていく構造なので、こうした大胆な修理ができるのだろう。

観心寺建掛堂垂木肘木

 雨の薄暗い日に適当に撮った写真なので写りが悪いな。本来なら整然と並ぶ垂木の部分が、竹や丸太を縄で組んだ素朴な構造になっているのがお分かりいただけるだろうか。今見られる屋根は昭和50年代に葺き替えられたもの。文化財建造物保存技術協会の資料によると、その前は昭和15年に葺き替えている。もし文化財保護の思想がなかった時代、お寺に潤沢な資金があればきっと塔を新調していただろうから、このように部分的にせよ貴重な中世の建築は残らなかったはず。そう思うと建物の運命というのは分からないものである。

尾道天寧寺三重塔

 老朽化した塔を修理するのに層を減らすという方法は、希有なことではなく他にも現存例が2~3あるそうだ。これはその一つで筆者が前に見た尾道の天寧寺三重塔。14世紀に五重塔として建てられたが、傷みが激しくなったので17世紀末に三重に改修され現存している。五頭身が三頭身になったのでずんぐりむっくり。あまりカッコよくはないが貴重な中世建築の一つである。
 近現代の建築でも、出来るだけ建て替えず古い物を残していく努力は重要だと思う。これだって17世紀末にカッコイイ塔を新築してたら室町時代の建築は残らなかったのだから。

 塔の残骸だけ見ると、観心寺は寂れた寺のように思われるかも知れないが、実は大阪きっての名刹のひとつ。1/3重塔のほかに凄い宝がゴロゴロある。大きいものでは14世紀に建てられた国宝の金堂があり、そしてなにより平安密教界のアイドル、我らが如意輪ちゃんが大切に祀られているのだ。如意輪ちゃんこと如意輪観音座像(国宝)は年に一度しか姿を現してくれないが、ベティさんのようなチャーミングなお顔、立て膝、ムチムチの腕・・・。4月の御開帳には一目見ようと全国の善男善女の他、筆者のように「秘仏」とか「御開帳」という言葉に興奮する罰当たりな心の持ち主も多数訪れる。
 如意輪ちゃんの写真を持ってないので、見たい人のためにレプリカ仏像販売業者のサイトを。
http://thumbnail.image.rakuten.co.jp/@0_mall/2han/cabinet/00023170/marts-58-1.jpg
 これ7万円だって。よくできてるので美少女フィギアに較べたら随分リーズナブルだとは思うけど、やはり手が出ないな(笑)

追伸
ネット上にそこそこ大きな画像を発見。肖像権はどうなってるんだろう。
実物はやはり経年変化の重みをたたえ、心に迫るものがありますな。
→  観心寺如意輪観音座像

社会とニュース

とりあえず参議院議員選挙のこと

 この国の未来に興味を持つのはやめようと選挙があるたびに思い続けてきた。それでも毎回微かな期待を抱くのは何故だろう。やはりどこかで日本の未来を信じたいんだね。で、今回の結果だが、相変わらず「なんじゃこれは」という気持ちと「さもありなん」という気持ちが同居するような内容。

 「ふるさとの歌祭り」の宮田輝が自民から出てトップ当選したとき「なんじゃこれは」と思いつつ「おばんです」と語りかけられ喜ぶ人々の顔を思い浮かべて「さもありなん」と思った。今回、早々に民主に見切りをつけ自民を支持した人達のせっかちさには少し驚かされたが、色々な顔を思い浮かべてこれまた「さもありなん」と思った。そういう意味で日本人の基本的なメンタリティは不変、というかこれが議会制民主主義の本質なんだよな。

 具体的な感想を無礼を承知で一つ。谷亮子参議院議員殿、柔ちゃんと呼ばれていた頃のあなたはとてもチャーミングでした。でも白いスーツ姿で「感謝・啓」と書いたあなたはおブスでした。
 国会議員と現役の職業的スポーツ選手を両立させるなんてことを公言し、思慮の浅さを国民の前で披露した谷亮子。小沢さんよ、単純な彼女に参議院て暇だから大丈夫なんてこと教えたらダメじゃん。横山ノックだって立候補の時点で漫画トリオやめたんだから。

 こんな「議員でも筋(きん)」な人を担ぎ出したり、2議席独占を狙って敵を利すことになった「おっちょこちょい政党」民主は批判されるべきだけど、これまでの失敗を総括できないまま敵失で復調した自民は欠陥商品の安売りみたいで嫌だし、傾いた泥舟から逃げ出した連中もまだ何を考えているのかよく分からないし、何かときっぱりしてる赤旗教条主義の人達は古風で好きだけど、彼らが政府に参加して政策を実行する可能性はまずないし、村山・土井時代の自滅以来の低調を脱するかと思われた社民は、またしても自らミニ政党のレベルに戻ってしまったし、主権在池田と思ってる宗教政党は存在そのものが問題外だし、結局のところ、生きてる間に日本の政治的変化を見たい自分としては当面、政権をとって今までとちょっと違う事をやり始めた民主の連中を、寛大な気持ちで見守るしかない。衆参ねじれ現象の再来ですぐにガタガタになりそうだから、それに付き合うために自分の忍耐力の目盛りを少し上げておこう。
 ところで話は違うけど竹中平蔵と谷亮子って顔がちょっと似てるな。
プロフィール

Kimupon_Cicadan 木村 義志

Author:Kimupon_Cicadan 木村 義志
出身地 : 大阪市
現住所 : 東京都
1955年生まれ
科学図書執筆編集のお仕事
分野は生物学系

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