備忘録/自然・文化・社会とニュース

文化財

津軽の珍品建築

 平成の市町村大合併で弘前市に吸収されるのを拒んだ町がいくつかあって、そのなかの3町村が合併し平川市というのができた。今回はその町にある不思議な建物とそれを建てた人の話。
 
盛美館

 平川市猿賀町(昔の南津軽郡猿賀村)というところに盛美館と呼ばれる和洋折衷の建物がある(旧清藤家別邸/明治41年築/上の写真)。和風の屋敷の上に偽洋風建築の洋館をドンと乗せた風変わりな物件だ。洋館部分は膨張色である上、屋根が大きく塔まであるのでちょっとアンバランスに見え、これで今までよく倒れなかったもんだと感心してしまう。施工主の我が侭を見事に実現した棟梁は西谷市助。西谷の師匠は津軽を代表する名棟梁堀江佐吉である。

盛美館部分
 張り出して設えられた塔を真下で支えているのは2本の柱だけ。横方向の部材で重量を分散させているし、重い土壁と瓦を幾重にも乗せた城郭建築に較べたら、板壁と銅葺き屋根の小さな塔などどうってことないのだろうが、これを見るとなかなかスリリングだ。

 下は師堀江佐吉の代表作、旧第五十九銀行(明治37年)。これで木造だというのだから驚く。
青森銀行

 盛美館の内部は一階が見た通りの和風。二階は外観に反し和洋折衷で、和風の座敷に洋風の装飾をほどこしたものだ。靴を脱いで一階に上がり、足袋や靴下のまま階段を登るわけだから二階も座敷の方が都合がいいし、やはり完全な洋風より畳の方がくつろげると考えたのだろう。今回2階は撮影できなかったので詳細は伝えられないが、床の間のある畳の部屋の天井や幅木、床框、床柱などが漆喰による洋風装飾となっている。
盛美館2
 上の写真は2階へ上がる階段。石をはめ込んだように見える装飾は漆喰で作られている。白漆喰の唐草装飾とともに左官職人であった西谷市助の弟の施工と伝えられている。

 盛美館を発注したのは清藤家24代目(後述するがこの数字は怪しいと思う)の当主、盛美(もりよし)という人物で、着工までに日本各地の庭園や建築を見て歩き構想を練ったという。
 近世の清藤家は代々庄屋を務め、他の豪農がそうであったように商取引や金融も行い財をなしたと思われる。明治に入ると清藤家が所有する農地の大半は、明治政府の士族授産政策によって失われたというが、その後青森商業銀行や尾上銀行の設立に関わり、尾上銀行の頭取となったというから、土地は強制的な献上だけでなく買い上げ部分も多かったか、それ以前からおこなっていた商売で大きな収入を得ていたと推測される。多分その両方だと思うけど。

 盛美園(この建物を含む庭園全体の名)のホームページによると、清藤家は鎌倉時代から続く武家で、先祖は北条時頼や津軽為信に仕え、しかも有名な事件に関わっているというのだが、その内容は話としては面白いものの史実とは言い難い。ネット上にはそんな話を鵜呑みにした旅行感想文も多数あるが、それが是正されないのは人々の歴史に対する無関心さもさることながら、現在も清藤家が地元の名家として存続し、建物や庭園は今もその所有物であることが大きいのではないだろうか。ちょっと変だなと思いつつ地元で清藤家の実像を書くのは何かと気兼ねするのだと思う。

盛美園

 いずれにしても、清藤盛美は先代から受け継いだ資産を維新の動乱で失う事なく、明治政府の下でさらに増やして広大な庭園を持つ別邸を造営するほどの財力を得た成功者である。その足跡には成功に見合うだけの生々しい話もあったと思われる。例え悪い事があってもすでに時効であろう。そのあたりを知ることも立派な建物を鑑賞する楽しみとなる・・・のは私だけか(笑)。
 現在の清藤家当主は、この遺産の整備公開に努力されており、先祖の霊廟まで公開の対象として、自分の屋敷というよりは公共の文化財といった意識で向き合っておられると思う。

文化財

お城めぐりの続き「萩城」

写真は萩城の本丸正面とその後に立つ指月山。左の少し高い石垣が天守台。


 萩は古い家並が残る町として人気だが意外に歴史は新しい。関ヶ原以後の新興都市である。
 大きな藩の場合、領主の居館所在地が県庁所在地になることが多いのだが、萩は30万石の中心地であったにもかかわらず、山口県の県庁所在地になりそこねた。幕末に殿様が交通の要衝である山口に引っ越してしまったからだ。
 萩の領主であった毛利氏は、中国地方の大半を領有する大大名で、本拠地は今の広島県にあった。関ヶ原の敗戦によって領地の大部分を没収され、寂れた未開地の萩に封じ込められてしまったわけだが、幕末になって幕府の力が衰えてきたことを感じ取り、江戸に構築したネットワークを駆使して藩庁の山口移転を勝ち取った。毛利家の人々にとって、萩は屈辱の仮住まいであり続けたのだろう。おかけで萩は歴史の大きな流れから外れ、日本海側の知名度の低い小さな町になってしまう。そのために近年観光地として脚光を浴びることになるのだが。



 長く萩の中心であった萩城は、明治初頭まで天守が残っていたが、明治政府の廃城令で石垣と掘だけを残して解体された。明治政府とは実質的に長州政府であるから、各地の城下町の住民に対し自ら規範を示す必要もあったのだろう。



 陸から萩城を眺めると、背景に山を配置した優雅な平城だが、裏に回ると防御構造物にこの山を組み込んだ、海岸の大要塞だったことが分かる。近世までは日本海や東シナ海の方が防衛上重要であったから、海からの侵攻を意識して築城するのは当然だが、日本の城ではあまり見ない景観だ。時代が新しい分、元軍に備えた福岡県の海岸防塁より立派な石垣が並んでいる。かつてスペインがカリブ海沿岸各地に築いた海岸要塞を思い出した。


 これは日本で毛利氏が萩の海岸で城を作ってた頃、スペインがカリブ海で作ってた海岸要塞のひとつサン・サルバドル・デ・ラ・プンタ要塞。度重なるハリケーンの襲来で工事は遅れに遅れたとのこと。ここに行った頃はまだあまり城に興味がなくて、管理してるキューバが古い大砲を撃つのをサルみたいにぼーっと見物してただけ。城郭構造の詳細を見るなんてことをしなかったな。思えば惜しいことをしたもんだ。



 最初の写真に見える指月山は標高150m足らずの小さな山。といっても海岸のゼロメートル近くから登ることになるので、頂上に立つには一汗かくことになる。ここには原生林の植生がよく残っているので山ごと天然記念物として保護されているが、この山の山腹や頂上にも毛利氏が築いた萩城の続きがある。往時は何棟もの櫓があり、土塀や石垣を巡らせたなかなか立派な城郭で、萩城は麓の平城の他に山城がもう一つあるといった仕組みになっていた。現在、この山城を復元整備するには天然記念物指定が邪魔になり、植生を保護育成するには城の遺構が邪魔になるというジレンマに陥ってるように思えた。
 いうまでもなくこの山城は、麓の城が攻撃に持ちこたえられなくなったとき、将兵が山の上に逃れて立て籠る詰め城で、攻撃を防ぎながら援軍を待つか、それが叶わない場合には最後の自殺的攻撃をしかけるか自害して果てるための場所である。領主の毛利氏代々は、参勤交代で萩へ帰ったとき、必ず一度は山に登り武人としての自覚を高めるのに役立てたという。もちろん恒例のピクニックといった気分で登ったお殿様もいたと思うけど。



 山口県にはどれが県庁所在地になってもおかしくないような町がいくつもある。明治以来県庁が所在するのは山口市であるが、近世を通じて長門・周防の中心となっていたのは萩であり、また西の端には海上交通の要衝で、弥生時代から人がたくさん住んでいた下関がある。さらに瀬戸内側の中央部には工業都市の宇部、東には交通の要衝であり錦帯橋で有名な岩国市もある。山口県の中心都市はどこだと聞かれたら答えにくい。
 でも山口城の跡に建てられた県庁や議場を見て、やっぱりここが幕末の山口県の中心だったということが納得できた。




 

文化財

久しぶりに更新 信教の自由のことなど

 長く更新しなかったので呆れている方も多いだろう。また少しずつ書いていこうと思うので、気長にお付き合いいただければ嬉しい。

 先日、島根県の津和野というところに行ってきた。津和野は訪れる人も少ない山に囲まれた小さな町であったが、30年ほど前、山口県の萩とともに人気女性誌が取り上げたことで全国的に知られるようになった。近年の町並み保存地区観光のハシリである。

 今更、津和野の町並みを紹介してもつまらないだろうから、九州から津和野に送られたキリシタンについて少し話そうと思う。
 津和野は幕末から明治にかけて起きたキリシタン弾圧事件の地として有名である。下の写真は殉教したキリシタン達を記念して建てられた聖堂である。苛酷なキリシタン弾圧が徳川幕府から明治政府に引継がれ、より苛酷になったことを日本人としてしっかり認識しておくべきだと思う。

 日本の信教の自由は二度の外圧によってもたらされた。一度目は明治初期で岩倉使節団の頃。二度目は昭和の敗戦のときだ。そのため現代の日本人も信教の自由について、未だにきちんと理解できていないと思えてならない。今日はそんな話。

マリア記念聖堂

 世界の誰もが知るように、豊臣秀吉の禁令以来、日本ではキリスト教が禁止され信者は激しく弾圧された。特に苛烈を極めたのが江戸時代初期の九州で、拷問、処刑が日常茶飯事となり、多くのキリシタンが残酷な方法で命を奪われた。
 島原の乱以後幕府は信者の棄教策を研究し、比較的穏やかな方法で時間をかけて弾圧するようになった。そのためキリシタン達は地下に潜り、幕府もそれを知りつつ表面的には沈静化した状態を選択するようになった。
 ときおり「~崩れ」と呼ばれる、信者の存在が公となって逮捕・処刑者を出す事件は起きたが、日本でのキリスト教はフロイスやオルガンティーノが活躍した時代のように社会に影響を与えるほどの力はすでに失っていた。

 そんな事件の最後が1867年の「浦上四番崩れ」であった。日本はまだ徳川の治世であったがすでに開国し、長崎には外国人向けの教会が建てられていた。当然、密かに信仰の火を灯しつづけていた隠れキリシタン達は外国人神父に面会し、その指導を受け信仰を深めた。そんなとき、浦上で仏式の葬儀を拒否するキリシタンがあり、対応に窮した庄屋が長崎奉行に通報したことから、キリシタンの存在が公の事実となってしまった。

 長崎奉行は困惑し、処置を幕府に預けて自らは特に何もしなかったという。このことから当時は、お上に逆らわず治安を乱すようなことがなければ多少のことには目をつぶるといった雰囲気があったと想像される。
 長崎奉行からの報告を受けた幕府は現地に調査員を差し向け、キリシタンであることを進んで認めた70人程の農民を逮捕・拷問したが、そのうち幕府が倒れ明治政府が成立した。
 明治政府はキリスト教に関して幕府の政策を継承し、キリスト教は日本に相応しくない宗教としてこれを禁じ、違反者には厳しい罰を与え棄教させることにした。

 そして明治政府は、この時に逮捕された信者を「流刑」という、およそ新時代には似つかわしくない刑に処し、その一部を津和野に送り、乙女峠近くの仏教寺院に監禁して棄教させることになったというわけだ。
 明治政府はキリスト教弾圧に熱心で、その頃3千人を超える信者が逮捕され、6百人以上が流刑先で死亡している。 その背景には、長く仏教の下位に置かれた神道関係者が、国の神仏分離令で力を得、傍若無人になっていったことも関係しているだろう。当時日本に吹き荒れた廃仏毀釈の嵐は政府も手を焼くほどで、神道者が破壊した国宝クラスの仏教文化財は多い。津和野には最終的に100人を超えるキリシタンが送られた。
 
 流罪、棄教教育といっても、内容は現地まかせで、残酷なリンチが繰り返され、その凄惨さは幕府以上であったという。
 正義を掲げる集団ヒステリーの中で発揮されるサディズムは、人類の歴史の中で多数見られるが、津和野でも体を伸ばせない狭い檻に閉じ込めたり、冬に氷の張った池に浸けたりするリンチが繰り返し行われ、36人が死んだとされている。これは最早「流刑」などではなく、極めて残酷な身体刑である。

 すでに日本には外国人が多く訪れており、明治政府の残酷なキリスト教弾圧は欧米政府の知るところとなっていた。欧米のいくつかの新聞では反日キャンペーンが行われ、各国政府は度々改善を申し入れていたが、明治政府は内政問題として聞く耳を持たず、西洋の宗教は日本に合わず、神道を国教と決めているのだからキリスト教を禁止するのは当然であり、外国人は日本にあっても自由に信仰してよいのだから別によいではないかという発想であった。

 そんな折り、岩倉具視を団長とする使節団が欧米に出発した。目的は徳川時代に締結した不平等条約の改正であるが、行く先々の政府から信教の自由を認めない国家とは交渉できないという反応に直面し、やっと事の重大さに気づいた。それでも、彼らが日本に送った文書からは、信教の自由を理解したとは感じられず、交渉の上でし方がないので考え直そうというレベルである。
 現在も靖国問題がすっきりした形で解決できないのは、この頃から日本人の宗教的世界観が変わっていない事の現れであろう。要するに人間にとっての宗教の重要性と、信教の自由が理解できていないのだ。オウム真理教事件などは、その間隙を突いて起きたことである。

 今、神道の国教化を願う人々は、米英が政治の重要な部分でキリスト教を利用していることを挙げ、日本はその役割りを神道に負わせるのがよいとするが、他の宗教を信じる人や無宗教の人にとって国教の存在は不利益となる。そのことを国民が理解し、不利益が明確に担保されない限り、いかなる宗教も政治に寄り添わせるべきではないだろう。いずれにしても日本人には正しい宗教教育が必要だと思う。でないと、他者との思考の差を埋めることが難しい。世界は宗教に対して無頓着な人ばかりではないのだ。たとえ無宗教で宗教を敵視するにしても、相手を理解しなければまともに戦えない。そういったところにカルトが入り込む隙ができる。
 筆者は神社神道の高校に通い、信仰的には浄土宗の門徒であるが、不謹慎な不信心者である。しかし、日本の伝統を口にする若い右翼達の伝統知らずには驚かされることが多い。

 話が津和野からどんどん離れているが、いずれにしても、津和野は日本の近代化に関連した宗教事件に深く関わっているということだ。
 乙女峠で拷問を受けた信者の中にはキリスト教を捨て故郷に帰った者もあるが、後にそれを悔い再び信者となっている。最後まで信仰を捨てず命を落とした36人の殉教者の一人安太郎(農民)は、拷問の後に一辺90cmの檻に入れられ20日後に絶命するが、夜な夜な女性が現れ励ましてくれたので気力が衰えなかったという。キリシタンや地元の人々は聖母マリアが現れたのだと考え、安太郎の死地を聖母マリア降臨地として今も大切にしている。

マリア像

 明治政府がキリスト教の禁を解いたとき、生き残った人々は浦上に帰郷したが、彼らは全ての財産を失っており、その生活は困窮を極めたという。ある日突然身一つで連れて行かれたのだからそうだと思う。しかも、キリシタンを助ければ同罪に見なされる恐れがあるから、近隣の住民は家や田畑を守ってはくれない。家は泥棒に入られ、古い建物は崩れ、田畑も荒れ放題であったらしい。それを救ったのが有名なマルク・マリー・ド・ロ神父やその弟子達であったという。

 信仰に弾圧を加えたので天罰が当たったという訳ではないが、奉行に通報した庄屋は明治維新後特権を奪われて没落、一家離散となった。津和野でキリシタンを監禁した寺もつぶれてなくなった。そもそも天罰なら流刑を実施した当時の日本の指導者に当たるはずだが、彼らの多くは無事に職務を全うし、現在も尊敬を集めていたりする。

下は津和野の町にある、イエズス会の教会。こじんまりとしてなかなかイイ感じである。昭和初期の建物でドイツ人の設計による石作りの本格派。

津和野教会
プロフィール

Kimupon_Cicadan 木村 義志

Author:Kimupon_Cicadan 木村 義志
出身地 : 大阪市
現住所 : 東京都
1955年生まれ
科学図書執筆編集のお仕事
分野は生物学系

写真は特にクレジットや注釈がない限り筆者の撮影です。記事や写真についてのお問合せはなんなりと。
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