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自然

ウンコまみれ


 イヌと思われる糞にいたセンチコガネ。しばらくするとウンコまみれでスタコラ逃げ始めた。草食動物の糞にたかっているものは平気でさわるが、これは少し気がひけた。普通種だし撮影のみ(信州上田の安楽禅寺境内にて)。
 スカラベに代表される糞を食べる甲虫類は、同じサイズの甲虫に比べ力が強い。おそらく糞を押しのけたり中にもぐったりするするからだろう。掌の中に握るとグイグイ押しのけて脱出しようとする。一度お試しあれ。

文化財

吉野ヶ里遺跡は巨大な奴隷キャンプか

吉野ヶ里02

 日本城郭協会が選んだ日本100名城には、選択基準に首を傾げるものがいくつかあるが、アイヌ民族や琉球王朝の遺跡も「日本」だとする姿勢を見れば、そこに政治的配慮というか公益法人ならではの大人の事情がありそうで、もし自分が選考会議に出席したとしても、適当なところで御説ごもっともと折れてしまいそうだ。
 ただ吉野ヶ里遺跡を「城」の先祖だとする考えには、100名城とは関係なく、ちょっと疑問を感じているので、今日はその話。

 一般向けの城の本には大抵、弥生時代の環濠集落が日本の城の始まりだと書いてあるが、実際に吉野ヶ里遺跡に立ってみて感じた事は「これは城なんかじゃない」ということであった。

 吉野ヶ里の環濠集落は文字通り、人が集って暮らす集落の周りに濠を巡らし、濠の外側に土塁を築いて(おそらく濠を掘った土と集落を整地した時に出た土を積み上げたもの)、土塁の上に丸太を打ち込んで柵にしている。もしこれが軍事的な設備だとすれば、攻撃してくる敵のために陣地を作ってやっているようなものだ。また濠は断面がV字型の浅いものなので、泥や崩れやすい土でない限り(集落の地盤が崩れるのであり得ないことだが)、落ちても簡単に這い上がれる。

環濠集落-1

 稚拙な図で恐縮だが上図をごらんいただきたい。堀の外に土塁と柵を築くと、敵は身を伏せて土塁まで近づき、土塁や柵を盾に集落内を攻撃できる。また防御側は目の前に堀があるために、たとえ優勢であっても土塁にとりついて敵を追い落とすことができず、人員の一部を柵の外に出して攻撃しなければならないだろう。もしこれが逆なら防御側が有利となり敵は柵に近づく事さえ難しくなる。
 この時代の戦闘がどんなものであったかは分からないが、一度でも戦えば、こんな設備がどれほど敵を利することになるのか身をもって体験できるはずだ。大昔とはいえ我々と同じ人間がそれほど馬鹿とは思えない。

 集落の入口などには、先を削った棒をハリネズミのように建てた逆茂木や乱杭が再現され、屈曲した通路の虎口も見られる。これらは城らしい防御施設といえるだろう。しかし集落全体を巡る濠、土塁、柵の3点セットが敵に利する形で設置されているので、それらの防御施設も訪れる者を威嚇するためのものか、軍事力を誇示するための飾りのように見えてくる。

 愛知県の朝日遺跡は、三重の濠を巡らせた環濠集落として知られるが、こちらは土塁の外に濠があり、防御設備としては理に叶っているようだ。だから吉野ヶ里の環濠集落とは区別して考えた方がいいと思う。朝日遺跡を城郭のルーツとして100名城に加えるのなら納得できる。



 では吉野ヶ里の環濠は何のためにあったか、ということになるが、これは中の人間を外に出さないための施設ではないだろうか。
 写真は前に紹介した小田原城のゾウの家であるが、ゾウの運動場の周りには堀が巡らされ、その外側に塀がある。これならゾウが外に出ず、それでいて外からはゾウがよく見える。この展示方式を動物園の専門用語でMoat式(濠式)というそうだが、吉野ヶ里の環濠はまさにこれと同じ。

 環濠は動物の浸入を防ぐための施設だという人もある。確かに動物ならこの濠と柵で十分に防げるだろう。しかしここは日本である。手負いのライオンやゾウの群れがいるわけではない。日本産の動物のためにこれほど大袈裟な設備を作るだろうか。犬は縄文時代から飼われていたから、もし大形獣が入ってきたらまず犬が気づいて吼えたて、武器を手に飛び出してきた村人達がたちまち殺して食べてしまうのではないだろうか。またネズミなどの小形害獣はこんな施設では防げない。だからこの説にも納得がいかないのだ。

 そこで素人の推測になるのだが、吉野ヶ里には奴隷がたくさんいたのではないかと思うのである。
 弥生時代の倭人が、生口と呼ばれる人間を貢ぎ物として中国に送ったことはよく知られている(文書資料に現れるだけでも200人)。生口とは一般に捕虜や奴隷と解釈されているが、それ以外にどんな身分があり得ただろう。一部の人がいうように特別な技能を持った人とは思えない。中国から見て辺境の後進国であった倭国の王が、大帝国の皇帝にどんな技能者を提供できたというのだろうか。生口は中国の王侯向けの、ちょっと変った異国の奴隷だったと考えるのが自然だ。

 奴隷が普通に認められている社会なら、敵対する国の人間は全て奴隷候補である。隣国の農地や作物を奪うと同時に、そこに住む人間を奴隷にして生産に従事させるのは当然であろうし、たとえ土地が奪えなくても敵兵や敵国の農民を連れ帰えれば新しい労働力になる。
 弥生時代の戦争は土地や物資の争奪だけではなく、奴隷の奪い合いもさかんに行われたと考えると、環濠集落の不自然な堀と柵も説明がつくように思うのだ。

 濠が柵の内側にある環濠集落は、自国で働く奴隷を住わせるキャンプだったのではないだろうか。明るい昼間は目がとどくから柵の外で農作業や土木工事をし、夜や悪天候の日は集落に収容すると言った具合に。そう考えると、高い櫓も敵を見張るだけでなく、刑務所や捕虜収容所の監視塔に見えてくる。

 吉野ヶ里遺跡には住宅の他、城の天守を思わせる大きな建物や倉庫群があり、国の支配者がいる首都のようなものではなかったかと言われている。首都に奴隷キャンプは似合わないようにも思えるが、奴隷は権力者にとって大切な財産であるから、その膝元に収容されていても不思議はない。それに敵と頻繁に接触し、城を作って防御しなければならないような場所に大量の奴隷を収容したら、泥棒の手が届く所に金庫を置くようなものだから、できるだけ安全な国の中心部に収容するのは理に叶っている。また、権力者がいたとされる大きな建物があった所も同じ仕組みの環濠に囲まれているのは、奴隷がそうした場所でも働いていたからではないだろうか。環濠集落は全体的に内から外へ出にくい構造になっているように思えるのだ。

 現在吉野ヶ里歴史公園となっている大きな環濠集落の外側には、いくつかの小さな集落があったという。身分の違いによつて住み分けたと考えられているようだが、環濠の内と外、平均するとどちらが身分が高いかは分からない。大環濠集落内にいたのは王族や官僚と軍人(看守や警官を兼務)、それと大量の奴隷で、外に住んだのが一定の自由を与えられた農兵かもしれない。彼らは敵に捕まると奴隷にされるので必死に戦うだろう。

 この時代の歴史に詳しい方に、素人の奴隷妄想の間違いをご指摘いただけるとありがたい。

追記
続きはこちら→「吉野ヶ里遺跡/環濠集落は労働力の収容所


プロフィール

Kimupon_Cicadan 木村 義志

Author:Kimupon_Cicadan 木村 義志
出身地 : 大阪市
現住所 : 東京都
1955年生まれ
科学図書執筆編集のお仕事
分野は生物学系

写真は特にクレジットや注釈がない限り筆者の撮影です。記事や写真についてのお問合せはなんなりと。
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