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和井内貞行 アゲイン-3/伝記映画「われ幻の魚を見たり」のこと

 今回は和井内貞行 アゲイン-1で少し書いた和井内貞行の伝記映画「われ幻の魚を見たり」について。
映画ポスター
封切り当時のポスター
貞行と勝子
実際の貞行と勝子。明治33年撮影。ヒメマスに出会う5年前で、サクラマスの放流を始めた頃。

 現在ビデオもDVDも発売されておらず、幻の名作などといわれ目にする機会は少ないが、幸いなことに和井内貞行の出身地である秋田県鹿角市の「鹿角市先人顕彰館」にデジタル化した映像があり、係の方にお願いすれば見せていただくことができる。
 鹿角市先人顕彰館は和井内家の屋敷があった場所に建ち、和井内貞行と内藤湖南に関する資料が展示されている。また近くには和井内家の菩提寺である仁叟寺や、10代の貞行が教員助手を務めた毛馬内小学校の跡地も(標柱が1基立っているだけだが)ある。和井内貞行に興味がある人は十和田湖畔とともに訪れたい場所である。

鹿角市先人顕彰館
鹿角市先人顕彰館

 今どき映画の内容が全て事実などと思う人はいないと思うが、この映画は和井内貞行の伝記にインスパイアされた伊藤大輔が、戦後間もない日本人に感動を与えるために練り上げたドラマで、自ら「虚構の現実」といったとされるように、史実とはかなり違うストーリーとなっている。
 冒頭にある、麓の町から魚を運ぼうとして遭難した少年の捜索シーンもフィクションであるが、貞行が養魚を始めた動機の説明として秀逸で、見る者を一気に貞行の同志にしてしまう。
 魚が食べたいという母親のために雪の山道を往復した少年は、まるで二十四孝の猛宗(筍を食べたいという母親のために雪の中を出かけていく)のような孝行息子である。しかし、猛宗のようにハッピーエンドとはならず凍死してしまうのだ。人はこんな悲劇に弱い。

 これからご覧になる方もおられるだろうから、詳しいストーリーは書かずにおこうと思うが、冒頭のシーンのほかにも、両親を支えてよく働いた長男の貞時が、日露戦争に招集されてヒメマスの成功を見ることなく戦死(実際は貞行の後継者として活躍され昭和41年に亡くなられている)するなど、涙を誘うフィクションが効果的にちりばめられ、非常にしっかりとした、悲劇の王道を行くような構成となっている。
 私なりにイメージしている貞行や勝子の人物像とは大きく違う大河内貞行と小夜勝子ではあったが、私ごときの違和感などねじ伏せてしまうような名演で、そのストーリーに身を任せてしまえば、目をうるうるさせながら深い感動を味わうことができる。ただし、貞行の没後もその事業を受け継いで活躍された和井内家の人々にとっては、誇らしいというより、ちょっと気恥ずかしい映画であった可能性はある。

ひめます最中
鹿角市で売られている、貞行に因んだひめます最中

 この映画にはストーリーとは無関係な傍観者的脇役として、浄瑠璃(義太夫)好きの郵便配達人、伝兵衛(山本禮三郎)が登場するが、これがまたいい味を出していて、伊藤大輔の職人芸というか、手堅い劇作りがよく現れている。もちろん伝兵衛は架空の人物で、浄瑠璃が好きという設定から「近頃河原の達引(元禄時代に京都であった伝兵衛とお俊の心中事件を題材にした浄瑠璃)」の名台詞「そりゃ聞こえませぬ伝兵衛様」から付けられた役名であろう。
 山本禮三郎の鼻歌浄瑠璃には味わい深いものがあり、宴会シーンのエア三味線もよかった。こうした脇役にはコミカルで軽いキャラクターが定番だが、伝兵衛には無口でちょっとひねくれた頑固者という性格が与えられている。普段は物事に動じない風を装っている伝兵衛が、感極まった顔で貞行に戦死通知を渡すシーンは涙を誘う。このワンカットのために作り出された性格ではないだろうか。
山本禮三郎酔いどれ天使
黒澤明「酔いどれ天使」での山本禮三郎。Wikimedia Commons
 また前にアップした「和井内貞行がヒメマスの卵を入手した支笏湖」の中でも書いたが、貞行にヒメマスのことを教える山師(実在の人物は行商人)を演じた上田吉二郎もよかった。劇中で語られるヒメマスの別名“カパチェッポ”の由来、魚が元気よく飛び跳ねる様子を現したアイヌ語というのはデタラメであるが、上田吉二郎がそれらしく説明すると事実のように聞こえるから演技というものは面白い。

 映画の中で、こんなシーンが実際にもあったに違いないと思って楽しかったのは、貞行が湖の藻につく甲殻類を勝子に見せながら、十和田湖には魚の餌となるこのような生き物がいるのだから、養魚事業は成功すると語る場面だ。顕微鏡を使うなど、妙に科学的な雰囲気で違和感さえ感じるが、伊藤大輔は、迷信深い地元民の意識と先進的な貞行の意識を対比するために挿入したのだろう。この場面の勝子はなんとも可愛く、数少ない夫妻の幸福な時間が表現されている。
 あとヒメマスについて青森水試の技官と話すシーンも教育映画的な要素があって、和井内貞行伝が単なる近世的な情念の物語ではなく、産業の近代化にからむ話であることが表現されていた。

 歴史映画や伝記映画では史実との一致不一致がよく話題にされるが、筆者は近松門左衛門(伝)の虚実皮膜論を全面的に支持する立場で考えることにしている。監督の伊藤大輔がいったとされる「虚構の現実」も同様な意味を持つと思われるが、作品を観て荒唐無稽でつまらないと感じたら、それは作品としての出来が悪いか、観る者の好みに合わなかったということであり、虚構の物語でもある種のリアリティを感じ、感じるものが多ければ、それはよくできた現実的な作品ということになるのだと思う。そうした意味で「われ幻の魚を見たり」は名作だと思うし、れっきとした和井内貞行の伝記映画だと思う。もしどこかのミニシアターで上映会が行われたり、秋田の鹿角市先人顕彰館に行かれる機会があれば、是非ご覧いただきたい。
 
和井内家墓所
仁叟寺にある和井内家の墓所。墓石の風化が進み文字が読み取れないものも。貞行や勝子の墓は十和田湖畔にもある。貞行の戒名は開湖院和井内貞行禅居士と俗名がそのまま使われている。

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和井内貞行がヒメマスの卵を入手した支笏湖

支笏湖01
支笏湖

 和井内貞行は、明治17年(1884年)から「魚のいない十和田湖」で養魚事業に取り組み、15年以上にわたる苦心の末、一定の漁獲が得られるようになっていた。しかし、貞行の思い描く成功は、漁業と観光で十和田湖周辺を発展させることであったから、魚が多少獲れるようになったぐらいで満足することはなかった。そのため常に過剰投資となり、父親の資産を1万円以上も食いつぶしていた(当時の1万円を物価で換算すると現在の数千万円。賃金で換算すると1億円以上の額になる)。その頃に出会ったのが新しい魚種のヒメマスである。

 明治35年(1901年)、十和田湖観光を宣伝するため各地を回っていた貞行は、青森市を訪れた際、阿寒湖から支笏湖に移植されたカバチェッポという魚が、十和田湖にも向いているのではないかという話を聞いた。カバチェッポとはアイヌ語でヒメマスのことを指す(アイヌ語の辞典を見ると、Kapa+cep=カパチェップ=平にした魚、となっているが、和井内貞行に関する古い資料にはカバチェッポと書かれたものが多い。おそらく最初にヒメマスに注目した北海道の水産技師がこう呼んでいたのだろう)。

ベニザケ若魚01
ヒメマスと同形のベニザケ若魚 手前の黄色いのはアルビノ。
(水産総合技術センター千歳事業所=旧千歳中央孵化場にて)
ヒメマスはベニザケの陸封型で、両者に外観上の差はない。


 伝記によると、貞行にカバチェッポのことを教えたのは長野県の寒天商人、中島庸三ということになっている。どんな人物なのか詳しいことは分からなかったが、貞行の伝記映画「われ幻の魚を見たり」では、中島庸三に該当する人物を、後に名悪役として名をはせた上田吉二郎が好演していた(映画のシチュエーションは史実とはかなり違うが)。

 当時の青森県水産試験場は、北海道におけるヒメマス移植事業の成功(明治27〜29年、阿寒湖から支笏湖へ移植)を受け、県内の水産事業者にヒメマスの放流を奨励していた。中島庸三はおそらく、何にでも興味を持つ営業向きの好人物で、どこかで聞いた青森水試の話を貞行に伝えたのであろう。貞行は早速青森水試に確認をとり、手始めにヒメマスの発眼卵3万粒を発注した(発眼卵/受精して眼が形成された段階の卵。これぐらい育った卵が丈夫とされる)。青森水試は支笏湖に近い千歳中央孵化場に技官を派遣し、貞行の希望に応えることになった。

千歳中央孵化場の人々2
明治20年代の千歳中央孵化場のスタッフ。
北海道のサケマス孵化放流事業はこの人たちによって始められた。
前列左が阿寒湖→支笏湖のヒメマス移植に成功した藤村信吉。


 低温期の輸送(産卵期は秋)とはいえ、輸送器具と交通網が不十分だった明治35年に、生きた魚の卵を運ぶのは苦労の多い仕事であったろう。幸い千歳中央孵化場の藤村信吉らの努力によって、ある程度の運搬ノウハウは蓄積されていたが、本州の湖まで運ぶのは初めてのことであった。千歳中央孵化場から青森市までは青森水試の技官が、青森市から十和田湖畔までは貞行が、それぞれ鉄道、馬ぞり、徒歩で運ぶという、生きた魚卵のリレーが行われた。

 当時事業資金が逼迫していた貞行は、卵の代金と運搬費用を、懐中時計や妻の着物、アクセサリーなどを質入れして準備したという。

貞行時計貞一郎蔵
和井内貞行が質草にしたとされる懐中時計。
後に和井内家に戻り子息が相続。現存している。


 到着したヒメマスの卵は十和田畔の孵化水槽に移され無事に孵化。明治36年春、泳ぎ始めた稚魚が十和田湖に放された。これが現在まで続く「十和田湖のヒメマス」の始まりである。

 稚魚放流から3年目、明治38年の秋に、大きく育ったヒメマスが孵化場の前の湖畔に集まってきた。教科書にも掲載された和井内貞行伝のクライマックスシーンである。ただし、貧困のどん底にあった和井内夫妻が、爪に火をともすような暮らしを続けながら、ヒメマスの回帰をひたすら待ち続けたと考えるのは間違いである。

 和井内貞行は十和田湖でヒメマスが育つのをボ〜ッと待っていたわけではない。まだ売り上げのないうちからヒメマスの拡大再生産に備えて孵化場建設に着手。最初のヒメマスが回帰する明治38年の秋までに完成させている(おそらく試験操業を繰り返しながら、ヒメマスの生育状況をモニターしていたのであろう)。しかも、この年には新しい魚種としてサケの稚魚5万尾を放流し、また飼料生物として淡水エビの放流実験も行っている。

 和井内貞行の放流記録にある「鮭」は、当時の孵化放流事業の状況からしてシロザケと思われるが、当時も今も湖で生まれ育った天然のシロザケというものは存在しない。つまり海から遡上してきたシロザケから得られた稚魚を湖に放流したわけだ。これはベンチャービジネスというより水産増殖学の実験みたいな話である。淡水エビの放流も同じ。こうした事業に挑戦し続けた貞行は、「苦労の人」というよりやはり「面白い人」なのである。

シロザケ2009秋
海で育ち北日本の川に遡上するシロザケ。陸封型は知られていない。新潟県三面川。
ベニザケ千歳養殖2012
名前が示す婚姻色が現れたベニザケ。日本の川には遡上しないが、北海道の阿寒湖とチミケップ湖にのみ陸封型が見られる。かつて秋田県の田沢湖にもいたが、戦時中に田沢湖の魚が全滅するのを承知で行われた河川改修(強酸性の温泉水を湖に引き込んだ)によって絶滅した。水産総合技術センター千歳事業所の飼育個体。

 現在、ヒメマスが地域の名物となっているのは、十和田湖と支笏湖の周辺で、日光の中禅寺湖も2011年まではそうであったが、前の記事で書いたように、東電の原発事故による放射性物質汚染で湖産のヒメマスは食べられなくなってしまった。
 北海道ではヒメマスをチップ(アイヌ語のcepの和人訛)と呼び、支笏湖畔の食堂では、焼き物のほか、刺身、揚げ物、和え物、寿司など、様々なチップ料理を食べることができる。

支笏湖ヒメマス塩焼き
支笏湖産ヒメマスの塩焼き

ヒメマス刺身
支笏湖産ヒメマスの刺身

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十和田湖のヒメマスが不漁続きの理由

日光のヒメマス

 上の写真は原発事故後の現在、日光中禅寺湖畔で供されている養殖ヒメマスの塩焼きである。産地はよく分からなかったが、前に掲載した十和田湖のヒメマスとはかなり異なるプロボーションである。
 本州では十和田湖と並ぶヒメマスの産地であった中禅寺湖は、原発事故で放射能汚染に曝され、ヒメマスの体には150ベクレル/キロ以上の放射性物質が蓄積されてしまった。当然食べることはできず、県によって中禅寺湖の魚の持ち出し禁止措置がとられている。
 核物質というものの性質上、汚染は長期化すると思われるが、これは中禅寺湖で和井内貞行以前から続けられた淡水魚の増養殖事業への努力を、一瞬にして台無しにした出来事であった。だからこの塩焼きの姿は悲しみに満ちている。

 今回の話と日光のことは無関係。先日中禅寺湖に行ったので参考までに。放射能の話を期待された方には申し訳ない。今回の話は前回の記事でいった通り十和田湖のヒメマスの不漁について。

 十和田湖のヒメマスは1980年代の前半まで豊漁で、食用だけでなく釣りの対象としても人気が高く、地域経済に貢献してきた。しかしその後、ワカサギが多く獲れるようになると、漁獲が大幅に減り、生産が不安定となっている。

 ヒメマスはワカサギより大きく、ワカサギを補食することもあるので意外に感じられるかも知れないが、生態系は複雑で、強い者が弱い者を駆逐するとは限らない。
 1999年以降に発表されたいくつかの研究報告によると、ヒメマスの若魚とワカサギの間で食べ物の奪い合いが起き、ワカサギがヒメマスを圧迫しているようである。
 つまり、大形で強い動物でも、その成長過程には必ず小さくて弱い時期があり、哺乳類や鳥類のように親が子を保護することがなければ、他の生き物の圧迫を受けるということだ。特に湖のように狭くて孤立した空間では、その影響が劇的に現れることがある。

 十和田湖に住むケンミジンコ(動物性プランクトン)のいくつかの種が豊富に見られた年は、ヒメマスの漁獲量が多い。つまり、それらのケンミジンコ類はヒメマスの若魚の主要な食べ物というわけである。一方、ワカサギの胃の内容物を調べると、同様なケンミジンコが多く見られた。これらのことから、両者がシビアなライバル関係にあることが分かる。

 ワカサギが十和田湖で初めて記録されたのは1982年。和井内貞行が孵化放流に成功してから80年も後のことである。その後ワカサギが急激に増え、1984年に網を入れると4トンもの水揚げがあり、その後も大量に獲れ続け、1991年には150トン近く獲れたという。これは、外来生物が一時的に増える様子と似ており、その後は大漁でも数十トンぐらいを推移している。

 この流れを見ると、1982年の少し前にワカサギが放流され、その後一気に増えたように見える。しかし、ワカサギの放流記録は戦前からあり、その結果は失敗と評価された。つまり、ワカサギを放してもたいして増えず、ヒメマスを圧迫するようなことにはならなかったのである。そのあたりはちょっとした謎だが、水産技官の天野勝三は、2003年の青森県内水面水産試験場事業報告書の中で、1982年の水温低下でヒメマスの稚魚が大打撃を受けたとき、ごくわずか生き残っていた放流ワカサギの子孫が、ライバルの消滅で一気に数を増やし、その後ヒメマスの若魚に対抗できる勢力となったというような仮説を示している。
 
 ブラックバスの放流を正当化する人々の中には、生態系ピラミッドの上位にいるブラックバスが、小魚などの餌料生物を食べ尽くすことはあり得ず、餌料生物が激減すればブラックバスの方が先に絶滅するから大丈夫という人がいる。しかし生物同士の関係はそんなに単純なものではなく、新しく放した生物が在来の生物に与える影響を予測するのがいかに難しいかということを、ヒメマスとワカサギの関係が示している。もちろん、十和田湖のヒメマスとワカサギは、どちらも他所から持ち込んだ生物であるが、琵琶湖など在来種が多い環境に外来種を放した場合、風が吹けば桶屋が儲かる的な、もっとややこしい反応が起きることは容易に想像がつく。

 和井内貞行の時代は生態学的な知見も少なく、めぼしい産業のない地域では殖産興業が国家的な優先課題であったし、河川湖沼も今ほど悲惨な状態にはなっていなかった。しかし河川湖沼をとりまく環境の荒廃が進んだ現在の放流事業は、環境保全とセットで、より科学的に、また慎重に進めることが求められている。


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ヒメマスのこと

とりあえず現代の十和田湖のヒメマス料理の写真を。
十和田湖のヒメマスは不漁続き。その原因はワカサギの放流にあるとされている。詳しい理由は次回にでも。

塩焼き
ヒメマス塩焼
刺身
ヒメマス刺身
薫製
ヒメマス薫製

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和井内貞行 アゲインー2/孵化放流事業の実際

和井内桟橋
十和田湖畔 和井内貞行の孵化場前にある和井内桟橋

 前回は導入部というか、教科書や伝記本の話で終わってしまったので、今回は和井内貞行の仕事の様子を簡単にまとめておきたい。
 その基礎資料の一つとなるのが、農商務省の下啓助(しもけいすけ)と篠田平三が、和井内貞行に直接取材してまとめた「十和田湖養殖業状況」という報告書だ。

 下啓助は全国の漁業や水産加工、流通などの実態をまとめた、日本初の本格的水産統計報告書「水産事項特別調査(農商務省/明治27年)」の作成に尽力した人物で、後に水産講習所の所長も務めている。
 篠田平三は下啓助の部下で、下が帰京した後も一人で十和田湖に残り、貞行の事業を詳細に調査、報告した。
 彼らがわざわざ十和田湖に出かけたことから、農商務省も和井内貞行の放流事業に関心を持っていたことが分かる。
 取材結果は明治39年(1907年)11月7日の官報に掲載されており、その視点はタイムリーな話題を追うルポライターのようで面白い。

経費・漁獲物売却勘定書留帳
和井内貞行 経費及び漁獲物売却勘定書留帳(和井内貞一郎氏蔵 十和田ふるさとセンター)
 和井内貞行は養魚事業に関する様々な記録を、見やすい形に整理していたので、篠田も大いに助けられたと思う。

 以下に官報に掲載された下啓助の報告書を引用し、緑色の文字で説明を加えさせていただきたいと思う。原文は濁点も句点も改行もない明治の文書なので、読みにくい漢字を新字、アラビア数字、仮名に改め適宜句点と改行を加えた。また読み易くするために数カ所だが助詞を補っている。◯は活字がつぶれて判読不能な文字。括弧内は筆者の加筆。

官報 第7008号 明治39年11月7日
十和田湖養殖業状況
農商務技師 下 啓助の観察に係る十和田湖養殖業の状況左の如し
(農商務省)
官報1906-11-7

冒頭の十和田湖の位置や地勢などの説明は省略した

 十和田湖は未だ実測したる者なきをもってその面積を詳にせず。湖水清冽にして夏期64°Fを超えず、冬期沿岸は結氷を見れども全面の凍結すること稀なり。
 中山と御倉山との間は噴火孔にして円形の湾をなし中海と称す。水深300尺以上あり、沿岸概して絶壁なるをもって水深し。ただ南方における休屋(やすみや=集落名)の沿岸2~3町のみ砂浜にして少しく遠浅なり。西方もまた十和田銀山跡および大川岱および発荷の沿岸に少しく浅處あり。

 64°F=17.8℃。実際の水深は最深部で1,000尺以上。平均水深が200尺もあって、この膨大な容積が後にコイ漁の障害となる。(1尺=30.3cm)

 東方の子ノ口(ねのくち)において川流となり、約14~15町にして一大瀑布となる。銚子瀧また子ノ口瀧という。直下25~26尺あり、これをもって魚類の遡上を妨げ、昔時より湖中魚介を産せず。ただ無数にイモリを産するのみなりしか。
 明治32年春、出水のために銚子瀧の右側崩潰し、一條の水路を作りたるより魚の遡上に便なるにいたれり。

 滝を迂回する魚道を掘ったのは和井内貞行本人だが、官報には洪水で自然に水路ができたと書かれているのが面白い。結局この魚道は、入ってくる魚より出て行く魚の方が多いとか、入ってきた大形のマス類が放流した若魚を食害することなどが分かったので、結局ふさがれることになった。

 これより先、十和田銀山に勤務せる和井内貞行、同志二人と謀り、コイ、フナ等の移植放流をなして湖を利用せんとし、明治17年より年々移植したりしが、コイは水深きをもって容易に捕獲すべからず。ただ7~8◯月の夜、産卵のために休屋沿岸の水草茂生せる所に来るものを、刺網、曵網等にて捕うるにとどまり、その他は水底に溜居するもののごとくさらに漁獲なかりし。

 和井内貞行は、小学校の教員助手から小坂鉱山の事務方に転職し、十和田湖畔の銀山に転勤を命じられたサラリーマンであった。この時代の十和田鉱山は「十輪田鉱山」と表記するのが普通であったというが、官報には十和田の文字が使われている。
 二人の同志というのは、十輪田鉱山事務所の飯岡政徳所長と、十輪田鉱山に燃料や食料を販売していた三浦泉八と思われるが今一つはっきりしない。この二人は和井内貞行が来る前からコイ等を放流していた。つまり十和田湖に魚を放したのは貞行が最初ではなかったのだ。同好の男達が鉱山事務所に集まり、熱心に魚談義をしている姿を思い浮かべると楽しい。


和井内孵化場跡
十和田湖畔に残る和井内貞行の孵化場跡

 明治34年、日光中宮祠湖(中禅寺湖)よりマス卵を取り寄せ、人工孵化をなして3万5千尾を放流し、爾後毎年マス卵を孵化放流せり。
 明治36年、北海道支笏湖より「カバチェッポ(ヒメマス)」の卵を取寄せ、また人工孵化をなして放流せしもの約3万尾にいたれり。
 このごとく年々コイ、マス、カバチェッポ等を放流しけり。すでにその星霜を積むこと10数年にして、コイのごときは体長2尺有余に達すれども、捕獲は意のごとくならず、いまだ存分の成績を上ぐることあたわず。

 放したコイが大きく育っていたにも関わらず、広い十和田湖では、産卵期に浅瀬に集まったもの以外、まとめて獲る手立てがなかった。

 イワナ、カバチェッポ等は未だ成魚を認め難くも、マスは明治36年より漁獲あり。年々その数を増加し、昨38年のごとき、春期マス1,981尾、秋期マス12,750尾に達せり。
 
 下啓助らが和井内貞行を取材した時にはまだ、ヒメマスの結果はでていなかったが、他のマス類ではそれなりに成果があがっていたことが分かる。
 マスの産卵期は一般的に秋で、冬~春にかけて孵化育成を行った後に放流する。ニジマスなどには春に産卵するものもあるが、ここでいう春期マスと秋期マスが何を意味するのかはよくわからなかった。


 秋期マスは産卵のために湖に注入する河川の近傍に集まるものを、刺網にて漁獲、養成して、その卵精の熟するを待ち、採卵し人工孵化を加えて放流す。
 明治38年の採卵数を挙ぐれば、総数176万6千粒にして、うち20万粒を青森県水産試験場に、2万粒を岩手県稗貫郡太田村(現花巻市)に寄贈し、明治39年春、120万尾を孵化放流せり。

 明治38年は初めてヒメマスの回帰が見られた記念すべき年である。伝記読み物や映画では、貧困に喘ぐ和井内夫妻が、湖面を見つめて涙するクライマックスであるが、その一方でサクラマスなどの孵化放流事業も着実に進められていた。もちろん資金繰りは苦しかったであろうが、和井内貞行がプロの種苗生産者としての意識を持って孵化放流事業に取組んでいたことが分かる。

 孵化場は銀山跡を距る南方2里、生出(おいで)にあり。孵化場12坪、その他事務室13坪半を有せり。採卵場は子ノ口、大川岱、宇樽部および銀山跡の4箇所にして、これらはただ親魚を採捕採卵するの設備に過ぎず。

十和田湖増殖漁業協同組合
和井内貞行の事業を引き継いだ十和田湖増殖漁業協同組合孵化場の旧棟。
貞行時代の建物ではないが、なかなかいい感じなのである。


 和井内貞行は秋田県士族なり。十和田銀山に勤務の余暇、養魚に志し、◯◯飯岡政徳および三浦泉八両人と図りその計画にあたりしが、両人はその同盟を脱したり。
 これにおいて和井内は銀山を辞し、独り専らその事業を継続し、10数年来忍耐してその業に従事し、資金を投ぜしこと約1万円。ようやく2~3年前より収利を見るにいたり、明治37年、区割漁業として湖水全部および湖水より銚子瀧までの使用を、秋田県より同人に免許したり。

 明治26年に十輪田鉱山が休山となり、職員は小坂町の本社にもどっている。その後は休日に十和田湖へ行ったり人を使うなどして養魚を続けていたが、明治30年、限界を感じた(鉱山が民営化されリストラが始まったことも関係したかもしれない)貞行は小坂鉱山を辞職。夫婦で十和田湖畔に移住した。飯岡がそれに同行できるはずもなかった。
 十和田湖には漁業権がなかったので、せっかく育った魚を他者が勝手に獲っていくような状態であったが、貞行に排他的権利が認められたことで、事業は本格的な水産業の形を整えていく。


青森県諸願届綴
和井内貞行が十和田湖を管轄する自治体と取り交わした書類は
今も整理保存されている。写真の書類は漁業税に関するやりとり。
(和井内貞一郎氏蔵 十和田ふるさとセンター)


 和井内貞行は◯手の孵化場を拡張し、本年は500万粒を孵化し、明治41年までに2千万粒を孵化放流の計画中なり。
 十和田湖のマスの採卵期は10月下旬にして、11月中旬において卵は発眼し、採卵50日ないし70日にして孵化し、翌年4月上旬、体長約1寸に達するを待ちて湖に放流せり。
 湖には数多の餌虫発生するをもって、成長ことにすみやかにして、コイのごときは7~8年を出でずして体長2尺餘、目方1貫600匁(6kg)に達し、マスのごときも5~6年にして、雄は体長1尺6寸内外、体重450~460匁(約1.7kg)、雌は体長1尺5寸、体重350~360匁(約1.3kg)にいたれり。マスの繁殖に従いイモリを認めざるにいたれりという。

 十和田湖はプランクトンや水棲昆虫が豊富で、放流したコイやマスは順調に育っていた。経済的に最も落ち込んでた時期とされるが、貞行は意気軒昂に事業計画を語っている。

 湖の周囲には数部落あり。瀧の澤2戸12人、鉱山跡3戸20人、大川岱6戸30人、發荷1戸5人、休屋1戸5人、以上秋田県に属し、休屋12戸60人、宇樽部25戸150人、青ブナ1戸2人、青森県に属せり。
 ◯中、宇樽部および休屋は湖畔における最大なる開墾地にして、水田少◯を有し、農業のかたわら牛の牧畜に従事せり。
 和井内貞行、養魚の結果湖水より年々漁獲のあるにいたり、和井内はこれら村民をして曵網、刺網、または手釣をもってマス・コイを捕獲せしめ、その漁獲物の幾分かを割きては村民に与えり。ゆえに現今、全部落はほとんど半農半漁となるにいたれり。

 下啓介は水産課技官という立場上、報告書をまとめるのに際し水産業の成功を強調しているが、それを差し引いても、近隣住民が新しく始まった放流事業から、すでに一定の利益を得ていたことがうかがえる。

 明治38年、気候◯を失し、湖畔部落の農作物不良なりしを、和井内はマス1万771尾を住民にあたえ、これを救◯せり。

 この報告では「農作物不良なりしを」などと簡単に書いているが、明治38年の東北は長雨と低温にみまわれ、天明の大飢饉もかくやの歴史的大凶作となった。
 そのとき住民に配ったマス約1万尾は、当時の漁獲量のほとんど全てであった。この思い切った救済策を提案したのは妻のカツ子だという。
 佐々木千之の伝記には、獲ったマスを全て売ってその代金1,300円を配ったとあるが、筆者も魚ではなく現金を配ったと思う。
 1.300円を当時と今の白米の値段から価値を換算すると530万円程度だが、職人などの賃金で換算すれば2,000万円にはなる。後者の方が実態に近いだろう。
 それから2年後、45歳でカツ子が亡くなると、近隣住民はその早過ぎる死を悼み大川岱に勝漁神社(カツ子の勝に漁師の漁)を造営。命日の5月3日を祭礼日とした。


和井内神社
後に勝漁神社は貞行を合祀して和井内神社となる 昭和52年建替え 石灯籠は当初のもの

水産と自然

和井内貞行 アゲインー1/教科書で讃えられた貞行

 かつて国語の教科書には「十和田のひめます」という和井内貞行(わいないさだゆき)の伝記が載っていた。50歳以上の方ならこの名前を見て昔を懐かしく思い出されたことと思う。

和井内貞行51歳
50歳頃の和井内貞行 緑綬褒章を胸に

 和井内貞行はいうまでもなく、十和田湖の漁業と観光開発に貢献した明治の偉人である。彼を語る時、失敗を乗り越え目的を達成した強固な意志が強調されがちだが、実際の貞行は石の上にも3年というようなタイプではない。広い視野と合理性、そしてフットワークの良さを兼ね備えた近代的起業家であった。有能な夫人とともに、現代風の明るいドラマの主人公にしても魅力溢れる人物だろう。学校で和井内貞行を習わなかった方もこの機会に興味をお持ちいただけたらと思う。

国語教科書_1

 上が教科書にある和井内貞行の伝記「十和田のひめます」である。内容は、魚のいない十和田湖で養魚を志した貞行が、20年におよぶ試行錯誤の末、ついにヒメマスという新しい水産資源を作り出すことに成功した、というもの。資金難に苦しみながらも執念で夢を実現させたことが感動的に描かれている。
 「十和田のひめます」は、戦後の学習指導要領第二期(1958~1967年)の教科書に見られ、1968年からは別の教材に変わってしまったようだ(筆者の調べは不十分なので詳しい方のご教示を願う)。
 写真の本は学校図書社刊の「小学校国語・四年」昭和35年(1960年)版で、和井内貞行の嫡孫で淡水生物の研究をなさっていた故和井内貞一郎氏の蔵書。現在十和田ふるさとセンターに展示されている。

青年訓練所教科書

 上は青森縣青年訓練所の教科書(青年訓練研究會編著/1932年)に掲載された北垣恭次郎による和井内貞行伝「十和田湖」。同じ内容が伝記集「近代日本の文化恩人と偉業(明治圖書/1941年)」の中に「十和田湖開發の大恩人 和井内貞行翁」として掲載されている。「近代日本の文化恩人と偉業」の方は、国立国会図書館デジタル化資料で閲覧できる。
 北垣恭次郎の作品は時代的に「タメになる話」臭さはあるものの、和井内貞行が単に執念と努力だけで問題を乗り越えたのではなく、成功の背景に科学的な合理性があったことを伝えている。また、妻カツ子の活躍を重視した構成は、近年の女性を意識したドラマ作りを思わせ興味深い。

和井内カツ子
和井内カツ子

 北垣恭次郎は東京高等師範学校付属小学校で教鞭をとり、古い教科書に頼らず独自の指導法を開発したり、校外授業を重視するなど、明治後期から大正にかけての先駆的教育者として多くの実践記録と著作を残している。
 「近代日本の文化恩人と偉業」には和井内貞行のほか、真珠養殖の御木本幸吉、琵琶湖疎水の田邊朔郎、自動織機の豊田佐吉、楽器製作の山葉虎楠ら、産業関係の偉人が紹介されている。
 ちなみにこの教科書を使った青年訓練所とは、将来兵士になる16歳以上の若者を教育する施設で、ここを卒業した者は入隊後の教育期間が6か月短縮された。教科書編者は青森県の若者を元気づける地元の偉人として掲載したと思われる。
 青森縣青年訓練所の教科書も小学校の国語教科書と同じく和井内貞一郎氏の蔵書。

十和田の開発者
 
 和井内貞行の伝記は教科書だけでなく、子供向けの読み物としても出版されていた。上は佐々木千之による「十和田湖の開發者 和井内貞行(三省堂1942年)」で、この本は戦後「ひめます」のタイトルで時代社から再刊されている(1948年)。
 佐々木千之は少年時代を青森県で過し、後に文芸誌の記者・編集者をしながら、文芸作品を執筆した作家で、青森県近代文学館にはその作品が多く展示されている。写真の本は筆者が古書店で見つけたものだが、市場在庫は非常に少ない。

 和井内貞行の伝記は本のほか「われ幻の魚を見たり(大映/1950年)」という映画にもなっている。大河内傳次郎の演技を堪能できる名作であるが、自由な解釈と脚色によってドラマが作り上げられているので、一般的な伝記とは分けて考えた方がよい(リンクしたスチール写真は劇中の貞行とカツ子であるが、悲壮感が強調されていることがご理解いただけよう)。この映画についてはまた別の機会にとりあげたい。

 最初にも書いたが和井内貞行の「失敗と貧困にめげず努力を重ねた苦労人」といったイメージは、彼の意志の強さを語る上では重要となるが、それは長所の一部に過ぎない。その年譜からは忍耐力よりアイデアと積極性を重視していたことが読み取れる。

 たとえば、貞行が最初に行ったコイの放流は失敗に終わったとされているが、実際は初回の稚魚放流から3~4年後には30cm以上のコイが獲れるようになっている。伝記や映画で語られる「湖畔に住む人々に安くて新鮮な魚を提供したい」という目標は十分に達成されたのだ。
 しかし貞行の目標は地域経済の振興であったから、そんなことでは満足しない。当初はたったの600尾に過ぎなかった放流量を、回を重ねるごとに倍増させ、同時に「十和田湖」と「十和田湖のコイ」というブランドイメージを定着普及させるため、当時始まったばかりの水産博覧会にコイを出品したり、湖畔に旅館「観湖楼」を建てて近県の地方紙にタイアップ記事を載せるなど、コイと十和田湖観光の宣伝に務めている。このアンテナショップのような旅館の女将として奮闘していたのが和井内カツ子で、地元民にも遠方から来た人にも信頼されていたという。
 また、コイは死ぬと市場価値がなくなるが、エアポンプも活魚トラックもない当時のこと、何処へ出荷するにも必ず山越えを伴う十和田湖は産地として不利であった。そこで貞行は日持ちする調理済み製品(当時は真空パックやレトルトパウチなどないので缶詰)の研究にも着手していたのである。

和井内貞行が十和田湖に放流したコイの量
コイの放流量
官報1906年11月7日十和田湖養殖業状況 より

 当時は湖の生態系に関する知見は少なく、その生産力を把握することが難しかった。また、十和田湖は浅瀬が少なくコイを漁獲しにくいという問題もあった。軌道に乗るかに見えたコイビジネスも、漁獲量の低下によって先行きが危ぶまれるようになっていく。

 貞行はコイと並行してイワナやフナなども放流していたが、コイの先行き不安を解消するため、マス類の本格放流に取組むことにした。そこで選ばれたのが青森県の水産試験場で孵化放流が行われていたサクラマスと、同じく日光の孵化場にあったビワマスまたはニジマスである(この時点ではまだヒメマスのことを知らなかった)。
 ここで感心させられるのは、コイの漁獲量が低下する前からマスの生産に備え、長男の和井内貞時を日光の宮内省御料局菖蒲ヶ浜孵化場(現在の増養殖研究所)に派遣し(後に次男の貞實を青森水試に派遣している)、マスの孵化放流技術を学ばせていたことだ。貞行はマスの導入について貞時らの意見をとりいれている。
 当時の日本は山村の殖産興業政策の一つとして、マスの研究に熱心で、貞行がコイを放流していた明治20年代には、すでに国や自治体によってマスの孵化放流の研究が行われていた。

 マスの導入には、ドイツのヒルゲンドルフに近代生物学を学んだ日本の水産学者の草分け、松原新之助のアドバイスがあったとされる。当時の松原は農務省の技官で、貞行がコイの放流を始めた頃から十和田湖を訪れ交流を持っていた。その背景には、国の研究機関が魚のいない日光の中宮祠湖(中禅寺湖)でやろうとしていたことと、貞行が十和田湖でやろうとしていたことが、完全に一致していたことがある。
 これらのことからも分かるように、貞行は広範な情報網を持ち、特に淡水魚の増養殖に関しては、日本のトップクラスの研究者からも情報を得ることができたのである。

 話は少しそれるが、上に示した教科書を蔵書されていた和井内貞行の嫡孫、和井内貞一郎氏は、大学で稲葉伝三郎教授(日本の水産増殖学の確立と普及に努めた研究者)から水産増殖学を学ばれ、その稲葉教授が若き日に学ばれた水産講習所を設立したのが文中で紹介した松原新之助技官である。
 こうした先人達の輝かしい業績とは全く無関係だが、筆者も昭和49年4月から50年1月まで稲葉伝三郎先生から水産増殖学の講義(その後引退されたので最後の講義となった)を受けるという幸運にめぐまれており、水産増殖学つながりで十和田湖のヒメマスを身近に感じながら、調べ事を楽しむことができた。というわけで、和井内貞行翁のネタをもう少し続けてみたい。

水産と自然

サケとマスのちがい

 先日久しぶりに長良川に行き、これまた久しぶりにサツキマスをいただいたので、今回はサケとマスの話。

サツキマス
サツキマスの焼き物。長良川河口堰の竣工以来不漁と聞くので他所のサクラマスかもしれない。
 
 生物学的にはサケとマスはほとんど同じもので、シロザケ、ベニザケ、サクラマス、カラフトマスなど多くの種類があるが、例えば今あげた4種はいずれも同じサケ科サケ属に分類され、雑種が作れるほどに近い。なので体の特徴からサケとマスの間に線を引くのは難しいといえる。ただサケ、マスと呼び分けられていることにはそれなりの理由があり、しかも時代とともに名前のイメージが変化してきた。

 サケ・マスの語源は諸説あってはっきりしないが、奈良時代の文書にはすでにサケやマスという言葉が登場する。
 奈良時代に編纂された「常陸国風土記(721年)」には、常陸国の助川郷の語源が、大きな鱒の意味である助(鱒の助=鮭)を獲った助川に由来するとの説明がある。また「出雲国風土記(733年)」出雲郡の章には、出雲大川(斐伊川/ひいかわ)に見られる魚として、年魚(アユ)、鮭(サケ)、麻須(マス)、伊具比(ウグイ)、魴鱧(ウナギ)が紹介されている。

 こうした古い時代に文字文化や食文化をリードしていたのは都周辺の人々と思われるが、彼らはサケよりマスの方を身近に感じていたはずである。
 その理由は、サケが少ない西日本の川にはサクラマス類が遡上し、京都や奈良を流れる川にも見られたこと。また、サケのことをわざわざ「鱒の助(マスの大きいもの)」と呼んだことなどがあげられる(現代の標準和名マスノスケはキングサーモンを指す)。

 サケ(日本の川に遡上するのは主にシロザケ)は、日本海側の南限が山陰地方、太平洋側は東海地方とされるが、日本海側の新潟以南と、太平洋側の茨城以南では非常に数が少ない。以前「カムバックサーモン」と称してサケの稚魚放流が流行ったとき、南関東の多摩川でサケを放していた人達が、遡上のほとんどない多摩川にサケを放すのはナンセンスであると批判されていた。

 平安時代には塩蔵加工された越後あたりのサケが、都に運ばれていたということであるが、それらは高級な贈答品であり、近畿以西の庶民にとってサケはさほど身近な魚ではなかったと思われる。
 新潟県の三面川(みおもてがわ)は、江戸時代から孵化放流事業が行われていたことで知られるが、そこで作られた「塩引き鮭」が、各地の有力者へ贈答品として送られていた記録が残っている。つまり、西日本の人にとってサケは塩干品として遠くから運ばれてくる物であった。三面川河口の町、村上市では今も塩引き鮭が盛んに作られ、町の名物となっている。

村上塩引き鮭02
村上の塩引き鮭。腹を一気に全部裂かず、腹びれの前でつないでおくのが村上式。
村上の鮭産業は武士が主導したので、切腹を嫌ったとの言い伝えがある。

村上塩引き鮭

 サケは秋に川を遡るが、サクラマスやサツキマスはその名が示す通り春~初夏に川を遡る。だから「鱒」の季語は春~初夏で、この遡上時期の差が本来のサケとマスの区別点となる。

 サケもマスも産卵期は秋だが、春に遡上するマスは川で餌をとりながらゆっくりと上流に向うので、川で餌をとらないサケと違って身に脂がのって美味い。サクラマスやサツキマスが遡上する川では、初夏の御馳走として喜ばれ、有名な富山の鱒寿司も、神通川のサクラマスが使われていた。

 ところが、海産魚が豊富にとれる沿岸部では、マスの人気も今ひとつで、サツキマスが獲れる伊勢湾沿岸の人に聞いたところ「あまり食べない」とのことであった。川魚の王様であるマスも、タイやヒラメといった海の高級魚に比べられると、そのランキングは下がるるということだ。さらに時代が進んで北洋のベニザケ(味、色ともにサケの最高級品とされた)などが流通するようになると、マスの価値は増々下がっていった。

 やがて水産資源としてのマスは、完全にサケの影に隠れるようになり、消費者からはサケの亜流のように思われるようになっていく。特にマスのイメージを悪くしたのは、東北北部より北に分布するカラフトマスであろう。
 カラフトマスは夏~秋に遡上するので、日本語の古典的な分類でいえばサケと呼んでもいいような魚だが、体が小さいのでマスと呼ばれるようになったらしい。

 北海道や南樺太の沿岸が日本の領土として開拓され、さらに北洋に日本の漁船が出漁するようになると、ほかのサケ類とともにカラフトマスも大量に漁獲されるようになり、その缶詰や塩蔵品が日本の食卓にのぼるようになった。しかし昔のカラフトマスの塩蔵品は「身が薄くて塩辛いだけのおいしくない塩鮭」として評判が悪く、マスのイメージを低下させた。戦中世代には今も、美味しくないサケ類を食べると「これはマスだな」などという人もある(カラフトマスは脂肪が多いので常温流通の塩鮭に向かず、塩を強く利かせる必要があった。今は低温流通の発達でカラフトマスも美味しく食べられるようになっており、産地の漁協ではカラフトマスの利用普及に力を入れているところもある)。

カラフトマス塩蔵品
カラフトマスの塩蔵品。尾びれに黒い斑点があり鱗が細かいことが特徴(imagenavi提供)。

 その後もマスの地位は回復せず、食卓の魚としてはほとんど無視されたような状態となり、各地の河川にダムができてマスの姿が消えていったことにも、ほとんど注意が払われなかった。
 長良川は最近まで、まとまった量のサツキマスが見られる川として有名であったが、河口堰ができてからは減っている。戦前は琵琶湖から出て京都を通り大阪湾にそそぐ淀川でも70トンぐらいの漁獲量があり、これは同じ時代の長良川の漁獲量より多い。

長良川01
大阪の淀川などと同じように、サツキマスの「いた」川になってしまうかもしれない長良川。
長良川河口堰
 下は長良川河口堰。ご覧のように一直線に河口を塞いでおり、魚道を付けても海と行き来する生物の減少は避けられない。また堰より上流は海水の影響がなくなったので、汽水の生物が激減した。手前は堤と中州を隔てて隣接する揖斐川河口。

 長良川とサツキマスに興味のある方には、この本を紹介したい。写真家の田口茂男氏が1991年の段階で2011年、つまり現在の長良川を憂いて出版された写真絵本である。大判の児童書であるが、河川行政に責任を負う有権者にこそお読みいただきたいと思う。
 サツキマスのいた川(草土文化/1991年)
サツキマスのいた川

プロフィール

Kimupon_Cicadan 木村 義志

Author:Kimupon_Cicadan 木村 義志
出身地 : 大阪市
現住所 : 東京都
1955年生まれ
科学図書執筆編集のお仕事
分野は生物学系

写真は特にクレジットや注釈がない限り筆者の撮影です。記事や写真についてのお問合せはなんなりと。
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