備忘録/自然・文化・社会とニュース

社会とニュース

安倍総理の靖国参拝で思い出した明治初頭の宗教外交史

 安倍総理の靖国参拝を見て、明治初頭の宗教外交を思い出した。安倍首相も、できたての明治政府の指導者達も、それぞれ内輪の柵はあったとは思うが、例えていうなら、身内用のネタをテレビで披露したために滑った、といったところか。
 明治初頭の宗教と外交の事情を知るには、高木一雄の名著「明治カトリック史」が大いに参考になる。この本には著者の考察や解説が少ない。その代わり当時の書簡や外交文書が原文のまま大量に引用されていて「著者が一次資料を整理して並べてやるから、読者はそこから何かを読み取れ」というような硬派な構成だ。この本を頼りに、信教の自由より国家の権威が優先される世界観をたどってみたい。といってもたいしたことは書けないのでお気楽に。

大きな外交問題となった宗教事件の概要

s大浦天主堂
大浦天主堂。左/現在の姿 右/建設当時の姿(大浦天主堂資料館)

 幕末の元治2年(1865年)、長崎の外国人居留地にカトリック教会(大浦天主堂)が建てられると、潜伏キリシタンの中からカミングアウトする者が現れるようになった。200年以上に及ぶ長い禁教政策の下で、密かに信仰を守り続けた日本人教徒の存在は、欧米のキリスト教徒に大きな感動を与えた。このことは欧米人が日本人に親しみを感じ、日本の出来事に関心を持つきっかけにもなった。
 一方日本国内では、カミングアウトしたキリシタンを野放しにしたら法令の権威が地に落ちると、慶応3年(1867年)、幕府は長崎のキリシタン一斉逮捕を強行。約70名を捕らえ、拷問を加えて棄教を促した。
 これに対して欧米各国は一斉に反発。長崎奉行はもちろん、徳川慶喜にも抗議を行った。しかし、3ヶ月もすると幕府が崩壊し、キリシタン達は生きて家に戻ることができた。
 外国人神父は、これでやっとキリスト教が解禁されると明るい気持ちになったという。しかし、自宅に戻ったキリシタン達には、さらに苛酷な運命が待っていた。神道を国教とする中央集権国家の建設を目指す新政府は、耶蘇教(キリスト教)を国家神道の権威に害をなす異端と位置づけ、幕府の禁教政策が継承されることになったのである。しかもパワーアップした形で。

 慶応4年(1868年)九州鎮撫総督に就任した公卿の沢宣嘉は、長崎裁判所(旧長崎奉行所)長も兼任し、最初の大きな仕事として長崎のキリスト教対策に取組むことにした。
s沢宣嘉沢 宣嘉(1
 沢はまず指導的立場にいる者や家長など、約200名を長崎裁判所に出頭させ、改宗するよう諭したというが、そんなことで簡単に改宗するなどあり得ないことであった。そこでより厳しい対応をすべく、中央政府に耶蘇教徒の現状と厳しい処置を要請する書状を送った。
 「凶徒の勢い日々盛ん・島原の乱が再来し九州に争乱が生じることは必然」などと煽る沢宣嘉の要請書は、新政府内の耶蘇教に対する不安と苛立を増幅させ、木戸孝允にして「慨歎に堪えざるなり」といわしめた。
 沢宣嘉の提案は、3,000人ばかりいる耶蘇教信者を全員殺すのも残酷なので、まずは指導者を処刑し、そのほかの者は長崎から追放し、移住先では地元民から隔離して労働させるのがよいというものであった。
 また外国の抗議については、弱腰の幕府が外国人の抗議によって、捕らえた者を帰村させたりするから、奴らは自分達の後には外国がついていると錯覚して増長しているのだ。そもそも宣教師が外国人居留地の外にいる日本人を助けるのは条約違反であり、また我々が罰するのは日本の法律を犯した日本人であるのだから、それは内政問題であって心配ない、としている。

 こうした提案に対し、外交部からキリスト教徒が多い欧米に配慮すべきであるという意見が出されたので、死刑は行わず全員流刑にして改宗するまで戻さないという方向で意見がまとまった。新政府はこれを穏便で人道的な対応と考えていたようだ。

 流配先は加賀藩や石見藩など19藩で(廃藩置県前なので地方行政単位はまだ藩のままであった)、送られた信徒の総数は約3,400名にのぼる(当時のカトリック日本代牧プチジャン司教調べ。日本側の文書では約4,000名)。
 形の上では期限付きの追放刑であるが、信仰を棄てさせることが目的なので、執拗に拷問が行われ、長い監禁生活を通して660名が命を落としている。
 また、長崎とは別に、隠れキリシタンが多くいた九州の各藩でも逮捕監禁が行われており、狭くて寒くて不衛生な牢中で、子供や老人、病弱な者などを中心に死亡者が多数でていた。
 潜伏キリシタンが多かった五島藩の報告書によると「肌寒に耐えかね、あるいは呵責受け候て、死去いたし候者多分にこれあり候」といった状況で、大人には江戸時代から続く石責めや水責めが行われ、幼児や乳児は放置されたため飢えと渇きと寒さで亡くなった。

欧米各国の反応と日本の対応

 これらの事件の詳細は、外国人宣教師やジャーナリスト、それらの協力者などによって詳細に調査され、本国に伝えられていた。また、外国人居留地では新聞が発行されており、歯に衣着せぬ筆致で新政府を攻撃し、在日外国人はもちろん本国でも、怒りの共有化が出来上がってしまった。岩倉具視など渡航する前から悪党の親玉として外国人に知られていたらしい。
 いずれにしても欧米各国から見れば、見過ごすことができない人道に反する残虐行為である。キリスト教やそれを信じる人や国への侮辱や攻撃と捉える人も多かった。各国の領事(アメリカ、フランス、ポルトガル、デンマーク、ベルギー、スイス、オランダ、プロシャ、後に北ドイツ連邦、イギリス)は連名で事実確認とキリスト教徒の解放を求める文書を沢宣嘉に送った。

 長崎裁判所は当然こうした抗議があることは予想しており、前に述べた沢の内向きで独善的な論理で対応した(原文は漢語候文)。

「異教信仰の日本人の一件について----耶蘇教を信仰する日本小民を蒸気船で他所に送ったことは間違いありません。その理由は彼らが国律を犯したからであります。(中略)政府は罪なき国民を仁の道に背く所に送るつもりはいささかもありません。親しく心のこもったお申し入れはかたじけなく存じますが、ご説明させていただきました通り、(疑念を)氷解していただくべく、謹んでお答えいたします。(署名は沢宣嘉の部下3名の連名)」

 欧米の外交官達は「なんじゃこりゃ。全く分かってないではないか」と憤慨したことであろう。その後何度か抗議や質問の文書が送られたが返答は似たようなものであった。そこで欧米各国の公使が協議を行い、英仏米独の公使が日本政府幹部と面会して直接話をすることになった。

 日本側の出席者は三条実美、岩倉具視、福島種臣、沢宣嘉、寺島宗則ら日本政府を代表するお歴々である。興味深いところではドイツ公使の通訳としてシーボルトが出席していた。
 以下はその内容のごく一部だが、外交官寺島宗則の言葉に日本政府の意識がよく現れていると思う。下のドイツ公使はマクシミリアン・フォン・ブラント。フランス公使はマキシム・ウートレーであった(議事録は漢語候文)。
s岩倉具視岩倉具視 (2 会談当時はまだ和装で髷姿
sブラントマクシミリアン・フォン・ブラント(3
s寺島宗則寺島宗則(4
岩 倉「もとより我が国の教えを奉じ、政府の命令を守り、少しも悪い所がない者を移住させることはない」
ブラント「もしヨーロッパに日本の宗教を信じる者がおり、それを我々が罰したなら、貴国政府はさだめて不快に思われるであろう。だからヨーロッパでは、他の宗教を軽んじ侮るようなことはしない」
寺 島「仰せはよくわかるが、そもそも我が国は天皇陛下の御祖宗である天照大神を国民一般が拝んでおり、これに背く者はいない。耶蘇信仰の族はこれを侮辱し政府の命令を受け入れない。もしこれを放置すれば政府は威厳ある命令を出せなくなる」
ウートレー「日本の宗教は神道だけでなく仏教もあろう」
寺 島「仏教徒でも神を拝まぬ者はない。しかるに耶蘇信仰の者は大神を拝まぬばかりかこれを卑しめている。日本人は家に神だけでなく仏も祀るのが普通だ」
ウートレー「ヨーロッパに住む者が耶蘇教を信仰しなくても、我々はそれを咎めることはない」
寺 島「ヨーロッパ各国は規律が確立されているので、信教を自由にしても差し障りはない。しかし我が国は未だそのレベルになく、他の宗教がみだりに入ると政令に差し障る。旧幕府の大名もみな朝廷を頼りとしていた。つまるところ天皇陛下は大昔から我が国の君主であり、大神は陛下の御祖宗であるから、上下の別なく大神を拝めば政令に都合がよろしく、国民は政府のあらゆる指示をよく守る。これがなくては政府の立場が定まらない。もちろんヨーロッパ人に対し、日本に住んでいるのだから大神を拝めというつもりもない」

 こうして議論は平行線のまま、今後も引き続き協議するということを約束して終了となった。
 宗教に関わる闘争で、古くから多くの血を流してきたヨーロッパは、「国家は国民の信教の自由を尊重しなければならない」という基本的な約束事を(たとえ立て前であっても)共有するようになった。そんな彼らからすれば日本の宗教政策は、鎖国するならともかく、欧米先進国サロンにデビューするつもりなら、早急に改めてもらわないと困る独善的な考えと感じられたことであろう。

 尊王攘夷の武闘派公家であった沢宣嘉とはちがい、国際経験が豊富な寺島宗則は、自分の意見が詭弁に近い強硬なものだということをある程度自覚していたかもしれない。しかし幕府相手の内戦を戦うのがやっとの軍事力と、錦の御旗ぐらいしか権威を示す方法がなかった当時の新政府は、天皇と民間信仰を結びつけて権威固めをするために、当面は神道一本でやらせてくれと頼むしかないと判断したのだろう。
 その後も欧米各国の抗議は続き、日本は相変わらず「我が国の特別な事情」を主張するだけであった。しかし岩倉具視らが欧米各国を訪問した際、日本の主張が欧米各国には全く通用しないことを思い知らされる。

予想を超えた米国政府の反応

 明治4年(1871年)の晩秋、岩倉具視を団長とする48名の遣外使節団と、同行する留学生や外国視察の公家や大名、使用人など合わせて100人ほどの日本人が太平洋を渡った。
 一行は1ヶ月足らずの航海でサンフランシスコに着き、各地で予想を上回る歓迎を受けながら、約2ヶ月かけてアメリカ大陸を横断し、ワシントンに到達した。使節団はユリシーズ・グラント大統領(1822〜1885年 元南北戦争の将軍。日本の耶蘇教弾圧を批判していた)を公式訪問し、天皇の国書を手渡している。
sグラントユリシーズ・グラント(5

 また国務省では来たるべき不平等条約改正の地ならしとして、ハミルトン・フィッシュ国務長官らと11回会談している。一行はアメリカが条約改正に応じる意志があることを知って喜ぶとともに、内政問題だと思っていた耶蘇教徒の弾圧が、外交上大きなマイナスポイントになることも思い知らされた。
 以下に条約改正の条件として示された宗教条項に関するやりとりの一部を示す(日本側の漢語候文で書かれた議事録を現代語に要約にした)。
sフィッシュハミルトン・フィッシュ (6

フィッシュ「我々の言わんとすることは、我が国民が自由に意見を述べ、新聞を発行し、自由に信仰することが、貴国にも及ぶことを望んでいるということだ。法律に反さない以上、これらは人生の権利である。人民の意志に政府が関与することがあっては、自由という公権を害することになる」
岩 倉「貴国の人も、我が国の人も、差別無く、あまねくこれを施行すべきという趣旨は承知した。ただその内容を条約に盛り込む必要はないと思われる」
フィッシュ「将来もし政府に登用された者が、言論の自由や信教の自由に反対しても、条約に掲載しておけば、それを守ることができる」
岩 倉「我が国民は仏教を信じているが、各自の公権を大切に思っている。貴国の耶蘇教を信じる人も同じであろう。その件を条約に盛り込むことは内政干渉の発端になるのではないか」
フィッシュ「よくお考えいただきたい、これは一つの宗教について論じているのではない。現行の条約にも宗教に関する条項があるのはご承知か」
岩 倉「承知している。しかしそれは日本人とアメリカ人の交際に関わることで、日本人がアメリカ人を侮辱しないようにするものだ。日本人同士の交際をまで規定するものではない。日本人同士の問題は我が国政府に属する事務だ」
フィッシュ「こちらで求めていることを、みなさんでよくお考えいただきたい」
岩 倉「ロシアにおいても居留地の外国人には信仰の自由を認め、自国民にはそれを認めていないと聞く」
フィッシュ「人々に自由を与えることは、国を進歩させるために重要であることは、あなたもおわかりのはずだ」

 戦後民主主義の中で育った者なら、フィッシュ国務長官(1808〜1893年)の提案の方に親しみを感じるはずだ。アメリカは19世紀末にも太平洋戦争後と同じようなことを日本に要求していたのである。一方、天皇と神道の権威で日本を統治するため、日本人に信教の自由を与えたくない岩倉具視は頑に感じる。

 この次の会談では、岩倉具視に代わって木戸孝允が出席し、日本から同行していたチャーレス・デロング(1832〜1876年)在日公使も発言する。アメリカ側は長崎周辺のキリスト教徒弾圧に直接言及し、会談は厳しいものになった。

s木戸孝允木戸孝允(7
フィッシュ「使節団が日本を出発したあと、長崎で苛酷な弾圧があったと聞いている」
木 戸「そのことに外国人は無関係である。それは宗教上の問題であって、外交と貿易の利益を増進することとは関係がなく、宗教に関する条約を結ぶことは不必要と思う」
フィッシュ「宗教弾圧を防ぐことなく自由な国交はできない。外国の宗教を侮辱するのは外国人を侮辱することになる」
木 戸「それはこの場で議論することではない。一つの弾圧が全ての宗門に及ぶのなら条約に関わるが、現状はそうではない」
フィッシュ「一つの弾圧のことだけを申し上げているのではなく、全てに寛容であることを希望している」
木 戸「人が心に思う権利は天から授かり物である。もし政府がその権利の保護を怠るのであれば、それも条約に書くべきであろう。しかしながら我が政府はこれを保護する意志があるので、条約に書く必要はない」
フィッシュ「日本政府は苛酷な弾圧をしていないということか」
木 戸「そのことは米英仏、その他諸国の公使と会議で話し合った通りだ。同席されたデロング氏も日本政府の考えを承知しておられると思う」
フィッシュ「確証を得たい」
木 戸「それは条約以外の方法で証明する」
フィッシュ「耶蘇教徒4,000人を日本各地に離散させたことは最近のことである」
木 戸「そのことについては理由があるし、その頃と今では状況が違う」
フィッシュ「確かに物事は変化しやすい。だから日本政府が良い法を作り裁判所を設置するまでは、条約で人権を保護すべきと考える」
木 戸「外国人は保護するが、内政に外国人が立ち入って口を出すことは好まない。幕藩時代は国民が外国に保護を求めたかも知れないが、今は日本政府が開明の政治をおこなっている」
デロング「日本では様々な事件が起きている。近年4,000人の耶蘇教徒を何処かに放逐し、山林に寝かせ、鉱山で働かせ、奴隷にしてしまった。各国公使にはこのようなことが起きないようにすると約束されたが、その後も続いている。九州では寒気に倒れたり、餓死させられたり、箱に入れ鎖をかけられ道端にさらされたという。フランスの司祭によると、つい先日新たに70人を追放したとも聞く」
木 戸「我が国は善政に向け努力中で、急激に進歩している。そのときになぜこのような話を持ち出されるのか。貿易や外交とは関係がないではないか」
フィッシュ「日本政府は外国の軍隊を上陸させないことを希望した。だから軍隊を派遣せずにきた。しかし日本の辺境では、政府の許可なく人民を弾圧する役人がいる。当方はこれを防ぐことを望んでいる」
デロング「政府は岩倉公の弾圧はしないという約束を破られたのか」
木 戸「政府の方針は厳刑をやめて、耶蘇教徒に残虐なことはしないということである」
デロング「耶蘇教徒の家族を離散させたことは残虐行為ではないのか」
木 戸「日本政府が寛大な処置をすることを保証すれば今後の憂いはなくなるはずだ」
フィッシュ「なぜ早くそのような告知ができないのか。使節が出国した後も76人の耶蘇教徒が苛酷な弾圧を受けている。だから条約に書いて、政府が人民に条約に従うよう布告すればよい。それが貴国の開化を大いに進めるだろう」

 木戸孝允がちょっと可哀想になるほどのやりとりである。使節団離日後に起きた弾圧の人数まで突きつけられて驚いたであろう。しかし、欧米先進国の大臣クラスとの初会談としてはよく頑張ったし、学ぶことが多かったと思われる。

ヨーロッパの反応

 このあと使節団は欧州各国を回るのだが、岩倉も木戸も、フィシュとの交渉で多くのことを学んだためか、信教の自由問題では柔軟な対応を見せている。ただし、各国の大衆も日本の耶蘇教弾圧のことをよく知っており、行く先々で大歓迎というわけにはいかなかったようだ。

 以下はイギリスの外務大臣アール・グランヴィル(1815〜1891)と岩倉具視とのやりとり(日本側の漢語候文で書かれた議事録を現代語に要約にした。レミュザとの対談も同じ)。
sグランビルアール・グランヴィル(8
グランヴィル「今、英国と日本の政策で最も異なっているのが、耶蘇教の禁教である。日本が相変わらず耶蘇教を厳禁にしているので、私に書面を送り、貴君と交渉するなという者が現れるまでになっている」
岩 倉「そのことについて申し上げたい。300年前天主教が我が国に伝わったが、政治の妨げになるとして禁止令がだされ、それが久しく続いた。そのため人々は天主教がどのようなものであるのかも知らずに忌み嫌うようになった。今解禁の令を出せば、快く思わないものいる。そこで開港の頃から踏み絵をとりやめ、信じる者を厳罰に処すことをやめるようにした。最近は政務に支障のないものは咎めず、いずれは解禁の時がくると考えている」
グランヴィル「それはけっこうなことである」

 また、長崎に宣教師を送り出しているフランスでは、外務大臣シャルル・フランソワ・レミュザ(1797〜1875年)と会談した。
sレミュザシャルル・フランソワ・レミュザ(9
レミュザ「宗教のことは急いで何とかしなければならないだろう。欧米の人心を日本に向けさせるには、古い禁令を廃して寛大に対処し、信教の自由を認めるのが最良の方策である。我々と同じ宗教の人々が他人に煩わせられることなく、残酷な目にあわないことが大切だ。この問題についてフランスは注意をはらい、非常に憂慮している。日本でも文明国が採用している法を実施してもらえれば、我が政府は満足である」
岩 倉「宗教の問題は非常に急がなければならない事案とかねがね考えている。政府でも信教の自由を考えるようになった。ただ国内の実情はまだ大きく変われる状態ではないこともご理解いただきたい。今ご指摘いただいたことは政府に伝え、欧州各国と同様になれるよう努力する。時がくれば耶蘇教禁制の法を廃止するのは必定。ただそれがいつなのか、今時限を決めることはできない」

 さらに岩倉はパリ外国宣教会が派遣している神父が、現時点では違法となっているキリスト教徒を助けているが、それは不正行為であり、そのためにキリスト教徒の間で政府の威厳が損なわれている、それをなんとかしてほしいと注文をつけた。
 それに対しレミュザは、法を犯すものは罰せられるのが道理であり、外国人の保護を受けるのはおかしいと正論を述べた上で「ただし役人が(耶蘇教徒に)残酷な行為をするのを見るは忍びなく、助けたいとは思うのは人情として普通のことであり、これは宗教問題とは別の話である」と反論した。当事者の立場や宗教の種類を超えた、人道上の問題であるというのだ。
 レミュザは伯爵家の出身で父親も政治家。また哲学者としても知られていた。外務大臣に就任したのは70代の最晩年であるが、頭脳は冴えていたようだ。

 この後いくつかの国を回るが、宗教問題については大きな議論は起きていない。ただ、大衆も日本のキリスト教弾圧を詳しく知っており、使節団はキリスト教徒の解放を叫ぶデモにはたびたび遭遇し、酷い時は馬車が包囲されたという。

帰国後のこと

 岩倉使節団は、人権や宗教が近代国家でどんな意味をもっているのかをまのあたりにした最初の日本人といえるかもしれない。沢宣嘉に始まった新政府のあからさまな耶蘇教差別も、アメリカの国務長官や外交官という、ある意味での「教師」を得たことで客観視できるようになり、短期間のうちにより適切な対応に方向転換したようだ。このあたりの明晰さと適応力の高さは、さすが明治維新の立役者達といえよう。
 宗教問題で不平等条約の改正が遅れたと考える人もあるが、使節団は最初から条約改正交渉をするつもりではなかったし、法や官僚組織の整備など、国の体制が全く整っていない状態で米国との単独条約などに手を出したら、日本はもっと苦しい立場に追い込まれていただろう。

 そして明治6年、明治政府は貿易相手であり当面の師でもある欧米各国に配慮する形で、ついにキリスト教の禁教を解いた。と世間ではそういうことになっている。しかし、実際はキリスト教を禁止する高札を撤去しただけで、その理由も「日本人に浸透した法令であるから、高札を掲げる必要がなくなった」というような、とぼけたものであった。しかし、少なくとも、ミサを公然と開いても逮捕されることはなくなった。
 もし、欧米各国の潜伏キリシタンの運命に対する関心が希薄であったり、宗教条項を外交カードとしてゆさぶりをかけられなかったら、解禁はもう少し後のことになっていただろう。

 岩倉らの帰国後、征韓論をめぐる大混乱を経て、天皇の宗教的権威を核とする日本の国家体制が少しずつ固まっていく。そして全ての宗教が国家神道の下に置かれることになり、日本人が獲得したかに見えた信教の自由は、限定的なものであることもはっきりした。岩倉具視の発言にもある通り「我が国の(天皇陛下の)教えを奉じ、政府の命令を守り、少しも悪い所がない」のであれば、別に何を拝んでもいいですよ、というわけだ。明治22年(1889年)に発布された明治憲法では「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス(第2章 臣民権利義務 第8条)」となっている。「日本国民」ではなく「日本臣民」であるのだから、この権利は神道の神である天皇から恩恵的に与えられたものである。

 また神仏を同時に祀り、その他の雑多な民間信仰も受け入れる、日本人のルーズともいえる宗教感覚も、信教の自由に対する理解の妨げとなった。つまり、自分の宗派へのこだわりが少ないと、他者のこだわりに対しても鈍感となり、自分とは違う信仰も尊重しつつ一緒に暮らすという、基本的人権の運用訓練ができにくい。そして日本人なら天皇陛下と神道の神々を拝んで当たり前という考えが、権力側だけでなく一般大衆によっても押し付けられ、それが嫌なら日本から出て行け、というような話になってしまう。

 教義を厳密に解釈するなら、キリスト教やイスラム教はもちろん、仏教にも他宗派と相容れない教義をもつものがある。それらを熱心に信奉する人達にとって神社は自分の神様ではない。だから靖国神社が神社である以上、そこに祀られることを拒否する遺族がいるのは当然である。しかし、平均的日本人から見れば、それは突飛で理解しにくいことであるらしい。
 神社参拝を日本の「伝統的な風習」として捉え、あまり難しいことを考えずに拝めばいいのだという人もいるが、宗派とは古い宗教的風習の問題点に気づき、それを否定して理想のものを求めるところから発生するものだろう。だから神社神道に否定的な人がいてもいいし、真面目に考えた人が異端扱いされる世の中はよろしくないと思う。

参考図書 「明治カトリック教会史」 1巻および2巻 高木一雄 教文館 ISBN:13 978-4764272804 および ISBN:13 978-4764272811 2008年

写真ソース
1) The Eastern Culture Association
2) Library of Congress Prints and Photographs Division Washington, D.C. 20540 USA
3) Japanische Impressionen eines Kaiserlichen Gesandten . Karl von Eisendecher im Japan der Meiji-Zeit. München 2007.
4) Japanische Impressionen eines Kaiserlichen Gesandten . Karl von Eisendecher im Japan der Meiji-Zeit. München 2007.
5) United States Library of Congress's Prints and Photographs division under the digital ID cwpbh.03890
6) United States Library of Congress Prints and Photographs division under the digital ID cph.3a37879.
7) 国立国会図書館
8) Wikimedia Commons
9) Wikimedia Commons

社会とニュース

NEXCO(高速道路株式会社)のアホ看板

 下の写真は高速道路のサービスエリアにある看板である。
 「コンシェルジュ」とは、将来的にチケットの販売やホテルの予約、観光案内など、サービス範囲の拡大を願って付けられた「案内所」の新名称らしいが、筆者はこれを見るたびにストレスを感じる。

コンシェルジュ

 辞書によると「concierge」は、アパートや寮などの管理人とか、ホテル等でチケットを手配するなど旅の便宜を図る人やその窓口を示す仏語である。今はどうか分からないが、パリあたりの有能なコンシェルジュは色々なコネを持ち、満席でもチケットを入手できたりしたという。だから高速道路株式会社は、今までの案内所を超える、多機能の新しい案内所として「コンシェルジュ」の名前を掲げ、従来の「案内所」という表記をやめた。

 しかしながらこの看板、英語ではinformation(本来ならInformation desk)と書いてあり、また中国語では「問訊處(表記は簡体)」と「諮詢處」、さらにハングルでアンネソと書かれているのである。これらはいずれも日本語の「案内所」の訳であって、コンシェルジュとは意味が違う。
 英語、中国語、韓国・朝鮮語で「案内所」と書くぐらいなら、日本語の「案内所」を書き加えても罰はあたるまい。機能拡張を主張したいなら「旅の案内所」とか「旅行便利係」などと書けばいいはずだ。
 とにかく見ていて気持ちの悪い看板なのである。大きく書かれた ? マークは、コンシェルジュとは何でしょうというクイズにも見える。

 高速道路株式会社の担当社員に、デザイン案を見て「コンシェルジュという言葉の普及度が低いので、それだけでは分かりにくい」とか「中国語やハングルと意味が異なるのはおかしい」という人はいなかったのだろうか。
 JRが調子に乗って「国電」の新名称に「E 電」を採用し、世間の笑い者になったことを思い出す。

 この記事を重箱の隅を突つくような話と思わないでほしい。この看板は貧困な言語センスの現れであり、また一種の文化破壊といえる。
 平成の市町村大合併で、センスを疑うような仮名表記の新しい地名が生まれたが、コンシェルジュの看板もあれと似ている。さすがに愛知県南セントレア市は「変な名前になるぐらいなら合併しないで欲しい」と市民にいわれて実現しなかったようだが、英語のカタカナ表記である山梨県南アルプス市(南アルプスという言葉が親しまれているとはいえ、日本の山をヨーロッパの山の亜流といってるようで卑屈に感じる)や、単なる思いつきの代表例である群馬県みどり市(緑の多い町にしたいというだけで根拠が希薄。そんな事をわざわざ願わなくても十分に緑が多い自治体である)などが出現した。
 地名とはいうまでもなく、その土地の長い歴史を語る重要な文化財の一つである。それを無造作に破壊していくのは愚行としかいいようがない。南セントレア市の場合、市長が「南セントレヤ市」と書いて世間の失笑をかったが、こうした名前は市民が本当に望んだのではなく、広告代理店や開発業者と結びついた行政側が主導してることが多い。コンシェルジュの看板も根っこは同じである。

 とにかくコンシェルジュの看板を日本語が併記された看板に架け替えて欲しいと思う。もちろんそれ以上に、思いつきでつけられた市町村名を歴史に即したものに変えて欲しいと思うけどね。

社会とニュース

週刊誌のヨタ記事から

 ネット版の週刊ポストの記事にこんなのがあった。
 福島近郊のSAで福島の銘菓、野菜、米など大量に捨てられる

 内容は、福島に帰省または旅行に行った人が、もらったお土産の菓子や農産物を、帰り道の高速PAのゴミ箱に捨てて行くと言う話である。
 サービスエリアの清掃担当者から取材したということだが、その信憑性は不明だし、量的なことも分からない。記者自身がゴミを確認したわけでもない。要するに俗情を煽るための、ありふれたヨタ記事の一つである。

 早速この記事への意見がソーシャルメディアに多数投稿されはじめた(Twiterはリツイートを含め1分間に10本以上ペースで投稿があり、恐らく万単位の数になるだろう。MIXIは1時間当たり150本以上のペースで、これを書いてる時点ですでに2500本を越えた)。記事への批判や捨てた人に同情する声もあるが、筆者が目を通した範囲では捨てた人を非難する意見が目立った。

 お土産を途中で捨てるというのは、いかにもありそうな話である。お土産の農産物や菓子を渡してくれた人に「放射性物質が心配なので遠慮します」と言える人はいないであろう。たとえ安全だといわれても、これまでの行政の対応を考えると信用などできない。家で捨てればいいのだが、その辺は昨今の公衆道徳の欠如というか、家にゴミを持ち込まずPAで捨ててしまう人もいそうである。

 こうした問題の責任は全て、事故以後、効果的な対策が立てられず、ウソや誤摩化しで市民の消費動向を操作しようとしてきた国や自治体にある。
 今更福島の食品が安全であるといっても、心から信用する人などいないだろう。仕方なく食べなければならない人が横目で見て気休めにする程度だと思う。
 筆者はガンになっても原発事故との因果関係がよく分からない年齢なので何でも食べるようにしているが、国や県のいう安全など全く信用していない。

 生産者に申し上げたいのは、こんなヨタ記事など無視して、信用を再構築することを考えて欲しいということだ。
 消費者は人として被害に遭った生産者に同情はするが、たとえ健康被害が出ない水準であっても、放射性物質が入っている、またはその可能性がある食品は食べたくないと考えている。

 それは無農薬野菜が割高でも売れたことを考えればわかる。農薬をふんだんに使った野菜でも、残留農薬の量が規制値を越えていなければ安全な食品ということになるが、消費者はそれを体に悪いと感じ、無農薬や低農薬のものを求めてきた。また生産者もそれに応えることで、生産物の付加価値を高めようとしてきたはずだ。

 放射能汚染はゼロではないが、安全基準を大幅に下回っているから食えというのは、これまで無農薬でやってきた畑に農薬を撒き、それでも残留農薬は基準値を大幅に下回っているから、今までの無農薬野菜と同じように食ってくれというのと同じなのだ。これでは消費者の心は福島からどんどん離れていく。

 こんな頭の悪そうなヨタ記事で、消費者と生産者が直接いがみ合うことはないだろうが、福島に最大限の同情を示しながら、自分の子供には福島からできるだけ遠い場所で採れたものを食べさせたいと思うのが消費者である。誰もそれを責めることはできない。そのことを分かった上で、何をすればよいかを考えれば、答えを見いだせるのではないだろうか。

 筆者の答えはシンプルである。生産物は全て放射性物質の検査を実施し(もちろん全量ではなくトレーサビリティを確立した上での統計的手法に基づく部分検査)、それを継続的に製品に添付し続け、間違っても安全宣言のような馬鹿げた花火をあげないことだ。地道な正攻法しかないと思っている。

 今後も汚染状態は続くし、ロシアの例からみて何年後かに医療的な問題が持ち上がることがあるかもしれない。信用を失った行政がそれを誤摩化すことは不可能である。原発事故との因果関係が明らかにされなくても、福島市の若者の癌発生率が1パーセントあがったらしいというだけで、今よりもっと過激な拒絶反応が起きるだろう。

 何度もいうが、消費者に対し「基準を大幅に下回る安全なレベルなので、安心して食べて欲しい」なんて話は通用しない。消費者の希望は汚染ゼロであって、それ以外は生産者や行政から嫌なことを「強要」されていると感じるのだ。今はほかの地方の産物も選択できるのだから尚更。それを忘れたら消費者離れが加速するだけだ。

 福島の人はどんなに悲しくても、涙をのんでお土産捨てた人に寛大になって欲しいと思う。福島に近づかない人もたくさんいるなかで、少なくとも福島の地を踏み、食事をした人々なのだから。
 次回は放射能検査済みというシールでも貼ったお土産で勝負して欲しい。

 筆者は今年、郡山経由で会津城の赤瓦を撮影に行くが、メヒコでカニピラフを食べ、ママドールをお土産にするつもりである。

社会とニュース

海の色/兵庫県知事の失言

 1月の話題になるが、井戸敏三兵庫県知事のNHK大河ドラマの「色」についての発言が、マスコミで盛んにとり上げられていた。
 新聞などによると、始まったばかりの「平清盛」の色調を「薄汚れた画面」で「自宅のテレビの色がおかしくなったかと思った」などと酷評し、さらに海の場面に対して「真っ青な海が出てこず、これでは瀬戸内海とは言えない。自然をきちんと映し出してほしい」と注文をつけたという。

 映画やドラマを見てどんな感想を持とうが自由である。だだし、それを公言するときには、頭の中身が読み取られることを覚悟しなければならない。中でも美について云々するときなどは、その精神性が如実に顕れてしまうので注意が必要だ。

 井戸知事は自治省の官僚出身であるから、公人がこの手の発言に慎重であるべきことは、よく知っているはずである。しかし政治家になってからは、偏った見解でもハッキリいうようになった。この10年で対抗馬を寄せつけないほど強い「現職」に成長したのだから、多少乱暴といわれようとも、市井のオッサンのような言いたい放題は、地方に根を下ろそうとする政治家にとって必須の演出なのかも知れない。

 今回の発言も、お高くとまった映像表現を貶して、大衆に親しまれようとでもお考えになったのだろう。それにしても表現がお粗末過ぎた。
 カラーテレビが普及したばかりの70年代ならいざしらず、色彩の微妙な差異も映し出す高解像度デジタル放送時代に、こんなトンチンカンなことをいってたら失笑をかってしまう。

石垣島
石垣島の海。知事はこんな瀬戸内海がお望みか。 by imagenavi

 ちょっと重箱の隅をつついてみよう。とりあえず瀬戸内海の色について。結論からいって瀬戸内海は今も昔も「真っ青な海」などではない。真っ青な海といえるのは、上のような熱帯や亜熱帯の海であろう。

三原多島海
これが瀬戸内海の色。亜熱帯のようにスカッと青く抜けるのではなく、色に多様性がある。

 今の日本人は沖縄など亜熱帯や熱帯の海が身近になっているので、青い海がどんなものかをよく知っている。
 瀬戸内海はそれらとは違って、栄養分の多い内海である。当然植物プランクトンも多い。水は青というより緑色がかって見える場所が多いはずだ。井戸知事は瀬戸内海をどれぐらいご覧になったのだろう。
 もし、瀬戸内海が沖縄のように真っ青な海なら、魚があまり獲れない海になってしまい、鯛も蛸も名物にはならなかっただろう。瀬戸内海の自然をきちんと映したら、それは真っ青な海にはならないはずである。
 NHKも、大河ドラマの色に関する一つのアンサーとして「魚わく緑の海」とでも題した自然番組を制作されてはいかがであろうか。

三原海面の色
昼間の瀬戸内海を間近に見れば、こんな色調に見えることが多い。広島県竹原市沖

 瀬戸内海に限らず、水面の美しさとは、水の青さを意味するのではないし、青いほど自然度が高いというわけでも、もちろんない。
 瀬戸内海の美しさは、その穏やかな水面に映し出される季節と天候、時間の変化にある。つまり、日々刻々と変化する色の面白さこそ瀬戸内海の美の本質といえるだろう。そこに夥しい数の小島が浮かんでいるのだから、もうたまりませんて。

 オランダ商館の時代から、日本に滞在した西洋人(おそらく世界の海を見てきたであろう人々)も、瀬戸内海の美しさを褒めている。定期的に長崎から江戸に参府した歴代オランダ商館長とその随員達は、北九州から大阪まで和船で海路をとるのが普通であったから、瀬戸内海の美しさをよく知っていた。でも、瀬戸内海は真っ青だから美しいなどとはいってない。
 もし、海の美しさや自然度が、青さとイコールだと思っているのだとすれば、あまりにもお粗末な美意識であり自然認識であるといわねばならない。
 
明石の海
かつて小柳ルミ子が歌った瀬戸の夕暮れである。その美しさに立ちすくむ。
尾道水道
こちらは尾道の向島水道。都市部の奥まった水域だが、こんな美しい色に染まる瞬間がある。

 日本語では緑色も青いと表現することがあるが、真っ青といったら、多くの場合グリーンではなくブルーである。もちろん気象条件と見る位置によっては、瀬戸内海がブルーに見えることもある。特に青く晴れ渡った秋~冬の空を写した瞬間は真っ青と表現してよいかもしれない。しかし、それも瀬戸内海の美しさの一部分でしかないのである。

 井戸知事の兵庫県庁がある神戸の港は、平清盛によって整備され、近畿における日宋貿易の拠点となった国際港だ。現在の水質は決してよいとは言えず、高度成長期より改善されたとはいえ、夏などは赤く濁っていることもある。それでもやはり瀬戸内らしい美しさを見せてくれる瞬間はあるし、生き物もたくさんいる。真っ青ではないが、これも瀬戸内海の自然の一部なのである。

神戸港
神戸の海 by imagenavi 

 最後に瀬戸内海が青く見える写真を。
鞆の浦01
 青空を写して青く輝く鞆の浦。それでも青さは沖縄の海とは違う。単純に真っ青とは言い切れない、微妙な彩度の青さが瀬戸内海の自然ではなかろうか。

 物事の多様性を認識しているかどうかは、きめ細かい対応ができる為政者かどうかを見極める手がかりとなろう。おそらく井戸知事は、頭のいい有能な人物だとは思うが、一つの価値観で物事を強引に押し進めてしまうのではないかと、私などは警戒心を抱いてしまうのである。

社会とニュース

「食べログ」無責任な評価をばらまいておきながら何をいっておるのか

 昨年に引き続き厳しい年になりそうですが、本年も自然と文化財と社会の記事を気ままに書きますのでよろしく願います。
 新年最初のテーマは新聞の小ネタから。たいした話じゃないけど、なんじゃこれはと思ったので。

アマダイ刺02
この写真は萩名物の赤甘鯛。本件とは無関係だが正月っぽい彩りの料理だったので。

 新聞やテレビのニュースによると、ネットの人気ランキングサイト「食べログ」で、複数の業者が飲食店から金をとって、その店に有利な書き込みをしたことに対し、「食べログ」を主催するネット業者の(株)カカクコムが、それをやめるよう警告し、従わない業者には法的措置を検討するといってるらしい。
「食べログ」やらせ書き込み、請負39業者が…(読売オンライン)

 筆者には「食べログ」が業者にやめるよう警告したり、法的措置をとるとすごむ姿が滑稽に見えた。少なくとも同じ穴のムジナというか、どっちもどっちのいい勝負に思える。以下にその理由を説明する。

 事業者の業務内容を評価し、それを一般公開することは事業者の業績に直結するのだから、そこには大きな責任が伴う。しかし「食べログ」は匿名の不特定多数が勝手な評価を行い、内容をそのまま世間にばらまくという無責任なものだ。
 投稿を勧誘する説明には「あなたの採点で、お店や商品のレーティング(評価)が決まります」と書かれているが、評価の根拠や基準はもちろん、主催者と投稿者の責任について何も語られていない。
 投稿数は主催者が内容をいちいち確認できる程の量ではなく(67万5千店舗に対し317万本の評価が集まっている)、店を中傷するようなキーワードを検索して書き込みを削除するぐらいのことしかできないはずである。

 内容が同程度のライバル店があったとして、一方にシンパシーを感じる者が作為的に両者に差をつけた評価を書き込めば、それがそのまま「食べログ」の評価として公表されるのである。例えば旅行者の利用が多い郷土料理の店が、狭い地域に複数ある場合など、その影響は決して小さくないだろう。それに気づいた各店が「食べログ」への対策を考えるのは当然である。

 「食べログ」は自らが広めようとしている店の評価を「口コミ」などと称しているが、日本語は正しく使っていただきたいものである。「口コミ」とは、人から人へと直接伝えられる、伝達速度が遅く伝達範囲も狭い、規模が小さな不確実な情報を指す。国語辞典には「うわさ・評判などを口伝えに広めること」とある。だから「食べログ」は口コミではない。情報量が膨大で、しかもそれが利用しやすい形に自動的に整理編集され、さらには全国各地へ瞬時に伝達されるのである。こんなものは立派なメディアであって、書籍のグルメガイドを上回る力を持っている。
 主催者が「口コミ」などというのは、影響力の大きいメディア管理者としての意識の低さが現れているといわれても文句はいえまい。そうでなければ責任逃れの方便に近い。

 口コミと称して無責任な情報を、伝達機能の高いツールを使ってばらまいておきながら、書き込みに不正があったとして法的措置を云々するとは、ちょっと卑怯な気がする。
 もし情報の精度を高めたいのであれば、まずは投稿システムを改善し、主催者と投稿者の責任を明確にしていくべきで、場合によっては低い評価をされた者が、評者に直接抗議できるような手だても必要であろう。
 せめて、サイトの目立つ所に「これは個人の無責任な評価ですから、実際の内容と異なる場合があります。ご自身でお確かめください」と明記すべきではなかろうか。しかし「食べログ」は、驚いた事に「お店選びで失敗しない、本当に信頼できるグルメサイトを実現しています」などと大きなことをいっているのである。その責任の重さに気づいているのだろうか。

 素人の勝手な評価で同レベルのライバル店に差を付けられ、不利益を被ったからといって、このメディアを訴えて勝利することは、現状では難しいだろう。
 飲食店などというものは、味やサービスだけでなく、風評で成功し、風評でつぶされることもある。だったら、金を払ってでも自分の店の評価が上がる書き込みをしてもらい、店を繁盛させたいと考える人が多くいるのは当然であり、一方的に責める事はできないと思うのである。なんせ、不特定多数による無責任な個人的感想を、前述したように「お店選びで失敗しない、本当に信頼できるグルメサイトを実現しています」と吹聴しているのであるから。


社会とニュース

「自転車は車道」警察が急にトーンダウン

 先日「自転車は車道」という警察の方針強化を批判したが、このところ警察は「別に歩道を走ってもよい」と方針をトーンダウンさせている。
自転車、徐行なら歩道OK…警察庁局長の見解(2011年11月21日09時10分 読売新聞)
「自転車は車道」迷走…真意は「歩道暴走ダメ」(2011年11月21日09時10分 読売新聞)

 本件の責任者の一人である石井隆之交通局長によると、要するに、歩道でスピードを出すなど危険な運転をする自転車を取締り、スピードを出したい人は車道を走ってもらうだけ、ということらしい。
 これはマスコミに迎合した警察が、とりあえず取り組みをアピールしようとして失敗した例といえる。
 道路交通問題の改善とは、警察が何か方針を打ち出せば改善できるものではない。警察の役割りはどちらかというと、作られた制度や設備の円滑な運用を図ることであり、意見を聞くべき相手はマスコミではなく、まず第一に道路利用者であり、あとは関係省庁や自治体である。

 今回の騒ぎのきっかけは、マスコミが自転車と歩行者の事故に関するキャンペーンを行ったことにあるといえる。
 人身事故の中で、歩行者と自転車の事故は少数派である。自動車と自転車、自動車と歩行者の事故の方がはるかに多く、何らかの事故防止策を示して、速やかな事故の減少が望まれるのはそっちであろう。
 しかし、環境負担が少なく穏やかなイメージがある自転車が、歩行者を死傷させているとなれば、実数はともかく、意外性があってニュースバリューがある。そのために、他の交通事故より、自転車と歩行者の事故がクローズアップされることになった。要するに、マスコミでは実際の危険度より目先の珍しさが優先されるということだ。そんなものに警察が振り回されたのでは国民はたまったもんじゃない。

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「自転車は車道」における日経新聞の長閑さ

歩道自転車06

 当ブログに「自転車は車道、場当たり的な交通行政」を書いた翌日、日経新聞電子版に「自転車は車道」の方針に懐疑的な社説が出た。
 大筋は同じ方向を向いており、とても嬉しいと思うのだが、さすがはハイヤーを使い慣れた大手新聞の社説担当者さんというか、ちょっと長閑で道路の実情が見えていない気がした。自分のブログの補足説明のつもりで、少し引用させていただく。

>車道では、自転車に乗る人が安全を心がけるのはもちろん、車を運転する人にも自転車と「共存」する意識が欠かせない。時には道を譲り、スピードを緩める場面も多くなるだろう。
>歩行者の安全を守る代わりに、自転車の危険が高まってしまうのでは意味がない。社会全体にある、「車道の主役は車」という発想からなくしていこう。


 記事の自動車が自転車に道を「譲る」という状況が、何を指すのかよくは分からないが、運転免許の講習では、歩行者や自転車を追い越すときは、徐行するか間隔を1m以上空けろと習った。
 国家公安委員会が作った「交通の方法に関する教則」によると「追越しなどのため自転車のそばを通るときは、自転車のふらつきなどを予想し、自転車との間に安全な間隔を空けるか、徐行しなければなりません」とある。
 そのとき教官の方が「徐行とはどんな速度だと思いますか? 、いいですか? 、徐行とはただちに停止できる速度なんです。ただちに」と強調されたのを、免許取得後30年以上経った今もよく覚えている。よき指導者であったと思う。
 具体的には、自転車が車の直前で大きくよろけたり、急に向きを変えたときに、ぶつからずに止まれる速度ということだろう。たとえ低速であっても、歩行者や自転車に自動車がぶつかれば怪我を負わせること必至。徐行は当然である。

 ただ住宅地のように、交通量が少なく車の流れがゆるやかな道路なら徐行も可能だが、歩道があるような広い道路ではどうだろう。長い列をなして高速で流れている車の中で、度々「徐行」状態にまで速度を下げるのは危険であり、道路機能のマヒにもつながる。また安全な間隔を空けて走るのも、車幅や道路の幅によっては大きなリスクを伴う。ゆったりした規格の道路でも車線間隔は3.5m程。10t車なら左右50cmずつの余裕しかない。つまり、譲りたくても簡単には譲れない道路事情があるのだ。

 そもそも歩道とは、そうした日本の過密な交通状況において、歩行者の安全を守ると同時に、自動車の円滑な流れに資するために存在している。段差とガードレールで、自動車と歩行者(慣習的に自転車も)が安全に区分されていることを前提に、信号や標識などの付帯設備を整え、制限速度が設定され、大量の自動車を円滑に流そうとしてきたのではないだろうか。そうやって積み上げてきた設備やノウハウを、歩道が整備される前の原始的な複合交通にもどそうというのだから、これは「共存」ではなく「混沌」でしかない。
 この問題は安全に対する心構えで解決できるものではない。人と車の安全と円滑な物流を両立させるために、道路の機能と運用をデザインすることが求められているのだ。

 「社会全体にある、車道の主役は車という発想からなくしていこう」とあるが、その趣旨は「自転車は車道」と決まってしまった以上、少しでも安全にということであろう。しかし、実際に車道は自動車が主役となるように作られており、自転車が大きい顔で走れるようには作られていない。

 車道の端というのは、アスファルトの舗装面から一段低くなったコンクリート製で、場所によって傾斜してたり段差があったりする。また、砂やゴミがたまっていることも多い。こんなものは車輪のついた乗り物が通る場所ではなく、道路のバリ(型に材料を流し込んで成形する際、材料がはみ出したヘタのような部分)のようなものである。
 もし自転車も車道の主役というのなら、せめて自転車が通る部分を、自動車並みの「道路」にしておく必要がある。

歩道自転車02
最近車道の幅が広い道路に設置された自転車専用レーン。これがベストとはいえないが、この広さがあれば少しは安心感が増す。ただし、この幅の歩道と自転車レーンを作るには、片側2車線の道路を1車線に減らすか、道路に面した土地を収用して道幅を広げる必要がある。実現は容易なことではない。

社会とニュース

「自転車は車道」場当たり的な交通行政

 警視庁が自転車の車道走行を徹底させる方針を打ち出し、現場の警官は、幅3m未満の歩道では自転車を車道に下ろしたり、歩道をゆっくり走るよう指導を強化するらしい。

歩道自転車01
車道を走る自転車を見るといつもハラハラする。自分の家族が歩道から出てこのように車道を走っていたら、直視できるだろうか。
歩道自転車04
このトラックのドライバーは、自転車を追い越すとき、十分な間隔を空けるために、黄色のセンターラインを越えて、対向車線に大きくはみ出した。自転車と同じ速度で走り続けるわけにもいかず、かといってこのくらい間隔を空けないと、自転車がふらついたとき引っ掛ける恐れがあるからだ。

 まったくもってデタラメな交通行政のありようだと思う。
 今回打ち出された方針の原因は、自転車と歩行者の事故件数がこの10年で4倍に増えたことだろう。
 しかし警視庁の統計によると、自転車がらみの死亡事故で対歩行者のものは、年間0~4人(2006~2011年)で、対自動車は232~319人(同)と、自転車が歩行者を殺すより、自転車が自動車に殺される方がざっと100倍ぐらい多いのである。

 自転車を歩道から危険な車道に追い出せば、自転車に乗った人の死傷率が上がることは容易に想像がつく。車道と歩道を区分するガードレールや段差は、自動車から歩行者だけでなく自転車も守ってきたのである。

 歩行者と自転車の事故を問題視するなら、同じ空間の中で歩行者と自転車の関係改善を考えるべきだ。もし、歩行者と自転車を離すというなら、それらは自動車からも離さなければならない。自転車を歩行者から離し、それを自動車とくっつけるのなら、交通事故の組み合わせをかえただけで、安全対策などとはいえない。しかも、自転車と自動車の方が重大事故が起きやすいのだ。
 ノーヘルで体がむき出し、自動車にぶつかられたらひとたまりも無いという点では、自転車も歩行者も同じである。だから、自転車を車道に出すのも、歩行者を車道に出すのも、基本的には同じ。どちらも危険な行為なのだ。多くの人の場合、自転車は歩くより不安定で道幅をとるから、より危険かもしれない。

 今回の方針の法的根拠は、道交法の旧態依然とした「車両」の定義に基づくもので、それによると、自転車はもちろん、人が曵く荷車や人力車も、スポーツカーや大型ダンプも、同じ「車両」として、同じ道路区分の中を同じルールで通行することになっている(ただし自転車や荷車などの「軽車両」は、歩道のない道路の両端に引かれた白線の外の通行も認められている)。大量の車がビュンビュン通る広い道路は、たとえガードレールに守られた歩道があっても、その幅がせまければ自転車も車道を走れというのである。

 現在、歩道があるような広い道路の制限速度は40~60km/hである。そこを大型トラックからバイクまでが制限速度を上回る速度で大量に走り抜けていく。普通の自転車なら一生懸命こいでも20km/hが限界であろう。
 ヘルメットもかぶらず全身をむき出しにした人間が、加速が悪くスピードも出ず、ブレーキもチープ、風でよろけるような不安定な乗り物に乗って、全く性能が違う鉄の塊の群れに参加させられようとしているのだ。
 しかも、道路の端は傾斜や段差があり、大きなゴミが落ちていたりする。駐車中の自動車が前方を塞いでいたり、脇道から自動車が鼻先を突き出してくることもある。自転車の車道走行はあまりにも苛酷で地獄への近道なのである。警察官僚は、幹線道路の車道をママチャリで走ったことなどないであろうし、これからもあるまい。

 警察は自動車の運転者が思いやりをもって減速し、自転車との距離を十分に空けて追い越せばよいという。そんなことはもちろん承知であるし、道交法でそのように決められている。それでも危なくて恐いから、自転車は歩道があればそこを走るようになったのだ。
 それに、加減速と進路変更は事故や交通障害の重要なファクターである。ふらつく自転車におどろいて急ハンドル、急ブレーキをかけて事故を起こすこともあるだろう。また交通渋滞は車の流れに緩急がつくところに起きるのであるから、自転車が大量に車道へ出ることによる、渋滞の増加も覚悟せねばなるまい。

 対策は簡単ではないかもしれないが、自転車の登録手続きと対人対物保険の加入を強制し、運転も許可制にするのが近道だと思う。自転車には免許制度こそなかったが、道交法ではきちんと網がかかっており、危険な運転は禁じられている。基本的にはそれを罰則付きできちんと運用するだけの話である。
 警察と競輪のJKA(旧財団法人自転車振興会)、さらに保険会社が組めば可能であろう。天下り法人を作れば警察官僚も喜ぶにちがいない(笑)。未成年については学校に自転車運転許可カリキュラムを設け、学校以外の公費で外部委託するしかないな。日本の学校は実効性のある交通安全教育と消費者教育が欠如しているからよい機会ではないか。
 *追記 中学生以下と70歳以上の高齢者は除外されるらしい。ほれみろ、やっぱり危ないことは認めてるんじゃないか。スポーティーな自転車に乗る中学生より、ママチャリに乗る中年の方が不安定だと思うぞ。
 取締は警察が自治会や警備会社に委託すればよい。すでに駐車違反取締を民営化し、うまくいっているように見える。
 小型船舶振興会(競艇の財団)と運輸省がいっしょになって、海外には存在しないプレジャーボートの免許制度という珍しい体制を作り上げた日本である。やってやれないことはないだろう。自転車がルールを守れば、歩道の上で歩行者と共存することは可能である。

歩道自転車03
歩行者と自転車の事故が増えたのは、自転車の増加と自転車の運転ルールが周知されてないことに原因があると思われるが、根本的な問題として道路が狭過ぎることがあげられる。

 手軽さが身上の自転車にこれ以上、官の網をかけるのはいかがなものかという意見もあろうが、放置自転車の山や、自転車には所有権がないとまで言われるほどのルーズな管理と盗難の横行。これらの解消にもつながるし、ある程度の規制は歩行者と自転車に乗る人のためになる。
 一部の不心得者が歩行者に与えた被害は赦されるものではないが、それに対する場当たり的な対応がより多くの人を危険に陥れるということの例にならないことを祈るばかりである。

社会とニュース

原発推進におけるマチズモについて考えた

 原発の実体を見えにくくし、方向転換を難しくしたのは、電力業界と政府の嘘や詭弁だけでなく、人々の心の中にあったマチズモではなかったかと思う。( machismo は男性優位主義と訳されることが多いが、ここでは力の行使を好む心のありようと解釈してほしい。だから性別にはこだわらない。マチズモの塊のような女性も数多くいる)

 「日本人の核アレルギー」という言葉がよく使われてきたが、その意味するところは「無知で視野の狭い日本人が、核に対して合理性を欠いた恐怖心や嫌悪感を持っている」であろう。そして大抵の場合「幽霊を怖がるような非科学的な心配をせず、過去にこだわらず、国家の未来を考えよ。資源のない日本には核エネルギーが必要なのだ」と続くのである。こうした言論に高揚感を覚えるのは、心の中に潜むマチズモの仕業である。

 アレルギーとは本来、体を守る免疫システムが特定の刺激に過剰反応し、様々な疾患を引き起こすことをいう。そのことから「日本人の核アレルギー」を定義すれば、広島長崎の歴史的体験によって、日本人が核兵器や放射線に過剰な反応を示し、それが日本に不利益をもたらしているということになる。
 もし不利益がないなら、それは通常の免疫反応、つまり核兵器や放射能の危険から身を守ろうとする極めて正常な反応であって決してアレルギーなどではない。
 このあたりの利益、不利益についての判断は難しい。国民の核への恐怖心や嫌悪感は、国の原子力行政をより慎重なものにさせた反面、国民を安心させるための嘘や隠蔽を常態化させたといえるだろう。ただ、日本人が核に無頓着で、国や電力会社のやりたい放題にさせていたら、日本には今より多くの原発が作られ、もっと早くに大事故が起きていたかもしれない。だから全体として利益はあったように思う。

 ウランは石油の200万倍もの力を出すが、マチズモはそうした強大な力を好む。原爆の恐怖を実体験した人や、その影響を強く受けた人は別として、先進国の核開発競争や新興国の核武装を眺めつつ、平和な時代を過した人々にとっては、核は力の象徴である。多少の危険を感じても、そこにマチズモが作用すれば、高揚感を持って原子力を受け入れるのだ。
 
 父権的な力の行使を好むマチズモは、母性的な感情を現す市民運動を嫌う。「子供達を放射能から守ろう」なんて甲高い叫び声を聞いたら虫酸が走るのである。そこまで嫌わなくても論理的な話が通じない連中の感情論だと軽視するはずだ。しかしマチズモ側も原子力に無知であることに変わりはない。ただ、自分たちは広い視野で天下の経済とエネルギー政策を捉えているという思い込みがあるため、電事連のプロパガンダや、権威あるマッチョな評論家の言葉が頭に染みわたる。そして、以下のような単純な原発推進論が完成するのだ。

・日本が経済成長を続けるには膨大なエネルギーがいる。
・海外に頼る化石エネルギーを原子力に転換し、高速増殖炉や核リサイクルも推進しなければならない。
・自然エネルギーなどイメージ先行の夢物語。現状は不安定で力不足のオモチャである。
・反原発など国益を考えない非科学的な感情論。運動はサヨクやプロ市民の祭り。
・日本にはそれを実現する科学技術がある。

 政治家や評論家も含めた原子力の素人が納得している理屈は、まあだいたいこんなところだと思う。いずれも官産学の共同体が作り上げた虚構だが、マチズモは天下国家を大掴みに語るのを好むので、その内容を自ら検証することはない。発言者達の権威と威勢のよさ、そして国益という言葉に説得されてしまうのである。
 上に箇条書きした理屈で原発に賛成するのと、放射能を浴びたらガンや白血病になるらしいから反対するのは、大雑把という点でさほど変わらないが、実体がよく分からない有害そうなものを遠ざけようとする後者は、詳しい内容も知らずに、高揚感だけで巨大プロジェクトを応援する前者より賢明な態度といえまいか。

 こうした原発推進理由は、言葉を少し変えるだけで戦争の推進理由にそのまま使える。

・日本が発展するには外地の拠点や大量の資源がいる。
・列強の干渉を跳ね返し主権を確保するために軍備を充実さなければならない。
・力を欠いた弱腰外交で権利の拡大はできない。
・反戦運動など国益を考えない感情論。アナキストの煽動である。
・日本にはそれを実現する知恵と精神力がある。

 そういえば石原慎太郎都知事もマチズモを好む政治家だな。
「日本は核を持て、徴兵制やれば良い」石原都知事(11/06/20)

社会とニュース

情報不足による感覚的類型化

 以前、原発推進でも反対でもないという立場をとりたがる人が多いという話を書いたが、「激変する核エネルギー環境」(池田清彦/ベストセラーズ)の販拡コピーにこんなのがあった。
 「原発推進派は絶対安全と言い張り、原発反対派は絶対危険だと主張した。推進派はゼロリスクでなければダメだと言い張る反対派の手前、科学技術的な検証もせずに、絶対安全だと言い張っていたのではないか。絶対反対とか絶対賛成とかは政治か宗教であって、科学ではない・・・・・」
 このコピーには、自分は推進派でも反対派でもないという人の感覚がよく現れているように思う。こういうのを情報不足による感覚的類型化と呼ぶことにする。

 推進、反対ともに宗教などではない。両者は何十年にも渡り、実にリアルな闘争を繰り返してきた。その結果、推進派はその強大な資金力によって、反対派を感情的に反原発を唱えるだけのヒステリー集団として社会の片隅に追いやることに成功したのである。
 反原発の科学者や運動家が主張してきたことは、決して感情論などではなく、科学的な合理性があり説得力もあった。推進派はそれに危機感を持ったからこそ、膨大な宣伝費を使い、詭弁を弄して安全神話を構築し、また反対派のイメージ低下に努めたのである。
 もし反原発運動が、一部に見られる動物愛護運動のように、科学的な合理性を欠いた感情的運動であれば、あれほど莫大な宣伝費を使って押さえ込む必要はないはずだ。

 最近になって週刊誌などが原発の問題点を書くようになったが、利権構造から原発の技術的欠陥に至るまで、その内容は70年代から反原発運動の中で語られてきたことだ。このところ相次いで復刊された古典的な反原発図書を見ればそれが分かるだろう。
 繰り返しになるが、反原発運動を合理性のない感情論、あるいはイデオロギーに基づいた政治運動と認識するのは誤りであり、また推進派が見え透いた安全神話を能天気に繰り返してきたと考えるのも間違いである。立場の違いこそあれ、どちらも社会の真相に気づき、その当事者たらんとした人々の闘争であり、それ以外の人は真相に気づかなかっただけの話である。
プロフィール

Kimupon_Cicadan 木村 義志

Author:Kimupon_Cicadan 木村 義志
出身地 : 大阪市
現住所 : 東京都
1955年生まれ
科学図書執筆編集のお仕事
分野は生物学系

写真は特にクレジットや注釈がない限り筆者の撮影です。記事や写真についてのお問合せはなんなりと。
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