備忘録/自然・文化・社会とニュース

文化財

文化財を守ることの難しさ 下田市の例

すっかりご無沙汰してしまいました。申し訳ありません。またぼちぼち書かせて頂きます。

 写真は昨年取り壊された「国の登録有形文化財」の「南豆(なんず)製氷所」。現在は更地となり、新しく建てられる飲食店の開店を待っている状態だ。壊されることになったとき、すぐに写真を撮りに行ければよかったのだけれど、行った時にはここまで作業が進行していた。

写真は一部しか表示されないので、クリックすると別窓で開きます。
南豆製氷所

 南豆製氷所は大正12年、下田の水産物等に使う氷の製造工場、また製品を保管する冷凍冷蔵倉庫として建てられ、隣り合った2棟の建物で構成されていた。その後多少の増改築はあったらしいが、石造りの洋風建築の姿を今に伝えるものとして知られている、じゃなくて「いた」。
 南豆製氷所の竣工当時の姿←クリック
 国は有形文化財に登録した理由として「初期の冷凍冷蔵倉庫として貴重で、再現することが容易でない」ことをあげている。
 そんな建物が取り壊されてしまったことは残念でならないが、下田市(人口2万3千人。静岡県で人口が最も少ない市)が文化財を大切にしなかったとか、市民が文化財に理解がなかったということでは決してない。全ては日本の地方都市全体を覆う「財政難」という暗雲のせいだ。取壊しを自分の体を切られるような気持ちで見た人も多いだろう。

下田市街
下田市の中心街。伊豆半島は平地が少なく、下田市も稲生沢川の河口に形成されたわずかな平地に形成された港町であった。現在は市民の多くが第三次産業に従事している。

 下田市民は保存のための団体を作って広報や募金活動に奔走し、市も保存するための「有効活用検討委員会」を立ち上げ対応策を練った。もちろん国も解体にすんなり同意した訳ではない。また、募金が集まるまでの間、篤志家が当面の費用を負担して時間を稼いだという。
 聞くところによると、土地建物の買い取り費用が1億円、倒壊の危険を防ぐ修理に1億円が必要とされ、その他の経費も含めて3億円もあればおつりがくる勘定である。しかし、市と市民にはこの金額が大き過ぎて、結局写真のような結末と相成った。
 大都市の開発事業から考えると「たったの3億円」で貴重な建物が残せるなら安いもの、と言えなくもない。現在東京では、市民や建築家などが反対する中、まだまだ使える片山光生デザインの「歴史的建造物」を壊してまで、オリンピック用陸上競技場の建設(他の競技場や調査費などは別)が強引に進められているが、その予算は1,625億円だという。高額過ぎて高いのか安いのかよく分からんけど。

ペリーロード
下田は最初に開港されアメリカ領事館が置かれたが、都市から遠過ぎたため、5年程して横浜が開港されると、外国船は水や燃料の補給や、避難港として利用するだけになってしまった。それでも一定の賑わいがあり、花街なども形成された。現在も古い建物が残りその名残が見られるが、こうした古い町並みを「ペリーロード」などと、商店街のような名前にするあたりに、アイデアと資金不足の苦しさを感じずにはいられない。

 下田市も国や県の補助を受けて箱物行政に突っ走っていた時期もあったが、その後不景気に陥り市の年間予算を大きく上回る250億円という借金と、箱物の維持費や、失業や高齢化に伴う福祉予算の増加が重くのしかかるようになった。
 市長が先頭に立って、支出削減に取組み(住民サービスに影響がでないかと心配になるほどの予算や人員をカット。市長の給料は県内で一番安いと自慢している)、そのおかげで負債を25%ほど減らすことに成功したが、下田市はまだ、地域問題の研究者が「貧困」と形容するほど苦しい状態らしい。
 もちろんこうした苦しみは下田市だけのものではない。日本全国に共通して見られる現象だ。

 文化財の維持は、それが残されている町の市民が主体となって活動しないとうまくいかないし、良好な状態で維持活用されているのは、文化財を愛する市民が多くいる町だ。でも予算的なことは小さな自治体だけの手に負えるものではない。国家的な事業と認識しないと市民の負担は増すばかり。
 これは前にもお寺の話で書いたけど、国の文化財保護予算は600億円程度。建築物の補修などに使われる予算はそのうち100億円にも満たないそうだ。登録有形文化財にいたっては、どんなに壊れても国は一銭も出さないし、今回のように、登録を抹消すれば壊してもOK(登録有形文化財=ゆるやかな保護措置 by 文化庁)。
 日本と同じく伝統を重んじるとされるイギリスは、建物の修理費に毎年約500億円を投じているという。しかもイギリスの国家予算(歳出額)は、日本の半分以下なのだ。人口も半分ということを考えると、国民一人当たり10倍の費用を、古い建物に投じていることになる。なんなんだろね、この違いは。

文化財

日本のおカイコさん-4/横浜から読み解く製糸産業

 2014年に富岡製糸場の世界遺産登録が報道された際「富岡製糸場に女工哀史はなかったのか?」というようなことがネット上で話題になった。そのおかげで2010年にここで書いた「富岡製糸場への疑問」へのアクセスが普段の100倍にも増えた。恐るべし世界遺産効果。

 今回はシリーズ第4弾(笑)。生糸輸出の舞台として日本はおろか世界の絹関連産業に大きな影響を与えた町「横浜」をとりあげたい。横浜を知らずして日本の近代化や富国強兵は語れないのだ。
生糸検査所シンボル
横浜に残る生糸関連遺構の一つ「生糸検査所(現横浜第二合同庁舎)」の正面玄関に掲げられた彫刻。唐草装飾風にアレンジされたカイコガの足下にクワの葉と実、胸には御紋と日章旗が配置されている。筆者などはこれこそが横浜のシンボルマークだと思っている。

 製糸工女も、養蚕農家も、製糸家も、生糸商も、日本の製糸業に関わる全て人々の運命を支配していたのは、国際取引における「生糸の価格」である。
 製糸業とはクワの葉でカイコを育て、そのカイコが作った繭から糸をとるという、何千年も前から続くプリミティブな産業であった。でも人の暮らしは貨幣経済の喧噪と無縁ではいられない。日本が開国するやいなや、日本の製糸業は国際商品取引という、生き馬の目を抜くお金の世界に投げ込まれ、踊る生糸相場に翻弄されるようになった。そして、いつもその中心にあったのが横浜というわけだ。
 横浜は幕末以来日本で唯一といっても過言ではない生糸の対外取引場所であり(明治中期、日本各地に生糸の取引所が開設されたが、いずれも振るわず大正までに順次閉鎖されている。また関東大震災で横浜が都市港湾機能を失ったのをきっかけに、神戸での取引が開始されるが、ほどなく復興した横浜の方が扱い量が多かった)、日本にある製糸場のほとんど全てが横浜とつながっていたといえる。横浜から見れば先進の富岡製糸場も全国に数多ある生産拠点の一つに過ぎず、関心は専ら品質と価格に向けられていただろう。

市庁舎鉄冊
「生糸検査所(現横浜第二合同庁舎)」の周囲を囲む繭形のフェンス。
帝蚕倉庫
横浜市は戦後急激に膨張し、1980年には大阪市を抜いて日本第2位の人口を擁する大都市となった。そのため生糸関連の遺構はあまり多く残っていないが、写真の「帝国蚕糸倉庫(大正末期)」は、生糸取引で栄えた横浜の面影を今に伝える貴重な遺構の一つ。付近には同様な倉庫が何棟も並んでいたが現在残っているのはこの1棟だけ。
帝蚕事務棟
上の倉庫と同じ「帝国蚕糸事務棟(旧横浜生糸検査所附属倉庫事務所)」。同社は第一次世界大戦が招いた生糸の大暴落を買い支えるため、官民共同で設立した商社である。社長は生糸取引で巨万の富を得、富岡製糸場を三井家から買い取った原三渓(富太郎)。この会社は役目を終えると短期間で解散し、再び大暴落があると設立するという性質のものであった。

 幕末から明治初頭の生糸商の中には、梱包に細工をして重量をごまかしたり、見本と異なる不良品を納品するなど、デタラメな取引をする者があった。そうでなくとも品質のバラツキなどから安く買い叩かれていた日本の生糸は、国際市場での信用を失い、良品まで買い叩かれるようになったという。
 そこで信用を回復し、少しでも有利な条件で販売するため、官民あげて新しい設備や技術の導入を図り、品質向上と規格の統一化を進めようとした。そうした動きの一つが官営富岡製糸場の建設である。
 また、前橋藩でも富岡に先んじ、外国人技師を雇い入れて同じような取組みを進めていた。前橋藩は早くから生糸の輸出が大きな利益を生むことに気づき、横浜に事務所を開設して利益をあげていたのである。武士の商売下手を揶揄する言葉に武士の商法というのがあるが、前橋藩の場合は全く逆で、さしずめ「武士の商社」といったところ。戊辰戦争の際には生糸売買の利益が戦費に使われたことだろう(当時の藩主は徳川氏と同族の松平直克であったが、新政府軍に加わり会津で松平容保と戦っている)。前橋藩と製糸事業については以前の記事「前橋城」でも少し取り上げたので、興味がお有りの方はご笑覧を。

富岡製糸場
生糸の品質向上と製糸技術の近代化を図るために建設された富岡製糸場。その品質は国際市場で高く評価された。

 ミソもクソもいっしょというか、何もかも同じ色に塗りつぶしてしまうような話をして恐縮だが、「あゝ野麦峠」に代表される製糸工女の哀史も、「富岡日記」に登場する士族の娘達が富岡製糸場で体験した楽しい生活も、その奥底にはどちらも横浜の生糸取引の存在がある。
 前者は横浜の生糸相場の急落によって生じる損失を「(工女同士の)共食い」と批判された低賃金システムと労働強化によって吸収した結果であり、後者は横浜で少しでも有利な商売ができるよう、設備と技術の刷新を図る過程で生じた現象であった(官営富岡製糸場に出現した先進的な労働環境は、富岡製糸場の立ち上げを任されたブリュナが、機械や技術だけでなく、フランス式の福祉や文化も導入しようとしたことによる)。
 官営富岡の労働環境がいかに先進的でも、それは寒帯の草原に熱帯植物の種を1粒蒔くようなもので、当時の日本社会の生態系はブリュナの理想の種を発芽させることはなかった。日本社会の生態系の中にある製糸業というニッチは、良くも悪くも横浜で基本的な枠組みが決められ、その変化は緩慢であったといえる。
 まわりくどい比喩をしてしまったが、日本が発展途上国であった頃の横浜は想像以上に大きな存在で、そのことを調べていくと、世界遺産の遺構を訪れたときに見過ごしたことにも気づかせてくれる。

 話は少し戻るが、開港されたばかりの横浜は、幕府によって貿易が制限され、生糸などの重要産品は、特権を持つ江戸の商人が販売していた。しかし、自由な取引を求める内外の圧力によって、この旧態依然とした制度はなし崩し的に葬られた。
 横浜にとってラッキーだったのは、カイコの伝染病によってヨーロッパで生糸が品薄になっていたことだ。横浜に運ばれた生糸は高値で売れ、成功を夢見る人々も多く集まるようになった。おかげで日本の伝統絹織物業界は原料糸の高騰に苦しみ、廃業の瀬戸際に立たされるものもあったという。

 幸先のよいスタートを切った横浜であったが、外国人と対等な取引ができるようになるまでには、もう少し時間が必要であった。外国の貿易商は不平等条約を背景に有利な取引を展開し、時には理不尽な行為もあったという。もし日本人がしてやられたと気づいても、お奉行様は外国人を裁けないのだから辛い。開国したばかりの日本人が、百戦錬磨の外国商人に対抗するのは容易ではなかっただろう。原善三郎(原三渓の義父)や若尾逸平・幾造兄弟、茂木惣兵衛などのように、取引に成功して莫大な資産を手にする者が現れた反面、大きな損失を出して破滅した者も少なくない。

 生糸貿易は日本の富国強兵と近代化を支えたとよくいわれるが、明治期に横浜の豪商達が扱った生糸の輸出額は国家予算に迫るものがある(明治期の国家予算が少なかったこともあるが)。豪商達が得た利益はべらぼうで、短期間のうちに王侯のような財力を手に入れる者があった。それらが製糸労働者や養蚕農家からの搾取の上に成り立っていたかと思うと、少し暗い気分になってしまうが、逆に失敗したときの反動も大きく、その影響は店主が首を吊ったぐらいで収まるものではなかったろう。歴史に名を残した豪商でも、ある日突然姿を消し、その後の足取りがつかめないという人物もいる。
三渓園
美濃出身の原三渓(本名富太郎/原善三郎の娘婿)は義父の後を引継ぎ、さらに大きな成功をおさめた。富岡製糸場などを買い取ったほか、横浜郊外に東京ドーム4個分にもなる広大な庭園「三渓園(写真)」を造営し、全国から重文クラスの建築物を買い集めて移築したことでも知られる。

 最後に日本の蚕糸業と横浜の生糸取引の歴史がよく分かる書籍を2冊紹介したい。日本の製糸業に興味がある方は必読。2冊とも養蚕試験場や蚕糸検査所の指導員を歴任され、現在はシルク博物館におられるという小泉勝夫さんが書かれたもの。購入してからは、頻繁にこの本のお世話になっている。
蚕糸王国日本と神奈川の顛末3
 一冊目は「蚕糸業史/蚕糸王国日本と神奈川の顛末(2006)」
 表紙に蚕糸業史とある通り、日本の蚕糸業の歴史の(なんと2億年前の鱗翅目の起源から話が始まっている)集大成というか、蚕糸業大百科や蚕糸業白書の感がある。本文は400ページ超。表や図版も充実していて資料性が高い。もちろん横浜の豪商達についても詳しく書かれている。これをお一人で纏められたとはにわかに信じられなかったが、あとがきに15年の歳月を要したとあり納得。
 書店では流通しない私家版だが、2014年7月の時点で横浜のシルク博物館に在庫があり購入可能であった(価格の記載がなく、いくらで購入したかは忘れてしまった)。
開港とシルク貿易3
 次は「開港とシルク貿易/蚕糸・絹業の近現代(2013)」
 世織書房 税別¥2,000- ISBN987-4-902163
 著者が蚕糸絹業専門誌「シルクレポート」に連載していた記事「横浜開港とシルク貿易」を基に、第二の生糸輸出港である神戸の歴史など、新しい文書や資料を加え再構成したもので、日本の蚕糸業の流れを掴むのに最適。解説が非常に具体的で、例えば酸による孵化時間のコントロールなど、自分で実際にやることはないと思うが、読んでいるとちょっと試したくなった。入手しやすくコンパクトにまとめられいるので強くお薦めしたい。

文化財

原爆で消えた文化財/広島城

 ブログの更新が今頃になってになってしまい大変申し訳ない。今回は春先に行った広島城について。

 太平洋戦争時、米軍の空襲で失われた文化財は多い。その中には国宝や重文クラスの物件が多数あった。城郭建築でいえば、名古屋城・和歌山城・大垣城・水戸城・広島城・福山城の天守が失われ、それ以外にも各地に残っていた櫓や門などが失われている。
Burning_Nagoya_Castle.jpg
空襲で炎上する名古屋城天守 Japanese book Showa History of 100 million people: Vol.4 published by Mainichi Newspapers Company.

 中でも特に悲惨だったと思うのは、原爆で一瞬のうちに瓦礫の山と化した広島城とその城下だ。
 目撃者への聞き取り調査や付近の発掘調査、倒壊後の現場写真などから、天守は爆風でふっ飛ばされたのではなく、斜めに押しつぶされるように倒壊したことが明らかとなっている。
 衝撃波や爆風により重要な部材に大きな力が加わり、爆風が通り過ぎた直後一気に崩れ落ちたのだろう。「倒壊直後の瓦礫の山」

 1958年、市民の要望によって天守が再建された。倒壊前の資料が多く残っていたことと、当時は市民の記憶の中に「広島城」の姿が鮮明に残っていたために、各地に見られる「実在しない白亜の大天守」ではなく、旧天守の古風な姿を忠実に再現した、原寸大の外観模型となっている(下写真)。日本の鉄筋コンクリート天守の中では、出色の出来といえよう。
天守01

 平地にある城が空襲されやすいのは、都市の座標として上空から確認しやすいこと。また一部の城は近代に入っても軍事施設として利用され続けたことが原因である。
 城の位置は大きな建物が増えた現代でもよく分かる。広島市中央公園(広島城三の丸)の東隣にある四角い緑地が広島城本丸。ここを中心に旧日本陸軍第5五師団の各種施設が密集していた。

下は広島城本丸の全景。赤丸が戦後再建された天守。
本丸全景

 広島が原爆の投下目標候補になったのは、日清戦争時に大本営が置かれ、日清戦争終結以後も陸軍の拠点として発展し続けた「軍都」であったことが大きい。
 兵器や糧秣、軍服などの工場があり、広島の経済発展は軍隊無しには語れないほどになっていた。戦前の市民には「軍都広島」という意識があったという。
 なのでアメリカとすれば優先的に破壊すべき都市の一つであったが、原爆の実用化に目処が立つと、原爆の威力を正確に調べるために、投下候補地への通常爆撃は控えるよう指示がでた。このため広島周辺では「広島は空襲されない」というデマが流れたという。

 下は広島城本丸にあった陸軍の通信施設。土を盛った半地下構造であったため全壊は逃れた。常設の無線アンテナは爆風で破壊されたと思われるが、ここから何らかの方法で被爆の第一報が発せられたという。
地下通信壕マーク
敗戦後米軍が撮影した通信壕の写真
地下通信壕02
広島城本丸に残る現在の通信壕。上のモノクロ写真の赤枠の部分。

 先に書いた通り、城内には第5師団の権威を示す建築物がいくつもあったが、原爆によって全て失われた。下の写真は日清戦争時の大本営跡。城内では臨時国会が開かれ、天皇の御座所もあった。
大本営跡
広島大本営跡

 広島市への原爆投下は、平和な都市が理不尽に狙われたと思っている人もあるようだが、広島市が攻撃目標にされたことの背景には、広島城を中心とする「軍都」としての歴史があったことを忘れてはならないと思う。広島の人々は被爆後、軍隊や軍需産業による地域の発展など、もう懲り懲りと思ったことだろう。広島の一般市民にとって、軍事基地や軍需工場から長年得てきた利益より、原爆によって一瞬にして失ったものの方がはるかに大きかったはずだ。


文化財

古墳の話「森将軍て誰やねん」

2014年最初の更新です。本年もどうぞよろしくお願いします。(下の写真は今回の記事とは無関係な年賀状)
カワセミ冬02

 新年早々に昨年秋の話題で恐縮だが、上越市から長野市にかけて撮影旅行に行った際の出来事である。3日間の日程を終えて帰路つき、国道18号線を使って善光寺平(長野盆地)を南下していたとき、左手の山の頂上に淡い黄褐色の壁があり、その上に円筒埴輪らしきものが並んでいるのが見えた。どうも大きな古墳のようである。その姿にどこか心魅かれるものを感じ、道を左に折れて正体を突き止めることにした。

 山麓に着くとそこには「千曲市森将軍塚古墳館」という立派な博物館があった。ビンゴである。「あれはやっぱり古墳の埴輪か。でも何で山の上やねん。そもそも森将軍て誰やねん」と、増々興味が深まった。
 しかし、博物館の入口にあったポスターや看板を見ても、森将軍のことがよく分からない。キョロキョロしていると受付の方が「間もなく山の上の古墳に行くバスが出ますが、どうされますか ?」と親切に声をかけて下さったので、博物館で委細を確かめる前にとりあえず山上の現場に向うことにした。山上へ通じる道は一般車の進入禁止となっているので、古墳館と山頂を結ぶ有料シャトルバスを利用するか、自分の脚でせっせと登るかの二者択一となる。
 バスは急な坂道をぐんぐん登り、あっという間に山上の停留所に着いた。短い乗車時間とはいえ徒歩なら途中で後悔しそうな坂道である。バスを降りて少し歩くと大きな古墳らしきものが姿を現した。
森将軍塚古墳
 森将軍塚古墳は狭い尾根に不釣り合いなほど巨大な前方後円古墳で、今から千数百年前の姿に復元されていた。
 後で知ったのだが、森将軍塚古墳は小学6年社会科の教科書(東京書籍「新しい社会」など)に出ているような有名な古墳であった。まったく無知にもほどがある。反省しきり。埴輪が目にとまらなければ一生知らずじまいであったかもしれない。外に出たらキョロキョロすることは大事だな。

 タイトルの「森将軍」の正体であるが、それは森さんという人がいたのではなく、「森」という場所にある「偉い人の塚」という意味らしい。昔の庶民がイメージする一番偉い人物は、たまに暴れん坊だったりする「将軍様」であったのだろう。誤解を防ぐ表記なら「森地区/将軍塚」となろうが、筆者は「森将軍」の方が好きである。エジプトのピラミッドと違い日本の古墳には文字が刻まれていないから、埋葬されているのが誰かは分からない(○○天皇陵などと呼ばれる古墳もあるが、それらは関連文書や周辺状況から推測したもの)。だから突然「森将軍」などといわれると驚くし、愉快な気分にもなるのだ。

 森将軍塚古墳館の資料によると、この古墳について書かれた文書は明治16年(1883年)のものが最も古く、そこには「屋代村の将軍塚」の名で記載されているとのこと。屋代は現在も使われている付近の地名で、森将軍塚の最寄り駅も「しなの鉄道/屋代駅」である。長野盆地は古くから開けた場所なので、いずれもっと古い文書が見つかりそうな気もするが、他に別の塚もあるので、位置や大きさを示す記述がないと特定は難しそうだ。
 「森将軍」の名前が最初に出てくる文書は、大正12年(1923年)の「長野県史跡名勝天然記念物調査報告書(文化財保護法の前身となる史蹟名勝天然記念物保存法に対応するための調査)」とされ、以後その名前が使われるようになったという。

古墳配置
 森将軍塚古墳から見える付近の山々には、川柳将軍塚古墳、越将軍塚古墳、土口将軍塚古墳、倉科将軍塚古墳など多数の古墳があり、それらは善光寺平を取り囲むように築かれている。上の写真は森将軍塚古墳に置かれた展望案内板で、分かり易いよう古墳の位置に赤い矢印を書き込んでみた。
 このような位置に古墳を築けば、山裾の平地からよく見えるので(そのおかげで筆者も国道から古墳の存在を知ることができた)領民は日常的に領主の宗教的権威や支配力を感じながら暮らすことになるだろう。苦労して山の上に大きな古墳を築いた理由はここにあると思われる。
 また森将軍塚古墳の周囲には、13基の小さな円墳のほか、小さな石棺や瓶棺などが多数発見されており、それらは古墳の完成後に埋葬された子孫や縁者の墓と考えられている。
森将軍塚古墳部分
 森将軍塚古墳は10年以上に及ぶ発掘解体調査の後、内部構造を含め完成当時の姿に復元されているが、調査が始まる1981年以前は草木に覆われた山の一部で、方形の墳丘の角などは摩滅したように崩れた状態になっていたようだ。
 平地に築かれた前方後円墳は、文字通り円形と方形の墳丘を直線上に並べた形になっているが、森将軍塚古墳は曲った尾根の上に目一杯の大きさで造ったため、円部は変則的な長楕円となり、古墳全体を「く」の字状に変形させてある。
 全長は約100mもあり、長野県では最大の規模で、1日200人の労働者を動員しても、着工から完成までに1年半を要するという試算がなされている。上の写真に見える墳丘の表面を覆う葺石のうち、傾斜が急な部分には、復元の際に古墳時代のものより奥行きのある石材を使用し、裏込石を入れるなど崩壊を防ぐ改良を施したという(丈夫な石積みの構造は以前こちらに少し書いた)。古墳時代には中世末〜近世の城郭を凌駕するような巨大墳丘が築かれているが、石積みの技術は未熟であったようだ。
森将軍塚俯瞰図
森将軍塚古墳俯瞰図(現地案内板より)

 森将軍塚古墳の見所は、山の尾根上に築かれた巨大な墳丘と、その内部にある巨大な石室である。下の写真は森将軍塚古墳館に展示されている石室の原寸大模型(実際の石室で型をとり、一つ一つの石の形まで正確に再現されている)。
森将軍塚古墳石室
 石室は約7.6m×2m(10畳ほど)の広さで、床面はロの字形に粘土が盛られ栗石が敷かれている。壁の高さは約2.2mと中で人が暮らせるほどの容積を持つ。築造当時、石室の内面にはベンガラ(赤色の顔料)が塗られていたが、顔料を石に固着させる技術が未熟で(技術はあったが面が大きいので予算を節約したのか、剥がれたベンガラを後で目にすることはないので技法選択の失敗に気づかなかっただけなのかもしれないが)、長い年月の間に剥がれた粉末状のベンガラが埋葬品の上に降り積もった状態になっていたようである。
 床には古墳の主が眠る木棺が置かれていたと思われるが、盗掘によって石室内は空っぽの状態であった。
森将軍塚石室
 面白いことに森将軍塚古墳は、最後の盗掘者の名前が明らかになっている。それは幕末生まれの「塚掘り六兵衛」こと北村六左衛門で、明治時代に石室の短辺側の壁(上写真の手前側)に穴を開け内部に侵入した。しかし、値打ちのあるものは六左衛門以前の盗掘者によって持ち出されており、全くの骨折り損であったという。彼は他の塚にも穴を開け、勾玉などを売って小遣いにしたほか、石材などを運びだして田畑の土木整備に利用したという。
 盗掘者というと一攫千金を狙う盗賊のようであるが、その実体は六左衛門のように、付近の農民が塚を掘って売れそうなものを拾ってくる程度のことが多かったのではなかろうか。六左衛門は近所の子供に飴をやって穴掘りを手伝わせていたという。もちろん古い塚を掘り返して小遣い稼ぎをすることに抵抗を感じる人も多かったであろうから、「塚掘り六兵衛」の異名には、近所の人の六左衛門に対する恐れと軽蔑が含まれていたと思われる。

 この記事を書くのに「千曲市森将軍塚古墳館ガイドブック(監修 : 千曲市教育委員会)」を参考にさせていただいた。森将軍塚古墳館などで購入(一冊1,000円)できるので、森将軍に興味をもたれた方は現地の見学とともに一読をお薦めしたい。
 

文化財

ディズニーランダゼイションと文化財の接点

ムツゴロウトイレ

 ディズニーランダゼイションとは、建築学者の中川理が名著「偽装するニッポン―公共施設のディズニーランダゼイション」の中で解き明かしている観念だ。
 直接的な言葉の意味は建築デザインの「ディズニーランド化」だが、もう少し説明すると、例えば遊園地にあるような何かの形を真似た、珍妙で、突飛で、チープな建物を、土地の景観や歴史との整合性を無視して(公共的な目的で)建ててしまうような精神性というか、行政システムのようなものといえる。
 そのデザインコンセプトには、地域住民や来訪者に「親しまれ」「夢を与える」もので、地域の「伝統」「文化」「名産品」「自然環境」などを「分かりやすく伝える」といった期待が込められているのだが、実際に完成してみると、見る者が違和感を覚え、町の変な風景として路上観察者に失笑ネタを提供することになる。

 トップの写真はムツゴロウなど干潟の生物が間近に見られる海浜自然公園「海遊ふれあいパーク(佐賀県小城市)」のトイレ。目をひくのでディズニーランダゼイションのイメージというか、本稿の表紙として貼った。ただしこの公園は、子供がムツゴロウと泥遊びを楽しむ場所でもあるので、こうした色や形には一定の合理性があり、子連れの家族などには歓迎されているようだ。
干潟の子

 下は夕張市の観光施設「石炭ガラス工芸館」(夕張市は1970年代から基幹産業である炭鉱の閉山がが相次ぎ、市の存続をかけて観光事業に邁進したが、経営を軌道にのせることがかなわず、ついには市の財政が破綻。財政再建団体に指定されるという気の毒な歴史を持っている)で、夕張市の石炭総合レジャーランド構想の一環として1987年にオープンした。こういうチープなメルヘン系建物もディズニーランダゼイション物件の資格が十分にある。
 ガラス工芸は体験観光の定番となっており、関連施設は全国に300カ所以上、その1割近くが北海道にある。石炭とガラス工芸を結びつけたのは夕張市らしい発想だと思うが、業績が振るわず1994年に閉鎖された。
石炭ガラス工芸館正面
 デザイナーが「参考になる写真があったんで、予算の範囲内で再現してみましたたとえばこんな」といったかどうかは知らないが、まあだいたいそんな感じのデザインでしょ。大人の割り切りと諦めが感じられる。
 しかしこの建物で一番目を魅くのは投げやりなデザインではなく、ハリボテの尖塔や破風と時代を帯びた本物のレンガ構造が一体になっていることだ。
石炭ガラス工芸館
 石炭ガラス工芸館は、文化財クラスの堂々たるレンガ建築「旧北炭楓鉱発電所(1913年竣工)」に、ハリボテをくっつけるという、なんとも大胆な手法で造られていた。全国各地にあるメルヘンチックな安普請の中では、あまり例を見ない珍品である。
 1987年当時は産業遺構の価値が今ほど理解されておらず、施工主が単に古いものをリサイクルするという感覚でいたのは仕方がないと思うし、炭鉱が消えた町の再生のため、思い付くことを前のめりになって推進していた時期だったから、細かい事にかまっていられなかったのだろう。おりしもバブル景気が膨らみ始めた時期である。リゾートブームの名の下、それまで見向きもされなかった山林にまで値段が付き、日本各地に今見ると恥ずかしいような物件が次々に建てられていった。
石炭ガラス工芸館裏
 石炭ガラス工芸館こと北炭楓鉱発電所は、竣工から100年に及ぶ歴史の中で、発電所の統廃合による発電停止・閉山・観光施設としての再出発・業績低迷・閉鎖・夕張市の経済破綻・・・といった数々の悲しい歴史を体に刻みつけている。安普請のメルヘン物件は建物としての物理的な寿命は短いが、こうしたレンガ構造の建物は今後も長く姿を保っていくだろう。次の100年も日本の産業史の証人として、また時代に翻弄された地方経済の証人として生き残ってほしいと思う。空知総合振興局地域政策課によると、保存状態はよいとのこと。
 下の写真は北炭楓鉱発電所の近くにある北炭瀧之上発電所(1925年竣工)である。同じ北炭の発電所だが、こちらは閉山まで稼働しており、その後は北海道企業局の発電設備として使用(というより動体保存の状態)されている。両発電所の運命の明暗を思わずにはいられない。
瀧之上発電所

 夕張の石炭ガラス工芸館は、地域と自らの繁栄を願う人々によって性急に作られ、あっという間に消えていった徒花という位置づけで誰もが納得できると思うが、次はその位置づけがちょっとややこしい。完成して間もない現在進行形の物件で、今後も公共施設として長く使い続けなければならないのだ。でもこれは、我々に地方経済の衰退と復興、そしてディズニーランダゼイションについて、重要な示唆を与えてくれる例証になると思うのでとりあげた。
深谷駅
 それはJR高崎線(埼玉県大宮駅〜群馬県高崎駅)にある深谷駅の駅舎(1996年竣工)である。この駅舎の前に立ったとき、最初に頭に浮かんだのはディズニーランドのシンデレラ城である。シンデレラ城はドイツのノイシュヴァンシュタイン城などをモデルにした、ディズニーランダゼイションの確信犯というか、ゼイションではなくディズニーランドそのものの建物である。
 読者の方から、ノイシュヴァンシュタイン城に似ているのはアメリカディズニーランドの「眠れる森の美女城」で、東京ディズニーランドの方は、フランスの城や宮殿に似ているというご指摘をいただきました。ありがとうございました。フランスの城
 深谷駅を見てなぜそんなことを思ったのかというと、両方とも客席から見た芝居の大道具のようなもので、近づいて細部を見ると、たちまち板に描かれた絵(この場合はレプリカ)であることが分かるという共通点を持つからだ。シンデレラ城は内部にもゴシック様式の教会建築を模した内装を施しているが、深谷駅の場合は中に入ると日常的な普通の駅なので、たちまち夢から覚める仕組みになっている。
東京駅
 深谷駅のことをもう少し説明すると、深谷駅にとってのノイシュヴァンシュタイン城は、日本の建築史に大きな足跡を残した辰野金吾の東京駅丸の内駅舎(1914年竣工/上写真)で、その1/10程度の規模で上手くまとめられている。
 いうまでもなく深谷駅駅舎は本格レンガ構造の建物ではない。今どきの鉄骨ビルで形を作り、外面にレンガ風の装飾が施したものである。
 それでも単なる縮小模型ではなく、駅舎として使うため各部の寸法が調整されているので、プロポーションに無理が無く、前に立つと東京駅というより19世紀のオフィスビルやアパートのような印象を受ける。
 また玄関前の広場とそこへ通じる階段には、東京の四谷見附橋(1913年竣工)を模した欄干や街灯が配置され、大正初頭の雰囲気が演出されている。
深谷駅アプローチ
 下の写真は駅舎の外壁に張られているレンガ風タイル。斜めに切った2枚のタイルで化粧レンガのエッジを表現している。施工したタイル職人さん達は良い仕事をされたと思う。シンデレラ城の模造パネルは、上に行くほどブロックを小さくして城が大きく高く見えるようになっているが、深谷駅にそんな小細工はなく、いたって真っ当な、きれいなタイル張りである。
深谷駅レンガタイル2

 大金をかけて深谷駅を東京駅のレプリカにした理由は、すでに廃業した深谷市の基幹産業に関係がある。
 深谷市には地元出身の渋沢栄一が興した巨大なレンガ工場があり(1887年創業の日本煉瓦製造会社。下の写真はその最盛期の姿)、そこで作られたレンガが建築資材として日本の近代化に貢献した歴史や、市内各所に点在する味わい深い小規模なレンガ建築を市民の誇りとし、深谷市を「レンガの町」と定めて、それをアピールするためにレンガを生かした深谷駅(東京駅のレプリカのことね)を造った、と深谷市では説明している。
上敷面工場
日本煉瓦製造資料館
 日本煉瓦製造会社は、1893年に株式会社となり戦後まで生産を続けたが、高度成長期における産業構造の変化に対応できず低迷。オイルショックは乗り越えたものの、2006年に自主解散し、ホフマン輪窯(巨大なレンガ焼成窯)など、文化財として価値の高い産業遺構を深谷市に譲渡した。下は日本煉瓦製造株式会社の門扉に掲げられていた社章。
日本煉瓦製造門扉
 日本煉瓦製造株式会社のホフマン輪窯の内部。1基だけが現存し国の重文指定を受けている。
ホフマン輪窯深谷

 夕張市が閉山後も「石炭の町」をアピールしたように、深谷市も消えた産業の残像である「レンガの町」を自らのアイデンティティと定めているのは非常に興味深い。ただ石炭とレンガというそれぞれのキーワードに対する市民の思いには、大きな差があると思う。
 夕張市と石炭は文字通り運命共同であったから、市民の市政に対する評価はバラバラでも、石炭の町という自覚は全ての市民にあっただろう。一方戦後のレンガ産業は一時期を除いて低迷が続いたので、地域全体としてレンガの町という意識は少しずつ薄まってきていたはずだ。
 そこで考えたのが深谷駅にある東京駅のレプリカであり、「深谷市レンガのまちづくり条例」の制定だったのではないかと思う。ただし、35億円もする巨大なレプリカと、市の奨励金で増えた茶色いタイル張りの家の影で、辛うじて残っている民間の小規模レンガ建築が一つでも消えるようなことがないようにしてほしい。
尾高藍香惇忠生家蔵
 上は尾高藍香の生家に残るレンガの蔵。深谷市に残るレンガ建築はレンガ工場関連か、こうした民間の生活に密着した小規模なものが多いようだ。それが大切にすべき深谷のレンガ文化だと思う。

文化財

洞窟の聖堂

 ヨーロッパには洞窟を利用した修道院や聖堂が多くあり、教会建築の一カテゴリーとなっているが、日本にも一つだけ洞窟礼拝堂が残っている。それは禁教時代に作られた秘密の隠れ家であった。少し前のことではあるが見学したので、日本の教会建築見学シリーズ ? の一つとして付け加えたい。

岩窟礼拝堂B

 上が日本の洞窟礼拝堂の全景。そこは岡藩の武家屋敷街に近く、江戸時代は岡藩四家老の一人であった古田氏(古田織部の子孫)の領地であったという(大分県竹田市大字竹田)。左の格子がはまった入口が礼拝堂で、右の洞窟は司祭らの居住区跡とされる。
 岡藩の初代藩主中川英成の父中川清秀は、キリシタン大名の高山右近の従兄弟である。岡藩はキリシタンの取締りも行ったが、信徒に寛大な側面もあったとされる。また中川家の家紋は中川クルスと呼ばれる独特なもので、このことから中川氏が密かにキリスト教を信仰していたと考える人もある。
 また中川クルスはイエズス会の紋章とにているという人がいるが、そりゃ違うだろ(笑)と思う。

中川クルス 中川クルス
イエズス会紋章 イエズス会紋章

 作られた時期ははっきりしないが、宣教師の追放後も日本に留まったナバロ神父やブルドリノ神父が潜伏していたとされることから、17世紀の初頭、徳川氏による弾圧が強まった頃に作られ、以後密かに使われてきたと思われる。ナバロ神父は後に他の領内で逮捕され殉教した。
 礼拝堂は幅、高さ、奥行きがそれぞれ3メートル程度で、正面奥に祭壇らしきくぼみがあり(下の写真)、ささやかな十字架が置かれていた。

岩窟礼拝堂祭壇B

 その横には宣教師達が隠れたとされる洞窟がある。いわば洞窟司祭館であるが、開口部が大きく雨風が吹き込みそうなので、使用されていたときは板などで塞がれていたのだろう(下の写真)。

岩窟礼拝堂司祭館

 日本の洞窟教会は身を隠すためのもので、質素でなるべく目立たないように作られているが、ヨーロッパには一つの山が穴だらけにされて宗教都市を形成しているような場所もある。

Chiesa_di_Santa_Maria_di_Idris.jpg
INMAGINE The world's stock photo library 提供

 上は世界遺産に登録されているイタリアのマテーラの洞窟遺構群の一つ、サンタマリア・デ・イドリス教会の礼拝堂。最盛期には付近に100を超える洞窟聖堂があったという。

文化財

天の后(あめのきさき)コレクション-その1

 教会建築の紹介はまだまだ続けるけれど、今回は教会つながりで別のネタを。題して「天の后コレクション」。

 「天の后(あめのきさき)」とは聖母マリアに対する日本語の尊号の一つである。
 東アジアでは「天后」という言葉が古くから使われており、それは「媽祖(まそ)」という航海の安全を司る女神を指すことが多い。中国の海に面した町には天后(媽祖)を祀る天后廟が数多く見られる。
 下の写真は媽祖信仰が盛んという福建省湄洲島(梅州島)にある巨大な媽祖像で高さは14m以上ある。日本向けの観光案内には「海上平和女神」と説明されていた。
 皇后の冠をつけ、手には如意を持ち、強大な力で海事を支配する女帝の貫禄がある。見た目では聖母マリアより強そうだが、両者に共通性を全く感じないわけでもない。
 ただこの記事は天の后信仰と天后信仰を比較するのが目的ではないので、天后の話はこれで終わり。
梅州島Mazu
from Wikimedia Commons ⒸLuHungnguong

 カトリック教会にマリア像はつきものだが、教会の庭に手の込んだ「ルルドの洞窟」を造るなど、屋外で拝むマリア像に力を入れている教会は多い。また、これまでに見学した教会にも立派な屋外マリア像があった。というわけで、以下にそのをいくつか紹介したい。
 不謹慎なことではあるが、どのマリア様が理想の女性に近いか、なんてことを考えながら、気楽に眺めていただけたらと思う。なお今回掲載した写真のうち、外国の写真は他所からお借りしたものである。

神ノ島教会大マリア像
 まずは日本一大きな長崎県神ノ島教会のマリア像から。
 この像は長崎湾の湾口部にある大きな岩の上に立ち、長崎港や付近の漁港に出入りする船の安全を祈っている。像を建立した目的は媽祖像と同じといえよう。
 上の写真の左に見える山の中腹に神ノ島教会の白い聖堂が見える。
神ノ島教会マリア像遠景
 像の高さは4m60cmもあり、岩の高さを足すと15mを超えるので、長崎湾を航行する船からもよく見える。
 ここに初めてマリア像が建てられたのは、昭和24年(1949年)、ザビエル渡来400周年の年であった。その後厳しい海岸の風雨に曝され、初代の像は劣化が進んだため、昭和59年(1984年)、地元の水産会社などの寄付で二代目となるこの像が建てられた。デザインは彫刻家であり神父でもあるパウロ・ファローニ師。お顔は現代的な印象を受ける。
神ノ島教会マリア像顔

神ノ島恵比寿祠
 このマリア像の立っている岩の上には、古い石の祠と近年建てられた鳥居があって、祠の中と前には漁業の神である恵比寿像が計4体も置かれていた。それぞれ時代も作風も違う彫刻だが皆大笑いされている。マリア様とエベッさんが夜な夜なお話しているのではないかと思うと楽しい。日本ならではの風景だ。
神ノ島教会島恵比寿

 あと、神ノ島の巨大なマリア像の献花台には聖歌「あめのきさき(聖母マリアの賛歌として世界で広く親しまれている曲)」の歌詞が刻まれていた。行事のときには海上の安全を祈ってこの定番曲が歌われるのだろうか。一番の歌詞に「海の星と輝きます」という詞があるが、それを歌うのに最も相応しい場所だと思った。メロディーはこちら(サルフォード大聖堂のオルガン奏者アンソニー・ハントがお仕事中)。
あめのきさき歌詞

 神ノ島教会の岩の上に立つマリア像は両手をを広げ、人々に救済の手を差しのべるところをイメージしたとされる、いわゆる「慈しみのマリア」の姿である。もう2つほど同じ形の像を挙げたい。
大野教会マリア像
 上は先日紹介した「日本の美しい教会建築-5/外海(長崎市)-大野教会堂」の傍らに立つマリア像で、大野教会100周年(1993年)を記念して信徒の皆さんが建立したもの。
黒崎教会マリア像s
 こちらは長崎県の黒崎教会のマリア像。布の表現が立体的で軟らかく、誤解を恐れずに言えば、色と相まって最近のアニメ美少女フィギアのセンスを感じさせる。
 像の台は、100年以上(禁教時代を入れると400年以上)におよぶ黒崎教会の歴史が書き込まれた碑となっている。2000年竣工。
大野黒崎お顔
 2つの像は製作時期が比較的近いにもかかわらず、それぞれ別の個性を発揮していて興味深い。

 マリア像のポーズで、もう一つの定番がルルドのマリア像に代表される合掌タイプ。
ルルドの洞窟 ⒸMIXA
 上の写真がその本家というか元祖というか、フランスはオート・ピレネー県にある本物の「ルルドの洞窟」に置かれたマリア像である。
 ルルドの聖母マリア出現譚や泉の奇跡などについては、教会の公式見解から体験談、旅行案内、オカルト話の類まで、ネット上にも無数の資料があるのでご覧頂きたい。
ベルナデッタ
Wikimedia Commons ⒸPjahr
 人々の好奇心を書き立てるルルドのアイテムの一つに、聖母マリアと出会った少女ベルナデッタ(修道女となり看護と介護に尽力。35歳の若さで亡くなった後、聖人に列せられる)の腐敗しない遺体がある(写真上)。調査した医師によれば蝋でコーティングされたミイラということだが、ついさっき眠りについたような姿に神や奇跡の存在を感じる人も多いだろう。

 各地の教会にあるルルドの多くは、下の写真のようなミニチュア(福岡県今村教会)か象徴的なオブジェ(青森県弘前教会)であるが、原寸大の立派なルルドを再現しようとする教会もある。
福岡今村教会ルルド
弘前教会ルルド

 下は長崎県の神ノ島教会にあるほぼ原寸大のルルド。神ノ島教会は冒頭の巨大なマリア像と同じ教会である。
神ノ島教会ルルド01
 美しく彩色された大きなマリア像で、お顔を僅かに下に向け、教会の前に立った人々に優しく視線を合わせて下さるという寸法だ。
神ノ島ルルドアップ

 次は長崎県の出津教会の塔の先端に立つマリア像。ルルドの洞窟にあるオリジナルに似ているが、高さは目測で人間の3分の1ほどと思われ、よく見ると十字架の位置など細部が異なっている。10頭身のスラリとしたシルエットだが、目が大きいやや少女的なお顔立ちで、視線は遥かヨーロッパを望む、という訳ではないだろうが、北西の空に向けられている。見学に行かれるなら、双眼鏡や望遠レンズは必携。
出津教会マリア像m
 出津教会は有名なド・ロ神父が明治15年(1882年)に建てた教会で、マリア像の立つ塔は明治42年(1909年)に新築されたもの。像はフランス製でド・ロ神父が輸入したものとされるが、教会に明治42年以前からあったものか、塔の新築に合わせて新たに入手したものかは分からなかった。
出津教会塔上のマリア像

 次は珍しいマリア像で、明治の初頭、中国地方の山中に現れたマリア様の姿を写した、日本版のルルドやファティマというような像である。
 場所は鳥取県津和野市の裏山的な位置にある乙女峠。マリア像としては比較的少ない(仏像ではごく普通の)左右の腕の角度を変えたポーズとなっている。
乙女峠のマリア
 この像が表現しているのは、明治政府が欧米から批難されることになった宗教弾圧事件「浦上四番崩れ」の際に起きたエピソードである。
 浦上で摘発され、日本各地へ流罪(実質は禁固と拷問)となった3千人を超えるキリシタンのうち、津和野に送られたグループに安太郎という若者がいた(写真の檻に入れられた人物)。彼は送られた先の津和野で何日にも渡る激しい拷問を受けたが改宗しなかったので、体が伸ばせない3尺立法の檻(ほとんどただの木箱)に裸で押し込まれ、雪の屋外に放置された。
 夜、仲間の一人が檻に忍び寄り(彼らは牢の床を穿ち、囲いの内側ではあったが部屋の外に出て仲間と連絡をとる事に成功していた)安太郎を励まそうと声をかけると「毎夜青い着物を着た婦人が現れてお話をして下さるので寂しはくない」と答えたという。この婦人こそ聖母マリアというわけだ。この安太郎と話した仲間が「浦上四番崩れ」の詳細な記録を残した守山甚三郎である。
 安太郎もルルドやファティマの聖母マリア出現譚のように、何か予言めいた話を聞いたかもしれないが、婦人と会ったことは自分が死ぬまで人に話すなと遺言し、それから間もなく檻の中で息絶えた。
乙女峠殉教者碑2
 上は乙女峠で殉教した36人を描いたレリーフ。矢印が安太郎。子供が描かれているのは、何人もの子供が拷問され牢内で亡くなったからで、通常の拷問では簡単に改宗しないことを知った役人は、後から捉えたキリシタンの子供を拷問し、その悲鳴を大人達に聞かせるようになった。
 明治政府は欧米各国からの激しい抗議によって、外交に支障をきたすようになり(当時欧米に派遣していた岩倉使節団が、欧米の国家元首から直接批難されるような事態に陥り、外交交渉どころではなくなっていた)、明治6年に禁教を解くが、浦上四番崩れで流罪となったキリシタンのうち、すでに600人近くが拷問や病気で亡くなっていた。また、苛酷な拷問で転んだ人が1,200人ほどあり、それはそれで長く良心の呵責に苦しむことになった。

*追記 明治政府のキリスト弾圧に関する岩倉使節団と欧米各国とのやりとりは、こちらの記事「安倍総理の靖国参拝で思い出した明治初頭の宗教外交史」に少し詳しく書いた。
 
 かなり長くなったが最後に「日本の聖母」という称号を持つ大浦天主堂のマリア像を紹介したい。大浦天主堂マリア像
 この像は苛酷な弾圧を耐えた日本のキリシタンと、ヨーロッパの神父との感動の再開を記念して、フランスの教会から贈られたもの。明治12年(1879年)の聖堂建替え時からずっと正面入口に置かれているという。これが日本の屋外マリア像の第1号ではないだろうか。高さは1m40cm。頭に頂く冠と足下の三日月が金色で、品の良い豪華さがある。
 信徒再発見の当事者プチジャン神父はパリ外国宣教会に所属していたので、そこからの贈り物と思われるが、明治期に輸入されたマリア像の中でも、これは特に優れた作品といえ、特別に選んで贈られたことが伺える。

文化財

日本の美しい教会建築-5/外海(長崎市)-大野教会堂

 大きな教会の次は小さな教会を紹介したい。教会の聖堂に対して「珍品」という言葉を使うのは少し抵抗を感じるが、思わずそんな言葉がでてしまうような、人を惹き付ける個性的な建物である。

大野教会

 この教会は長崎外海地区の人々に、今も「ドロ様」と慕われ続けるマルク・マリー・ド・ロ神父が造った建物の一つである。
 ド・ロ神父は病人や高齢者など遠くの教会に行けない人々のために、自身で資金(総額1,000円とされる)を調達し、信者とともに建設作業に汗を流した。
 明治26年(1893年)竣工。幅が6m弱。奥行きは10m強という巡回教会だが、歴史的にも技術的にも興味深い建物だ。地域の信仰の拠り所として、また長崎県の文化財として大切にされてきたが、2008年には国の重要文化財に指定されている。
 巡回教会というのはその名の通り、定期的に司祭が巡回してミサなどを行う常設の聖堂のことで、大野教会の場合、最寄りの出津教会の神父が巡回した。

大野教会壁面窓
 上の写真のように、この建物には正面の戸を隠す壁があり、出入りする人は壁と建物の間を通るようになっている。こういう構造を何と呼ぶのかは知らないのだが、砦の入口に設けられる虎口のようだ。もちろん壁を設置した目的は異教徒の突撃を防ぐためではない。
大野教会見取り図-01
 おそらく暴風雨が戸を直撃するのを避け、台風の最中にでも付近の住民が教会に避難できるようにした壁と思われ、同じような壁はド・ロ神父が設計した別の建物にも見られる。

 下は明治18年(1885年)に竣工した出津の鰯網工場(現ド・ロ神父記念館)。大野教会とは違って壁に白漆喰の化粧がなされているが、やはり壁の内側に正面中央の戸が隠されており、矢印のところから入る(現在は壁の内側にある戸は閉じられ、西側下屋の増築部分から出入りしている)。
大野教会参照用鰯網

 下の写真に見られるように、窓のアーチには煉瓦が使われているが、それ以外は「ドロ様塀」と呼ばれる石積みの壁である。ドロ様塀はド・ロ神父が造った建物に共通する特長の一つとなっている。
 また軒下には箱のような軒天井が見られるが、これは後世の改築で、当初この部分には土壁があったとされる。

大野教会横

 ドロ様塀の仕組みは、天川漆喰(あまかわしっくい/長崎で土間の床面などに使われていた漆喰)と赤土を混ぜたモルタルを接着剤として、平板の玄武岩の割石を石垣のように積み上げたもの。大量の石を使うため、重い荷を担いで何度も坂道を登る重労働が必要であった。ただし、苦労は多かったと思うが、強制された労働ではなく、信仰に基づく自主的な行動であるから、笑顔の多い現場であっただろう。

大野教会参照ドロ様塀

 聖堂内は学校の教室のような質素な作り。竣工当時は床が張られておらず、土間であったという。もしかすると天川漆喰のタタキであったのかもしれない。
 基本的に無人の建物なので現在は施錠されているようだ。戸のガラスを通して内部を拝見できるし、場所がら救いを求めて村人以外の人がやってくる可能性も低いと思うので、文化財保護のために施錠もやむを得ないだろう。
大野教会堂内

 聖堂の後方には6帖2部屋と土間からなる和風住宅がくっついていて、祭壇横の戸から出入りできるようになっている。中は見えなかったが、6帖間は一つが板張り、もう一つが畳敷。それぞれに1帖の押し入れがついているとのこと。設計は日本人の棟梁であろう。

大野教会奥部屋

 この住宅はド・ロ神父時代のものではなく、外海地区に赴任してきたジョセフ・ブルトン(Marie Joseph BRETON)神父が大正15年(1926年)に「司祭館」として増築したものである。
 上の写真の左に見える雨戸を開けると縁側がありその内側に司祭が使う6帖の居室がある。

 出津教会から大野教会までの道は、アップダウンのある海岸の傾斜地にあるが、ゆっくり歩いても2〜3時間で着くだろう。しかし、仕事のスケジュールによっては巡回教会に泊まった方がよいこともある。昔は巡回司祭が聖堂の床で眠っていたといわれるから、ブルトン神父以降の担当神父達は巡回の疲れが大いに軽減されたことであろう。また祭壇の後に控え室があるのは行事の進行時に何かと便利であったはずだ。
 ブルトン神父は、ド・ロ神父らと同じくパリ宣教会が派遣した神父の一人で、「日本の美しい教会建築-4/平戸-紐差教会」で紹介したように、後に佐賀の教区に移り、紐差教会の二代目聖堂を貰い受けて馬渡島に移築した人物である。

大野教会奥

 司祭館の方から見るとカトリックの教会には見えない。キリスト教が伝来して間もない頃、地方の教会はみなこんな姿だったのではないだろうか。
 ド・ロ神父が造った小さな建物は寄棟屋根のものが多く、屋根の内部はシンプルなトラス構造である。
 通常の見学では大野教会堂の骨組みは見えないが、ド・ロ神父が造った他の建物から推測すると、日本の大工さんが使う木組みの技法はほとんど使わず、金具を多用して組み立てられていると思われる。当時は鉄の金具を手に入れるより、大工さんを探す方が早かったと思うのだが、ド・ロ神父は自分が学んだ建築方法で手作りしていった。

 ド・ロ神父については、彼が長く布教の本拠地とした出津教会を紹介するときに、もう少し詳しく紹介したい。

文化財

浦上天主堂撤去についての本

 前回の「日本の美しい教会建築-4/平戸-紐差教会」の終わりで少し書いた本を紹介しておきたい。
 高瀬 毅『ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」』平凡社

 戦後史や日米関係に興味のある方は面白くて一気に読んでしまうような本であるが、日本のカトリック教会関係者にとっても面白い本であろう。今更古い話をほじくり返しても無意味だという人は、過去に目を閉じ未来を放棄する人だ。こうした問題はそれぞれの時代ごとに、また新しい世代ごとに執拗に検証を繰り返すべきものである。
 TPP参加推進など、今のアメリカに追従してしている為政者や財界人は、近い将来この本に登場する長崎市長やカトリックの司教のような疑いを持たれる可能性は高い。つまり、この本に書かれていることは、現在進行形の日本の姿なのだ。

 <池松氏は衝撃的なことを話し始めたのだった。それは浦上天主堂の廃墟の取り壊しについてだった。「遺跡の取り壊しについて、あるところから巨額の寄付金が来たんだよ。事実あれを残していたらアメリカが困るんだ。(遺跡を)この世から抹殺する力が働いた」>本文より

 <破壊されたものを醜いものとする捉え方自体、真実から眼をそらすことであり、歴史の抹殺、人類の自己否定に通じる行為だということも >本文より

 <被爆した浦上天主堂の廃墟は戦後13年間、保存を前提に残されていたが、突然撤去された。その裏には何があったのか? 米国の影を背後に見つつ、綿密な取材で現代の闇に迫った問題作。>平凡社のコピーより

01消えたもう一つの原爆ドーム
 
定価:1680 円(本体:1600 円) 四六判 272頁 2009.07 
ISBN978-4-582-82453-7 C0020 NDC分類番号 209.7

文化財

日本の美しい教会建築-4/平戸-紐差教会

 これは昭和4年(1929年)竣工の比較的新しい鉄筋コンクリートの建物だが、教会そのものの設立は明治18年(1885年)と古く、教会設立時の建物から数えて推定三代目となる。なぜ推定なのかは後述する。

紐差教会聖堂正面

 まずこの白い聖堂が建つまでの流れをおさらいしたい。

 1865年(元治2年)大浦天主堂で潜伏キリシタンとの劇的な出会いを体験したベルナール・プチジャン神父は、「フランス寺見物」を装ってやってくる潜伏キリシタンを通じて(プチジャン神父は大浦天主堂を開放し日本人に見物させていた)、各地に潜むキリシタンの情報を収集していた。
 そして明治12年(1879年)、外国人の往来が自由化されると、ジョセフ・F・マルマンや、アルベルト・C・A・ペルーといった若くて有能な神父達を派遣し、潜伏キリシタンの調査と彼らを教会へ迎える準備を進めさせた。

 ペルー神父は五島列島を経て平戸島に入り、多数の潜伏キリシタンと出会う。彼は明治13年(1880年)平戸島の田崎に、布教の足掛かりとなる聖堂と住宅を建てるが、これらが紐差教会の前身となった。
 次にその仕事を引き継いだのが、新約聖書の和訳で知られるエミール・ラゲ神父だ。彼は明治18年(1885年)に田崎の教会を交通の便のよい紐差に移転。翌明治19年に法人登録を済ませ正式に紐差教会が発足した。このときの聖堂が田崎から移築したものか、新築したのかは確認できなかったが、いずれにしてもこれが「初代」の紐差教会だ。

 次に紐差教会にやってきたのが「教会建築-1/宝亀教会」で紹介したジャン・フランソワ・マタラ神父である。彼は福岡に転勤したラゲ神父と交代し、以後長きに渡って紐差教会を支えることになる。
 紐差教会には島内の各所から多数の信徒が訪れたので、聖堂はすぐに手狭となった。そこでマタラ神父が各方面の協力を仰ぎ、奥行き20m間口12mほどの聖堂を建てたとされる。しかし、新聖堂建設に関する記録が残っておらず、マタラ神父が就任時にすでにあった聖堂を、そのまま使い続けたということも否定できない。これが冒頭に「推定」とした理由である。

 しかし、パリ宣教会はマタラ神父を「Le Père Matrat fut un grand constructeur d'églises pour le besoin de ses communautés dispersées.(マタラ神父は広範な信徒の要求に応えた偉大な建築家であった)」と称えている。こんな人物が築50年にもなろうかという手狭な建物を、布教の拠点(明治期の小教区主任教会)として使い続けるだろうか。筆者はマタラ神父が二代目を建てたのは間違いないと思う。

 当然ながら二代目聖堂の竣工年ははっきりしない。パリ宣教会の記録を見ると、マタラ神父が何らかの形で関わった建築事業は、1896・98・1903・09・11・18の各年に竣工していた。全てが聖堂ではないし、所在地は2件を除いて島単位でしか分からないが、付近の教会の竣工年、建築様式、マタラ神父の勤務状況などから考えて、最初の1896年(明治29年)が二代目紐差教会ではないだろうか。

 謎の二代目聖堂として興味が持たれる建物だが、幸運なことに三代目聖堂の建設に際し、少し離れた島に移築され今も残っている。
 当時佐賀県の呼子方面を担当していたヨゼフ・ブルトン神父が、壱岐水道に浮かぶ馬渡島に移し、馬渡島カトリック教会堂として今も大切に使い続けられているのだ。
 馬渡島は呼子港や名護屋港から船便があるが、残念ながら筆者はまだ見学できていない。建築史の川上秀人史近大教授は「長崎の教会建築史」の中で「(馬渡島教会は)明治18年の建築とすることもできようが、形態上から考えるとさらに年代を下げることも可能である」と述べている。明治29年というのは、けっこういい線ではないだろうか。
 
 マタラ神父の就任中、紐差教会に集まる信徒は増え続け、明治末期には施設の拡張が強く求められるようになっていた。そのためマタラ神父は資金集めに努めたが、在任中に現状を上回る規模の聖堂を建てるには至らなかった。
 大正10年(1921年)マタラ神父の仕事を引き継いだのがボア神父だという。このボア神父については調べがつかなかった。パリ宣教会のアーカイブスで見つけたボア神父らしき名は「Frédéric Louis BOIS(フェデリーク・ルイ・ボワ)」だけで、彼は当時九州にはいたが熊本で活躍していたようだ。彼と紐差教会との関わりを示す記述は見いだせなかった。しかし、一時的に誰かの代理として派遣されたことは考えられる。

 その後何年も建設のための努力が続けられ、昭和2年(1927年)に紐差にやってきた荻原浩神父の代になって、やっと着工の運びとなった。設計施工は当時すでに教会建築の第一人者となっていた鉄川与助棟梁である。

紐差教会横

 建物は2階建で、礼拝堂は2階にあり、参拝者は正面の階段から直接2階に入るという珍しい構造になっている。鉄川与助棟梁のコンクリート建築は、これが第2作目とのこと。
 前面の鐘塔は3層で、上に8面体のドームが載る。スタイルとしては白亜のロマネスク様式ということで、夏の明るい日差しの中で見たせいか第一印象は「あっ、メキシコの教会みたい」であった。

紐差教会後ろ

 建物は斜面に建っているので後ろの方は平屋となっている。建物の後端の地下にまで部屋があるかどうかは未確認。
 建築資料によると屋根は桟瓦葺とあるが、建物が大きいし丘の上に建っているので瓦は見えにくい。建物の後ろから祭壇後部の屋根を見ると、桟瓦ではなく平板の材料で葺かれているように見えた。

紐差教会堂内

 外から見ても分かる通り三廊式である。主廊と側廊の間にアーチを支える円柱が並び、柱頭の飾りがアーチ下端の四角い断面と円柱をうまくつないでいる。
 室内の幅は約15mで、ドアを入った所から祭壇までは25m以上ある(建物全体の奥行きは40m以上)。これは戦前に建てられた日本の教会では特に大きなもので、戦後浦上教会が巨大な新聖堂を建てるまでは、紐差教会が長崎県で一番大きい教会であったという。
 天井は中央が高い折上式の格天井で,各ブロックに装飾が施されている。天井の格子は単なる装飾ではなく、鉄筋の入った部材として屋根を支えているそうだ。

紐差教会窓とドア

 2階以上の窓には全てアーチが付き、窓やドアにはステンドグラスがはめ込まれている。ステンドグラスの大半はシンプルな幾何学模様だ。
 建物の1階はかなりのスペースがあるはずだが、どのような使われ方をしてきたのか聞きそびれてしまった。

紐差教会ファティマの聖母

 この教会の敷地には十字架の道行き石(キリストの14の苦しみがそれぞれ石に刻んであり、それらを順に拝んでまわる)など、信者のための仕掛けがある。特に目を引くのはファティマのマリア像だ。ルルドのマリア像はよく見かけるが、ファティマのマリア像をこのように大々的に作った教会は少ないと思う。
 日本ではこの聖母出現譚が、超常現象番組やそれに類する本で宣伝されたために、オカルティックな印象を持たれているが、この素朴な像を見るとなんとも心がなごむ。

 最後に、浦上教会の巨大な新聖堂で思い出したことがあるので、紐差教会とは関係ないが、以下にその話をする。最近新しい本もいくつか出ているし、詳しく知っている方も多いと思うが、全人類的な遺産ともいえた浦上天主堂の被爆遺構が、1958年、浦上教会によって解体されてしまった話だ。教会建築ファンというか、平和を望む日本の一市民として、このことは忘れてはいけないと思う。

 1940年代の終わりから1950年代にかけて、長崎市では原爆で破壊された浦上天主堂を保存するか撤去するかという議論がなされていた。
 長崎市議会では何度も保存が決議され、1951年に当選した田川努市長も保存に賛成であった。
 ところが1955年になると、カトリック長崎教区の山口愛次郎大司教が、教会再建の資金を募るため渡米し、10ヶ月をかけてアメリカ各地の教会を回った。
 最近知って驚いたのだが、山口大司教はアメリカの新聞(ニューヨークタイムス)の取材に対し「カトリック教徒はこの試練を戦争を終わらせるための殉死とみなす」「広島で日本人が受けた犠牲は十分でなかった(だから長崎にも原爆が落とされた)」と述べたという(ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」-高瀬毅/平凡社 による)。これが事実なら、長崎カトリック教会と浦上教会は日本国民にどんな言い訳をするつもりだろう。

 山口大司教がアメリカ行脚をしていた頃、日本では広島市で第1回原水爆禁止世界大会(1955年)が、長崎市で第2回原水爆禁止世界大会(1956年)が開催されるなど、核兵器の使用を「悪」として非難する運動が盛り上がりを見せていた。日本原水爆被害者団体協議会が結成されたのもこの頃だ。
 
 田川市長も山口大司教とほぼ同時期に渡米。名目は姉妹都市提携をしたセントポール市を表敬訪問するということであった。そのときアメリカで何を吹き込まれたのかは明らかでないが、帰国すると保護から撤去へと態度を変え、議会で「多額の市費を投じてまで残すつもりはない」と明確に答えるようになった。

 1949年から活動を続けてきた長崎市原爆資料保存委員会は、教会が具体的な撤去計画を進めていることに驚き、新しい聖堂を建てる代替地の提供を申し出た。
 しかし教会側は、浦上天主堂のあった場所はカトリック信仰史上重要な場所であり、そこで祈ることに大きな意味がある、というような理屈を述べ、原爆遺構の全人類的な歴史価値を全く認めない姿勢で移転案を拒否したのである。
 その後浦上教会は遺構の撤去を開始し、壁の一部などが移転展示されたほかは、廃棄または新しい教会の土台として埋めてしまった。

 広島の原爆ドームは大切に保存され、1996年、人類の負の遺産として世界遺産に登録された。かつてのカトリック長崎教区の長が保護者として頼ったアメリカにとっては目障りな世界遺産ではあるけれど。
プロフィール

Kimupon_Cicadan 木村 義志

Author:Kimupon_Cicadan 木村 義志
出身地 : 大阪市
現住所 : 東京都
1955年生まれ
科学図書執筆編集のお仕事
分野は生物学系

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