備忘録/自然・文化・社会とニュース

文化財

文化財を守ることの難しさ 下田市の例

すっかりご無沙汰してしまいました。申し訳ありません。またぼちぼち書かせて頂きます。

 写真は昨年取り壊された「国の登録有形文化財」の「南豆(なんず)製氷所」。現在は更地となり、新しく建てられる飲食店の開店を待っている状態だ。壊されることになったとき、すぐに写真を撮りに行ければよかったのだけれど、行った時にはここまで作業が進行していた。

写真は一部しか表示されないので、クリックすると別窓で開きます。
南豆製氷所

 南豆製氷所は大正12年、下田の水産物等に使う氷の製造工場、また製品を保管する冷凍冷蔵倉庫として建てられ、隣り合った2棟の建物で構成されていた。その後多少の増改築はあったらしいが、石造りの洋風建築の姿を今に伝えるものとして知られている、じゃなくて「いた」。
 南豆製氷所の竣工当時の姿←クリック
 国は有形文化財に登録した理由として「初期の冷凍冷蔵倉庫として貴重で、再現することが容易でない」ことをあげている。
 そんな建物が取り壊されてしまったことは残念でならないが、下田市(人口2万3千人。静岡県で人口が最も少ない市)が文化財を大切にしなかったとか、市民が文化財に理解がなかったということでは決してない。全ては日本の地方都市全体を覆う「財政難」という暗雲のせいだ。取壊しを自分の体を切られるような気持ちで見た人も多いだろう。

下田市街
下田市の中心街。伊豆半島は平地が少なく、下田市も稲生沢川の河口に形成されたわずかな平地に形成された港町であった。現在は市民の多くが第三次産業に従事している。

 下田市民は保存のための団体を作って広報や募金活動に奔走し、市も保存するための「有効活用検討委員会」を立ち上げ対応策を練った。もちろん国も解体にすんなり同意した訳ではない。また、募金が集まるまでの間、篤志家が当面の費用を負担して時間を稼いだという。
 聞くところによると、土地建物の買い取り費用が1億円、倒壊の危険を防ぐ修理に1億円が必要とされ、その他の経費も含めて3億円もあればおつりがくる勘定である。しかし、市と市民にはこの金額が大き過ぎて、結局写真のような結末と相成った。
 大都市の開発事業から考えると「たったの3億円」で貴重な建物が残せるなら安いもの、と言えなくもない。現在東京では、市民や建築家などが反対する中、まだまだ使える片山光生デザインの「歴史的建造物」を壊してまで、オリンピック用陸上競技場の建設(他の競技場や調査費などは別)が強引に進められているが、その予算は1,625億円だという。高額過ぎて高いのか安いのかよく分からんけど。

ペリーロード
下田は最初に開港されアメリカ領事館が置かれたが、都市から遠過ぎたため、5年程して横浜が開港されると、外国船は水や燃料の補給や、避難港として利用するだけになってしまった。それでも一定の賑わいがあり、花街なども形成された。現在も古い建物が残りその名残が見られるが、こうした古い町並みを「ペリーロード」などと、商店街のような名前にするあたりに、アイデアと資金不足の苦しさを感じずにはいられない。

 下田市も国や県の補助を受けて箱物行政に突っ走っていた時期もあったが、その後不景気に陥り市の年間予算を大きく上回る250億円という借金と、箱物の維持費や、失業や高齢化に伴う福祉予算の増加が重くのしかかるようになった。
 市長が先頭に立って、支出削減に取組み(住民サービスに影響がでないかと心配になるほどの予算や人員をカット。市長の給料は県内で一番安いと自慢している)、そのおかげで負債を25%ほど減らすことに成功したが、下田市はまだ、地域問題の研究者が「貧困」と形容するほど苦しい状態らしい。
 もちろんこうした苦しみは下田市だけのものではない。日本全国に共通して見られる現象だ。

 文化財の維持は、それが残されている町の市民が主体となって活動しないとうまくいかないし、良好な状態で維持活用されているのは、文化財を愛する市民が多くいる町だ。でも予算的なことは小さな自治体だけの手に負えるものではない。国家的な事業と認識しないと市民の負担は増すばかり。
 これは前にもお寺の話で書いたけど、国の文化財保護予算は600億円程度。建築物の補修などに使われる予算はそのうち100億円にも満たないそうだ。登録有形文化財にいたっては、どんなに壊れても国は一銭も出さないし、今回のように、登録を抹消すれば壊してもOK(登録有形文化財=ゆるやかな保護措置 by 文化庁)。
 日本と同じく伝統を重んじるとされるイギリスは、建物の修理費に毎年約500億円を投じているという。しかもイギリスの国家予算(歳出額)は、日本の半分以下なのだ。人口も半分ということを考えると、国民一人当たり10倍の費用を、古い建物に投じていることになる。なんなんだろね、この違いは。

文化財

日本のおカイコさん-4/横浜から読み解く製糸産業

 2014年に富岡製糸場の世界遺産登録が報道された際「富岡製糸場に女工哀史はなかったのか?」というようなことがネット上で話題になった。そのおかげで2010年にここで書いた「富岡製糸場への疑問」へのアクセスが普段の100倍にも増えた。恐るべし世界遺産効果。

 今回はシリーズ第4弾(笑)。生糸輸出の舞台として日本はおろか世界の絹関連産業に大きな影響を与えた町「横浜」をとりあげたい。横浜を知らずして日本の近代化や富国強兵は語れないのだ。
生糸検査所シンボル
横浜に残る生糸関連遺構の一つ「生糸検査所(現横浜第二合同庁舎)」の正面玄関に掲げられた彫刻。唐草装飾風にアレンジされたカイコガの足下にクワの葉と実、胸には御紋と日章旗が配置されている。筆者などはこれこそが横浜のシンボルマークだと思っている。

 製糸工女も、養蚕農家も、製糸家も、生糸商も、日本の製糸業に関わる全て人々の運命を支配していたのは、国際取引における「生糸の価格」である。
 製糸業とはクワの葉でカイコを育て、そのカイコが作った繭から糸をとるという、何千年も前から続くプリミティブな産業であった。でも人の暮らしは貨幣経済の喧噪と無縁ではいられない。日本が開国するやいなや、日本の製糸業は国際商品取引という、生き馬の目を抜くお金の世界に投げ込まれ、踊る生糸相場に翻弄されるようになった。そして、いつもその中心にあったのが横浜というわけだ。
 横浜は幕末以来日本で唯一といっても過言ではない生糸の対外取引場所であり(明治中期、日本各地に生糸の取引所が開設されたが、いずれも振るわず大正までに順次閉鎖されている。また関東大震災で横浜が都市港湾機能を失ったのをきっかけに、神戸での取引が開始されるが、ほどなく復興した横浜の方が扱い量が多かった)、日本にある製糸場のほとんど全てが横浜とつながっていたといえる。横浜から見れば先進の富岡製糸場も全国に数多ある生産拠点の一つに過ぎず、関心は専ら品質と価格に向けられていただろう。

市庁舎鉄冊
「生糸検査所(現横浜第二合同庁舎)」の周囲を囲む繭形のフェンス。
帝蚕倉庫
横浜市は戦後急激に膨張し、1980年には大阪市を抜いて日本第2位の人口を擁する大都市となった。そのため生糸関連の遺構はあまり多く残っていないが、写真の「帝国蚕糸倉庫(大正末期)」は、生糸取引で栄えた横浜の面影を今に伝える貴重な遺構の一つ。付近には同様な倉庫が何棟も並んでいたが現在残っているのはこの1棟だけ。
帝蚕事務棟
上の倉庫と同じ「帝国蚕糸事務棟(旧横浜生糸検査所附属倉庫事務所)」。同社は第一次世界大戦が招いた生糸の大暴落を買い支えるため、官民共同で設立した商社である。社長は生糸取引で巨万の富を得、富岡製糸場を三井家から買い取った原三渓(富太郎)。この会社は役目を終えると短期間で解散し、再び大暴落があると設立するという性質のものであった。

 幕末から明治初頭の生糸商の中には、梱包に細工をして重量をごまかしたり、見本と異なる不良品を納品するなど、デタラメな取引をする者があった。そうでなくとも品質のバラツキなどから安く買い叩かれていた日本の生糸は、国際市場での信用を失い、良品まで買い叩かれるようになったという。
 そこで信用を回復し、少しでも有利な条件で販売するため、官民あげて新しい設備や技術の導入を図り、品質向上と規格の統一化を進めようとした。そうした動きの一つが官営富岡製糸場の建設である。
 また、前橋藩でも富岡に先んじ、外国人技師を雇い入れて同じような取組みを進めていた。前橋藩は早くから生糸の輸出が大きな利益を生むことに気づき、横浜に事務所を開設して利益をあげていたのである。武士の商売下手を揶揄する言葉に武士の商法というのがあるが、前橋藩の場合は全く逆で、さしずめ「武士の商社」といったところ。戊辰戦争の際には生糸売買の利益が戦費に使われたことだろう(当時の藩主は徳川氏と同族の松平直克であったが、新政府軍に加わり会津で松平容保と戦っている)。前橋藩と製糸事業については以前の記事「前橋城」でも少し取り上げたので、興味がお有りの方はご笑覧を。

富岡製糸場
生糸の品質向上と製糸技術の近代化を図るために建設された富岡製糸場。その品質は国際市場で高く評価された。

 ミソもクソもいっしょというか、何もかも同じ色に塗りつぶしてしまうような話をして恐縮だが、「あゝ野麦峠」に代表される製糸工女の哀史も、「富岡日記」に登場する士族の娘達が富岡製糸場で体験した楽しい生活も、その奥底にはどちらも横浜の生糸取引の存在がある。
 前者は横浜の生糸相場の急落によって生じる損失を「(工女同士の)共食い」と批判された低賃金システムと労働強化によって吸収した結果であり、後者は横浜で少しでも有利な商売ができるよう、設備と技術の刷新を図る過程で生じた現象であった(官営富岡製糸場に出現した先進的な労働環境は、富岡製糸場の立ち上げを任されたブリュナが、機械や技術だけでなく、フランス式の福祉や文化も導入しようとしたことによる)。
 官営富岡の労働環境がいかに先進的でも、それは寒帯の草原に熱帯植物の種を1粒蒔くようなもので、当時の日本社会の生態系はブリュナの理想の種を発芽させることはなかった。日本社会の生態系の中にある製糸業というニッチは、良くも悪くも横浜で基本的な枠組みが決められ、その変化は緩慢であったといえる。
 まわりくどい比喩をしてしまったが、日本が発展途上国であった頃の横浜は想像以上に大きな存在で、そのことを調べていくと、世界遺産の遺構を訪れたときに見過ごしたことにも気づかせてくれる。

 話は少し戻るが、開港されたばかりの横浜は、幕府によって貿易が制限され、生糸などの重要産品は、特権を持つ江戸の商人が販売していた。しかし、自由な取引を求める内外の圧力によって、この旧態依然とした制度はなし崩し的に葬られた。
 横浜にとってラッキーだったのは、カイコの伝染病によってヨーロッパで生糸が品薄になっていたことだ。横浜に運ばれた生糸は高値で売れ、成功を夢見る人々も多く集まるようになった。おかげで日本の伝統絹織物業界は原料糸の高騰に苦しみ、廃業の瀬戸際に立たされるものもあったという。

 幸先のよいスタートを切った横浜であったが、外国人と対等な取引ができるようになるまでには、もう少し時間が必要であった。外国の貿易商は不平等条約を背景に有利な取引を展開し、時には理不尽な行為もあったという。もし日本人がしてやられたと気づいても、お奉行様は外国人を裁けないのだから辛い。開国したばかりの日本人が、百戦錬磨の外国商人に対抗するのは容易ではなかっただろう。原善三郎(原三渓の義父)や若尾逸平・幾造兄弟、茂木惣兵衛などのように、取引に成功して莫大な資産を手にする者が現れた反面、大きな損失を出して破滅した者も少なくない。

 生糸貿易は日本の富国強兵と近代化を支えたとよくいわれるが、明治期に横浜の豪商達が扱った生糸の輸出額は国家予算に迫るものがある(明治期の国家予算が少なかったこともあるが)。豪商達が得た利益はべらぼうで、短期間のうちに王侯のような財力を手に入れる者があった。それらが製糸労働者や養蚕農家からの搾取の上に成り立っていたかと思うと、少し暗い気分になってしまうが、逆に失敗したときの反動も大きく、その影響は店主が首を吊ったぐらいで収まるものではなかったろう。歴史に名を残した豪商でも、ある日突然姿を消し、その後の足取りがつかめないという人物もいる。
三渓園
美濃出身の原三渓(本名富太郎/原善三郎の娘婿)は義父の後を引継ぎ、さらに大きな成功をおさめた。富岡製糸場などを買い取ったほか、横浜郊外に東京ドーム4個分にもなる広大な庭園「三渓園(写真)」を造営し、全国から重文クラスの建築物を買い集めて移築したことでも知られる。

 最後に日本の蚕糸業と横浜の生糸取引の歴史がよく分かる書籍を2冊紹介したい。日本の製糸業に興味がある方は必読。2冊とも養蚕試験場や蚕糸検査所の指導員を歴任され、現在はシルク博物館におられるという小泉勝夫さんが書かれたもの。購入してからは、頻繁にこの本のお世話になっている。
蚕糸王国日本と神奈川の顛末3
 一冊目は「蚕糸業史/蚕糸王国日本と神奈川の顛末(2006)」
 表紙に蚕糸業史とある通り、日本の蚕糸業の歴史の(なんと2億年前の鱗翅目の起源から話が始まっている)集大成というか、蚕糸業大百科や蚕糸業白書の感がある。本文は400ページ超。表や図版も充実していて資料性が高い。もちろん横浜の豪商達についても詳しく書かれている。これをお一人で纏められたとはにわかに信じられなかったが、あとがきに15年の歳月を要したとあり納得。
 書店では流通しない私家版だが、2014年7月の時点で横浜のシルク博物館に在庫があり購入可能であった(価格の記載がなく、いくらで購入したかは忘れてしまった)。
開港とシルク貿易3
 次は「開港とシルク貿易/蚕糸・絹業の近現代(2013)」
 世織書房 税別¥2,000- ISBN987-4-902163
 著者が蚕糸絹業専門誌「シルクレポート」に連載していた記事「横浜開港とシルク貿易」を基に、第二の生糸輸出港である神戸の歴史など、新しい文書や資料を加え再構成したもので、日本の蚕糸業の流れを掴むのに最適。解説が非常に具体的で、例えば酸による孵化時間のコントロールなど、自分で実際にやることはないと思うが、読んでいるとちょっと試したくなった。入手しやすくコンパクトにまとめられいるので強くお薦めしたい。

文化財

原爆で消えた文化財/広島城

 ブログの更新が今頃になってになってしまい大変申し訳ない。今回は春先に行った広島城について。

 太平洋戦争時、米軍の空襲で失われた文化財は多い。その中には国宝や重文クラスの物件が多数あった。城郭建築でいえば、名古屋城・和歌山城・大垣城・水戸城・広島城・福山城の天守が失われ、それ以外にも各地に残っていた櫓や門などが失われている。
Burning_Nagoya_Castle.jpg
空襲で炎上する名古屋城天守 Japanese book Showa History of 100 million people: Vol.4 published by Mainichi Newspapers Company.

 中でも特に悲惨だったと思うのは、原爆で一瞬のうちに瓦礫の山と化した広島城とその城下だ。
 目撃者への聞き取り調査や付近の発掘調査、倒壊後の現場写真などから、天守は爆風でふっ飛ばされたのではなく、斜めに押しつぶされるように倒壊したことが明らかとなっている。
 衝撃波や爆風により重要な部材に大きな力が加わり、爆風が通り過ぎた直後一気に崩れ落ちたのだろう。「倒壊直後の瓦礫の山」

 1958年、市民の要望によって天守が再建された。倒壊前の資料が多く残っていたことと、当時は市民の記憶の中に「広島城」の姿が鮮明に残っていたために、各地に見られる「実在しない白亜の大天守」ではなく、旧天守の古風な姿を忠実に再現した、原寸大の外観模型となっている(下写真)。日本の鉄筋コンクリート天守の中では、出色の出来といえよう。
天守01

 平地にある城が空襲されやすいのは、都市の座標として上空から確認しやすいこと。また一部の城は近代に入っても軍事施設として利用され続けたことが原因である。
 城の位置は大きな建物が増えた現代でもよく分かる。広島市中央公園(広島城三の丸)の東隣にある四角い緑地が広島城本丸。ここを中心に旧日本陸軍第5五師団の各種施設が密集していた。

下は広島城本丸の全景。赤丸が戦後再建された天守。
本丸全景

 広島が原爆の投下目標候補になったのは、日清戦争時に大本営が置かれ、日清戦争終結以後も陸軍の拠点として発展し続けた「軍都」であったことが大きい。
 兵器や糧秣、軍服などの工場があり、広島の経済発展は軍隊無しには語れないほどになっていた。戦前の市民には「軍都広島」という意識があったという。
 なのでアメリカとすれば優先的に破壊すべき都市の一つであったが、原爆の実用化に目処が立つと、原爆の威力を正確に調べるために、投下候補地への通常爆撃は控えるよう指示がでた。このため広島周辺では「広島は空襲されない」というデマが流れたという。

 下は広島城本丸にあった陸軍の通信施設。土を盛った半地下構造であったため全壊は逃れた。常設の無線アンテナは爆風で破壊されたと思われるが、ここから何らかの方法で被爆の第一報が発せられたという。
地下通信壕マーク
敗戦後米軍が撮影した通信壕の写真
地下通信壕02
広島城本丸に残る現在の通信壕。上のモノクロ写真の赤枠の部分。

 先に書いた通り、城内には第5師団の権威を示す建築物がいくつもあったが、原爆によって全て失われた。下の写真は日清戦争時の大本営跡。城内では臨時国会が開かれ、天皇の御座所もあった。
大本営跡
広島大本営跡

 広島市への原爆投下は、平和な都市が理不尽に狙われたと思っている人もあるようだが、広島市が攻撃目標にされたことの背景には、広島城を中心とする「軍都」としての歴史があったことを忘れてはならないと思う。広島の人々は被爆後、軍隊や軍需産業による地域の発展など、もう懲り懲りと思ったことだろう。広島の一般市民にとって、軍事基地や軍需工場から長年得てきた利益より、原爆によって一瞬にして失ったものの方がはるかに大きかったはずだ。


社会とニュース

安倍総理の靖国参拝で思い出した明治初頭の宗教外交史

 安倍総理の靖国参拝を見て、明治初頭の宗教外交を思い出した。安倍首相も、できたての明治政府の指導者達も、それぞれ内輪の柵はあったとは思うが、例えていうなら、身内用のネタをテレビで披露したために滑った、といったところか。
 明治初頭の宗教と外交の事情を知るには、高木一雄の名著「明治カトリック史」が大いに参考になる。この本には著者の考察や解説が少ない。その代わり当時の書簡や外交文書が原文のまま大量に引用されていて「著者が一次資料を整理して並べてやるから、読者はそこから何かを読み取れ」というような硬派な構成だ。この本を頼りに、信教の自由より国家の権威が優先される世界観をたどってみたい。といってもたいしたことは書けないのでお気楽に。

大きな外交問題となった宗教事件の概要

s大浦天主堂
大浦天主堂。左/現在の姿 右/建設当時の姿(大浦天主堂資料館)

 幕末の元治2年(1865年)、長崎の外国人居留地にカトリック教会(大浦天主堂)が建てられると、潜伏キリシタンの中からカミングアウトする者が現れるようになった。200年以上に及ぶ長い禁教政策の下で、密かに信仰を守り続けた日本人教徒の存在は、欧米のキリスト教徒に大きな感動を与えた。このことは欧米人が日本人に親しみを感じ、日本の出来事に関心を持つきっかけにもなった。
 一方日本国内では、カミングアウトしたキリシタンを野放しにしたら法令の権威が地に落ちると、慶応3年(1867年)、幕府は長崎のキリシタン一斉逮捕を強行。約70名を捕らえ、拷問を加えて棄教を促した。
 これに対して欧米各国は一斉に反発。長崎奉行はもちろん、徳川慶喜にも抗議を行った。しかし、3ヶ月もすると幕府が崩壊し、キリシタン達は生きて家に戻ることができた。
 外国人神父は、これでやっとキリスト教が解禁されると明るい気持ちになったという。しかし、自宅に戻ったキリシタン達には、さらに苛酷な運命が待っていた。神道を国教とする中央集権国家の建設を目指す新政府は、耶蘇教(キリスト教)を国家神道の権威に害をなす異端と位置づけ、幕府の禁教政策が継承されることになったのである。しかもパワーアップした形で。

 慶応4年(1868年)九州鎮撫総督に就任した公卿の沢宣嘉は、長崎裁判所(旧長崎奉行所)長も兼任し、最初の大きな仕事として長崎のキリスト教対策に取組むことにした。
s沢宣嘉沢 宣嘉(1
 沢はまず指導的立場にいる者や家長など、約200名を長崎裁判所に出頭させ、改宗するよう諭したというが、そんなことで簡単に改宗するなどあり得ないことであった。そこでより厳しい対応をすべく、中央政府に耶蘇教徒の現状と厳しい処置を要請する書状を送った。
 「凶徒の勢い日々盛ん・島原の乱が再来し九州に争乱が生じることは必然」などと煽る沢宣嘉の要請書は、新政府内の耶蘇教に対する不安と苛立を増幅させ、木戸孝允にして「慨歎に堪えざるなり」といわしめた。
 沢宣嘉の提案は、3,000人ばかりいる耶蘇教信者を全員殺すのも残酷なので、まずは指導者を処刑し、そのほかの者は長崎から追放し、移住先では地元民から隔離して労働させるのがよいというものであった。
 また外国の抗議については、弱腰の幕府が外国人の抗議によって、捕らえた者を帰村させたりするから、奴らは自分達の後には外国がついていると錯覚して増長しているのだ。そもそも宣教師が外国人居留地の外にいる日本人を助けるのは条約違反であり、また我々が罰するのは日本の法律を犯した日本人であるのだから、それは内政問題であって心配ない、としている。

 こうした提案に対し、外交部からキリスト教徒が多い欧米に配慮すべきであるという意見が出されたので、死刑は行わず全員流刑にして改宗するまで戻さないという方向で意見がまとまった。新政府はこれを穏便で人道的な対応と考えていたようだ。

 流配先は加賀藩や石見藩など19藩で(廃藩置県前なので地方行政単位はまだ藩のままであった)、送られた信徒の総数は約3,400名にのぼる(当時のカトリック日本代牧プチジャン司教調べ。日本側の文書では約4,000名)。
 形の上では期限付きの追放刑であるが、信仰を棄てさせることが目的なので、執拗に拷問が行われ、長い監禁生活を通して660名が命を落としている。
 また、長崎とは別に、隠れキリシタンが多くいた九州の各藩でも逮捕監禁が行われており、狭くて寒くて不衛生な牢中で、子供や老人、病弱な者などを中心に死亡者が多数でていた。
 潜伏キリシタンが多かった五島藩の報告書によると「肌寒に耐えかね、あるいは呵責受け候て、死去いたし候者多分にこれあり候」といった状況で、大人には江戸時代から続く石責めや水責めが行われ、幼児や乳児は放置されたため飢えと渇きと寒さで亡くなった。

欧米各国の反応と日本の対応

 これらの事件の詳細は、外国人宣教師やジャーナリスト、それらの協力者などによって詳細に調査され、本国に伝えられていた。また、外国人居留地では新聞が発行されており、歯に衣着せぬ筆致で新政府を攻撃し、在日外国人はもちろん本国でも、怒りの共有化が出来上がってしまった。岩倉具視など渡航する前から悪党の親玉として外国人に知られていたらしい。
 いずれにしても欧米各国から見れば、見過ごすことができない人道に反する残虐行為である。キリスト教やそれを信じる人や国への侮辱や攻撃と捉える人も多かった。各国の領事(アメリカ、フランス、ポルトガル、デンマーク、ベルギー、スイス、オランダ、プロシャ、後に北ドイツ連邦、イギリス)は連名で事実確認とキリスト教徒の解放を求める文書を沢宣嘉に送った。

 長崎裁判所は当然こうした抗議があることは予想しており、前に述べた沢の内向きで独善的な論理で対応した(原文は漢語候文)。

「異教信仰の日本人の一件について----耶蘇教を信仰する日本小民を蒸気船で他所に送ったことは間違いありません。その理由は彼らが国律を犯したからであります。(中略)政府は罪なき国民を仁の道に背く所に送るつもりはいささかもありません。親しく心のこもったお申し入れはかたじけなく存じますが、ご説明させていただきました通り、(疑念を)氷解していただくべく、謹んでお答えいたします。(署名は沢宣嘉の部下3名の連名)」

 欧米の外交官達は「なんじゃこりゃ。全く分かってないではないか」と憤慨したことであろう。その後何度か抗議や質問の文書が送られたが返答は似たようなものであった。そこで欧米各国の公使が協議を行い、英仏米独の公使が日本政府幹部と面会して直接話をすることになった。

 日本側の出席者は三条実美、岩倉具視、福島種臣、沢宣嘉、寺島宗則ら日本政府を代表するお歴々である。興味深いところではドイツ公使の通訳としてシーボルトが出席していた。
 以下はその内容のごく一部だが、外交官寺島宗則の言葉に日本政府の意識がよく現れていると思う。下のドイツ公使はマクシミリアン・フォン・ブラント。フランス公使はマキシム・ウートレーであった(議事録は漢語候文)。
s岩倉具視岩倉具視 (2 会談当時はまだ和装で髷姿
sブラントマクシミリアン・フォン・ブラント(3
s寺島宗則寺島宗則(4
岩 倉「もとより我が国の教えを奉じ、政府の命令を守り、少しも悪い所がない者を移住させることはない」
ブラント「もしヨーロッパに日本の宗教を信じる者がおり、それを我々が罰したなら、貴国政府はさだめて不快に思われるであろう。だからヨーロッパでは、他の宗教を軽んじ侮るようなことはしない」
寺 島「仰せはよくわかるが、そもそも我が国は天皇陛下の御祖宗である天照大神を国民一般が拝んでおり、これに背く者はいない。耶蘇信仰の族はこれを侮辱し政府の命令を受け入れない。もしこれを放置すれば政府は威厳ある命令を出せなくなる」
ウートレー「日本の宗教は神道だけでなく仏教もあろう」
寺 島「仏教徒でも神を拝まぬ者はない。しかるに耶蘇信仰の者は大神を拝まぬばかりかこれを卑しめている。日本人は家に神だけでなく仏も祀るのが普通だ」
ウートレー「ヨーロッパに住む者が耶蘇教を信仰しなくても、我々はそれを咎めることはない」
寺 島「ヨーロッパ各国は規律が確立されているので、信教を自由にしても差し障りはない。しかし我が国は未だそのレベルになく、他の宗教がみだりに入ると政令に差し障る。旧幕府の大名もみな朝廷を頼りとしていた。つまるところ天皇陛下は大昔から我が国の君主であり、大神は陛下の御祖宗であるから、上下の別なく大神を拝めば政令に都合がよろしく、国民は政府のあらゆる指示をよく守る。これがなくては政府の立場が定まらない。もちろんヨーロッパ人に対し、日本に住んでいるのだから大神を拝めというつもりもない」

 こうして議論は平行線のまま、今後も引き続き協議するということを約束して終了となった。
 宗教に関わる闘争で、古くから多くの血を流してきたヨーロッパは、「国家は国民の信教の自由を尊重しなければならない」という基本的な約束事を(たとえ立て前であっても)共有するようになった。そんな彼らからすれば日本の宗教政策は、鎖国するならともかく、欧米先進国サロンにデビューするつもりなら、早急に改めてもらわないと困る独善的な考えと感じられたことであろう。

 尊王攘夷の武闘派公家であった沢宣嘉とはちがい、国際経験が豊富な寺島宗則は、自分の意見が詭弁に近い強硬なものだということをある程度自覚していたかもしれない。しかし幕府相手の内戦を戦うのがやっとの軍事力と、錦の御旗ぐらいしか権威を示す方法がなかった当時の新政府は、天皇と民間信仰を結びつけて権威固めをするために、当面は神道一本でやらせてくれと頼むしかないと判断したのだろう。
 その後も欧米各国の抗議は続き、日本は相変わらず「我が国の特別な事情」を主張するだけであった。しかし岩倉具視らが欧米各国を訪問した際、日本の主張が欧米各国には全く通用しないことを思い知らされる。

予想を超えた米国政府の反応

 明治4年(1871年)の晩秋、岩倉具視を団長とする48名の遣外使節団と、同行する留学生や外国視察の公家や大名、使用人など合わせて100人ほどの日本人が太平洋を渡った。
 一行は1ヶ月足らずの航海でサンフランシスコに着き、各地で予想を上回る歓迎を受けながら、約2ヶ月かけてアメリカ大陸を横断し、ワシントンに到達した。使節団はユリシーズ・グラント大統領(1822〜1885年 元南北戦争の将軍。日本の耶蘇教弾圧を批判していた)を公式訪問し、天皇の国書を手渡している。
sグラントユリシーズ・グラント(5

 また国務省では来たるべき不平等条約改正の地ならしとして、ハミルトン・フィッシュ国務長官らと11回会談している。一行はアメリカが条約改正に応じる意志があることを知って喜ぶとともに、内政問題だと思っていた耶蘇教徒の弾圧が、外交上大きなマイナスポイントになることも思い知らされた。
 以下に条約改正の条件として示された宗教条項に関するやりとりの一部を示す(日本側の漢語候文で書かれた議事録を現代語に要約にした)。
sフィッシュハミルトン・フィッシュ (6

フィッシュ「我々の言わんとすることは、我が国民が自由に意見を述べ、新聞を発行し、自由に信仰することが、貴国にも及ぶことを望んでいるということだ。法律に反さない以上、これらは人生の権利である。人民の意志に政府が関与することがあっては、自由という公権を害することになる」
岩 倉「貴国の人も、我が国の人も、差別無く、あまねくこれを施行すべきという趣旨は承知した。ただその内容を条約に盛り込む必要はないと思われる」
フィッシュ「将来もし政府に登用された者が、言論の自由や信教の自由に反対しても、条約に掲載しておけば、それを守ることができる」
岩 倉「我が国民は仏教を信じているが、各自の公権を大切に思っている。貴国の耶蘇教を信じる人も同じであろう。その件を条約に盛り込むことは内政干渉の発端になるのではないか」
フィッシュ「よくお考えいただきたい、これは一つの宗教について論じているのではない。現行の条約にも宗教に関する条項があるのはご承知か」
岩 倉「承知している。しかしそれは日本人とアメリカ人の交際に関わることで、日本人がアメリカ人を侮辱しないようにするものだ。日本人同士の交際をまで規定するものではない。日本人同士の問題は我が国政府に属する事務だ」
フィッシュ「こちらで求めていることを、みなさんでよくお考えいただきたい」
岩 倉「ロシアにおいても居留地の外国人には信仰の自由を認め、自国民にはそれを認めていないと聞く」
フィッシュ「人々に自由を与えることは、国を進歩させるために重要であることは、あなたもおわかりのはずだ」

 戦後民主主義の中で育った者なら、フィッシュ国務長官(1808〜1893年)の提案の方に親しみを感じるはずだ。アメリカは19世紀末にも太平洋戦争後と同じようなことを日本に要求していたのである。一方、天皇と神道の権威で日本を統治するため、日本人に信教の自由を与えたくない岩倉具視は頑に感じる。

 この次の会談では、岩倉具視に代わって木戸孝允が出席し、日本から同行していたチャーレス・デロング(1832〜1876年)在日公使も発言する。アメリカ側は長崎周辺のキリスト教徒弾圧に直接言及し、会談は厳しいものになった。

s木戸孝允木戸孝允(7
フィッシュ「使節団が日本を出発したあと、長崎で苛酷な弾圧があったと聞いている」
木 戸「そのことに外国人は無関係である。それは宗教上の問題であって、外交と貿易の利益を増進することとは関係がなく、宗教に関する条約を結ぶことは不必要と思う」
フィッシュ「宗教弾圧を防ぐことなく自由な国交はできない。外国の宗教を侮辱するのは外国人を侮辱することになる」
木 戸「それはこの場で議論することではない。一つの弾圧が全ての宗門に及ぶのなら条約に関わるが、現状はそうではない」
フィッシュ「一つの弾圧のことだけを申し上げているのではなく、全てに寛容であることを希望している」
木 戸「人が心に思う権利は天から授かり物である。もし政府がその権利の保護を怠るのであれば、それも条約に書くべきであろう。しかしながら我が政府はこれを保護する意志があるので、条約に書く必要はない」
フィッシュ「日本政府は苛酷な弾圧をしていないということか」
木 戸「そのことは米英仏、その他諸国の公使と会議で話し合った通りだ。同席されたデロング氏も日本政府の考えを承知しておられると思う」
フィッシュ「確証を得たい」
木 戸「それは条約以外の方法で証明する」
フィッシュ「耶蘇教徒4,000人を日本各地に離散させたことは最近のことである」
木 戸「そのことについては理由があるし、その頃と今では状況が違う」
フィッシュ「確かに物事は変化しやすい。だから日本政府が良い法を作り裁判所を設置するまでは、条約で人権を保護すべきと考える」
木 戸「外国人は保護するが、内政に外国人が立ち入って口を出すことは好まない。幕藩時代は国民が外国に保護を求めたかも知れないが、今は日本政府が開明の政治をおこなっている」
デロング「日本では様々な事件が起きている。近年4,000人の耶蘇教徒を何処かに放逐し、山林に寝かせ、鉱山で働かせ、奴隷にしてしまった。各国公使にはこのようなことが起きないようにすると約束されたが、その後も続いている。九州では寒気に倒れたり、餓死させられたり、箱に入れ鎖をかけられ道端にさらされたという。フランスの司祭によると、つい先日新たに70人を追放したとも聞く」
木 戸「我が国は善政に向け努力中で、急激に進歩している。そのときになぜこのような話を持ち出されるのか。貿易や外交とは関係がないではないか」
フィッシュ「日本政府は外国の軍隊を上陸させないことを希望した。だから軍隊を派遣せずにきた。しかし日本の辺境では、政府の許可なく人民を弾圧する役人がいる。当方はこれを防ぐことを望んでいる」
デロング「政府は岩倉公の弾圧はしないという約束を破られたのか」
木 戸「政府の方針は厳刑をやめて、耶蘇教徒に残虐なことはしないということである」
デロング「耶蘇教徒の家族を離散させたことは残虐行為ではないのか」
木 戸「日本政府が寛大な処置をすることを保証すれば今後の憂いはなくなるはずだ」
フィッシュ「なぜ早くそのような告知ができないのか。使節が出国した後も76人の耶蘇教徒が苛酷な弾圧を受けている。だから条約に書いて、政府が人民に条約に従うよう布告すればよい。それが貴国の開化を大いに進めるだろう」

 木戸孝允がちょっと可哀想になるほどのやりとりである。使節団離日後に起きた弾圧の人数まで突きつけられて驚いたであろう。しかし、欧米先進国の大臣クラスとの初会談としてはよく頑張ったし、学ぶことが多かったと思われる。

ヨーロッパの反応

 このあと使節団は欧州各国を回るのだが、岩倉も木戸も、フィシュとの交渉で多くのことを学んだためか、信教の自由問題では柔軟な対応を見せている。ただし、各国の大衆も日本の耶蘇教弾圧のことをよく知っており、行く先々で大歓迎というわけにはいかなかったようだ。

 以下はイギリスの外務大臣アール・グランヴィル(1815〜1891)と岩倉具視とのやりとり(日本側の漢語候文で書かれた議事録を現代語に要約にした。レミュザとの対談も同じ)。
sグランビルアール・グランヴィル(8
グランヴィル「今、英国と日本の政策で最も異なっているのが、耶蘇教の禁教である。日本が相変わらず耶蘇教を厳禁にしているので、私に書面を送り、貴君と交渉するなという者が現れるまでになっている」
岩 倉「そのことについて申し上げたい。300年前天主教が我が国に伝わったが、政治の妨げになるとして禁止令がだされ、それが久しく続いた。そのため人々は天主教がどのようなものであるのかも知らずに忌み嫌うようになった。今解禁の令を出せば、快く思わないものいる。そこで開港の頃から踏み絵をとりやめ、信じる者を厳罰に処すことをやめるようにした。最近は政務に支障のないものは咎めず、いずれは解禁の時がくると考えている」
グランヴィル「それはけっこうなことである」

 また、長崎に宣教師を送り出しているフランスでは、外務大臣シャルル・フランソワ・レミュザ(1797〜1875年)と会談した。
sレミュザシャルル・フランソワ・レミュザ(9
レミュザ「宗教のことは急いで何とかしなければならないだろう。欧米の人心を日本に向けさせるには、古い禁令を廃して寛大に対処し、信教の自由を認めるのが最良の方策である。我々と同じ宗教の人々が他人に煩わせられることなく、残酷な目にあわないことが大切だ。この問題についてフランスは注意をはらい、非常に憂慮している。日本でも文明国が採用している法を実施してもらえれば、我が政府は満足である」
岩 倉「宗教の問題は非常に急がなければならない事案とかねがね考えている。政府でも信教の自由を考えるようになった。ただ国内の実情はまだ大きく変われる状態ではないこともご理解いただきたい。今ご指摘いただいたことは政府に伝え、欧州各国と同様になれるよう努力する。時がくれば耶蘇教禁制の法を廃止するのは必定。ただそれがいつなのか、今時限を決めることはできない」

 さらに岩倉はパリ外国宣教会が派遣している神父が、現時点では違法となっているキリスト教徒を助けているが、それは不正行為であり、そのためにキリスト教徒の間で政府の威厳が損なわれている、それをなんとかしてほしいと注文をつけた。
 それに対しレミュザは、法を犯すものは罰せられるのが道理であり、外国人の保護を受けるのはおかしいと正論を述べた上で「ただし役人が(耶蘇教徒に)残酷な行為をするのを見るは忍びなく、助けたいとは思うのは人情として普通のことであり、これは宗教問題とは別の話である」と反論した。当事者の立場や宗教の種類を超えた、人道上の問題であるというのだ。
 レミュザは伯爵家の出身で父親も政治家。また哲学者としても知られていた。外務大臣に就任したのは70代の最晩年であるが、頭脳は冴えていたようだ。

 この後いくつかの国を回るが、宗教問題については大きな議論は起きていない。ただ、大衆も日本のキリスト教弾圧を詳しく知っており、使節団はキリスト教徒の解放を叫ぶデモにはたびたび遭遇し、酷い時は馬車が包囲されたという。

帰国後のこと

 岩倉使節団は、人権や宗教が近代国家でどんな意味をもっているのかをまのあたりにした最初の日本人といえるかもしれない。沢宣嘉に始まった新政府のあからさまな耶蘇教差別も、アメリカの国務長官や外交官という、ある意味での「教師」を得たことで客観視できるようになり、短期間のうちにより適切な対応に方向転換したようだ。このあたりの明晰さと適応力の高さは、さすが明治維新の立役者達といえよう。
 宗教問題で不平等条約の改正が遅れたと考える人もあるが、使節団は最初から条約改正交渉をするつもりではなかったし、法や官僚組織の整備など、国の体制が全く整っていない状態で米国との単独条約などに手を出したら、日本はもっと苦しい立場に追い込まれていただろう。

 そして明治6年、明治政府は貿易相手であり当面の師でもある欧米各国に配慮する形で、ついにキリスト教の禁教を解いた。と世間ではそういうことになっている。しかし、実際はキリスト教を禁止する高札を撤去しただけで、その理由も「日本人に浸透した法令であるから、高札を掲げる必要がなくなった」というような、とぼけたものであった。しかし、少なくとも、ミサを公然と開いても逮捕されることはなくなった。
 もし、欧米各国の潜伏キリシタンの運命に対する関心が希薄であったり、宗教条項を外交カードとしてゆさぶりをかけられなかったら、解禁はもう少し後のことになっていただろう。

 岩倉らの帰国後、征韓論をめぐる大混乱を経て、天皇の宗教的権威を核とする日本の国家体制が少しずつ固まっていく。そして全ての宗教が国家神道の下に置かれることになり、日本人が獲得したかに見えた信教の自由は、限定的なものであることもはっきりした。岩倉具視の発言にもある通り「我が国の(天皇陛下の)教えを奉じ、政府の命令を守り、少しも悪い所がない」のであれば、別に何を拝んでもいいですよ、というわけだ。明治22年(1889年)に発布された明治憲法では「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス(第2章 臣民権利義務 第8条)」となっている。「日本国民」ではなく「日本臣民」であるのだから、この権利は神道の神である天皇から恩恵的に与えられたものである。

 また神仏を同時に祀り、その他の雑多な民間信仰も受け入れる、日本人のルーズともいえる宗教感覚も、信教の自由に対する理解の妨げとなった。つまり、自分の宗派へのこだわりが少ないと、他者のこだわりに対しても鈍感となり、自分とは違う信仰も尊重しつつ一緒に暮らすという、基本的人権の運用訓練ができにくい。そして日本人なら天皇陛下と神道の神々を拝んで当たり前という考えが、権力側だけでなく一般大衆によっても押し付けられ、それが嫌なら日本から出て行け、というような話になってしまう。

 教義を厳密に解釈するなら、キリスト教やイスラム教はもちろん、仏教にも他宗派と相容れない教義をもつものがある。それらを熱心に信奉する人達にとって神社は自分の神様ではない。だから靖国神社が神社である以上、そこに祀られることを拒否する遺族がいるのは当然である。しかし、平均的日本人から見れば、それは突飛で理解しにくいことであるらしい。
 神社参拝を日本の「伝統的な風習」として捉え、あまり難しいことを考えずに拝めばいいのだという人もいるが、宗派とは古い宗教的風習の問題点に気づき、それを否定して理想のものを求めるところから発生するものだろう。だから神社神道に否定的な人がいてもいいし、真面目に考えた人が異端扱いされる世の中はよろしくないと思う。

参考図書 「明治カトリック教会史」 1巻および2巻 高木一雄 教文館 ISBN:13 978-4764272804 および ISBN:13 978-4764272811 2008年

写真ソース
1) The Eastern Culture Association
2) Library of Congress Prints and Photographs Division Washington, D.C. 20540 USA
3) Japanische Impressionen eines Kaiserlichen Gesandten . Karl von Eisendecher im Japan der Meiji-Zeit. München 2007.
4) Japanische Impressionen eines Kaiserlichen Gesandten . Karl von Eisendecher im Japan der Meiji-Zeit. München 2007.
5) United States Library of Congress's Prints and Photographs division under the digital ID cwpbh.03890
6) United States Library of Congress Prints and Photographs division under the digital ID cph.3a37879.
7) 国立国会図書館
8) Wikimedia Commons
9) Wikimedia Commons

文化財

古墳の話「森将軍て誰やねん」

2014年最初の更新です。本年もどうぞよろしくお願いします。(下の写真は今回の記事とは無関係な年賀状)
カワセミ冬02

 新年早々に昨年秋の話題で恐縮だが、上越市から長野市にかけて撮影旅行に行った際の出来事である。3日間の日程を終えて帰路つき、国道18号線を使って善光寺平(長野盆地)を南下していたとき、左手の山の頂上に淡い黄褐色の壁があり、その上に円筒埴輪らしきものが並んでいるのが見えた。どうも大きな古墳のようである。その姿にどこか心魅かれるものを感じ、道を左に折れて正体を突き止めることにした。

 山麓に着くとそこには「千曲市森将軍塚古墳館」という立派な博物館があった。ビンゴである。「あれはやっぱり古墳の埴輪か。でも何で山の上やねん。そもそも森将軍て誰やねん」と、増々興味が深まった。
 しかし、博物館の入口にあったポスターや看板を見ても、森将軍のことがよく分からない。キョロキョロしていると受付の方が「間もなく山の上の古墳に行くバスが出ますが、どうされますか ?」と親切に声をかけて下さったので、博物館で委細を確かめる前にとりあえず山上の現場に向うことにした。山上へ通じる道は一般車の進入禁止となっているので、古墳館と山頂を結ぶ有料シャトルバスを利用するか、自分の脚でせっせと登るかの二者択一となる。
 バスは急な坂道をぐんぐん登り、あっという間に山上の停留所に着いた。短い乗車時間とはいえ徒歩なら途中で後悔しそうな坂道である。バスを降りて少し歩くと大きな古墳らしきものが姿を現した。
森将軍塚古墳
 森将軍塚古墳は狭い尾根に不釣り合いなほど巨大な前方後円古墳で、今から千数百年前の姿に復元されていた。
 後で知ったのだが、森将軍塚古墳は小学6年社会科の教科書(東京書籍「新しい社会」など)に出ているような有名な古墳であった。まったく無知にもほどがある。反省しきり。埴輪が目にとまらなければ一生知らずじまいであったかもしれない。外に出たらキョロキョロすることは大事だな。

 タイトルの「森将軍」の正体であるが、それは森さんという人がいたのではなく、「森」という場所にある「偉い人の塚」という意味らしい。昔の庶民がイメージする一番偉い人物は、たまに暴れん坊だったりする「将軍様」であったのだろう。誤解を防ぐ表記なら「森地区/将軍塚」となろうが、筆者は「森将軍」の方が好きである。エジプトのピラミッドと違い日本の古墳には文字が刻まれていないから、埋葬されているのが誰かは分からない(○○天皇陵などと呼ばれる古墳もあるが、それらは関連文書や周辺状況から推測したもの)。だから突然「森将軍」などといわれると驚くし、愉快な気分にもなるのだ。

 森将軍塚古墳館の資料によると、この古墳について書かれた文書は明治16年(1883年)のものが最も古く、そこには「屋代村の将軍塚」の名で記載されているとのこと。屋代は現在も使われている付近の地名で、森将軍塚の最寄り駅も「しなの鉄道/屋代駅」である。長野盆地は古くから開けた場所なので、いずれもっと古い文書が見つかりそうな気もするが、他に別の塚もあるので、位置や大きさを示す記述がないと特定は難しそうだ。
 「森将軍」の名前が最初に出てくる文書は、大正12年(1923年)の「長野県史跡名勝天然記念物調査報告書(文化財保護法の前身となる史蹟名勝天然記念物保存法に対応するための調査)」とされ、以後その名前が使われるようになったという。

古墳配置
 森将軍塚古墳から見える付近の山々には、川柳将軍塚古墳、越将軍塚古墳、土口将軍塚古墳、倉科将軍塚古墳など多数の古墳があり、それらは善光寺平を取り囲むように築かれている。上の写真は森将軍塚古墳に置かれた展望案内板で、分かり易いよう古墳の位置に赤い矢印を書き込んでみた。
 このような位置に古墳を築けば、山裾の平地からよく見えるので(そのおかげで筆者も国道から古墳の存在を知ることができた)領民は日常的に領主の宗教的権威や支配力を感じながら暮らすことになるだろう。苦労して山の上に大きな古墳を築いた理由はここにあると思われる。
 また森将軍塚古墳の周囲には、13基の小さな円墳のほか、小さな石棺や瓶棺などが多数発見されており、それらは古墳の完成後に埋葬された子孫や縁者の墓と考えられている。
森将軍塚古墳部分
 森将軍塚古墳は10年以上に及ぶ発掘解体調査の後、内部構造を含め完成当時の姿に復元されているが、調査が始まる1981年以前は草木に覆われた山の一部で、方形の墳丘の角などは摩滅したように崩れた状態になっていたようだ。
 平地に築かれた前方後円墳は、文字通り円形と方形の墳丘を直線上に並べた形になっているが、森将軍塚古墳は曲った尾根の上に目一杯の大きさで造ったため、円部は変則的な長楕円となり、古墳全体を「く」の字状に変形させてある。
 全長は約100mもあり、長野県では最大の規模で、1日200人の労働者を動員しても、着工から完成までに1年半を要するという試算がなされている。上の写真に見える墳丘の表面を覆う葺石のうち、傾斜が急な部分には、復元の際に古墳時代のものより奥行きのある石材を使用し、裏込石を入れるなど崩壊を防ぐ改良を施したという(丈夫な石積みの構造は以前こちらに少し書いた)。古墳時代には中世末〜近世の城郭を凌駕するような巨大墳丘が築かれているが、石積みの技術は未熟であったようだ。
森将軍塚俯瞰図
森将軍塚古墳俯瞰図(現地案内板より)

 森将軍塚古墳の見所は、山の尾根上に築かれた巨大な墳丘と、その内部にある巨大な石室である。下の写真は森将軍塚古墳館に展示されている石室の原寸大模型(実際の石室で型をとり、一つ一つの石の形まで正確に再現されている)。
森将軍塚古墳石室
 石室は約7.6m×2m(10畳ほど)の広さで、床面はロの字形に粘土が盛られ栗石が敷かれている。壁の高さは約2.2mと中で人が暮らせるほどの容積を持つ。築造当時、石室の内面にはベンガラ(赤色の顔料)が塗られていたが、顔料を石に固着させる技術が未熟で(技術はあったが面が大きいので予算を節約したのか、剥がれたベンガラを後で目にすることはないので技法選択の失敗に気づかなかっただけなのかもしれないが)、長い年月の間に剥がれた粉末状のベンガラが埋葬品の上に降り積もった状態になっていたようである。
 床には古墳の主が眠る木棺が置かれていたと思われるが、盗掘によって石室内は空っぽの状態であった。
森将軍塚石室
 面白いことに森将軍塚古墳は、最後の盗掘者の名前が明らかになっている。それは幕末生まれの「塚掘り六兵衛」こと北村六左衛門で、明治時代に石室の短辺側の壁(上写真の手前側)に穴を開け内部に侵入した。しかし、値打ちのあるものは六左衛門以前の盗掘者によって持ち出されており、全くの骨折り損であったという。彼は他の塚にも穴を開け、勾玉などを売って小遣いにしたほか、石材などを運びだして田畑の土木整備に利用したという。
 盗掘者というと一攫千金を狙う盗賊のようであるが、その実体は六左衛門のように、付近の農民が塚を掘って売れそうなものを拾ってくる程度のことが多かったのではなかろうか。六左衛門は近所の子供に飴をやって穴掘りを手伝わせていたという。もちろん古い塚を掘り返して小遣い稼ぎをすることに抵抗を感じる人も多かったであろうから、「塚掘り六兵衛」の異名には、近所の人の六左衛門に対する恐れと軽蔑が含まれていたと思われる。

 この記事を書くのに「千曲市森将軍塚古墳館ガイドブック(監修 : 千曲市教育委員会)」を参考にさせていただいた。森将軍塚古墳館などで購入(一冊1,000円)できるので、森将軍に興味をもたれた方は現地の見学とともに一読をお薦めしたい。
 
プロフィール

Kimupon_Cicadan 木村 義志

Author:Kimupon_Cicadan 木村 義志
出身地 : 大阪市
現住所 : 東京都
1955年生まれ
科学図書執筆編集のお仕事
分野は生物学系

写真は特にクレジットや注釈がない限り筆者の撮影です。記事や写真についてのお問合せはなんなりと。
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